第四章 神楽坂茉莉の事情③

「少し……言い方が冷たかったかな」


 放課後。

 ゴールデンウィーク明け最初の授業を終えて校舎を出た僕は、周囲に聞こえない声量でそう呟いた。

 その言は、今朝の茉莉さんとの口論で、冷たい言い方をしてしまったことに対する反省を表していた。


 本来、悪いのは自分だったはずだ。なのにそれを棚に上げ、悪態をついてしまった。

 ついカッとなったとしても、大人気ない対応だった。時が経つにつれてそう思うようになったのだ。


 しかし、今更後悔しても仕方がない。

 僕はあの時「もう退部します。さようなら」とはっきり言ってしまったのだ。「研究会に戻りたい」という思いを抱いたならまだしも、ただ謝るためだけに茉莉さんの元へ戻ったって、きっとそれは僕の自己満足でしかないのだ。


 校門を出ると同時に、深いため息をつく。

 武術も、続かなかったな。

 僕はなんでも途中で投げ出してばっかりだ。

 一つのことを長く続けるという行為に、向いていないのだろうか。

 今回は、絶対途中で投げ出さないと思っていたのに。


 虚しさを引きずるように、僕は駅までの道を歩き続ける。


 不意に、白装束の集団とすれ違った。

 その白装束は道着だった。片胸に「砂城高校空手部」という刺繍の施された道着を着た集団が、先頭を走るリーダーらしき人物の叱咤激励を受けながら、脇目もふらずランニングしていた。


 そんなストイックな彼らの姿勢に、僕は懐かしいものを感じた。

 僕も少し前まで、あんな風に一生懸命やってたんだよな。


 ……あれ?

 ふと思うところがあり、僕は十字路の右にある横断歩道の前で立ち止まった。

 歩行者信号は青だったが、足を進めず、その場にとどまったまま思考を巡らせた。


 そういえば僕――なんで武術なんてやってたんだろう。


 どうして武術をやりたいって思ったんだっけ?

 あれだけ避けてたはずの武術に、どうして手を出そうと思えたんだっけ?

 どうして、僕は――




「だからっ! 降参はしないって何度も言ってるでしょう!?」




 その時、そんな切迫したような声が耳に入った。


 音源は右へ伸びた道の歩道。僕のいる位置から二〇メートルほど離れた場所だ。

 路肩に停めてある黒塗りの車の前には、横に並んで立っている二人の男。そしてその二人に向かって、噛み付くような表情で抗議している一人の少女。


 その少女とは――茉莉さんだった。


 その姿を見た途端、僕は今朝の口論を追想した。そしてそれに伴い、気まずい気持ちが生まれてくる。

 何であの二人に食ってかかっているのかは分からない。でも、茉莉さんの個人的な事情だろうから、僕が首を突っ込むのは変だろう――そんな急ごしらえの方便をたずさえ、僕は茉莉さんからそっぽを向こうとした。


「……英くんっ?」


 だがその前に茉莉さんに気づかれてしまい、体の動きがピタリと止まる。

 じわりと冷や汗が浮かんだ。どうしよう、バレてしまった。あれだけ悪態をついたのだ。もう自分は茉莉さんに堂々と話しかけていい存在じゃないだろう。だが見つかってしまった以上、逃げ出すのは気が引ける。どうしていいか分からなかった。

