第三章 実戦デビュー③

 六時三〇分。朝。


 深い海の底から引き上げられるように、僕は目を覚ました。

 掛けていた毛布や布団をどけながらゆっくりと上半身を起こし、んーっと背伸びをした。背骨がパキパキと子気味良く鳴る。


 まるで長い間離れなかった憑き物が落ちたかのような、そんな最高の目覚めだった。

 今朝だけじゃない。ここ最近毎日のように、こんな爽やかな寝起きを繰り返していた。


 そして、そんな良質な睡眠の連続は、ひとえに、小室と『組手』をした日に端を発している。


 ――あの日から、すでに数日が過ぎていた。


 勝ち目の薄かった小室との『組手』にて、僕は決死の思いで勝利をもぎ取った。覆らないと思っていたヒエラルキーを、僕は自分の手で覆してみせたのだ。あの日の記憶は、今でも鮮明に覚えていた。

 そして最初の約束通り小室はその翌日から、僕に突っかかってくることも、タカって来ることも、一切なくなった。

 というより僕と目が合った瞬間、小室たちは気まずそうに顔を背け、率先してこちらを避けてくれるのだ。僕に恐れをなしたのか、それともその師匠である茉莉さんがおっかないのか、詳しくは分からない。だがどういう形であれ約束が守られ、それが今でもきちんと継続していることは確かなのだ。


 僕は、奴らのイジメを克服したんだ。


 無論、これは武術を教えてくれた茉莉さんのおかげでもある。でも僕は全てを他人任せにはせず、最後は自分の力で打ち勝ったんだ。


 そう思うと、途端に活気が湧き出てきた。


 僕は軽やかな足取りで自室を出て、リビングへと出た。冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップと一緒にダイニングテーブルへ置く。それから、台所とリビングの境界線的役割を果たしているカウンター上にある餡パンとチョコパンを持ち、席に付いて牛乳とセットで食べ始めた。

 ここ最近、僕の食事には菓子パンやスーパーの惣菜などの出来合いモノが多くなったが、それもイジメ解決の恩恵である。昼代をタカられることがなくなり、仕送りが余計な減り方をしなくなったため、ある程度の散財はできるようになった。これでお父さんに対して引け目を感じることはなくなったのだ。本当に良い事ずくめである。


 なんだか、ずっと抱えていた借金をようやく返し終えた時のような、そんな晴れやかな気分だった。


 しかし、そんな気分に浸ってばかりもいられない。

 確かに今日は土曜日、つまり休日だ。その上、翌日からはゴールデンウィークが始まるときている。普通ならのんびりしててもバチは当たらないはずだ。

 だが僕はその期間中も、茉莉さんと修行することになっていた。しかも、今日から早速始めるという。

 そのために今朝、彼女と待ち合わせる約束を前もってしていた。なので、少し急がねばならない。


 たとえ小室をやっつけたとしても、それで終わりじゃない。

 桜乃さんの時のような事を繰り返さないために、これからも僕は武術を続ける。


 そう真面目に考えてはいたものの、ふと、邪な考えが頭の隅に浮かんだ。


 休日に女の人と待ち合わせるのって、なんだかデートみたいだ、と。


 ……僕はそんな考えを振り払おうとばかりに、パンを勢いよく掻き込んだのだった。









 電車を降り、改札をくぐり、入り組んだ駅構内をめぐり、僕は池袋駅北口から外へ出た。


 現在、朝八時五〇分。九時にここで茉莉さんと落ち合う予定だったが、僕の方が先に来てしまったようだ。

 なので近くにあった壁に寄りかかり、街の様子を見ながら待つことにした。


 朝にもかかわらずゴミゴミと人通りが多く、人を避けながら道路をゆっくりと走る車の量も一台や二台ではない。

 通る車の四割ほどはタクシーだ。しかしそのタクシーにはいずれも運転手がいない。利用者であろうスーツ姿の男性を中に乗せたまま、四輪の車両はマニピュレートする人間も無しに勝手に走っていた。

 別に珍しい光景ではない。自動操縦システムやその安全機構の発達が目覚ましい近年、自動運転機能を持った車の普及は加速している。特にタクシーなどの運送業界は人件費削減のために、以前から自動操縦システムの導入に積極的だった。まあ……それが大量の失業者を作るハメになって、一時期社会問題化しちゃったそうだけど。


