第五章 憶病者の拳①

夕方。


「ふっ!!」


 茉莉さんは力強い一息とともに、僕との間に開いていた間隔を一瞬で詰めてきた。


 十メートル以上離れていたはずの距離をわずか半秒足らずで一メートル未満に縮めた、その尋常外の歩法のスピードに内心で舌を巻く。だが冷静さは捨てず、こちらへ押し迫って来る彼女の動きへ懸命に注意を向け続ける。

 肘を真後ろへ引いて構えられている左掌を見て、掌打が来るだろうととっさに予測。僕は右側へと大きく飛び込んだ。


 公園の土の上をゴロゴロ転がりながら茉莉さんを見る。僕の予想通り鋭い左掌打を放っており、それが見事に空を切っていた。


 転がるのをやめて素早く立ち上がり、構える。再び遠く離れた茉莉さんも、迅速に僕の方へ方向転換していた。

 そして次の瞬間、小さく見えていたその姿が、一気に視界へバストアップした。

 まただ。先ほど同様、立ち位置だけを入れ替えたように距離を詰められた。速いという表現すら可愛く感じるほどの馬鹿げた移動速度。ここ最近で何度もそれを見たが、それでも未だ驚かずにはいられない。


 一陣の風のごとく、茉莉さんが一直線に向かって来る――かと思いきや突然軌道を変え、バレリーナよろしく時計回りに転身しながら僕の右側面へ入り込んできた。


 ……僕は「視野を広く使え」と、前もって茉莉さんからアドバイスを頂いていた。そして、それを今も実行中だ。それをきちんと守っていたのが良かったのだろう――僕の右側面を陣取った茉莉さんの次の攻撃が、背中を狙った左回し蹴りである事を、かろうじて視認できた。

 右腕を肩ごと後ろへ構え、ギリギリでその回し蹴りをガード。女性の蹴りとは思えないほどの衝撃が右腕から体の芯までズシンと響くが、それをグッと我慢。蹴り足である左足を出したままの状態である茉莉さんへと視線を向け、素早くサイドステップで距離を詰める。このまま右肩で体当たりして倒し、そこを押さえ込もうという考えだった。


 だがその時、茉莉さんは左足を引っ込め、足を敏速に踏み換える。そして、右足底で踏むような前蹴りを、突っ込んで来る僕へと叩き込んだ。


 蹴りを食らった勢いで、僕は後方へたたらを踏みながら下がらされる。


 痛いけど、これで茉莉さんから一度距離を離せた――と安堵した瞬間、遠ざかっていたはずの彼女の姿が、一気に至近距離へと到達。

 おぼつかない重心を保とうと体が硬直しているため、ロクな抵抗一つできず、そのまま腹部へ五発の拳を連続で打ち込まれてしまった。

 僕は、腹に訪れた五つのインパクトに大きく目を剥いて呻いた。今のは連続突きなのだろうが、「連続で当てられた」という感じが全くしない。パンチ一発一発との間にある時間的断絶が極端に狭かったのだ。まるで五本生えた腕すべてで同時にパンチを放ち、それらが同じタイミングでヒットしたかのようである。そんな非現実的な例えでしか説明できないほど、茉莉さんの手の疾さは異常だったのだ。


 僕は背中から倒れ、なおも勢い余って激しく地を滑る。

 そして、ようやく仰向けになって停止したところで、茉莉さんが喜びの混じった声で言ってきた。


「さっきのガードは良かったわよ。ちゃんと視界を広く使えているわね」


 そう差し出された手を僕は素直に掴み、引っ張って立たせてもらった。


「さて、一旦休憩にしましょ」


 そう言って茉莉さんが渡してきたスポーツドリンクのボトルを僕は「ありがとうございます」と受け取り、キャップを開けて吸うように飲み始めた。 


 現在、放課後。僕は茉莉さんと組手をしていた。

 組手といっても、タイマンの隠語として用いる『組手』ではない。本来の意味である「対人練習」だ。


 ――影宮に宣戦布告してから、すでに四日が経っていた。

 僕たちは影宮と別れた後、早速いつも使うこの公園で修行を開始した。

 しかし、あれだけ大見得を切ったとしても、やはり残り僅か一週間。放課後の修行だけでは足りなく感じたため、夜明け前に起きての早朝修行も一緒に行っている。今の僕の一日あたりの修行時間は、なんと八時間に達していた。

