第四章 神楽坂茉莉の事情②
通常の休日とゴールデンウィークとがくっついた長い連休は、流れるように過ぎていった。
休みが訪れる前の日、クラスメイトたちが口々に休日中の予定についての話に花を咲かせていたのを覚えている。
そして、僕にも予定がきちんとあった――茉莉さんと修行をするという予定が。
しかし、そんなゴールデンウィークの最終日、僕は家のテレビの前で一人テレビゲームにふけっていた。ジャンルはRPG。
現在、時間は午前十時三〇分。本来なら『ファイトハウス』で実戦訓練に打ち込んでいるはずの時間、僕は液晶画面の向こう側にいるボスキャラの攻略に精を出していた。
今日に限った話ではない。連休中、僕はほとんど家から出ず、こうやってゲームばかりして過ごしていた。
料理をする気にもなれず、食事は全て店で買った出来合いの物ばかり。近くのスーパーでしばらく籠城しながら生きられるだけの食料を買い溜め、昼夜を問わずひたすらダンジョン攻略やレベル上げに勤しむ毎日。一度セーブデータを消して最初から始めたにもかかわらず、すでにラスボス目前という驚異の進み具合を誇っていた。
――日曜日の一件以来、僕はこんな自堕落な生活を繰り返している。
あの優男――影宮彰一というらしい――に叩き潰された後、僕は茉莉さんの元へ行くことはなかった。屈辱的な気持ちを引きずりながら、自宅へと引き返したのだ。
今まで順調に勝ち進んでいたのに、ある日突然完全敗北。
上げて盛大に落とされた惨めったらしい気分がどうやっても拭いきれず、そんな現実から逃げるようにロープレの世界へ没入し続け、今に到る。
僕は今まで、「自分は只者じゃない、特別な存在だ」と思っていたんだ。そう意識的に思いこそしていなかったが、心の奥底ではきっとそういう考えを持っていたんだ。少し武術が出来るようになって、なおかつ少ない試合回数のすべてを勝ちで終わらせた。そんな中途半端な実績が、僕を無意識に天狗にしていたのだ。
でも違った。僕は強くなんかなっちゃいなかった。それをあの日、思い知らされた。
そして僕の即席の自信は、見るも無残に崩壊したのだ。
数日前まで、武術に対してエネルギッシュに取り組ませていた心の火が、今ではすっかり消えて冷めきっていた。
――もう、やめちゃおうかな。
そんな諦めの気持ちすら生まれ始めていた。
投げ出すことは、別にそんな大それた事ではない。むしろ僕のこれまでの人生、途中で何かを落伍することなんてしょっちゅうだった。その記録を更新するだけだ。そう。大したことじゃない。
もう武術を続ける自信がなかった。常勝は有り得ない。それをあの日に痛みを伴って思い知った。つまり武術を続けていれば、あんな無様な負け方をする日がいつかまた訪れるということだ。それを考えると、修行を続けることそのものが取り越し苦労のように思えてくる。「努力は必ず報われる」という迷信を信じ込むほど、僕は子供ではないのだ。
そうだ。やめてしまえ。茉莉さんに会ったら、すぐに退部届を突き出せばそれで終わり。ロボット技術の発達によって今は人間の出る幕が完全になくなっている工場の流れ作業よりずっと簡単だ。
画面にいるボスキャラへ会心の一撃を食らわせるのと同時に、僕は後で退部届を書こうと決意した。
その時、傍らに置いてある携帯から電子音が鳴った。メールの受信音だ。
目を向けると、差出人は「茉莉さん」。
――今ので、すでに本日五回目の受信だった。
携帯のメール受信欄や着信履歴は、茉莉さんから届いたソレで埋め尽くされていた。すべてこのゴールデンウィーク期間中に受け取ったものだ。おそらく、ウン十通単位はある。
ちなみに、どのメールも留守電もいまだ未読状態だ。きっとお冠だろうから、開くのが少し怖かったのだ。
だが、茉莉さんには僕の家の場所は教えていないので、ここへ乗り込まれる心配はない。こうやって未読スルーを繰り返すだけでオーケーだ。
「……僕、酷い奴だな」
自己嫌悪に陥る。
あの人は一生懸命教えようとしてくれているのに、僕はそれを無視しているのだ。
退部届を出すのは、まずそのことを誠心誠意謝ってからにしよう。そう思ったのだった。
◆◆◆◆◆◆
そして翌日。ゴールデンウィーク明けの初日の朝。
登校してきた僕は、目的地である砂城高校の前まで到着していた。
校門に吸い込まれていく多くの生徒たち。連休明けであるためか、彼らの多くはどこか億劫そうな顔をしていた。
まあ、僕もゲーム三昧な日が終わったので、似たような表情をしてるだろうけど。
そして、他の生徒たちと足並み揃えて、校門をくぐろうとした時だった。
「……あ」
僕は思わず立ち止まり、息を呑んだ。校門の表札に背を預けて立っている、茉莉さんの姿を見つけてしまったからだ。
彼女は腕を組んだまま、僕の事を無言でジッと睨んでいた。
かと思うと、茉莉さんは勢いよくこちらへ歩み寄って僕のネクタイを掴むと、ぐいっと乱暴に引き寄せてきた。
間近には、静かな怒気を秘めた茉莉さんの顔。
「……英くん、どうして連休中ずっと無断で休んだの?」
背筋が凍るほど低い声。小室の仲間四人を追い払った時と同じ声色だった。