 そうして眺めていること五分後。


「おーい、英くーん! お待たせー!」


 待ち人の声が、遠くから近づいて来た。


 振り向くと、茉莉さんがこちらへ向かって走ってきていた。その服装は今まで見ていた制服ではなく、白い長袖のシャツにジーンズという私服。なんというか、新鮮に感じた。


「いやー、ごめんごめん。ギリギリって感じだったね。待った?」


 彼女は僕の元へ来るや、謝りも交えて訊いてきた。


「いえ。僕も来たばっかりですから」


 そうやんわり返す。


 やり取りからしてますますデートっぽいな、と思ってしまうが、心の中で慌ててかぶりを振った。邪念退散、邪念退散。


「英くんってば、もう少しめかしこんで来てもよかったのにぃ」


 僕の身なりを見て、茉莉さんが残念そうに言う。

 僕の服装はTシャツ一枚と、動きやすい運動ズボンのみというシンプル過ぎるものだった。携帯と財布はポケットの中だ。


「でも、これから修行するんでしょう? だったら動きやすい方がいいじゃないですか」

「あはは。まぁ、そうなんだけどね。それで、英くん――何かあたしにかけるべき言葉があるんじゃないかなぁ?」


 茉莉さんはこちらへ前かがみになり、ニンマリとからかうような笑みを向けてきた。その瞳からは、何かを期待しているような輝きを察することができた。

 彼女が何を言いたいのか、僕はすぐに分かった。入学前、高校デビュー目指して読みふけっていたファッション雑誌にこんな事が書いてあった気がする。「私服姿の女友達に会ったら、まずその服装を褒めろ」と。


 僕は目を凝らして茉莉さんを見た。トップスは、ストリートの壁の落書きを彷彿とさせるワイルドな絵柄がプリントされたクリーム色の長袖シャツ。ボトムスはやや明るめな藍色のジーンズ。それらはピッタリとしたサイズであるため、砂時計のような肢体の曲線美を際立たせていた。そんな大胆なシルエットと、服装のワイルドさがうまい具合にマッチしていて、なんというか…………


「……すごく、格好良いです。茉莉さん」


 僕は若干顔を赤くしながら、呟くように感想を告げた。


 次の瞬間、茉莉さんが僕の頬っぺたを摘んできた!


「くぉらぁ~! 藍野英助~! そこは「可愛い」とか「綺麗です」なんじゃないのぉ~~!? 「格好良い」ってなんぞや~~!?」

ひはははいたたた! ほへんははひごめんなさいぃ~~!」


 意地悪そうに笑う茉莉さんにむにむにされながら、僕は女性に対する礼儀を一つ学んだのだった。









「それで、これからどこに行くんでしたっけ?」


 池袋の街中を歩きながら、僕は隣にいる茉莉さんへ確認の意を込めて問うた。


「昨日も言ったけど、『ファイトハウス』よ」


 茉莉さんはそう答えた。


 『ファイトハウス』とは、武術を嗜む若者たちの憩いの場、そして腕試しの場として親しまれている店のことだ。店と試合場が一体となっており、試合場で絶えず行われる武術の練習試合を、飲み食いをしながら観戦できるのだ。食事しつつ観戦するもよし、戦うもよし。そんな店。

 簡単に言ってしまえば、ライブハウスの武術版のようなものである。武術ブームが到来して間もなく最初の『ファイトハウス』がオープンし、それが大ブレイクした事を皮切りに、雨後のタケノコのように次々と東京各地で同じような店ができていき、今じゃ某大手古本屋とタメを張るくらい身近な存在となった。


「英くん。君にはこれからその『ファイトハウス』で練習試合をしてもらうわ。君にはすでに多くの技を教えた。そして次に君に足りないのはズバリ、実戦経験。だからこれからそれをたっぷりと積んでもらう。『ファイトハウス』の練習試合は、以前の金髪野郎とやったような『組手』じゃない。ルールに守られているから、比較的安全に戦うことができるわ。だから、頑張りなさいね」


