幕間 男は妖精と暮らしていました。



 ここいらの人間は皆無愛想ぶあいそうだから、顔も住処も知っているが、言葉を交わしたこともなく互いの名前すら知らない。家族という小さな集団がそれぞれに田畑を耕し自給自足――男のように家族もない者なら当然無口にもなる。朝日が昇るより早くから食べ頃の実を収穫して、小さな荷馬車で市場へ向かう。僅かばかりの金を稼いでは服や肉をたまに買うが、この日は特に何も買わず早めの帰宅となった。まだ暗い空が濃紺から薄れ、もうじき色付きだすだろう空は未だ明星が光る。家々に灯る明かりや煙突からの煙り。田舎の朝は早い。露に濡れた路。のんびりとしたロバの歩み。古くなった荷馬車の車は軋み、そろそろ手入れが必要だ。男は汚いコートのポケットから潰れた箱を取り出し、無骨な指で安い煙草を数えた。あと五本ある。大事にとってある吸い殻も含めてだった。火の消えた吸い殻を口にくわえたが紫煙はない。微かに臭う残り香、それで男は満足だった。



 ロバを小屋に入れ、餌を与える。声をかける代わりに首を撫でて労うとロバは大きな耳をぴくりぴくりと動かした。



 一人で住むには大きなこの家はロの字状になっていて、納屋にもロバの小屋にも繋がっていた。野生の狸や鼬が作物を荒らすこともあり、家の中央部には外からの侵入が出来ない中庭がある。昔からある林檎や梨の樹の他は、花が咲いているだけで特別なものは何もない。そんな場所だったから、まさか誰かがいるとは夢にも思わず、男は絶句する。くわえていた吸い殻がぽろりと床に落ちた。


 男の生活を物語るような汚い食器が積み重なった台所の窓から望む箱庭に、それはいた。




 背の低い梨の樹の二股に割れた幹に腰かけて、眠っているような白い少女――男の目にはそう映った。ふわふわと風に揺れる緩いカールの髪、サンダルを引っ掛けただけの素足、全体的に色素が薄い。男の視線に気付いたのか、ゆっくりと顔を上げては力なく微笑んだ。


 どこから入ったかわからない不審人物だが、特別危険も感じなかったため男は中庭に出た。




「お兄さんの庭?」


「そうだ。ここは俺の家で俺の庭だ」



 やわらかいのんびりとした声は危機感を持たず、大人か子供かさえもわからない。



「勝手にお邪魔しちゃってごめんね」



 どこから。そんな疑問を口にするのは躊躇われた。家の鍵は締まっていた。入れるわけがない場所に、だがいた。



「素敵な場所だったから、つい」



 ちっぽけな庭だ。どこがどう素敵に見えたのか男は首を傾げた。



「まぁいいさ。好きにしたらいい。俺はこれから朝食だ。何ならお前も一緒にどうだ」



 すらり。梨の樹から降り立つ足運びが綺麗で思わず見とれた。しゃんと伸びた背筋は都会の人間を思わせた。男がよく目にする田舎の農民は皆背中が丸くなっている。


 風が吹いたらふわふわと飛んでいくのではないか。そんな気すらした。



「お兄さんの家族は?」


「いないさ」



 少し寂しそうな顔を見せたのが意外だった。幸せや不幸せにも無頓着で孤独感にも疎い、ヒトとは異なるもの‐妖精‐だとこの時にはすでに思い込んでいた。そうでなければこの不思議な存在には説明がつかない気がしたし、それ以上不思議を解き明かす必要さえもなくなる気がした。だからあえて「お前さんには家族はいるのか?」などとは聞き返さなかったし、名前すらも訊ねなかった。



 古い狭い家に、昔からある荷物が堆く積まれている。男には不要な壊れたミシンや本、かつてここに暮らしていた家族の痕跡はすっかり埃に包まれていた。



「立派な鎧だね」



 直立不動のもぬけの殻、今ではただ邪魔なだけのそれを見上げて妖精は呟く。それが立派かどうかの判別は男にはつかない。



「俺の爺さんか誰か。先祖が城で兵士をしていたらしい、大昔に」



 城が一体どこの城かさえわからない。本当か嘘かさえ知らない。触れば汚く錆び付いた音がうるさいことだけ確かだ。時々鼠が住み着くこともある。


 教えたほうが親切かと一瞬考えた。普通の娘ならさぞかし嫌がるだろう。だが。



 真っ直ぐな澄んだ眼差しが未だに鎧を見上げていた。何がそんなに楽しいのだろうか。


 男はすぐに思い直し、一人台所へ向かった。




 はて。妖精は何を食べるやら。いつもの粗末な朝食を作りながら男は考えた。



「ねぇ。ご飯よりもお風呂に入りたい」


「風呂は夕方だ」


「それまでいてもいい? 今の時期、泉の水は冷たくて」



 いつの間にか食卓に頬杖をついて足をプラプラ揺らしていた。昨日から卓上に置いたままだった林檎を一つカゴから取り出し目前に転がして指でつついたかと思うとすぐに林檎の横にぺたりと寝転ぶ。ぼんやりと林檎を眺めてふにゃふにゃと笑っているようだ。



