野球のない世界
じっとしていることが苦手なロザは1人で映画館に行くことことはほとんどなかったが、ゴルトシティ唯一の名画座を久しぶりに出るころには瞳から涙が溢れていた。『道』というイタリア映画だった。男女2人の旅芸人の物語で、ザンパノという男がジェルソミーナという女をどつきまわし、ジェルソミーナは自らの存在を自問自答し続ける。長い放浪の末ようやく人生の意味をつかみかけたジェルソミーナだったが、ザンパノが殺人を犯したの現場を見てしまい精神を病み、ザンパノはジェルソミーナを捨てる。しかし数年後にザンパノはジェルソミーナが人伝いに世を去ったことを知ると、ザンパノは彼女の存在を無くして生きられないことを悟り、砂浜に倒れこむのだった。
ロザは自らをザンパノに投影して映画を思い返した。そしてこの映画を観るまでは自分のことをジェルソミーナのような立場にあるとばかり思っていた。
ロザはこれまで数えられないほどの男性と「遊んだ」。同衾し、複数の相手と互いの素肌をさらけ出すことに後ろめたさを感じることも無く、男性たちもロザを「都合が良い」と褒めた。しかしジミーだけは違った。初めての逢瀬の後に「他の男性と寝ないでほしい」と懇願されたのだ。ジミーは大リーグの中でも将来を嘱望される若手投手の1人だったが、野球に興味がないロザは「あなたにどうこう言われ筋合いじゃない」と断っていた。
それからも何度かセックスをしては同じことを言われ、そのたびに断っていたが、とうとうジミーが別の女性と歩いているところと鉢合わせてしまった。お互い冷静を装ってはいたが、ジミーの連れ合いはロザを睨んでいたので、間違い無く恋人なのだろう。ジミーの登板後に必ずロザにかかってきた電話も来なくなり、ロザは始まってもいないはずの恋愛の終焉を実感した。気付いたときには心の中に大きなくぼみのような悲しみ出来ていた。本当にジミーを必要としていたのは自分だったのだ。ほかの男性と寝ない約束し、ジミーの恋人になることを受け入れればこんなにみじめな思いをすることも無かった。それを認めないたくないがために、自分のことを「捨てられた」と解釈していたが、すべての原因はジェルソミーナにつらく当たっていたザンパノ同様、自分だった。
家に戻り何気なくテレビをつけたが、マイアミで開催されたオールスターゲームの話題を取り上げていたのでロザは即座に消した。ジミーと別れて以来野球に接しないように過ごした来たが、様々な場面で野球が生活の隅々に顔を出した。広告やニュースに始まり雑談や物の喩えに至るまで、生活と野球は傍にあった。何気ない生活の中に、野球は知っていて当然という風に接する人が多くいることも知った。野球嫌いの合衆国民は、さぞ苦痛な毎日を過ごしているのだろうと、野球ファンではない人を気の毒に思うほどであった。現に自分も今、全く野球のことを考えたくなかった。ジミー以外の野球選手と「遊んだ」こともあったからだった。
ロザはパソコンでオンライン動画サイトにアクセスし、再び『道』を見ることにした。野球のない世界に浸りたくなったのだ。改めて『道』を見ると自分と同じ、ロザという名のジェルソミーナの姉が亡くなる場面から始まることに気付き、また涙を一粒流した。
翌朝スマートフォンの電源がオフになっており、アラームが鳴らず危うく寝坊しかけた。上映前に電源を落とし、付け直すのを忘れていたのだ。慌ててオンにすると、ジミーからの不在着信が3件入っていたので飛び起きた。すぐさま折り返す。発信音が聞こえるたびにロザの鼓動は早くなった。
「もしもし、ロザ。おはよう」
「ジミー……、急にどうしたのよ」
「昨日初めてオールスターゲームに出たんだよ。とってもこれは名誉なことなんだ。嬉しくて君に報告したかったんだけど、君が電話に出なくて」
「最近全然かけてこなかったじゃない。どうしてよ」
「オールスターの前後は試合が無いし、少し肘の調子が悪かったから久しぶりの登板だったんだ」
「野球は詳しくないからそういうことはわからないけど……。ジミー、あなたのことはよく知ってるつもりよ。いや、よく知ってる『つもり』だから違うかもしれないけど、なにか別に話したいことがあるんじゃないかしら」
「うん。その、……この前のこと、怒ってるんじゃないかと思って」
「気にして無いわ。あなたくらいのピッチャーなら私より可愛い彼女がいて当然じゃ無い」
「違うんだ。いや、確かに彼女とデートをしたし、ホテルにも一緒に行ったよ。自分にはずっと側に居てくれる人が恋人であってほしいと思ったからね」
ロザは泣きそうになったが、必死になって堪えた。
「でも、その。別れちゃったんだよ」
「どうして、ずっと一緒に居てくれないの?いろんな男の子と遊んじゃうの?」
ロザは自嘲気味に尋ねた。
「いや、彼女はルックスも良いし、とっても優しいし、インテリジェンスだったよ。それで3回、一緒にベッドに入ったんだ」
ロザは宗教裁判で火炙りの刑を宣告されたような気分になった。
「……でもいつもアレがどうしても、アレしなくて…」
しかし逆転無罪を勝ち得た。
「だったら私のところにくれば良いわ。私、男の人を"立てる"の得意よ」
「ボールを操るのは得意なんだけど」
「あなたは投手じゃない。バットの扱いは本職じゃないからよ。私は野球に詳しくないけど、それくらいのことは分かるわ」
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