 普段の僕なら、「実戦」という単語を聞いただけで怖気づいていたかもしれない。

 でも茉莉さんの言うとおり、僕には実戦経験が足りない。そして僕自身も前からそれを痛感していた。それを補強できるというのだ。むしろありがたい話ではないか。


 だから、僕ははきはきと自信を持って返事をした。


「はい、頑張ります!」


 茉莉さんは軽く首肯すると、補足するように告げてきた。


「昨日の修行が終わった後にも説明したと思うけど、今日からゴールデンウィークの終わりまでは特別メニューで修行するわ。午前中は『ファイトハウス』で実戦訓練、午後はいつもの修行というのが大まかな流れよ。細かく説明すると、『ファイトハウス』へ行く前の待ち合わせ場所は今日と同じく池袋駅北口前、待ち合わせ時間も同じで朝の九時。合流したらハウスへ移動して、そこで練習試合を何度か行う。昼十二時になったら『ファイトハウス』を出て昼食、そして一時になったら公園などの練習場所を見つけて、そこで『骨』と技の修行を夕方五時まで行うわ」

「あ、改めて聞くと、なかなかのハードスケジュールですね……」


 僕は引きつった笑みを浮かべる。さすが特別メニュー。


 だが茉莉さんは不意に立ち止まると、僕の両肩をガッと強く掴み、顔を間近に向かい合わせながら言ってきた。


「いい? 本当に頑張りなさい英くん。この連休は又と無いチャンスなの。こういう連休の時でないと、学生のあたしたちは修行と並行して『ファイトハウス』に足を運ぶことはほとんどできないわ。これから始まるゴールデンウィークの中で多くのものを吸収しなさい。いいわね?」


 普通なら、ここで「はい」とひと返事するはずだった。

 だがいつもの茉莉さんらしからぬ、鬼気迫る表情と追い詰めるような言動に、僕は戸惑いを感じた。


「……はい」


 なので、少し返事が遅れてしまった。


 だが次の瞬間からは、さっきまでの緊迫ぶりはすっかりなりを潜め、茉莉さんはいつもの気さくな笑顔に戻っていた。


「よしっ。じゃあ行こうか、英くんっ」


 軽やかな足取りで再び歩き出す茉莉さん。


 僕はまだ若干気後れしていたが、やはりその後ろをついて行った。さっきの態度について詮索したい気持ちはあったが、今は修行の事だけを考えよう。


 しばらく歩くと、人気の少ない寂しい道へ来る。そしてその端に建つ背の低いビルディングに、茉莉さんは一直線に視線を送っていた。

 褐色のタイルを外壁に張り巡らせ、外観をレンガの家のように見せたそのビルは、全四階のうち二階層が武術道場となっている複合オフィスビルだった。その入口のすぐ横には地下へ続く階段があり、その階段の隣には「ファイトハウス 霍元甲」と記された照明看板が立てられていた。


「茉莉さん、もしかしてあそこですか?」

「ええ。そうよ」

「そうですか……ファイトハウス……えっと、その後の漢字はなんて読むんでしょうか?」

霍元甲かく げんこう。「黄面虎きめんこ」と呼ばれた中国拳法の達人の名前よ。彼の活躍は一昔前に映画化もされてるわ」


 へぇー、と僕が声をもらした時には、すでに階段の前まで到着していた。

 階段の下から、物をしたたかに打つような乾いた音とともに喧騒が聞こえてくる。

 胸騒ぎがして、表情筋が強張る。なんだろう、僕が入ってはいけない場所のような気がしてきた。


「大丈夫、英くん?」


 そんな僕を気遣うように、茉莉さんがしゃがんで顔を覗き込んできた。


「へ、平気です。もうまんたいです」


 なんとかやせ我慢してそう返すと、彼女は先に階段を降りだした。僕も慌ててその後を追った。


 喧騒は階段を下るたびにどんどん大きくなっていって、やがて降り終えてすぐに目に付いたガラスのドアを茉莉さんが開くと、戸の向こうに籠っていた騒がしさがドッと一気に襲ってきた。その奥へ迷いなく進んでいく茉莉さんの後ろを、僕は縮こまりながら追従する。


 そこはまさしく、相反する二つの世界がくっついた空間だった。横長の広々とした空間は、右半分が飲食店、左半分が広い台のような闘技場を中心とした広間となっていた。闘技場の上で巧みな打ち合いを披露する二人の様子を、店の席に座る多くの若者がドリンク片手に歓声を上げながら見物していた。