 まるで幼子だ。



「腹はすいてないのか」


「うん。平気」



 よく見れば確かに薄汚れくたびれた様子だ。男は年中汚い服を着ているから最初は気にも留めなかったが、風呂に入れば妖精はもっと軽やかな見栄えとなるだろう。



「着替えになるようなものはないぞ」



 その辺りに干してあるのは土の汚れが落ちない男の服ばかり。真新しい服などない。



「洗ってあるんでしょ? お兄さんの服を一枚貸してよ。それでいいから」


「そんな泥まみれの作業着なんて着せるわけにはいかん」


「いいでしょ。僕、土のにおい好きだよ。女の子じゃないし別に気にしない」



 女の子じゃない。それを聞いても今さら驚きはなかった。男にとっては人間ですらない妖精が何を言ったところで納得するだけである。



 食事を終えた男が外で畑を耕している間も、妖精は一人何をしているのか。家から出てくる様子はない。


 こんな辺鄙な場所に何をしに来たのだろうか。男はしばし考えながら鍬を振るった。どんな事情にせよ自分のところへ偶然舞い込んで来たのなら歓迎してもいい。それがたとえ悪戯好きの悪い妖精であろうとも。



 日暮れ時、仕事を終えた男が家に戻り黙々と風呂の準備をしていると興味深そうに妖精が後ろから覗き込む。薪を焚くのが珍しいのか、ずいぶん関心を寄せていた。



「お前も薪をくべてみるか」


「ここに入れたらいいの?」



 薪を放ると風呂釜の炎から火の粉が舞う。やがて明々とした熱が伝わりじわじわと燃え広がる様子は侵食。急に強い火が燃え盛るわけではないが、確実に移し火を点す。



 お前のようだな――と、口にするのは躊躇われた。



「退屈な場所だが、いつまでもいたらいい。気が済むまで」


「ほんとうに? 僕、悪漢に追われてるから助かるよ。外にいたらいつ見つかるか気が気じゃないからね」



 あっけらかんとした口調だったから、どれだけ困っているかはわからなかったが。少なからず妖精がここを気に入っているとわかるならそれで良かった。




 風呂上がりに男の古着を着た妖精は、男よりずいぶん小柄でやはり少女のようだった。だがシャツから伸びた白い足は形よく筋肉がつき、そこかしこに傷跡がある。悪漢に追われているというのもあながち嘘ではなさそうな、何か過去があるとわかる足だ。


 後ろ暗い眼差しではないから、一概に虐げられて来たわけではないのかもしれないが。



 風呂の残り湯を汲んで洗い物をしていると、見よう見まねで妖精も自分の服を洗い始めた。毎日の雑用もこうして妖精と一緒だと不思議と心が和む。



(――そうか、)



 男はふと体が軽くなった気がした。



 他人とは付き合いのない無愛想な男が、一切の警戒心を忘れそこにいるのが当たり前のような誰かと過ごす。まるで昔にいた家族を思い出した。弟や妹のようでもあったし、母のようでもあった。そんなイメージがわいた自分に驚きもしたが、思えば男は随分歳を重ねもう若くもない自分に気付く。そしていつの日にか記憶の父母の歳も越えていくのだろうと。



 何日か経っても妖精が男の家を出ていく気配は特になかった。男が市場へ出掛けたり畑仕事をしている間も家に篭りきりの妖精は、やはり外では何者かに姿を見られるからかせいぜい中庭で過ごすくらいだ。男の前では食事も水も摂らずにいたが、一緒に過ごす時間はそう長くもないため男は特には気にしなかった。何せ相手は妖精、おそらく人間ではない。食事くらい摂らずとも不思議はない。