 だが、驚きはしなかった。むしろもう少し時間が欲しかったくらいだ。僕はゴールデンウィーク期間中に修行をサボって怠けたことで、せっかくモノにした「上虚下実」の姿勢を少し歪めてしまっていた。それを元通りにするための時間が欲しかったのだ。なので最初の三日間は、『骨』の修行を七割、技の稽古を一割、組手を二割という配分で修行していた。その三日間の死に物狂いの頑張りによって、どうにか茉莉さんから太鼓判を押してもらえるくらいまで取り戻した。


 ボトルの中身を半分ほど飲み込むと、僕は一度飲み口から唇を離し、茉莉さんを見た。散々動き回って倒されてを繰り返したせいで汗と泥にまみれている僕とは違い、茉莉さんは汗一つかいていない上、着ている制服にも泥の付着は一切見られない。そのことに対して質問したら「本気を出してないから、大して汗かかないわ」という答えが返ってきた。あれで本気じゃないって……。


「もうしばらく休んだら、また組手するわよ」


 茉莉さんが張り切った態度でそう告げてくる。やけに組手に乗り気な様子である。


 むべなるかな。この一週間中、茉莉さんが最も僕にやらせたい修行は――組手だそうだ。

 彼女は、『ファイトハウス』で実戦経験を積むという予定を組んでいたが、僕のサボタージュのおかげでそんなスケジュールはお釈迦になってしまった。

 なので、学校があって『ファイトハウス』に通えない平日中は、こうして二人きりの組手によって実戦経験を積む。それが茉莉さんの考えだった。とにかくこの期間中、僕にできるだけ多くの実戦経験を積ませたいらしい。


 経験というものは確かに必要なものだ。そしてそれは、今の僕には確かに足りない。

 しかし茉莉さんには、実戦経験を積ませたい「もう一つの理由」がある。この一週間の集中特訓が始まる前、それをすでに聞かされていた。


 僕はここで、合計八時間という過密な修行メニューを組ませている敵――影宮彰一のことが改めて気になった。

 強いことは承知しているが、影宮曰く「茉莉とは子供と大人ほどの実力差があるので、俺では勝てない」とのこと。なら僕はこの一週間でどの程度あいつに近づけるのか? 今の僕と奴はどれくらい差があるのか? その具体的な判断材料が欲しかった。


「あの、茉莉さん……影宮って、その、やっぱり強いんですか?」

「強いわ」


 迷いも躊躇もなく答えた茉莉さんに、僕は思わず体をこわばらせた。


「あいつがアメリカ留学中、ノースカロライナで暴徒三〇人を一人で叩きのめした話は、ニュースペーパーにも載ったことがあるわ。その後、暴徒の親族が彰一を相手に訴えを起こしたけど、暴徒の中には銃を持った奴が一人いた。おまけに三〇人という多勢で襲った事実、そして一人で応戦した彰一が素手だったという事実が重なって、裁判は彰一の正当防衛でケリがついたの」


 その説明で、判断材料は十分過ぎるほど提供された。

 僕は唖然としていた。相手は銃を持った奴も混じった三〇人。影宮はそれをたった一人で、しかも武器なしで倒したというのだ。その事実だけで、あいつの武術の腕前が非凡なものであると判断できる。