 始めて目の当たりにする『ファイトハウス』の中を、僕はただただ口をあんぐりさせながら眺めていた。


 だが不意に、中に響いていた騒がしさが水を打ったように止んだ。


 店側、闘技場側を問わず全員が手を止め、視線を一点に――茉莉さん一人に向けて一斉に注いでいたのだ。


 そして次の瞬間、さっき以上の喧騒がワッと押し寄せてきた。


「おい見ろ! 「閃電手」だぞ!!」「マジかよ!?」「うおっ! マジだ!」「久しぶりに「閃電手」神楽坂茉莉が来やがったぞ!」「何ヶ月ぶりだ!?」「俺は初めて見るけど、あの綺麗な姉ちゃんが「閃電手」か? 信じらんねーぞ」「バカ、滅多なこと言うな! 死ぬぞお前」「ああ見えてめちゃくちゃヤバいんだぞ!」「速い。とにかく速いんだ」「気がついたら数発殴られてました、ってレベルの速さだぜ、あいつの打撃は」「去年見た瞬殺シーンは今でも忘れられねぇぜ」「俺、その時の映像携帯の動画に撮ってあるぞ。見るか?」「見る見る!」「ってか、その隣にいるちっこいのはなんだ?」


 声という声がゴチャ混ぜとなって聞こえて来る。だがいずれも茉莉さんの事を話しているのは明白だった。やはりこのひとは有名人なのだと、僕は改めて認識する。


 そんなかまびすしさにも一切動じず、彼女はどんどん店の奥へ入っていく。僕もおずおずとそれに続く。

 飲食店のカウンターの前までたどり着くと、茉莉さんはその向こう側にいる、髪型をパンチパーマにした男の店員さんへニッと笑いかけて、


「おひさ、マスター。元気だった?」

「おう。久しぶり、「閃電手」。元気でやらせてもらってるよ」


 店員さんもそう言って、気さくに笑い返してくる。


「英くん。紹介するわ。この店のマスターのたんさんよ」


 茉莉さんがそう紹介してきた。


 譚さんの顔は結構な強面だったので若干尻込みしかけるが、きちんと目を見て挨拶をした。


「は、初めまして。藍野英助です」

「ああ。初めまして。俺は譚だ。よろしくな」


 よろしくお願いします、となんとか返す。


「どう、マスター? 最近は儲かってるかしら?」

「まあ、ぼちぼちな。だが「閃電手」、俺は来るなら来るで、その日にちを前もって伝えて欲しかったよ。そうすれば、『「閃電手」、ウン月ウン日に「ファイトハウス 霍元甲」へ来る!』みたいな情報を豊島区中に流して、客足と収入をがっぽり稼げたのにな。君ほどの使い手なら、入場料だって取れるくらいだ」


 譚さんはそう冗談めかした調子でうそぶく。僕は、彼のその言葉の意味に心当たりがあった。

 ライブハウスでは、名の知れたバンドやグループが来てライブを行うと、客足が潤い、店の食べ物やドリンクの売上げが大幅に伸びるらしい。その武術版に位置する『ファイトハウス』もまたしかりで、有名な武術家が試合をしに来ることが知れると、ハウスに客がたくさん来て、飲食代をガンガン使って売上げに貢献してくれる。なので『ファイトハウス』を営む譚さんにとって、茉莉さんのような有名人の来店はありがたいことなのだ。


