3年B組
第3話 天明学園
ゆっくりと深呼吸をする。
慣れないスーツ。まだ春なのに、背中は汗ばんでいる。
騒がしい空気。すごく苦手だ。
それでも、やっと、待ち望んだ世界。
谷岡道は、天明学園に足を踏み入れた。
天明学園は、小中高一貫の有名な進学校だ。名前を聞いたことがない、という人はいないだろう。中等部と高等部は同じ敷地にあり、初等部だけが別の校舎にあった。中等部と高等部の両方があるため、敷地は東京ドーム二つ分の広さだ。体育の授業がやりやすいようにグラウンドは三つあり、体育館は二つある。校舎は建て替えたばかりで真新しく、校舎と校舎を繋ぐ連絡通路はガラス張りで、いかにも現代風であった。
谷岡は、そんな天明学園の中等部、3年B組を任されていた。
「髪が長いですね」
谷岡が天明学園の中学部の職員室に入り、校長先生に一番最初に言われた言葉だった。
「す、すみません」
「前髪が目を隠してますし、後ろ髪も肩まである。それでは、子どもたちは皆、怖がってしまいますよ」
「……すみません」
子ども達が怖いです。なんて、谷岡は口が裂けても言えなかった。息を吐いた校長先生は、「これを」と二枚の紙を渡した。谷岡は紙を受け取り、「拝見させていただきます」と紙に書かれた内容を見る。一枚は、名簿だった。1から32までの番号が振られていて、五十音順に名前が綴られている。そして、もう一枚は『天明学園 先生アンケート』と一番上に書かれていた。
「一枚は、見ての通り名簿です。あなたのクラスの子達の名前が書かれています。もう一枚は、この学園オリジナルのアンケートです」
「オリジナル……?」
「はい。年に一度、全校生徒にそのアンケートに答えてもらっています。授業の内容のわかりやすさや、校舎の使いやすさなどの一般的なアンケートとは別のものです。一番上の項目を見てください」
校長先生に言われた通り、谷岡は紙に書かれた一番の質問文に目を向ける。
『Q1 あなたは、天明学園の先生は好きですか?』
大雑把な質問に、谷岡は驚いた。回答は1から5の番号で答えるもので、1は『全く好きではない』、2は『あまり好きではない』、3は『普通』、4は『少し好きだ』、5は『とても好きだ』という内容だった。
質問はあと二つあった。
『Q2 天明学園で一番好きな先生は誰ですか?』
『Q3 上記で書いた先生にした理由、メッセージなどをご記入ください』
谷岡が何度か瞬きをしていると、校長先生は「谷岡先生」と少し低めの声で、名前を呼ぶ。
「このアンケートの結果は基本、先生に渡していません。私だけが拝見していて、一番人気だった先生には、数は言いませんが、こちら側から知らせる形にはしています」
「……はい」
「多くの先生は、このアンケートで自分の名前を書いてもらえるよう、仕事をしています。谷岡先生、あなたは何人を目標にしますか?」
「え……」
校長先生は、優しく笑う。
その笑顔が、自分の『先生』を思い出させる笑顔で。校長先生は、そのまま言葉を続けた。
「そのアンケート用紙を見て、今、自分は何人の生徒に名前を書いてもらえると思いましたか?」
静かで、心地いい声のトーンが、谷岡の素直な言葉を引っ張りだした。
「……いないです」
「……ほう」
「たぶん、僕には、無理でしょう。一人も、書いてもらえない、と、思います」
谷岡の言葉に、校長先生は「そうですか」と、少し残念そうな声を出した。
「僕は、名前を書いてもらうために、ここに来たわけでは、ありません」
谷岡は、紙を、優しく撫でる。
微笑み、「僕は」と続けた。
「僕は、『先生』になるために、ここに来ました」
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