「あいつは幼少期から数々の英才教育を受けていたわ。その教育の中には、体作りとして武術も含まれていた。あいつがそうして学んだ武術の名は『太極蛇勢砲捶』。腰の捻りや脊椎のうねりによって発生させた遠心力で、腕を鞭のように鋭く操って戦う中国拳法「劈掛拳ひかけん」の身体操作をベースに、様々な改良を加えて創始された新派。極限まで高められた全身の柔軟性を活かして、しなやか且つ破壊力の高い動作で敵を完膚なきまでに叩き潰す。「太極」とは、道教では「陰と陽が統一した状態」を意味する。この新派はそれを上手く表現しているわ。脱力と優れた柔軟性によるしなやかな身体操作という「陰」から、強大な破壊力という「陽」へと転ずる。中国拳法ベースの新派の中では、特に実戦的な武術の一つよ」


 茉莉さんはやや難しい顔をした。


「彰一は、その『太極蛇勢砲捶』を高い水準で身につけている。はっきり言うわ。英くんにとって彰一は文句なしの強敵よ。多分、この一週間であいつに拮抗するだけの力量をつけるのは……難しいわ」

「そんな……!」

「でもね英くん――あたしが君に実戦経験を積ませたい「もう一つの理由」、忘れてないわよね?」


 落胆しかけていた僕に、茉莉さんは得意満面な笑みを浮かべてそううそぶく。


「この一週間の特訓が始まる最初の日にも言ったけど、あたしが実戦訓練をやらせたいのは、経験を積ませたいからだけじゃない。もう一つ、君に身につけて欲しいと思ったからなのよ――『固有形こゆうけい』を」


 『固有形』。

 これこそ、初心者に毛が生えた程度でしかない僕が、影宮に勝つことのできる数少ない可能性。


「『固有形』は、神楽坂式骨法の最終形態。「固有」という言葉が付く通り、その人にしか使えず、そしてその人にとって最も理想的な拳。いわば「最高の我流」。それを手に入れる材料は二つ。「多くの技」そして「多くの実戦経験」」


 二本の指をチョキよろしく立てて、茉莉さんが説明する。


「英くん、君の体にはすでにあらゆる種類の武術の技が、数え切れないほどインプットされているわ。それはいうなれば『固有形』の材料よ。そんな数多くの材料を用意した上で、あらゆる戦闘を経験する。そうすることで「自分はどんな攻撃を仕掛けるのが得意か」「どんな攻撃を仕掛けるのが苦手か」「どんな攻撃をされたら嫌か」「どんな攻撃をされたら防ぎやすいか」などを体が無意識に判断し、向き不向きを明確にしていく。そして、その判断材料が十分に揃った時――たらふくインプットしておいた技の身体操作を部品に、自分独自の新しい武術を本能が形作り、肉体に刻み込む。それが『固有形』よ。『固有形』の動作は「体に染み付いた」というレベルすら超えて、呼吸筋の動きと同じように、生まれた時から持っていた動作のように感じられる。だから、意識してから動作へ移るまでの時間差が無いに等しく、他の動作よりワンテンポ速い動きが可能となるの」


 僕は、ややタヌキに化かされたような気持ちで問うた。


「そんなことが本当に起きるんでしょうか……」

「起きるわよ。「換骨奪胎」という言葉があるわ。元々教えられた技術を長い年月かけて体に覚え込ませることで、やがて元々の形を崩し、自分独自の新たな技術へと変えていく。太極拳や空手も一つの流派だけじゃなく、いくつかの分派に分かれているわ。そういった分派の創始者は、元々習った武術をベースに創意工夫を加え、独自の新しい形を創出することに成功した。神楽坂式骨法はその現象を意図的に、そして短期間で発生させることを最終目的とした、まさしく革新的な新派なのよ!」


 最後の方だけやや鼻息が荒く、興奮気味な口調だった。本当に神楽坂式骨法が好きなんだなぁ。

 内心の微笑ましさを隠しながら、僕は何気なく訊いた。


「それじゃあ、茉莉さんの『固有形』は、どんなものなんですか?」

「ふふふ。それはね、「コレ」よ」


 茉莉さんは突然僕の前から消えた――と思ったら、いつの間にか背後に立っていた。


 振り返ってそれに気づいた僕は「わ!」と飛び上がり、数歩後退する。

 一体どうなってるんだ!? 回り込むまでの過程が全く見えなかったぞ!?