 そんな譚さんに対し、茉莉さんはふふっ、と微笑み、


「残念だけど、今日戦いに来たのはあたしじゃないわ。この子よ」


 ポン、と、傍らに立つ僕の頭へ手を置いた。


 譚さんは訝しむような目でこちらを見つめてきた。なんだか居心地が悪い。


「……さっきから気になってたんだが、その坊やは一体何者なんだい?」

「あたしの一番弟子♪」


 茉莉さんの即答に、周囲の人たちがざわっとした。


 譚さんも少し驚いた様子で、


「……これはたまげたな。しばらく見ない間に、君が教える立場に立っていたとは」

「別に驚くことでもないわよ。あたしは遅かれ早かれ、誰かに神楽坂式骨法を授けるつもりで生きてきたわけだし」

「なるほど。しかし「閃電手」、こういう言い方は君たち二人に失礼だろうが、そんな小さな坊やでなくともいいのでは……」

「あーっ、英くんをバカにしちゃダメよマスター? こう見えてかなり根性あるんだから。ねー英くんっ?」

「ああう……」


 茉莉さんにぐしぐし撫で回されて頭部を揺らされ、思わずそうあえぐ僕。


 続いて彼女は、得意げにニヤリと笑いながら続けた。


「それにね、この子はまだ武術を始めてまだ一ヶ月経ってないにもかかわらず、すでに習武歴の長い奴一人をKOしてるんだから。もう十分、ここでやり合える力量に育ってるわ。あたしが保証する」


 譚さんを含む周囲の人が「おおっ」とざわめき立ち、驚くような感心するような視線を僕へ向けてきた。なんだかちょっと恥ずかしい。


「――それじゃあ、俺が最初の試合相手に立候補しようかね」


 その時、僕の背中がそんな声に叩かれた。

 振り向くと、少し離れた所に一人の大男が立っていて、僕に真っ直ぐ視線を送ってきていた。確実に一九〇センチは超えているであろう堂々たる体躯。丸太のように太い手足。その厳つく彫りの深い顔立ちはアジア人のものではなく、明らかに白人のソレだった。


「俺は新派『ネイサンスタイル・グラップリング』を嗜む、宮谷恭一みやたに きょういちという者だ。「閃電手」の弟子と聞いて興味が湧いた。藍野英助といったな。どうだ? 最初に戦う相手は俺にしないか?」


 宮谷恭一と名乗ったその青年は、そう言ってのしのしと僕の前に歩み寄ってきた。その巨体は近くから見るとますます大きく感じ、立っているだけでプレッシャーを感じさせる。日本風の名前と西洋人の見た目から察するに、おそらく帰化人か在日二世だろう。


「えっと……そう急に言われましても……」


 僕は困ったような笑いでお茶を濁しにかかる。

 本音を言うと、気が進まない。この人は小室と違って、背が高いだけでなく体格もかなりしっかりしている。おまけにその物怖じしない立ち振る舞いから、どことなく熟練者の匂いがする。華奢なだけでなく、まだ武術歴の浅い僕じゃ今度こそ勝ち目は薄い。時期尚早な相手だと思う。


