第7話 亀裂
ドッチボール大会まであと三日。3年B組の生徒は、朝、昼、放課後の時間を使ってドッチボールの練習を続けていた。谷岡の指示通り、女子が男子にボールを投げる。そして、時間のある放課後はミニゲームをして、実践の練習もしていた。その姿に、他の先生は驚いていた。あのB組が練習をしているのか、と。その驚きの視線は、B組の士気をさらに上げた。
本当に先生を見返してやれるかも、と。
期待は練習の楽しさへと変わり、練習の楽しさは実力へと変わっていく。それを、ほとんどの生徒が実感していた。その姿を、谷岡は満足そうに見つめていて。
放課後、谷岡は職員室で小テストの丸付けをしていると、一人の男子生徒が谷岡を訪れた。
「あの……谷岡、先生」
「はい、なんですか?
小田は、制服のズボンをギュッと握る。そして、谷岡とは目を合わせず、ずっと下を向いていた。
「……あの、僕……」
「どうしましたか? 練習は?」
谷岡がそう聞くと、小田は顔を歪める。その表情に谷岡は面食らい、「小田くん?」と声をかける。しかし、小田は「ごめんなさい。失礼します」と、今にも泣きそうな声で、職員室を去っていた。
思わぬことに、谷岡は追いかけることもできなかった。丸付けを中断し、生徒の名簿を取り出す。『
小田の印象は、『大人しい生徒』だ。テストは、進学校であるこの学校でも、常に上位にいる。そして、休憩時間には本を読んでいたり、席で友人と話していることもあった。B組は問題児ばかりだが、小田はその中でも数少ない真面目な生徒であった。
そんな小田が、谷岡に何を言いたかったのか。谷岡は、思考を巡らせる。ずっと下を向いていて、とても言いにくそうにしていた。そして、『練習』という単語を出した時の、あの表情。
谷岡は答えがでず、息を吐いて丸付けを再開した。丸をつけていき、間違っている所には、×印をつける。プリントには、五つの×印がつけられた。点数を書こうとしたとき、右上に書かれた名前に谷岡は目を丸くする。そこには、先ほど訪れた小田の名前が書かれていた。
翌朝、谷岡が教室のドアに手をかけようとした時、中から怒鳴り声が聞こえた。
「てめえ! どういうことだよ!」
その声の主が、森本だということはすぐにわかった。谷岡は慌てて、扉を開ける。すると、教壇の前で、森本が小田の肩を片手で掴み、数人の男子が小田を取り囲んでいた。
森本は谷岡の存在に気づき、舌打ちをして小田を突き放して、自分の席へと座った。その拍子に小田は、尻餅をついてしまう。
「小田くん、大丈夫ですか?」
「は、い……」
視線を合わせようとしない小田に、谷岡は戸惑う。重い足取りで自分の席へと向う小田の背中を見つめ、谷岡はゆっくりと息を吐く。
「森本くん、どうして、小田くんに」
「小田が昨日の放課後の練習サボったんだ」
森本は、谷岡の言葉の遮って言葉を発した。森本の言葉に、谷岡は一瞬思考が止まった。なぜ、と疑問が浮かぶ。そして、昨日の放課後は、小田が自分のところに訪れたことも、頭の中で絡み合う。
小田に視線を向けるが、小田は昨日と同じように下を向いている。
「……小田くん、一言伝えなかったんですか?」
谷岡の質問に、小田は消え入りそうな声で「はい」と答えた。それをしっかりと聞き取った谷岡は「そうですか」と力なく笑う。
「次からは一言、必ず言ってあげてください。森本くんも、何か理由があったのかもしれません。聞くための手段で、暴力はいけません」
「理由があるんならここで言えよ!」
そう声をあげて、森本は小田に鋭い視線を向ける。小田は、少しだけ顔を上げる。すると、視界には森本だけではなく、全員が自分に鋭い視線を向けていた。小田は一瞬で怖くなり、鞄を持って後ろのドアから教室を勢いよく去って行った。
「小田くん!」
谷岡は、前のドアを勢い良く開けると、小田の姿はもう無く。近くの階段を降りていったのだろう。
「やっぱサボリじゃないのー?」
早水がそう気怠げに言うと、クラスのほとんどが同調する。小田の行為に、クラスの全員が不満を持っていることは明らかだった。
「……」
どうするか。
朝のHRをやらず、小田を追いかけるか。真面目な彼のことだ。まだ朝の時間に、制服で外にでるような真似はしないだろう。校内にいることは間違いない。でも、一人を追いかけるために、残りの31人を残していいのだろうか。
谷岡が悶々と悩んでいると、教室内の電話が鳴った。一瞬びくついた谷岡は、深呼吸をして、電話を取る。
「はい、谷岡です」
『谷岡先生ですか?
「……はい、わかりました」
谷岡は指示通り、朝のHRをし、数学は自習にして保健室へと急いだ。保健室のドアを二回ノックし、ゆっくりとドアを開ける。一番に目に飛び込んだのは、椅子に座って泣いている小田だった。その横で、白衣を来た本郷先生が小田の背中を摩っている。
「小田くん……」
「ぼく……っ、練習なんてしたくない……っ」
泣きながら訴える小田に、谷岡はゆっくりと近づく。床に膝をつき、「どうして?」と優しい声を意識して尋ねた。
「先生は、僕の小テストの結果、知ってるでしょ……」
小田は涙を拭う。小田の言葉に、谷岡はぎゅっと拳を握った。谷岡は、昨日の小テストの結果を思い出す。小田は優等生で、小テストは毎度満点だった。それが、昨日のものは五つの間違いがあった。
どうしてか。答えは、谷岡はもうわかっていた。
「練習のせいで、勉強、できないんだ……。僕のお母さんに、怒られるんだよ、練習なんかしないで勉強しなさいって」
昨日、訪れた小田とは別人のように、小田は言葉を続ける。
「家に帰って勉強したくても、練習で疲れてできない。僕は、別に先生に見返ししたいなんて思ってない……っ! 大会で一位を取りたいわけでもないっ! 僕は……っ、それよりも、勉強が大事なんだ……っ。練習したって、上手くなってるのは運動部に入ってる人だけで、勉強しかやってない僕は女子のボールでも取れないままで、やってても全然楽しくない!!」
見逃していた。ほとんどの生徒は上手くなっていた。だけど、中には伸びていない生徒もいたのだ。
周りが伸びている中、自分だけ伸びないのは楽しいはずがない。
「練習休みたくても、森本くんに……言えるわけ、ない」
小さな声で言う小田に、谷岡は「うん」と、優しい声で返す。クラスの中心人物で、気合いの入っている森本に、大人しい小田が『練習を休みたい』と言うのは酷だろう。
谷岡は、昨日小田が何を伝えたかったのか、ようやくわかった。
練習を少しでも無くすように促して欲しかったのだ。
先生という立場なら、森本も言うことを聞くであろうから。自分の力不足が情けなく、谷岡は小田と同じように下を向いた。
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