第四章 神楽坂茉莉の事情①

 日曜日。


『茉莉。分かっているとは思うが、五月の――』

「分かっていると思うなら、最初からかけて来ないで下さい! 言われなくとも十分承知していますっ!!」


 受話口から発せられる聞き慣れた声へ茉莉は激しくまくし立てると、乱暴に切ボタンをプッシュして通話を断ち切った。


 そして、苛立たしげな手つきで携帯をポケットへしまう。


「これで何度目よ、まったく……」


 疲れたように茉莉はぼやきをこぼした。


 あの「約束」が始まって以来、あの人――父は、その「約束」の内容をしつこく何度も伝えてくるのだ。忘れるなとばかりに。何度も、念を押すように。

 あの人なりに譲れない思いがあるのだろうが、それにしたって鬱陶しい。

 ましてや、自分の身がかかっている話となれば、なおさら何度も聞きたいものではなかった。


 ……このまま「約束」について考え続けたら、気がさらに重くなってしまう。

 可愛い後輩にして一番弟子であるあの少年の前では、なるべく元気に振る舞いたいと思った。


 なので、思考のベクトルを急遽変更。考えるのは一番弟子である少年――藍野英助のことにする。


 現在、朝八時三十分。茉莉は池袋駅北口前でその英助を待っていた。合流次第『ファイトハウス』へ向かうために。

 昨日は彼を先に来させてしまったので、今回は自分が一番乗りで待つことにした。言いだしっぺの身である以上、自分が彼より後に到着するのは気が引けるという変な意地が今朝に働いたのだ。


 茉莉は待ちながら、昨日の事を振り返る。


 昨日、英助を『ファイトハウス』へ連れていった。


 聞くと、彼は昨日初めて『ファイトハウス』に入ったのだという。まるで怖がりな子供のように縮こまりながら未知の空間を歩く彼は、なんだか可愛かった。

 だが、その後に始まった試合の結果は、そんな初々しい反応とは反比例する結果だった。


 英助は昨日の練習試合にて――一度も敗北する事はなかった。


 宮谷恭一以降も数試合戦わせたが、その全てを退いて見せたのだ。


 『ファイトハウス』での試合における勝利条件は、ケンカや『組手』よりも多い。力量が自分より高い相手でも、場外へ落とすなどして勝てる可能性が十分ある。実際、英助も何度か場外へ相手を落として勝っていた。

 対戦相手も、最初に勝負を仕掛けてきた宮谷を除いては、英助と力量が拮抗するか少し上程度の武術家を選んだ。

 だが、それらの要素を合わせて見ても、全試合全勝という結果には茉莉も少し驚いた。


 同時に、当然の結果であるとも思った。

 体格差を補える戦い方や技をいくつも教えたが、英助はそれらを教えた通りに上手く使うことができていたのだ。


 言ってしまうと、彼には武術の才覚は皆無だった。なのに、短期間でこれほどの成長を果たした。それは神楽坂式骨法の吸収力の早さだけでは決して見せられない上達ぶりである。それだけ、武術に対する姿勢が本物であるのだろう。

 それは指導者として素直に喜ばしく思う。

 そして、英助の昨日の戦果を誇らしく思っている。


 しかし、手放しには喜びきれない気持ちも同時に抱いていた。


 茉莉には、一抹の不安があった。


 それは――慢心である。


 短期間で高い実力をつける。これは一見すると良い事なのだが、人によっては弊害も存在する。地道に長い過程を経ずにいきなり強くなってしまうと、心に傲りが生まれてしまうことがあるのだ。

 その傲りは、その者を自覚なく無謀を犯す、悪い意味で向こう見ずな人間へと変えてしまう。なおかつ本人を今の位置で満足させてしまうため、それ以上の成長を望めなくする恐れが大いにあるのだ。


 その傲りこそが、慢心だ。


 ある意味、自信とも表現できる感情だが、積み上げた過程が少ないため裏打ちが甘い。

 そして、そういった即席の自信は、往々にして不安定で崩れやすい。その上崩れた後、回復には時間がかかる事が多い。中には武術そのものに嫌気が差し、足を洗ってしまう者もいる。

