誰とも寝てはならぬ
ロザが御手洗から戻ると店内は大騒ぎになっていた。客全員がテレビの中のアップルズ戦中継を食い入るように見つめていた。一体何が起こっているのか尋ねると、ボタンダウンシャツの男が興奮気味に教えてくれた。マウンド上のジミー・ハリスがクリーブランド打線を1人の打者も出さずに8回まで抑えている。もしも完全試合を達成すれば、アップルズの投手では初めての例になるそうだ。野球音痴のロザもボタンダウンシャツの口ぶりと店内の異様な熱気で、ジミーが偉大なことを成し遂げる最中であることは理解できた。野球のことはよく知らないけど、ジミーのことならよく知っているのよ、と喉元まで出かかったが、口に出すのは止めておいた。
ジミーが前回ゴルトシティで投げた日の晩、ロザはジミーと同衾した。二度交じり合ったのち、ロザはまじまじとジミーの手を見つめた。顔ではなく手を見つめていたのは、ジミーがひどく悲しそうな表情だったからだ。
「恋人になってくれとまでは言わないけど、頼むよロザ。ほかの誰とも寝ないでくれないか」
ロザは特定の恋人を持たず、複数の男友達とベッドを共にしていた。女の子とおしゃべりをしながら遊ぶように、男の子とセックスをしながら遊ぶという感覚だった。こうした生活は男女ともに色眼鏡を掛けて見られることもよく知っていたが、後ろめたさは感じていなかった。自分が好きなように生きてこそ、自分の人生と万事割り切っていた。一度アップルズの選手と寝て以来、アップルズの本拠地であるGCAスタジアム周辺で自分の噂が広まるようになり、多くの野球選手の「友人」が出来た。彼らは口々に「都合が良い」とロザを評したが、ジミーだけは違っていた。
「貴方はとても良い人だし、セクシーで話も面白いけど、私のセックスについってああだこうだ言う筋合いは無いと思うわ」
「耐えられないんだよ。君がほかの男と寝るのが」
「これからも貴方とセックスするわ。それだけじゃだめかしら」
「ほかの男性に裸を見せないで欲しいんだ」
「それは約束出来ない」
「……じゃあこうしよう。せめて僕がゴルトシティを離れてビジターゲ―ムで登板する日は誰とも寝ないでくれないか」
ロザはイエスともノーとも答えなかった。応える義務も無いうえに、そもそも計画立ててセックスをしているわけではないから、答えようがなかったのだ。
ジミーの9回表の投球を解説するボタンダウンシャツと、一度だけ寝たことがあるのをロザは思い出した。だいぶ昔のことなので彼はすっかり忘れているようだったが、器用ではないが熱意のある、ジミーと似た「遊び方」をする男性であることを思い出した。
ふと今自分ががこのボタンダウンシャツを連れて、連れ込み宿のベッドに潜り込んでしまったらどうなるんだろうという考えが頭によぎった。もちろんクリーブランドにいる彼が、ゴルトシティにいる自分が今どう過ごしているかなんて分かりようがない。でも全く関係ないと言い切れるだろうか。彼は自分が他の男と寝ないことを信じて好投を続けているのではないか。自分が他の男と寝てしまったら、ジミーは二度とこんなに良いピッチングは出来ないのではないだろうか。
あれこれ考えていると店内から大きなため息が漏れた。あと一人というところでクリーブランドの打者にライト前へシングルヒットを打たれた。ジミーはベッドでロザに見せた時よりも青白い表情で顔をもたげた。しかし画面越しでもわかるほどの大きなため息を一つだけつき、ロージンパックという滑り止めの白い粉をはたくと、すぐさま凛々しい表情に立ち直った。そして何事もなかったかのように平然と白球を投げ込み、次の打者を三振に抑えてゲームを閉じた。打たれたときとは正反対に精悍という言葉の似合う顔つきで、自らの完封勝利をチームメイトと祝っていた。完全試合を逃したことを全く気にしていないようだった。
あと一歩のところで偉業を逃したことを惜しむボタンダウンシャツを含めたアップルズファンをよそに、ロザは自惚れを恥じた。試合中の彼にとって好きな女の子がどうしているのかなど全く眼中に無いのだ。目の前の打者だけを考え、抑えれば微笑み、打たれれば悲しむ。そこには野球以外の何物も入り込む余地は無い。ジミーもきっと他のことに気が回らない時に、好きな女の子が見知らぬ男の腕の中に抱かれていたら嫌という理由で、あんな約束をさせようとしたのだ。人にはあんな風に言っておきながら自分は野球のことばっかり考えていることに気付き、ちょっとずるいなとロザは思った。
ジミーは遠征先から一度は必ずロザに電話を掛けてくるので、その際にゴルトシティに帰ってきたら真っ先に自分の元に来るように伝えることにした。駆け足で飛び込んでくるであろう大投手に野球がどれだけ面白いのかを尋ねたら、試合中も自分ののことを考えずにはいられないほどに骨抜きにしてしまおう。
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