 なので、茉莉さんに視線を返すことしか、今の僕には出来なかった。


 しかし、彼女の前に立つ二人の男のメンツを見た瞬間、関わらずにはいられない衝動に駆られた。

 一人は、壮年の男性。僕が注目したのは、その傍らに立つもう一人だった。

 茶色く染まった頭髪、上品に整ったかんばせ。スラリと伸びたスマートな体躯に、高そうな灰色のスーツを纏っている。そんな貴公子然とした風貌の男。


 手酷くやられた身としては、見間違いようがなかった。

 その男は紛れもなく、ゴールデンウィーク中の日曜日に僕を叩きのめした優男――影宮彰一だった。


 なんで、あの男が茉莉さんと一緒にいるんだ。


 気がつくと、三人の元へ歩み寄っていた。


「君は……?」


 僕が到着するや、影宮もこちらに気づいたようで、少し驚いた表情でこちらを見てそう呟いた。

 だがその表情は、すぐにあのいけ好かない薄笑いに戻った。


「なるほどねぇ。「英くん」か……まさか君が、茉莉の一番弟子である藍野英助君だったとはね。世の中とは広いようで狭いものだ」


 僕はギョッとし、問いかけた。


「何であんたが、僕の名前を知ってるんだ」

「そんなの、茉莉から聞いたからに決まってるじゃないか」


 影宮がそう答えてすぐ、隣へ歩み寄って来た茉莉さんが面食らった様子で尋ねてきた。


「英くん……君、彰一と知り合いなの?」

「えっ? いや、その、ちょっと色々ありまして」


 路地裏で惨敗した挙句、慢心していたことを指摘されたという二重の恥を知られるのが嫌だったので、僕は誤魔化すような言い方でその場をしのぐ。

 幸い、影宮も蔑むように冷笑こそしたが、特に何も言うことはなかった。そのため、日曜日のことは知られずに済んだ。


 僕は一旦その事について考えるのをやめ、別の方向へ思考を巡らせた。

 茉莉さんは影宮の事を「彰一」と名前で呼んだ。影宮も彼女を「茉莉」と呼んでいた。つまり、二人は知った仲であるということになる。

 しかし、僕は二人を見た。影宮は女性が目にしたら虜になりそうなスマイルを浮かべて茉莉さんを見ているが、逆に茉莉さんは嫌悪感を交えた眼差しで影宮を睨んでいる。その反応の違いを見るに、友好的な関係とは言いにくいようだった。


「――君が、茉莉の弟子である藍野英助君か」


 不意に、僕を呼ぶ声が耳に入った。


 声の主は二人組の男のもう片方。影宮の隣に立つ、壮年くらいの男性だった。

 岩を削り出したような、厳つく、それでいて鋼鉄の意志力を感じさせる面構え。影宮のと同じくらいに高級感漂う黒い背広に包まれているのは、筋骨隆々とした大柄な体格。この年代の男性にありがちな、疲れた雰囲気を全く感じさせない人だった。


 そんな強そうで厳しそうな人を前にし、僕は否応なしに緊張させられた。


「私は茉莉の父である、神楽坂智宏ともひろだ。君のことは、茉莉からよく聞かされていた」


 その男性――智宏さんは自己紹介も交えて静かに告げてきた。僕もそれにおずおずと会釈を返す。

 眉間にシワの寄った鋭い双眸が真っ直ぐ僕を捉えている。その目元は、茉莉さんに少し似ていた。

 そして今、心なしか、そんな眼差しに睨みつけられているような気がした。


「しかし先ほど聞いたのだが……君はすでに茉莉の元を去っているそうだな」


 茉莉さんの元を去る。その言葉が神楽坂式骨法研究会の退部を意味していることに、僕はなんとなく気づくことができた。

 僕は多少おどおどしながらも、それに「はい」と返した。


 彼はそれを聞くと「そうか」と頷き、まるで興味を無くしたように僕から茉莉さんへと視線を移し、言った。


「……だそうだ、茉莉。さっきから何度も言ってるが、いい加減諦めたらどうだ?」


 彼女は再びキッと柳眉を逆立て、父親に突っかかった。


「諦められません! まだ時間は余っているじゃないですか!」

「だが、期日まで残り一週間しかない。神楽坂式骨法の成長速度の速さは、私も亡くなった仙太郎伯父様から聞かされている。しかしそれでも、たった一週間で彰一君に匹敵する武術家を一から育て上げるなど不可能だ。諦めて婚約しろ、茉莉」