 茉莉さんはしてやったりとばかりにケラケラ笑いながら、


「これがあたしの『固有形』――「拍子を圧縮する拳」よ」

「拍子を……圧縮?」


 コクリ、と頷く茉莉さん。


「「拍子」とはリズムのこと。そして人間の動きの一つ一つには、すべてその「拍子」が備わっているの。一歩進んで一拍子、二歩進んで二拍子、三歩進んで三拍子……といった具合にね。数ある中国拳法の中で最も技のスピードが速いと言われている蟷螂拳とうろうけんには、動作に生じる「拍子」を縮めて、動作速度を速める方法が伝わっているわ。通常、パンチを三回連続で打つには三拍子必要になるけど、蟷螂拳ではその三拍子を一拍子に短縮することで、従来の三倍の速度で連続パンチが行えるの。あたしの『固有形』はその理屈を応用したもの。特殊な意識操作と呼吸を交えて動作することで、最大五拍子までを一拍子に圧縮し、周囲の五分の一の時間の中を動くことができるのよ。簡単に言うと、普通の人が一歩踏み出す時間にあたしは五歩踏み出せて、普通の人がパンチ一発打つ時間にあたしは五発打てるって訳」


 嘘みたいな話だった。

 しかし僕は現実に見てしまっている。茉莉さんの常識ハズレな手足のスピードを。なので「嘘っぱち」の一言で切り捨てることは許されなかった。

その『固有形』こそ、茉莉さんを「閃電手」たらしめている最大の要素だったのだ。


 とんでもない人に師事しちゃったな、と改めて思う僕だった。


「さて、もうそろそろ休憩は終わり! もう何度か組手をするわよ。ヘトヘトになるまで帰さないからね!」

「わ、分かりました! お願いします!」


 そうして、僕らは再び拳を交えたのだった。









 それから何度も組手を重ね、とっぷりと陽が落ちきった頃にようやくその日の修行は終わった。


「や……やっと着いたぁ~」


 疲労感を引きずりながらようやく自宅の玄関へと到着した僕は、我が家の匂いに安堵し、そんな情けない声を上げる。


「はーい、お疲れ様―」


 後から入って来た茉莉さんが、そうねぎらいの言葉を僕の背中に浴びせた。


 僕ら二人は三和土で靴を脱ぎ、家の中へと入っていく。

 リビングまで来ると、僕は持っていた荷物を床に放り出し、汗と汚れにまみれた練習着のままソファーへ腰を下ろした。


「もうダメ。疲れた。早くお風呂入ってご飯食べて寝たい……」

「だらしないなぁ」


 疲労困憊な僕とは対照的に活気に溢れた茉莉さんが、そう言ってクスクス笑う。あれだけ組手しておいてこの調子とか、どういう体力してるんだこの人。


「お風呂はタイマーで沸かしてあるんでしょ? 入ったら?」

「いえ、いつも通り茉莉さんが先にどうぞ……」

「あたしは男の後とか気にしないのになぁ。でも、ありがと。じゃ、お言葉に甘えて」


 言うや、茉莉さんはリビングの壁の片隅に置いてあるキャリーバッグから衣服を見繕う。パジャマと一緒に引っ張り出された薄桃色の下着から、僕はサッと目をそらした。


 ――そう。僕と茉莉さんは現在、同じ屋根の下で暮らしているのだ。


 この同居生活が始まったのは、僕が影宮に宣戦布告した日の夜からだった。

 放課後の修行だけでは練習量的に心もとないため、僕は早朝の時間も茉莉さんとの修行に費やしたかった。しかし僕と茉莉さんでは住んでいる場所の距離が遠いため、合流するだけでも時間を食ってしまう。これでは早朝修行どころではない。

