静かな日常

第5話 『彼』は静かに暮らしている

 聖女交代式から数日経った朝、ヴィーシニャ人形の最後の調整を終えて、

エプロンを脱ぎ、外出時や店で仕事をしている時にいつも使っている

 つばの根元あたりに白い金属のまるいピンバッジの付いた灰色の帽子に、黒ぶちの伊達眼鏡をして出かけようとした彼のもとに聖女親衛隊を名乗る者らが訪ねてきた。


「あの、すみません。元聖女マナ様について情報提供してくれませんか? 

どんな些細なことでもいいですから……」

「……申し訳ありませんが、心当たりがなくて……、もう行ってもいいですか? 少し急いでいるんです」

「あ、はい。ご協力いただきありがとうございました」

 急いでいるなら瞬間移動の魔法でも使って、目的地へひとっ飛びすればいいのに、と思うかもしれないが、今日の彼は徒歩で目的地へ向かいたい気分なのだ。



 彼が向かった先はアットホームな雰囲気のレストラン。

 そこの関係者出入り口から店に入り、服を着替えて厨房に入る。

 彼がここに来る目的は金稼ぎとまかない飯、それと今日からもう一つ理由ができる。

「今日はよろしくね、トロイノイ」

 今日からこのレストランの厨房で働くトロイノイに会うこと。

「ああ、ローレンス。あなたもここで働いてたの?」

 トロイノイは彼のことをトロイノイの母のエリー・ロクエの友人、ローレンスとして知っている。


 出会いはトロイノイが五歳になる誕生日のこと。かつては彼が大きく見えたそうだが、今ではトロイノイの方が背が高くなっている。

「たまの土曜日にね。まかないがおいしいんだよね」

「へー、期待していいの?」

「うん。じゃ、働こっか、料理長とかに怒られる前に、ね」

 しばらく働いて、休憩時間になった。

 今日のまかないは甘辛く炒めた牛肉とキャベツの丼である。

「……ほんとうにおいしい……!」

「ふふ、頬っぺた支えるくらいおいしいの?」

 ごちそうさまを従業員一同で言い合い、また働きだし、彼とトロイノイの

シフトが終わる。

「それじゃあ、あたし、こっちだから」

「ああ、そっか。聖女親衛隊になったら聖女様が住むお屋敷で生活するんだっけ」

「ええ。ローレンスも親衛隊だったの?」

「ううん。知り合いから聞いただけだよ。帰り、気を付けてね」

「分かってる、じゃあね、ローレンス」

 トロイノイのカバンに下げてある長い茶髪の女性――トロイノイの母、エリー・ロクエ――のぬいぐるみが揺れた。



 彼が家に着き、自室で帽子と眼鏡をとってベッドに仰向けで寝転び、魔法で人形を呼び寄せる。

 トロイノイのカバンに下げてあった人形と同じ人形である。

 その人形を抱き止めて、彼の左半身を隠すように寝転び、人形の鼻に口づける。

 トロイノイと二人で会えた日は彼女と決めている。

 わざわざ彼女の髪の長さを肩にかかるくらいにまとめて、瞳に緑色のコンタクトをつけさせて彼女を愛でる。

 トロイノイの人形を作ってもいいのだが、材料が足りない。

 それからエリーに対するこだわりが一つ。それは彼女の中にも外にも彼の痕跡を残さないこと。たとえ彼女の中に命が宿らないとしても、だ。

 日を追うごとにトロイノイの容姿が母親エリーに似てくるのを感じている彼。

 トロイノイにこんな汚れた欲望おもいをぶつける日は決して来ないと理性では分かっている彼だが、どうしても彼女を求めてしまう。

 今日も今日とてそんなどす黒い感情を、見かけだけは白い液体にしてゴム袋に吐き出す。

 彼は傍目から見ると静かに暮らせている。だが、彼自身にとってはちっとも静かに暮らせていない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る