 この人と戦うのは避け、もっと体格が控えめな人と戦おう。そう思った。


 そう、思っていたのに――


「いいわ。じゃあ英くんの最初の相手はあなたってことで」


 茉莉さんはそんな僕の心情を知ってか知らずか、また勝手に勝負を受けてしまっていた。


「ちょっと茉莉さムグッ!?」


 慌てて食ってかかろうとした僕だが、茉莉さんに素早く口元を押さえられて強制的に沈黙させられた。あ、なんかこれ小室の時とデジャヴだ。


 宮谷さんはその太い腕を組みながら、納得したように頷いていた。やめてよ、そんな「楽しみだ」みたいな微笑みは。余計に逃げられなくなるじゃないか。


「よし、それでこそ武術家というもの。そうと決まれば早速準備をしよう。ただし……」


 そこで区切ると、宮谷さんはポケットから何かを取り出し、僕の前に突き出した。

見ると、彼の親指と人差し指には、ゲームセンターで使うコインが摘まれていた。


「半端な覚悟でかかって来ない方がいい。いくら『ファイトハウス』の試合が比較的安全だからといって、軽い気持ちで挑んだら痛い目を見るぞ? 藍野英助」


 言うや、宮谷さんはそのコインを、摘んでいる二本の指の力で「ぷちゅっ」と半分に折りたたんで見せた。


 それを見て僕は「ひっ」と喉笛を鳴らす。

 逆に、茉莉さんは不敵に口端を歪めて、


「そっちこそ、英くんが小さいからって、舐めてかかると足元掬われるわよ。何せ、あたしが育てたんだから」

「ふっ、期待してるよ「閃電手」。防具を取ってきてやるから、そこで待ってるといい――マスター、店のやつを使っていいだろう?」


 「構わんよ」という譚さんの了解を得ると、宮谷さんはその場から離れ、闘技場の近くにあるドアの中へ入っていった。


 そして、ようやく僕の口を塞いでいた手の拘束が解ける。


 僕は茉莉さんのシャツにしがみつき、涙目で必死に訴えた。


「な、なんでまた勝手に決めてるんですか!? 絶対無理です! 不可能です! あんなサイボーグみたいな人に勝てるわけないですよぉ!」

「まあまあ。これも経験のうちよ。それに大丈夫。いくつかアドバイスしてあげるから」

「あ、アドバイス、ですか?」

「ええ。ちょっと耳貸して――」


 茉莉さんは僕の耳元に口を近づけ、その「アドバイス」を耳打ちしてくれた。









 間もなくして、試合は始まった。


 僕は若干おっかなびっくりな表情で、『ファイトハウス』の闘技場の上で宮谷さんと向かい合って立っていた。

 店内のあちこちから、いろんな人がグラス片手にこちらを見ている。観戦モードだ。


 時間無制限。防具有りのセミコンタクト制。金的への攻撃は禁止。どちらか一方が場外に出るか、再起不可能な状態に押さえつけられるか、ギブアップするかで勝敗が決まる――それが『ファイトハウス』で行う試合の主なルールだ。


 頭部には剣道の面を思わせる形のヘッドガード、そして上半身には体の前と背中を覆うボディプロテクター、そして拳、肘、膝には打撃の衝撃を和らげるためのサポーター。僕と宮谷さんは今、そんな防具をつけている。繊維技術の発達により、今の時代の防具は一昔前より軽量化し、なおかつ強度も高い。体にかかる重さはジージャンを着ている時とそれほど変わらなかった。


 ちなみに、防具の着用は自由らしい。武術の玄人は顔面を狙われる事への危機意識を忘れないよう、あえて防具をつけないことが多いそうだ。茉莉さんも基本つけないとのこと。僕はそんなの絶対イヤだけど。


 宮谷さんはバシッ、と両拳を突き合わせ、気勢を見せながら言った。


「俺の師、ネイサン・スミスは米陸軍空挺部隊「スクリーミング・イーグル」の元隊員。そのネイサンが学生時代に学んだ武術と、軍で学んだ格闘術のノウハウを全てつぎ込んで興した新派が『ネイサンスタイル・グラップリング』! つまり一切の虚飾の無い、むき出しの実戦格闘術というわけだ。俺自身はまだ未熟だが、未熟者なりに全力をもってその真髄を見せてやる」


 コイン指で潰しておいて未熟だなんてよく言うよ……。僕は心中で愚痴った。


 まぁ、防具があるので流血沙汰にはならないだろう。だから安心して試合に臨もうと思った。……うん。きっと大丈夫だろう。そう信じよう。


 やがて、向かい合う僕ら二人の間に立っていた茉莉さんは、


「二人とも準備はいいわね? それじゃあ――始めっ!!」


 そう開戦の火蓋を切ってから、素早く闘技場から降りた。


 二人の間に遮るものがなくなるや、宮谷さんはすぐさまこちらめがけて突っ走り、飛び込みながらの前蹴りを放ってきた。


「おわっ!?」


 僕は慌てて左側へ大きく踏み出し、全身を移動させて蹴りをなんとか躱す。その後、迅速に向き直った。

 宮谷さんは蹴り足を着地させるとすぐさま僕の方を向き、次の攻撃を仕掛けるべく再び距離を詰めてきた。

 そして右腕を伸ばし、殴りかかって来る――のではなく、ヘッドガードの顔面を掴み、僕の視界を遮った。目の前が暗転する。


 不意に訪れた暗闇に混乱し始めた途端、重々しい衝撃が胴体へ二回訪れた。


「っはっ――!?」


 一瞬、息を詰まらせる。防具のおかげで緩和こそされてはいるが、それでも十分腹に響くインパクトだった。


 ヘッドガードを掴んでいる彼の手を振り払い、慌てて数歩後退する僕。見ると、宮谷さんは片膝を鋭く突き出した状態で立っていた。おそらく視界を奪ってから、あの膝蹴り含む二連続で攻撃したのだろう。目が見えないと相手の姿も見えないため、攻撃がどこから来るか分からなくなってしまう。その分、打撃を防ぎにくくなる。