 ゆえに僕らが早朝に修行するには、お互い近い場所で寝泊りする必要があった。

 同じホテルに一部屋ずつ部屋を取って泊まる、という手も考えた。しかし僕の予算では、ホテル宿泊費と食費を一週間同時に払い続けることはできない。普通の高校生にあるまじき額の小遣いを貰っているという茉莉さんも、現在の財布の状況では二人分の出費を同時にまかなう余裕はないとのこと。


 そこで茉莉さんが提案してきたのが、僕の家に泊まるということである。

 同じ屋根の下なら合流するまでもなく一緒であるため、すぐに二人で早朝の修行に移れる。宿泊費はプライスレス。出費は食費のみ。それならお金の心配はいらなくなる。影宮との戦いの日が訪れるまでの間、そのように生活しよう。それが彼女の意見だった。

 なるほど、確かに合理的ではある。しかし、付き合ってもない若い男女が一緒の家に寝泊りなど、道徳的にあってはならないだろう。それとこれとは話が別だ。


 なので僕は当然、最初は拒否した。しかし「じゃあ他にいい方法があるのっ?」と頬を膨らませながら睨めつけられ、何も言い返せず、あっさり折れてしまった。弱いな僕。

 まあでも、茉莉さんなら、万が一億が一僕に襲われたとしても余裕で返り討ちにできるだろう。僕が寝泊りを了承したのには、そういう理由もあったりする。

 ちなみに茉莉さんは智宏さんに「比較的安いビジネスホテルに二つ部屋を取って、そこに英くんとあたしが一人づつ寝泊りするわ」と嘘をついているそうだ。見るからに切れ者といった感じの智宏さんも、茉莉さんの財布の中までは詳しく知らないらしい。説得力のある嘘である。そしてそれを聞いて僕は安心した。僕の家に一人娘が泊まっているなんて知れたら、影宮と戦う前に智宏さんに殺されそうな気がするのだ。押し付けがましい感じのする人だけど、娘を大事にする気持ちは本物のように感じたから。


「そんじゃ、先入るわねー」


 茉莉さんはバスタオルと衣服を持って、脱衣所に入ってそのドアを閉めた。


 だが不意に、閉じられたはずのドアが小さく開く。その隙間からいたずらっ子のようにニヤついた茉莉さんの顔がにゅっと出てきて、


「覗いたり、パンツ盗んだりしちゃダメよー?」

「し、しませんよっ!!」


 僕が真っ赤になって全否定すると、茉莉さんはニマニマ笑いながらドアの向こうへ頭を引っ込めた。


 まったく、あのひとは……!









 茉莉さんが出た後、僕もお風呂に入り、修行による汗を綺麗さっぱり流した。


「ふう……」


 湯気をまとって脱衣所から出てきたパジャマ姿の僕は、心地よさから思わずそんな声を漏らす。


「おかえりー、英くん」


 そうユルい笑顔で迎えてくれたのは、ソファーの上でだらんと座っている茉莉さん。


 僕は彼女の姿を改めて見て、鼓動が高鳴った。

 いつも一つ結びにしている髪は今は解かれ、艶やかで枝毛一つない漆黒のロングヘアが背中を覆うように広がりを見せている。フォーマルな場では見せたことのない茉莉さんの姿に、僕はドキドキしていたのだ。

 おまけに、パジャマと称したその格好も大胆なものだった。サイズの緩いタンクトップにホットパンツという、露出の多い服装。茉莉さんが家でいつも着ているものらしい。肩の辺りにブラジャーの肩紐が見られないためだろうか、その……タンクトップを内側から大きく押し上げてる形の良い二つの果実の先端に……えっと、その…………謎の突起部が…………。