「こんな奴と結婚なんか願い下げだって、何度も申し上げたはずでしょう!? あたしはあたしの惚れた相手とお付き合いしたいのよ!」

「お前こそ、まだ分からんのか茉莉。私はお前の事を思ってこの縁談を進めているのだ。人間は所詮、同じレベルの者としか分かり合うことはできない。子供の頃から何度も教えているはずだがな」

「じゃああたしも、子供の頃からずっと思っていたことを言います! お父様は独善的よ! あたしがいつ旦那に三つ指つきたいなんて言ったのよ!?」


 論争を激化させる親子を前に、僕は置いてけぼりにされた気分に陥っていた。

 一体、何の話をしているんだ。

 期日? 影宮に匹敵する武術家を育てる? それが不可能だから婚約しろ?

 話が見えない。ピースの足りないパズルをやらされているような、奇妙な錯覚に陥りそうだった。


 未だ言い合いを続けていた茉莉さんたちを、突然影宮がやんわりと止めに入った。


「まあまあ、二人とも落ち着きましょう。見てください、藍野くんが困惑していますよ」


 奴はそのまま僕を手で示し、浮ついた口調と態度で続けた。


「俺から藍野君に話します。我々の「事情」を。今回の話――必ずしも藍野君は無関係とは言えないのですから」


 僕が、無関係じゃない?

 なんだそれは。どういうことなんだ。これから一体何を話そうっていうんだ。


 そのように僕を混乱させた意味深な前置きののち、影宮は話し始めた。




「よく聞きたまえ、藍野君。俺と茉莉はねぇ、近々――結婚する予定なんだよ」




 ――え。

 僕は、耳を疑った。

 茉莉さんが……結婚する? この男と?


「まずは前置きをしておこうか。俺の家は「影宮グループ」という企業グループのトップに立つ家柄だ。そして、俺の隣に立つ神楽坂智宏氏は、「神楽坂グループ」という企業グループの総帥。茉莉はその御息女なのさ」


 僕は開いた口が塞がらなかった。

 「神楽坂グループ」も「影宮グループ」も、聞き覚えのあるグループだった。どちらも、エネルギー商社、食品会社、金融機関、電子機器メーカーなど、あらゆる有名企業を傘下に置く巨大グループである。

 苗字と会社名が被ることはよくあることだ。とても上流階級の一人とは思えない男勝りな性格も手伝って、茉莉さんが「神楽坂グループ」の御令嬢であるという可能性など完全に思考の埒外だった。


「話を戻そうか。俺は数ヶ月前のある宴の席で、初めて茉莉の姿を目にした。一目で心を奪われたよ。俺は今まで、彼女ほど美しい女性を見たことがなかった。有り体に言ってしまうと……一目惚れしたのさ」


 茉莉さんはフンッと鼻を鳴らし、


「他の女にも同じこと言ってんじゃないの? アンタの女癖の悪さをあたしが知らないとでも?」

「それは悲しい誤解だよ茉莉。多くの女性と関わらなきゃ、本当の愛は見つからないものさ。そして俺は最終的に、茉莉に本当の愛を見出したんだよ。だから智宏氏に「娘さんと結婚させて欲しい」と頼んだ。そしたら――「君は茉莉と立場が似ているし、何より優秀だ。必ずや上手くいくことだろう」という言葉付きで、快くOKを出された。それどころか、智宏氏の方から積極的に縁談を進めてくださったよ」


 まるで別世界の物語を聞いているみたいだった。

 確かに高校二年生の茉莉さんは結婚適齢にこそ達している。だが僕のような庶民の中には、結婚はまだまだ先の話であるという固定観念がある。高校生の段階で結婚話に突入するなど、浮世離れした事に思えた。