 簡潔かつ有効な手法だ。実戦格闘術とはよく言ったものである。


 そうこう考えている間に、宮谷さんは再び近づいて来ていた。両脇を締め、顔の前で両拳を構えながら。

 ボクシングに酷似していたその構えを見て、僕は小室のジャブを連想した。途端に焦りが湧き、気がつくと両腕をクロスさせて顔面を守っていた。防衛本能がそうさせたのかもしれない。


 だが、それが裏目に出た。


「自ら腹を晒すとは愚の骨頂っ!」


 宮谷さんは腰を鋭く左右に切り、がら空きになった僕の腹部へワンツーパンチを叩き込んだ。

 腰がしっかり入った重々しい拳打を二連続で受けたショックで咳き込みながら、おぼつかない足取りで退く。

 だが、後足を踏んだ時の触覚で段差の存在を感じ取り、僕はハッとした。ピタリと後退をやめ、焦ってすぐさま闘技場の中心へと駆け戻った。いけない、リングアウトが負けになるということをすっかり忘れていた。


「どうした!? 逃げてばかりじゃ相手は倒れないぞ!?」


 宮谷さんは、そう喝を飛ばしてくる。


 ……やっぱり「あの手」を使うには、こっちから仕掛けるしか無いか。


 あの巨体に突っ込むのには抵抗がある。だが僕は無理矢理腹を括り、宮谷さんにゆっくりと接近。

 そして、三メートルほどの間隔まで縮めると、後足で瞬発。一気に彼へと迫る。


 宮谷さんはストレートで迎え打とうと、足腰を左に捻り、右拳を出しかけていた。言うまでもなく、リーチ的には彼の方が圧倒的に有利だ。何もしなければ殴られて終わりである。

 だが、やがて右正拳が放たれた瞬間、僕は伸ばされた彼の右腕に左前腕部を滑らせて、打撃の位置を左へずらした。ストレートは僕の左側頭部を擦過し、真後ろへ流れる。

 そのまま宮谷さんの懐へ侵入するや、僕は右足で急ブレーキをかける。それと同時に、手の甲に右手を添えた形の左掌打を胸へと打ち込んだ。二本の腕と背中が三角形状の関係にあるため、体重移動によるエネルギーはその三角形の頂点である左掌一点に集中する。心意六合拳しんいろくごうけんの一手『単把たんぱ』である。