「あ~~! 英くんのすけべ~! 何ガン見してるのよ~~!」


 その時、茉莉さんはその豊かな胸部を腕で隠しながら、非難がましい声でそう発してきた。


 僕は我に返り「ご、ごめんなさい!!」と全力で謝った。

 しかし、茉莉さんの顔を見る。彼女は怒った顔ではなく、面白いおもちゃを見つけた子供のような顔をしていた。


「英くんのおっぱい星人♪」

「ち、違います! 僕はそんな……」

「隠さなくてもいいのよ? 男の子って大半はそうなんでしょ? それに、あたしが昨日英くんのベッドのマットレスの下から見つけた本にも、おっぱい大っきい女の人がたくさん――」

「その話はもう勘弁してください~!!」


 傷口をこじ開けられ、僕は心の痛みに叫喚した。

 茉莉さんはというと、お腹を抱えて大笑いしていた。くそっ、絶対楽しんでるな。


「そ、それよりも! 早くご飯にしましょう! お腹すきましたよね!? 僕もペコペコです!」

「話そらすの上手いわね~」


 なおもからかい気味に言ってくる茉莉さんを無視して台所へ行き、冷蔵庫の中を探った。

 茉莉さんと暮らしている間、食事はいつも僕が作っているのだ。

 さて、今日は何が作れそうかな。そう考えながら材料を眺めていると、


「あ、待って英くん。今日はあたしが作ってあげるわ」


 そう静止させられた。


 僕は目を丸くして、


「い、いいんですか?」

「いいのよ。ここに来てからはいつも英くんに作ってもらってるし、今日はあたしが腕を振るってあげる。いいでしょ? だめ?」

「い、いえ。ダメってことは……」

「じゃあ、作ってあげる! 英くんはソファーでふんぞり返って待ってなさいっ」


 茉莉さんにそう押し切られ、僕はやむなく首を縦に振った。勢いに押されてというのもあるが、茉莉さんの手料理が食べてみたいという気持ちも少なからずあった。


 そうして僕はソファーにちょこんと座り、料理の完成を待つことに。

 待ちながら、カウンターの向こう側で調理に勤しむ茉莉さんの後ろ姿へときどき目を向ける。見るたび「旦那さんになった気分だなぁ」などと邪な想像を抱いては、それを必死にかき消していた。


 しばらく時間が経ち、フライパンで焼く音、電子レンジの音など、あらゆる音が飛び交う。

 目を閉じ、その音をBGMにしてのんびりしようとした瞬間だった。ボンッ!! という凄まじい破裂音が耳を衝いたのは。


「きゃあっ! 卵が爆発したわっ!?」


 カウンターの方を振り向くと同時に、茉莉さんが電子レンジの前で悲鳴混じりに言った――って、卵が爆発っ!?

 慌てて飛び出し、電子レンジを見る。半透明のフタ越しに見えるのは、バラバラに砕け散った無数のゆで卵の破片。


「な、何やってるんですか茉莉さんっ!?」

「何って……電子レンジで生卵をチンしてゆで卵を作ろうとしたら、卵が突然爆発したの! どうなってるの英くん!? これって「給料もっと上げろ」っていう、卵農家の抗議なのかしら!?」

「な、生卵をレンジで温めちゃいけないんです! 知らないんですか!?」

「知らないもん! 今初めて聞いたもん!」


 う、嘘でしょ……。


 僕は困惑しながらも、稼働中のレンジを止めた。


 だが今度は、フライパンの方から焦げくさい匂いがした。


「いやぁー! ハンバーグが真っ黒ー! ちきしょー、あたしのバカバカぁ! なんでちゃんと見てなかったのよぉ!」

「……あれが、ハンバーグですか?」


 茉莉さんは「そうよぉ」と涙声で返事をし、匂いの元であるフライパン指差した。そこには、焼き崩れを起こしてそぼろのようにバラけている上、真っ黒になった挽肉が乗っていた。


「……茉莉さん、焼く前に挽肉の中の空気、ちゃんと抜きましたか?」

「なぁに、それ?」


 それを聞いて、僕は唖然とした。


 もしかして茉莉さん、料理下手……?