 苦々しい顔つきで、影宮から目をそらす茉莉さん。

 その様子を見て、僕は訊いた。


「……茉莉さん、結婚が嫌なんですか?」

「当たり前でしょっ。あたし彰一こいつの事嫌いだし。それに、理由はそれだけじゃないわ。仮に結婚が決まった場合――こいつはあたしに「武術を捨てろ」っていうのよ? そんなくそったれな結婚、絶対ごめんだわ。なのにお父様ったら、あたしに許可なく勝手に話を進めて……!」


 最後の方を、不快げに吐き捨てる茉莉さん。

 僕は「嫌いだ」という理由より、その後に言ったもう一つの理由の方に納得してしまった。そう、「結婚したら武術をやめろ」という条件である。

 茉莉さんがどれだけ神楽坂式骨法を愛しているかは、以前聞かされている。それを捨てろというのだ。そんな条件付きの結婚、呑むとは思えない。相手が嫌いな奴ならなおさらだ。


 その時、智宏さんが落雷のごとき怒号を上げた。


「口を慎め茉莉! これから妻となるお前に無用に傷ついて欲しくないという、彰一君の心配りなのだぞっ! 何度も言うが、人間は同じレベルの者同士でしか、本当の絆を育むことはできん! 教養の差、能力の差、立場の差、地位の差、経済状況の差、そういった差が広ければ広いほど、それに比例して両者間の溝が広がり、やがて離れてしまう。これは友人関係、恋愛関係問わず避けられぬ現実。ゆえに、お前のような特別な出自の女には、それに釣り合った地位を持つ男をあてがうべきなのだ! それがどうして理解できんっ?」


 地を揺るがしそうなほどの迫力に、言葉を向けられていないはずの僕がへたりこみそうだった。

 茉莉さんは僕のようにあからさまな竦み方はしてないが、それでも緊迫の表情で智宏さんの気迫を真正面から受けていた。


 彼は、なおも厳しい眼差しで娘を射抜きながら続けた。


「それに茉莉、お前には十分すぎるほどチャンスを与えているではないか。異論があるならば、そのチャンスをモノにしてから言うことだ。それができなければ、私に意見する資格は無いと思え」


 ――チャンス?

 その言葉の真意を解しかねていると、そんな様子に気づいたのか、影宮が説明してきた。


「智宏氏は、ある条件をクリアする事で、婚約話を無しにし、その上で茉莉に今後の人生を好きに生きてよいという約束をしたんだよ」

「ある条件?」


 僕が恐る恐るといった感じで訊くと、影宮は不敵に口端を歪め、答えた。


「――新派『太極たいきょく蛇勢じゃせい砲捶ほうずい』の使い手たる、この影宮彰一と一対一で戦い、勝利するという条件さ」


 その台詞に驚きを見せる僕に構わず、影宮はさらに次を発した。


「しかし、戦うのは茉莉じゃない。茉莉は現在、世界一武術が盛んといってもいい都市である東京で「閃電手」として名高い、掛け値なしの実力者だ。教養の一つとして武術を学んでいるだけの俺と比べれば、子供と大人くらいに実力差がある。それじゃあフェアじゃない。だいいち、花嫁になる女性に傷をつけるわけにはいかないからね」

「……じゃあ、誰が戦うっていうんだ?」

「その弟子さ」


 続いて放たれた影宮の発言を耳にした僕は、今までで一番の驚愕を味わった。




「婚約話が出たのは今年の四月の始め。そこから期日までの間に弟子を見つけ、育てる。そしてその期日が訪れたら、その育てた弟子と俺を戦わせ、勝利してみせる――それが茉莉のお父上の出した「自由になる条件」さ」