 武術家にとっては、毒となり得る感情なのだ。


 慢心は、今まで承認欲求が満たされる機会に恵まれず、虐げられてきた者ほど抱きやすい。

 自分は今まで誰かにいじめられてばかりだったと、英助は以前言っていた。承認欲求に関しては分からないが、「虐げられていた」という条件はそれで満たしてしまっていた。


 英助の「覚醒」までは、きっともう少し時間がかかるだろう。だが、これから始まる連休をたっぷり実戦訓練につぎ込めば、そこまで一気に近づけるに違いない。

 そして彼が「覚醒」できれば、自分の願いを叶えられる可能性が大幅に高くなるだろう。


 どうかそれまで彼が、慢心やそれに近い感情を抱きませんように。


 茉莉は心の中で静かにそう祈った。




 そして同時刻。

 その祈りは――見事に叶わぬものとなっていた。









 僕は上機嫌に、朝の街中を闊歩していた。


 服装は昨日と同様、Tシャツに運動ズボンという軽くて動きやすいものだ。


 これから池袋で茉莉さんと合流するべく、最寄り駅へと向かっている最中である。

 先ほど家を出たばかりだが、最寄り駅までは徒歩数分で行ける。そしてそこから電車で池袋までは十分もかからない。なので、現在の時刻でも事足りるのだ。


 そして、もう一度繰り返すようだが、今の僕は上機嫌であった。

 足取りがいつもより軽い。

 さんさんと降り注ぐ日差しが肌に心地よい。

 そして、無尽蔵に湧き出してくる高揚。

 今の僕は、今までに感じたことのない充実感に満ち溢れていた。


 この強い正の感情の発端は、言うまでもなく――昨日『ファイトハウス』で僕が叩き出した優秀な戦果だった。


 宮谷さん以降の試合も、僕は一度も負けることはなかった。

 ある者は床に押さえ込み、ある者は関節を極めてギブアップさせ、ある者は場外へと突き落とし、勝利をもぎ取っていった。

 最初は抵抗を感じていた試合だが、勝ち星を積み上げるにつれて徐々に楽しくなっていた。


 そして、勝利するたびに沸き立つ観客。その声援を全て僕が独り占め。

 自分の今までの人生の中で、あれほど満ち足りた瞬間があっただろうか?

 かけっこでは常にビリケツ。球技は万年ノーコン。跳び箱も三段しか飛べず、逆上がりもできない。かと言って、特別勉強が得意だったわけでもない。そんなナイナイ尽くしだった僕が、あれだけ多くの人に讃えられた。自分の力で讃えさせてみせたのだ。


 僕は今まで自分に自信がなかった。勇気もなかった。

 だが昨日、その両方を同時に手に入れたのだ。

 今の僕は、今までの弱々しい僕とは違う。

 強くなることができた。

 長年欲してやまなかった自信と勇気を、ようやく手に入れられたのだ。


 どんな奴が相手でも、もう尻込みなんかしない。

 殴られたら、その倍以上の力で殴り返して、そのままやっつけられる。

 もしまた小室が突っかかって来ても、今の僕なら楽勝だ。むしろ、来たきゃかかって来いと言いたい。そして二度と僕の前に現れる気が起きなくなるほど、酷い目に合わせてやる。


 それを想像すると、勝手に笑みがこぼれてきた。


 向かい側から来る男の人が怪訝な目で見てきたが、僕がジロッと目を向けると、途端にそっぽを向いた。

 以前までの僕なら怖くて出来なかったであろうことが、気負うことなく出来た。

 それだけで、僕の気分はさらに数段高まった。


 よし。今日も張り切って勝ちに行くぞ。


 足取りがさらに勇ましいものになりかけた、その時だった。


「テメ…………よくも……を…………な……! ……してやる…………!」


 怒鳴り声のようなものが、片耳に届いた。


 音源は今まさに横切ろうとしていた、薄暗い路地裏への入口の奥だ。結構離れたところから発されているのだろう。怒鳴っていること自体は耳で分かるが、内容は断片的にしか聞き取ることができない。