 結局、茉莉さんの料理は大失敗に終わった。

 その失敗作を埋め合わせる形で僕がもう一品作ったため、食べ始めたのは結構後になってからだった。そして、茉莉さんの料理の味は、その……うん。なんとも言えない。


 そして、夕食も終わり、後片付けも済ませ、僕ら二人はようやく就寝する事になった。

 二人とも、寝る場所は僕の部屋だ。しかし誤解しないでいただきたい。ベッドで寝るのは茉莉さんで、僕はベッドの隣の床に布団を敷いて寝ることになっている。

 茉莉さんは「あたしが布団でいい」と言っていたのだが、僕は頑として布団を譲らなかった。いくら強くても一応女の子なので、丁重に扱いたかったのである。


 そして、就寝前。


「まいったなぁ。料理じゃ、あたしより英くんの方が達人かぁ」


 僕のベッドの上で横になっている茉莉さんが、布団に包まりながらバツが悪そうに呟く。


「いや、達人ってほど凄くないですよ。昔から一人で家にいる事が多かったから、必要に駆られて自然と覚えちゃっただけです」

「あたしからすりゃ、それでも凄いわよ。これじゃ女として立つ瀬が無いわねぇ」


 それを聞いた僕は、さも名案とばかりにこう返した。


「なら、将来は料理の得意な旦那さんを見つけるといいんじゃないですか? そういう男の人だっていっぱいいますよ」


 だが「旦那」という単語を聞いた途端、表情を曇らせた茉莉さんを見て、失言だったと反省した。


「ご、ごめんなさい……茉莉さん」


 素直に謝った。結婚絡みのイヤな騒動に巻き込まれてるっていうのに、「将来」だの「旦那」だのと口にするのはいささか不謹慎だっただろう。


「ううん。いいのよ」


 茉莉さんは薄く微笑みながらかぶりを振る。


 その笑みは、なんだか寂しげに見えた。


 気まずい沈黙が続く。


 そして、しばらくして、それを破ったのは茉莉さんだった。


「ねぇ、英くん……少し、聞いてくれるかな?」

「はい。聞きます」


 僕は逡巡なくそう答えた。

 茉莉さんが改まって「聞いてくれるか」なんて尋ねてきたのだ。これは聞かなければいけないと、なんとなく思った。


「あたしね……こう見えて、昔は君と同じ――いじめられっ子だったの」


 その告白に、僕は二の句が継げなくなった。


 いじめられっ子? 茉莉さんが?


「今でこそこんなガサツな女だけど、小さい頃はもっと内向的で、自己主張も満足にできない子だったんだ。始まりは、クラスの女子のリーダー格だった女の子から、遊び半分で消しゴムの破片を投げつけられたことだったかな。ぶつけられても不満をもらさなかった……ううん、もらせなかったあたしを見てさらに調子づいて、どんどん方法がエスカレートしていって、気がつくと……女の子とその取り巻きの子たちの、いじめのターゲットにされてたの。あたし、毎日泣きながら下校してた。「自分は何も悪いことしてないのに、どうしてこんな目にあわなきゃいけないの?」って。そんな時だった。神楽坂仙太郎――あたしの大伯父様が、自分の作った新派、神楽坂式骨法を勧めてきたのは」