 その説明で、すべてが腑に落ちた。

 僕が、無関係じゃないと言われた理由。

 今でこそ辞めているが、もし僕が茉莉さんの弟子でい続けていた場合、彼女の運命を背負う形で影宮と戦うことになっていたのは僕だったのだ。


 突きつけられたその事実に吃驚こそしたものの、なんとか冷静に問うことができた。


「その期日っていうのは……いつなんですか」

「今からちょうど一週間後だ」


 智宏さんが間伐入れずに答え、さらに言葉を連ねてきた。


「実を言うと、今日は茉莉の弟子である君に一目会うべく、彰一君とともにここへ来た。茉莉の修行の過酷さには定評があるそうで、耐えられた者は今までいなかったとのこと。しかし、そんな修行を続ける事のできている少年が現れたと聞き、私たち二人は興味が湧いたのだ。だが所詮――君も落伍者だったようだな」


 そう言って智宏さんは、ひどくつまらなそうな眼差しで僕を見下ろした。


 唇を噛み締め、地面に視線を落とす。事実なだけに、言い訳ができない。それがなんだか悔しかった。


「茉莉、お前は以前から、いつか神楽坂式骨法を誰かに伝えたいと言っていたな。「大伯父様から頂いたこの素晴らしい武術を、後世に繋げていきたい」と。私が「弟子を育てて戦わせろ」という条件を出したのは、その気持ちが本物であるかどうかを確かめる意図もあったのだ。なのに、この体たらくか。笑わせる」


 今度は、茉莉さんへ責める言葉を投げつけた。

 彼女も僕と同じく、悔しげに表情を緊張させてうなだれていた。


 茉莉さんは、そのまま悔いるような口ぶりで言ってきた。


「そういうわけなの、英くん。つまるところ、あたしは自分のために――君を利用しようとしていたのよ」


 今の茉莉さんは、今まで見た中で一番弱々しく感じた。


「あたしに弟子入りを志願してきた時の君の目からは、強い意志を感じたわ。きっと、武術に対する並々ならぬ気持ちが生まれたんだと思う。でも、あたしはそれを見て思ってしまったの……「ラッキーだ」って。あたしはそんな君の武術への思いにつけこんで、君を上手いこと使おうとしていたのよ。自分を守るためにね。だから、君が今朝退部するって言ってきた時、つい取り乱して、罵倒したり、叩いたりしちゃったの。せっかく上手く事が運んでたはずなのに、って感じで焦っちゃったんだ」


 ――あたしに弟子入りを志願してきた時の君の目からは、強い意志を感じたわ。


 この言葉を聞いて、僕は目が覚めた気分になった。

 バカだ、僕は。どうして今まで忘れていたんだ。

 僕が今まで避けていたはずの武術に手を伸ばそうと思ったのは、勝利や、それに付随する名声が欲しいからじゃない。勝つとか負けるとか、そんなのどうでもよかったんだ。

 桜乃さんを守れなかった時のような事を、もう二度と繰り返したくない。守りたいものを、守りたい時に守れるようになりたい。それが僕の願いだったじゃないか。

 なのに僕は、少し勝ちを重ねたくらいで調子に乗って、そんな初心すら忘れていたんだ……。


「でも……君を利用しようとしてるあたしに、糾弾したり、ましてやひっぱたく資格なんて無いんだよね。後悔してる。今朝のことは本当にごめんなさい。もう、大丈夫だから。今までよく頑張ったね。これから――また新しい弟子を探して頑張るから」