「うっ……?」


 眉間を歪め、後方へたたらを踏む宮谷さん。心意六合拳の技は中国拳法の中でも特に威力が高いため、小柄な僕でも重量のある宮谷さんを突き飛ばすことができた。

 僕の攻撃による慣性力はまだ持続し、彼を未だ後ろへ流し続ける。その背中は、闘技場の段差へと近づいていた。


 今、追い討ちをかけて場外へ落とせば僕の勝ちだ。ここを狙わない手はない。


 僕は再び後足で床を蹴り、右拳による『順突き』を当ててやろうと急迫した。


 だが、拳が当たる直前、宮谷さんは両足をしっかりと踏みしめて立った。

 そして、軽い身の捻りのみで僕の右正拳を躱し、すぐさま膝蹴りによるカウンターを叩き込んできた。

 腹に激しく膝が刺さり、僕は低い声で呻く。彼の蹴りの威力に、僕が向かって来た力も加算されたので、プロテクター有りでもそれなりに苦しい一撃となった。


 しかし、それでも意識を必死に保つ。


 そして宮谷さんは、その鋼のような手で僕のシャツの両肩へ掴みかかってきた。肩口周辺はプロテクターに包まれていないので露出されている。そこを捕らえたのだ。

 おそらく、大外刈りの要領で引き倒すつもりなのかもしれない。体重の軽い僕なら余裕で投げられるだろう。


 だが、この体勢は一見不利に見えて、今の僕にとっては願ってもない状態だった。


 僕は肩を捕まえている彼の両腕――より正確に言うなら、両前腕部の肘関節付近――を迅速に掴む。


 そして、目一杯力を入れて、指を腕に食い込ませた。


「ぐあっ――――!!」


 刹那、すぐ目の前にいる宮谷さんが苦しげに声を上げた。


 ヘッドガードの奥に見える彼の顔は、苦痛に満ちている。


 それを見て、僕はうまく「指圧」できたことを実感し、さらに指の力を強めた。


 肘関節の横シワから指三つ分ほど下には「手三里てさんり」というツボが存在する。僕が彼の腕を掴んだのは振りほどくためでなく、このツボを押すためだったのだ。

 「手三里」は肩こりや腰痛によく効くツボだが、その代わり、強く押されると凄まじく痛い。それこそ、宮谷さんみたいな屈強な男でも悲鳴を上げるほどに。


 これは言うまでもなく茉莉さんからの入れ知恵だ。試合前に耳打ちされた内容の一つは、このツボの事だった。


 さらに、受けたアドバイスはそれだけではない。


 僕は苦痛を訴える宮谷さんから手を離すや、シャツに掴みかかっている彼の腕を払い除けた。痛みでひるんでいたせいか、拘束は簡単に解けた。

 腰を落としつつ、素早く彼の右脇腹へと潜り込む。

 そこから円弧を描くような軌道で左膝を動かし、彼の右膝裏へと当てた。


「おわっ……!?」


 途端、宮谷さんは下半身のバランスを失い、天井を仰ぎ見ながら倒れ始めた。


 今の足技はインドネシア武術、ペンチャックシラットの基本歩法だ。相手の膝裏に自身の膝を打ち付け、下半身の均衡を崩す。言ってしまえば膝カックンの要領に近い。

 だが、今崩れたのはその技のせいだけでなく、宮谷さんの注意が完全に腕の痛みに向いていたからだ。よほど集中力が無い限り、人間は二箇所へ同時に意識を向けることはできない。痛む箇所に意識が向いている分、下半身への注意がどうしてもおざなりになる。そのように注意散漫となった足を積極的に狙って相手を崩すのが、ペンチャックシラットの足技だ。これらをうまく用いれば、どんなに大柄な相手でも容易にひっくり返すことができる。


 茉莉さんのもう一つのアドバイスも効果てきめんだった。「バァンッ」と派手な音を立ててぶっ倒れた宮谷さんを目にし、そう感じた。


 仰臥している彼が起き上がる前に素早くその胸へ片膝を乗せ、全体重をかけて動けなくする。


 そして、彼の顔面に拳を寸止めさせた。


「……参った」


 おののいたような表情で、宮谷さんは静かにそう告げる。


 転瞬、店内のあちこちから喝采が起こった。


 僕は警戒する犬のようにビクッと総身を震わせつつ、宮谷さんの胸から降りた。


 彼は立ち上がると、ヘッドガードの奥の顔を友好的な笑みに変え、片手を差し出してきた。


「今回は俺の負けだよ。流石はあの「閃電手」の弟子。武術を始めてまだ一ヶ月足らずだっていうのに大したものだ」

「は、はい。ありがとうございます……」


 僕はおずおずとその手を掴み、握手を交わした。


 再び店内が声援で溢れかえる。


 この声が自分の勝利を讃えるものだと思うと照れくさかったが、悪い気はしなかった。

 むしろ、気持ちよく感じてすらいた。今までこんな風に大勢から褒められたことがほとんどなかったからだろう。

 これが、勝利の余韻というものなのだろうか。


 宮谷さんから手を離すと、


「よっしゃ! よく勝ったわよ英くん! 流石はあたしの一番弟子!」


 茉莉さんが闘技場に上がって来て、僕の頭をヘッドガードごと撫で回してきた。


「あはは……なんとか勝てました」

「うんうんっ。それじゃあ――これから始まる二回戦も頑張ってね」


 …………え?


 よく見ると、茉莉さんの傍らには防具を着た見知らぬ若者が一人立っていた。

 彼女はその人の肩にポンと手を置くと、善意一〇〇パーセントの素敵な笑顔で言ってくれた。


「英くんが戦ってる間に、次の相手を見つけておいてあげたわよ。さ、今すぐ始めましょ」

「え……あの、ちょっと、茉莉さん……休憩は……? インターバルとかないの……?」

「あと三回戦終わったら休ませてあげる♪」


 ああもう本当武術に関しては容赦ないなこのひとっ!


 僕はその後、悲鳴を上げたい衝動を我慢しながら、茉莉さんが次々と放ってくる試合相手と戦ったのだった。

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