 怒鳴り声はしばらく連続で響いてきていたが、やがてピタリと止んだ。


 少し立ち止まって待つが、その声が再び聞こえて来ることはなかった。


 ――僕は、なんとなくそれが気になった。

 普通なら、ここは我関せずを決め込むところだろう。それに僕は、茉莉さんとの待ち合わせがある。道草を食う時間的余裕があるとはいえない。

 だが、このまま声の正体を確かめずに去るのは、奥歯に物が挟まったような感じがしてなんだか気持ちが悪い。


 それは良く言えば好奇心、悪く言えば野次馬根性だった。

 もし荒事だったら、僕が武術で鎮圧してやる――そんな闘争心にも似た気持ちも同時に秘めていた。


 気がつくと、僕はその路地裏へと入り、中を進んでいた。


 お世辞にも綺麗な場所とは言えなかった。端っこにはゴミがいくつも散乱しており、中身がビールの泡よろしく溢れ出たポリペールの根元では、楕円形の体をした黒い虫が数匹うごめいていた。僕はそれから素早く目をそらす。

 通った事の無い道だ。というより、こういった陰気な場所を、僕は今まで意識的に通るのを避けていた。カツアゲに金品を力づくで奪われるかもしれない不安があったからだ。そういう連中は決まってこういう場所を好む。

 でも、今の僕には武術がある。そういう奴らが現れたら、逆に返り討ちにしてやる。


 なので、僕は迷いのない足取りですいすい歩みを進めた。


 やがて、奥の方から何かが聞こえてきた。


 人の呻き声だった。

 男のものである短い呻きが、リズミカルな連なりをもって、奥の方からこちらへ届いてくる。


 不気味に思って一瞬二の足を踏むが、奮い立たせて足を前に歩かせる。


「うっ……あぐっ……がっ……!」


 進むにつれ、呻きがはっきりしたものとなってくる。


 やがて僕は、左右に別れた曲がり角へと差し掛かった。

 耳を澄ます。声が聞こえてくるのは右からだ。

 僕は曲がり角を右へ曲がり、その一本道の先を真っ直ぐ見た。


 ――目に映ったのは、二人の男。


 一人は、ジージャンを着た坊主頭の男。

 もう一人は、スーツ姿の優男。

 地面にうずくまっている前者を、後者が愉悦に満ちた表情で踏みつけにしている――それが二人の演じる構図だった。


 優男は革靴の先で、坊主頭の男の脇腹をしきりに蹴りまくる。


「ぐっ! がっ! ごほっ! げふっ!」


 リズミカルに蹴りを受けるたび、坊主頭の男は低く短い悲鳴を上げる。

それを耳にして、僕は確信した。間違いない。さっき聞こえた怒鳴り声も呻き声も、全部彼のものだ。


「ぐっ……テメェ――がっ!?」


 坊主頭の男は必死に優男の足に手を伸ばそうとするが、到達する前に前腕部を踏まれて地面に縫い付けられてしまう。

 うずくまっている坊主頭の男は苦痛と悔しさで顔を歪めており、その姿はひどくボロボロだった。顔には殴打の跡がいくつもあり、ジージャンも物乞いの服のように傷と汚れにまみれていた。

 対して、面白そうに彼を見下ろす優男は全くの無傷だった。服にも乱れが少しもない。


 そんな姿の対比と、両者の構図を見るに、優男が加害者、坊主頭の男が被害者であることは明白だった。

 どういう理由でこうなったかは分からないが、坊主頭の男はもうまともに逆らえる状態ではない。にもかかわらず、優男は死人に鞭を打つように無抵抗の相手をいたぶり続けている。こんなこと、あっていいはずがない。


 でも、もう大丈夫。僕が助けてやる。


「何をしてるっ!?」


 僕は声を張り上げた。


「なんだい? こっちはいいところなのに……」


 対して、優男は鼻白んだ表情で億劫そうにこちらを振り返った。


 僕はそいつの全体像を改めて見た。

 体格はスラリと綺麗に伸びた、一八〇センチ半ばほどの長身。細いだけでなく、形を崩さない程度の適度さで筋肉のついた、男としてはおそらく完璧なスタイル。それを包んでいるのは、おろしたてのようにシワ一つない、高級感漂う灰色のスーツ。紳士服に詳しいわけではないが、なんとなくアレが高級品であると察することができる。