 茉莉さんはそう言って、にっこりと笑って見せる。

 それを見た僕の心に、抉るような痛みが走った。彼女の浮かべているソレは、本当の笑顔じゃない。笑いたくないのに、無理して作った仮面のような笑顔だった。


 茉莉さんも、本当は分かっているのかもしれない――たった一週間で影宮より強い弟子を一から育てるなど、不可能に近いと。

 僕だって一週間みっちり修行して、ようやく小室をギリギリで倒せるようになった程度の成長度だ。

 一度やりあったから分かる。多分、影宮は小室よりもずっと強い。なので、一週間でようやく小室レベルでは話にならないのだ。

 おまけに、茉莉さんの修行の過酷さは、すでに全校に知れ渡っている。育てる速度以前に、弟子になってくれる人が来る保証すら危ういだろう。


 確かに、一週間では不十分。

 このままいけば、茉莉さんがカゴの中の鳥となる結末は約束されたようなものだ。




 ただしそれは――僕が、このまま引き下がってしまえばの話。




 僕は茉莉さんの修行を受けていて、その積み重ねがすでに存在している。ゴールデンウィーク中にサボってしまったため多少ブランクはあるだろうが、それでもゼロから始めるよりずっと上達が早いだろう。あと一週間の間で僕が必死に修行して強くなれば、勝率はグッと上がるだろう。

 茉莉さんは、僕を利用しようとしていた、と言った。しかし、神楽坂式骨法の修行に一週間少々耐えた僕に、感謝を告げてくれた時の彼女の気持ちには、決して嘘偽りはなかった。僕はそれを自信を持って断言できる。

 その時、茉莉さんが浮かべていた笑顔はとても晴れやかで、見ているこっちが幸せになれそうな気がするほど素敵なものだった。

 もし、影宮と結婚して武術を捨ててしまうことになれば、もう二度とそんな風に笑うことはできなくなってしまうだろう。




 なら――僕が守ろう。




 守りたいものを、守りたい時に、守りたい。それが武術に託した僕の願いだ。

 だから、僕は守りたい。

 茉莉さんが心から笑っていられる未来を、今、守りたい。


 きっと、これは僕にしかできないことだ。

 ならば下を向いている場合じゃない。

 前に立つ二人の男を真っ直ぐ見据え、お前たちの好きにはさせないとはっきり言い放ってやれ。


 僕は顔を上げると、茉莉さんに片手を差し出し、


「……茉莉さん、今朝渡した退部届、貸してもらえませんか?」

「え? うん、いいけど……」


 茉莉さんはやや困惑した様子で、ブレザーの内ポケットから「退部届」と書かれた白封筒を取り出し、差し出されている僕の手に受け取らせた。


 僕はそれを影宮と智宏さんの前に突き出し――ビリビリに破いて見せた。


 元々何の紙であったか分からなくなるくらいに細かく千切って、風に乗せて虚空を舞わせる。


 白い紙吹雪の中、僕は宣言した。




「僕――戦います」




 前に立つ二人の男が同時に目を見張り、そして、すぐに眉を潜めて僕を睨めつけてきた。


 しかし、僕はひるまない。


「これから一週間、僕は頑張って修行します。そして、必ず勝ってみせる。あんた達の望む結果には、絶対にさせない」


 対して、影宮が侮蔑の表情で突っ込んできた。


「以前言ったはずだぞ、「身の程をわきまえろ」と。力に慢心し、中途半端な力量に満足していた君なんかに俺を倒せると?」

「何とでも言えばいい。僕は一週間後、あんたと戦う。それは何があっても譲らない」

「……言うようになったじゃないか。いいだろう。そこまで言うなら一週間後、俺と君で『組手』だ。その時、改めて教え込んでやる。君という存在の矮小さを」

「望むところだ」


 互いを睥睨し、闘志をぶつけ合う僕と影宮。


「英くん……いいの?」


 茉莉さんが、かすれた声で訊いてくる。


 頼ってもいいの? すがってもいいの? 利用してしまってもいいの? あらゆる問いかけが、一言に集約されている気がした。


 僕は、


「はい。一緒に勝ちに行きましょう」


 彼女の考えているであろう全ての「いいの?」を、にこやかに笑いながら肯定した。


 茉莉さんはしばし唖然としていたが、やがて目に涙を溜めていき、笑みを咲かせて返事をした。


「うんっ!」


 さっきの仮面の笑みとは違う、心からの笑顔満開だった。






 こうして、一週間後の『組手』が決まった。

 僕と茉莉さんは、その日から早速修行に入ったのだった。


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