 一度言葉を止め、茉莉さんは笑った。


 本当に嬉しそうに。本当に幸せそうに。


「最初は、あたしをいじめる子たちに仕返ししてやろうって気持ちで武術を始めたわ。だから、修行は厳しかったけど、頑張って乗り切った。でもね、修行してるうちにね、武術そのものが好きになっていったの。同時に、仕返しなんてつまらないことだって気づくこともできた。するとね、不思議なことに、あたしはいつの間にかいじめられなくなってたの。大伯父様は「いじめっ子たちがお前が強く成長したことを敏感に感じ取って「これはマズイ」と思っていじめをやめたんだろうよ」って言ってた。それからあたしは「自分の力でいじめに打ち勝てたんだ」って、自分に自信が持てるようになったんだ。武術の腕前も年を追うごとにメキメキ上がっていって、気がついたら「閃電手」なんて仰々しい呼び名まで付く武術家になってたわ。あたしをこんな風に変えてくれたのは、神楽坂式骨法なの。神楽坂式骨法が、あたしに自信も、強さも、新たな幸せも、全部与えてくれたんだ。だから、大伯父様がくれたこの武術は、あたしにとって何にも代え難い宝物なんだ。だけど……」


 そこで、茉莉さんは言葉を濁してしまう。

 見ると、彼女は布団をかぶっているにもかかわらず、ひどく寒そうな表情だった。


「もうすぐ、彰一と戦うことになる。そしてその戦いで、あたしが神楽坂式骨法を捨てるか否かが決まる。あいつは人の嫌がる事を見抜くことが得意なクソ野郎なの。結婚相手があいつなら、隠れて武術をやるなんてこともきっとできない。多分、見張り役を付けると思う。それで、武術をやってる所を見たら、何かあたしが嫌がる事をしてきて「これをやられるのが嫌なら、武術をやるな」みたいに言ってくるかもしれない。どういう理由か知らないけど、あいつはあたしにどうしても武術を捨てさせたいらしいのよ」

「茉莉さんがされて、嫌なこと……?」

「例えば、あたしと親しい人に手を出すこと。その中の一人を挙げるなら、英くん。あたしが武術を隠れてやってる事に気づいたら、彰一は英くんに何か嫌がらせをしてくるかもしれない。具体的な方法は分からないけど、あいつの事だもの。きっとロクなこと考えないわ」


 自分が「親しい人」の中にカテゴライズされているという事実に、僕は場違いと分かっていても嬉しく思った。


 茉莉さんはその震えた唇で、震えた言葉を紡いだ。


「あいつに反抗して得をした人はいないわ。そういう前例をいっぱい知ってるから、あたしには分かる。あたしね……ホント言うと、凄く不安なの。英くんが彰一に負けたら、あたしもそういう人の中に含まれちゃう。武術を続けられなくなる。捨てなきゃいけなくなる。ヤダ。ヤダよ。あたし捨てたくないよ。ずっと続けたいよ……」


 初めて耳にする、茉莉さんの明確な弱音。


 しかし、それに対して新鮮さを抱くことはなかった。


 一刻も早く、茉莉さんを安心させたい。そんな気持ちの方がはるかに強かったのだから。


 気がつくと、僕は口走っていた。


「――負けませんよ」

「えっ……?」


 迷子になった子供のような彼女の顔を真っ直ぐ見ながら、僕は歯切れの悪さ一つ無いはっきりとした口調で告げた。


「僕は負けません。絶対に影宮に勝ってみせます。ていうか、勝てますよ。だって、教えてくれるのは「閃電手」と呼ばれた茉莉さんですよ? どこにも負ける理由が見当たりません。だから、大丈夫。安心して僕への指導に専念してください」


 茉莉さんは大きく目を見開く。


 そして次の瞬間、ぱあっと満面の笑みを浮かべた。


「――うんっ。ありがとう、英くん」


 その笑顔は、以前、一緒に階段を登っている時に見せたソレと全く同じものだった。そう、僕の一番大好きな笑顔。


 茉莉さんが僕へ手を伸ばす。

 僕も手を伸ばす。


 二人の手が、固く握り合った。


「頑張ろうね……」

「はい……」


 互いに、さらに握る力を強めた。


 もう二度と、離さないとばかりに。




 ――僕たちは眠りにつくまで、そうして手を握り合っていた。


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