 そして、すれ違う女性が皆例外なく視線を吸い寄せられそうなほどに整った顔立ちが、上品にセットされた茶髪の下にはあった。

 言葉少なに表現するなら、貴公子を彷彿とさせる輝かしい容貌。


 だが、中身は反比例してドス黒いことをもう確認済みだ。

 なので僕は決していい顔はせず、続けて気炎を吐いた。


「その人はもう抵抗できないだろ!? もう蹴るのはやめろ!」


 優男は薄笑いを浮かべつつ返してきた。


「なんだ君は? いきなり現れたかと思ったら、「やめろ」だって? 初対面の相手にする口の利き方じゃないな。一体何様なんだい?」

「揚げ足を取るな! じゃああんたのやってることはなんだ!? ボロボロの相手を放っておくどころかさらに蹴りを入れて……礼儀云々以前の問題だろっ!」

「やかましいね君は。もう一度言うよ。何様なんだ君は? 俺がこの男をこんな風に足蹴にしている理由を知った上で、そんな天上の神様みたいな台詞を吐いているのかい?」

「理由?」


 僕が怪訝な顔をすると、優男は「そうだ」と小さく首肯しつつ、


「最初に手を上げて来たのはこの男だよ。彼が先に見苦しい因縁をつけて殴りかかってきたんだ。だから俺は武術で応戦した。俺は降りかかる火の粉を払っただけに過ぎないんだよ。ゆえにこれは立派な正当防衛だ。分かったかい?」

「――ふざけんじゃねぇぞっ!!」


 不意に坊主頭の男が怒号を上げてから、火を噴くように続けた。


「何が見苦しい因縁だこのクソ野郎!! テメェが俺の女を寝取ったのが悪ぃんだろうが!! そもそもの発端はテメェだ!!」


 優男はそんな台詞を聞くや、鼻を鳴らし、嘲笑しながらうそぶいた。


「思ったままを言っただけだけど? 優れた男の元に女は擦り寄り、身を差し出す。動物の世界でも人間の世界でもそれは常識じゃないか。君の主張は全くもって見苦しい。負け犬の遠吠えそのものだよ。いやー、それにしても中々可愛い娘だったよ。顔と体は結構良かったし、ベッドの上でも健気に猫みたいな声で啼いてくれたからね。点数付けるなら八〇点ってところかな。アレを君の彼女にしておくには勿体無い。ああ、間違えた。もう「元」彼女だった」

「テメェ……ぶっ殺――ムガッ!?」


 憤激のまま立ち上がろうとした坊主頭の男の頭部を踏みつけにする優男。


「分からないかなぁ? 君の主張は常識に対する反逆なんだ。男なら諦めて他を探したまえ。メスから袖にされたカンガルーのオスだってそうしてるよ。君はカンガルー以下か?」


 そう言いながら、踏みつけた頭部へさらにグリグリと靴底をねじ込む。


 優男の顔は実に楽しげだった。


 僕はいよいよもって我慢がならなくなった。


「やめろって言ってるんだっ!!」


 優男めがけて、弾丸のように駆け出した。


 あいつがどんな武術を持っているか、定かではない。

 でも大丈夫。僕なら勝てるはずだ。昨日の『ファイトハウス』の試合で全勝できた今の僕なら!


 その腐った性根を叩き直してやる。


 三メートルほどまで近づくと、僕は地を蹴り、空手の『順突き』を真っ向から繰り出そうとした。


 だが、拳のナックルパートが優男のスーツの表面に触れる寸前。


 左頬に重鈍な衝撃が打ち込まれると同時に、強制的に右を向かされた。


「あぐっ……!?」


 頬骨にじんわりと染み込む鈍痛。目玉のみを左へ巡らせると、右拳を体の半分ごとハンマーのように振り抜いたポーズを取る、優男の姿があった。

 予期せぬ痛みによってひるんだ僕は、突きの体勢を崩してしまう。数度重心を崩しかけながらも、なんとか背筋を丸めた中腰の状態でとどまった。

 どうにか倒れずには済んだが、僕を支える両脚はカクカクと震えを持っていた。


 まさか、さっきの一撃のインパクトが、足にまで来たっていうのか……!