「あたし……何度も何度も連絡したわ。それに気づかなかったわけは無いわよね? なんで返事くれなかったの? この数日間、あたしがどれだけ待ちぼうけを食らったか分かってんの? ねぇ?」
落ち着いた口調だが、その中には確かな怒りが含まれている。
やっぱり、めちゃくちゃ怒ってる。
でも、ちゃんと謝らないと。これから神楽坂式骨法研究会を辞めるのは確かだけど、その前に、まずは迷惑をかけた事をお詫びしないといけない。
そう思い、口を開こうとした瞬間――茉莉さんは僕の体のあちこちへ叩くように触れてきた。
「顎関節が前に突き出てる! 頭蓋が右に傾いてる! 肩のラインが胸郭ごと左に傾いてる! 猫背になってる! 骨盤が斜め前に前傾してる! 左足重心になってる! みんなみんなみんなみんなダメっ!!」
そう苛立った調子でダメ出しをしまくってくる茉莉さん。
修行で注意を飛ばす時とは違う、今まで見せたことのないその反応に僕が戸惑っていると、彼女は憤怒の形相でまくし立ててきた。
「まるでダメ!! 全部見事に崩れてるわ!! せっかく形になった「上虚下実」がすっかりメチャクチャじゃないのよ!! なに!? 一体なんなのよこれ!! 修行サボって一体どんな生活してたってのよ!!」
「……ゲームしてました」
「はぁっ!?」
茉莉さんは怒りと呆れの声を上げると、ドン、と僕を突き飛ばし、さらに猛火を噴いた。
「バカじゃないの!! そんな無駄な事してる暇があるならきちっとあたしのトコに来なさいよ!! まさか、『ファイトハウス』でちょっと勝ち星を上げたからって、もう天狗になってんじゃないでしょうね!? だとしたら身の程知らずもいいところよ!! 君にはまだ修行が足りないわ!! 大物を気取るのはもう少し力をつけてからにしなさいよっ!!」
――『ファイトハウス』でちょっと勝ち星を上げたからって、もう天狗になってんじゃないでしょうね!?
その物言いに、僕は逆ギレだと分かっていてもカチンときてしまった。今一番触れて欲しくない場所に触れられたからだ。
気がつくと、売り言葉に買い言葉で返していた。
「なんでいちいちそんな事言われなきゃならないんですかっ。確かに、連絡を返さなかったのは僕が悪いです。でもだからって、なんで「天狗になってる」だの「大物気取ってる」だのとまで言われなきゃいけないんですか!?」
……天狗になっていたのも、大物を気取っていたのも両方正解だ。茉莉さんは間違えていない。
でも、それを理屈で分かっていても、「ムカつく」と牙を剥きたがるのが感情というものだ。
僕は最初から言う予定だった言葉を、極めて冷たい語気で言い放った。
「僕――神楽坂式骨法研究会辞めます」
茉莉さんは驚愕に目を見開いた。
そして、先ほどまでの怒りに、狼狽も交えて言ってきた。
「なっ……何言ってるのよ英くん! 嘘でしょ!? ねえ、嘘なのよね!? 嘘って言いなさいよ!」
茉莉さんは僕の両肩を掴んで揺さぶりながら、何度も必死に確認してきた。
彼女のリアクションからはすがりつくような懸命さを感じ、少し不気味に思った。
「嘘じゃありません。ゴールデンウィーク中に決めてた事です。今退部届出しますから、ちょっと待っててください」
そう言いながらブレザーの右ポケットに手を伸ばそうとした瞬間、茉莉さんがその腕を掴んで、
「ダメよ! 絶対に認めないから!! どうして辞めるなんて言うのよ!?」
「やる気がなくなったからです。茉莉さんもそんな奴に教えるのは嫌でしょう?」
「途中で投げ出すつもり!? 英くんの神楽坂式骨法に対する気持ちってそんなもんだったの!? この意気地なし!」
意気地なしってなんだよ。僕はさらにイラついた。
「貴女がなんと言おうと、僕は退部します! だいいち、部活動っていうのは去る者追わずが基本でしょ? だったら茉莉さんにとやかく言う権利なんか――」
その先を続けようとした瞬間、「パァンッ」という乾いた音とともに、片頬に平たい痛みが走った。
掌を振り抜いた茉莉さんの姿を見て、ビンタを食らったのだと確信した。
「あ……」
だが彼女は、叩くのに使った手をもう片方の手で庇うように押さえ、後悔のにじみ出た表情と眼差しで僕を見つめた。つい、やってしまった。そんな気持ちを容易に感じ取ることができるリアクションだった。
普段の僕なら、そんな茉莉さんにもう少し思慮を持って接することができたかもしれない。
だが今の僕は完全に頭に血が昇っていたため、叩かれたことは火に油も同然だった。
「何度も言いますけど、僕、今日限りで辞めさせてもらいますから」
そう冷たく言い放つと、右ポケットへしまってあった「退部届」と書かれた白封筒を改めて取り出し、茉莉さんに押し付けた。掴む力こそ弱かったものの、彼女はそれを素直に受け取った。
僕はそれを確認すると「じゃあ、さようなら」と愛想なく言い捨て、茉莉さんの横を通り過ぎ、校門の奥へと入っていった。
「最低だ……あたし」
真後ろから、そんなかすれた声が聞こえた気がした。
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