 妖精に着せるための服を何着か買い家に戻る途中、ちょうど近くの家の前にいた数人の役人と目があった。



「お前はそこの家の者か」


「……はい、」


「さっき訪ねた時は留守のようだったが、他に家族はないのか?」



 男が答える前にその家の女が大きな声で言った。



「その人は今は一人で暮らしているのよ、だいぶん前に家族を皆亡くしてね」



 男は役人に小さく会釈をして立ち去った。今は一人ではない、妖精がいる。だが、それを誰かに伝えるつもりはない。


 あるいは。この役人たちが妖精の追っ手である可能性も否定は出来ない。




 男が家に戻ると妖精は何食わぬ顔で出迎えた。



「おかえり」


「……ああ、」



 役人が訪ねて来た際居留守を使ったのだから、何かあるかと勘繰りもしたが妖精はいつもと変わらない様子だ。男が買って来た服を広げ無邪気に喜んでいる。


 妖精と役人が無関係ならそれはそれでいい。男はそれ以上深く考えないようにした。



 ところが後日、隣近所のあの家の女が男を訪ねてやって来た。



「あんたもいい歳なんだから、そろそろ所帯を持ったらいいじゃない」



 そう言ってどこかの娘を紹介したいだのと騒ぎ、男は面食らう。


 何年も交流のなかった他人に、突然土足で踏み込まれるようで困惑した。



「どーして追い返しちゃったの? もらえばいいじゃない、お嫁さん」



 クリクリとした悪戯っ子のような目で妖精が小さく笑う。女があんな大きな声で話すものだから、中庭に潜んでいた妖精にも内容はすっかり筒抜けだった。



「他人を養う余裕はない」


「僕には服を買ってくれたのに」


「…………」



 元来口下手な男が二の句を紡げず黙り込んだ。別に妖精を養う余裕の話をしたわけではない、ましてや妖精がいるから余裕がないわけでもない。



「まぁ確かに。お嫁さんが子供を五人、十人…と産み続けたら養う余裕はないよね」



 更々と軽い声が流れてく。何も気にはしていないように。


 男は咄嗟に口から出任せを並べた。



「子供は嫌いだ」


「すぐ大きくなるよ。いつまでも子供じゃないよ」



 クスクスと笑う。些細なことだと。



「それでも。他人と関わるのは面倒だ。ずっと一人で気楽に暮らして来たし、今はお前がいる。今の暮らしが俺にはちょうどいい」


「ふぅん、ちょうどいいんだ……」



 何を考えているかよく読めない妖精の目は瞬く間に表情を変えていく。明日にはいなくなってしまいそうな、いつまでもずっと居座りそうな、何とも言えない空気に男は視線を落とした。たとえいつどうしようが妖精の勝手である、受け入れるしかないと諦めの気持ちが強かった。




 年月は穏やかに過ぎた。男の平凡な日常から忽然と妖精が姿を消すこともなければ、悪漢が妖精を奪いにくることもなかった。


 毎日を黙々と働き、いくつかの言葉を交わして食事をし、眠る。ただ当たり前の日々に男は自然と老いた。



「おじさん、薪を中庭へ運んでおいたよ」


「ああ、すまない」



 出会った頃と何ら変わらない笑顔で妖精がふわふわと髪をなびかせた。


 ふと手を伸ばしてその頭に触れる。


 妖精があどけない瞳で見上げて来た。



 自然に子供扱いをしてしまうのは自分がそれだけ年をとったということか。いつまでも年をとらない妖精のせいなのか。見た目だけなら親子ほども歳が開いて見えるだろう。


 だが薄々気付いてはいる。いくら無邪気なこどものように振る舞おうとも、この妖精はおそらく男よりも永い悠久にも似た時間を過ごして来たのかもしれない。



 頭を撫でる男の手をそっと掴み、止めさせるのかと思いきや幸せそうに頬擦りをして見せた。猫のようだ。



「おじさんの手は大きくてあったかくて気持ちいいね」


「土が染み込んだ汚い武骨な手だが」



 硬く節が目立つごつごつとした指が妖精の白く冷たい手に包まれまるで正反対に見えた。



「優しい土の民の手だよ」



 妖精の名前すら訊ねたこともない男は、お互いの過去を何も知らないまま何年も一緒に暮らした。けれど妖精は不意に昔を思い出したように、懐かしみ、自嘲気味に、ぽつりぽつりと言葉を落とした。



「だいすきだったひとがいて。僕は逃げて来てしまった」



 大好きな人がいたから一緒に逃げて来たのだ、とは言わなかった。繋がらない言葉をぼんやりと聴く。妖精はなぜ今になってそれを語り出したのか。



「一緒にいるのがこわかった。僕を追って現れる悪漢と彼らが戦う術はないと思った。一緒に過ごして先に老いていく彼らを見送ることもこわかった。幸せになればなるほどやがてくる別れは辛く思えて。どうせ僕は一人残されるのだから。一緒にはいられないのだから、と。逃げ出してしまったんだよ。


 そのくせもうすぐ彼らに会えると思うと、待ち遠しくて、人恋しくて、一人は寂しいと思ってしまった。ずいぶん勝手な話だよ」



 妖精の話は男にはわからなかった。わからなかったが、妖精が寂しいことは理解出来た。そして。



「またいつか会えるなら。楽しみがあっていいな」



 それまでの間、寂しさを紛らわすために男と一緒に暮らしていることも。



「まだまだ先だけれどね。おじさんがおじいさんになって一人で身の回りのことが出来なくなっても、僕がお世話してあげれると思うんだ」


「それはありがたいな」



 妖精は。男の死を看取ることに対しては恐怖を抱いてはいなかった。その先に繰り返す誰かとの出会いを信じているからだ。


 ならば。



「次はもう、逃げて後悔はするな」



 ちょっと驚いた顔で目を丸くしたあと。妖精は小さく笑って男の手のひらに額を押し付けた。


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