 僕は優男を見ようと顔を軽く上げる。

 だが、奴の姿はもう視線の先にはなかった。


 そこでハッと気づく。薄暗い路地裏でさらに僕に闇を下ろす、影の存在に。

 目を向けると、右掌を真上に振りかぶりながら大きく背伸びをした姿勢の優男が、僕の側面に立っていた。


 そして、それに気づいた時には、すでに何もかもが遅かった。


 優男は腰を急激に深く沈めると同時に、右掌を僕の背中へと叩き落としてきた。


「――――!!」


 想像を絶するショックに声一つ上げられず、僕は落下するような勢いでうつ伏せに倒れた。


「ゲホッ!! ガハッ!! ゲホゲホッ!!」


 僕は喘息の発作よろしく激しい咳を何度も繰り返す。咳き込み過ぎて酸欠になりそうだった。


 ――なんて威力だ。


 未だ背中に掌の形で濃く残った、衝撃の余韻。それが先ほどの掌打の威力を顕著に表していた。

 立とうとするが、途中で骨を抜き取られたように四肢が虚脱し、失敗する。


 優男はポケットからハンカチを取り出し、僕を打つのに使った右手を拭き始めていた。まるで汚らわしいものに触ってしまったかのような、不快げな顔をしながら。


 そして、そのハンカチを端へ放り捨てると、虫を見るような目で僕を見下ろしてきた。


「やれやれ。あれだけ息巻くからどれほどの力量があるのかと思ったら、まさかこの程度とはね。まあ、でも同時に君の武術歴がなんとなく分かったよ。君――武術をやり始めてまだ日が浅いんじゃないか? それでもって、今日まで試合や実戦で負けたことがない。違うかい?」


 間違っていないその指摘に、僕は意思とは関係なしに目を皿にする。


「その顔から察すると図星みたいだね。あはははは! やっぱりねぇ! 居るんだよなぁ。中途半端に力をつけて、中途半端に勝ち続けた結果、自分を過大評価してしまう勘違い君が。レベルの低い連中の中で勝ち続けただけに過ぎないっていうのに、君は早くも林冲や花和尚のような白話の英傑にでもなった気でいるんだねぇ」

「っ……違う! そんなこと――」

「無い、わけがないよねぇ? 見ての通り、君と俺の間にはかなりの身長差がある。それゆえ、リーチも背丈の高い俺の方が上であることは明らかだ。ならあそこは、相手へ真正面から飛び込む『順突き』を出すべきじゃない。相手の攻撃をいなしてからのカウンターを中心にして、戦術を組み立てるべきだった。冷静に考えればそれくらいの配慮くらいできるはずなのに、君はしなかった。いや――出来なかった。そんな当たり前なことに考えが及ばないほどにまで、君は自分の中途半端な力に酔いしれていたってことなんだよ」

「――っ」


 何も言い返せなかった。

 確かにあそこは、突っ込むタイプの技である『順突き』を使わず、もう少し考えて攻めるべきだった。リーチが短い僕が馬鹿正直に突っ込んだりすれば、容易く迎撃されるのは明らかだったっていうのに。

 それだけ、僕は自分の力を過信していたということだ。

 僕の力なんか、大したものじゃなかったっていうのに。それをわきまえなかった結果がこれだ。


 涙が否応なく目に溜まってくる。よりによって、こんな奴に指摘されるなんて。

 自分から触れることも叶わずに叩き伏されたことも含め、非常に悔しくて、恥ずかしかった。


「このまま放っておいてもいいんだが、君には後学のために素敵な一言をプレゼントしよう。普通はしないんだよ? そんな七面倒なことは。だから感謝して聞きたまえ」


 優男は冷たい眼差しを向けながら、


「――身の程をわきまえろ」


 蔑むような響きをもって、その一言を僕の耳へ叩きつけた。


 そして優男は、倒れる僕と坊主頭の男の手元にそれぞれ一枚ずつ、紙切れを投げ与えてきた。

 その紙切れは名刺だった。「影宮彰一かげみや しょういち」という大きな明朝体が中心に印刷されており、その文字の下には住所や電話番号などが小さく記載されている。


「俺に文句があるなら、訴えでもなんでも起こせばいいよ。でも今回、先に手を出して来たのは君たち二人だ。それに、俺には優秀な弁護士がついている。勝てる見込みは皆無だと思うよ?」


 そう一笑混じりに言い捨てると、奴はその場から立ち去っていった。


 遠ざかる規則正しい革靴の音を聞きながら、僕は歯噛みした。


 ――畜生。

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