第三章 実戦デビュー②

人間の体感時間とは実にいい加減で、気分に左右されやすい。苦しい時間ほど長く感じ、楽しく幸せな時間ほど短く感じてしまうものだ。

 今回の僕の場合、放課後に到るまでは苦しみのない、幸せな時間だった。ゆえに、過ぎ去るのがあっという間に思えてしまった。


 そしてそんな時間が終わり、とうとうその時が訪れた。


「よう、藍野。ちゃんと逃げずに来たかよ。不戦勝で終わるかと思ったぜ」


 放課後、茉莉さんとともに校舎裏までやってきた僕は、いち早く到着していた小室の皮肉っぽい笑みに迎えられた。奴の傍らにはやはりというべきか、四人の仲間が集まっている。もはや小室と合わせて一セットとして数えていいくらいの同伴率だ。

 影が差して薄暗く、僕たち以外に人気のない寂しい場所だった。乾いた平べったい土からはポツポツと申し訳程度に短い雑草が伸びていて、対照的に草が生い茂っている隅っこには空き缶や紙パックなどのゴミがいくつか落ちていた。もしかすると、ここは不良のタマリ場なのかもしれない。


「神楽坂センパイ? 俺に色目使う練習してきたッスか?」

「してないわ。だってアンタどうせ負けるんだから必要ないもの。労力の無駄」


 挑発的な言葉をぶつけ合い、小室と茉莉さんは大きく開いた互いの間に不可視の火花を散らす。


 今回の勝負のベットとなっている身にもかかわらず、彼女の闘志は十二分だった。

 しかし、これから一戦交える身である僕は逆で、早くも気力がしぼみかけていた。

 朝は僕の勝ちを断定する茉莉さんを信じてみようという気にはなれたが、しばらくすると不安がぶり返してきた。

 だってそうだろう。小室は実戦未経験な僕より場数を踏んでいる。パワーバランスがどっちに傾いているかなんて明らかだ。まったくもって不利な『組手』である。

 そこへ勝敗に茉莉さんの身がかかっているとなれば、それはもう凄まじいプレッシャーである。その上、逃げることも許されない。


 負けたらどうしよう負けたらどうしよう負けたらどうしよう……さっきからそんな事ばかりが頭の中で堂々巡りしている。手も小刻みに震え、不安を言外に示していた。

 だがそんな片手に、なめらかで少し冷たい手がそっと触れてきた。

 いつの間にかすぐ隣に立っていた茉莉さんが、僕の顔を横目に見ながらにっこりと笑った。


「大丈夫。朝にも言ったでしょ? 君は勝つわ」

「……茉莉さん……でも……」

「いい? 落ち着いて。取り乱さず、心を沈めて冷静になって戦いに臨みなさい。そうすれば緊張で距離感は狂わなくなるし、相手の動きをはっきり見定められるようになるわ。あいつと戦う上で君に足りないものがあるとすれば、そういった冷静さよ。それを手に入れればきっと勝てる。あんなに一生懸命修行したんだもの。疑う余地はないわ」


 茉莉さんは手を離し、僕をトンッと前へ押しやった。

 つんのめりそうになりながらも、僕はしっかりと立つ。

 そして深呼吸し、心を懸命に落ち着ける。

 そうだ。もう『組手』は始まってしまったんだ。ならいつまでもウジウジ引っ張るより、少しでも勝つ可能性を増やす方が建設的だ。そして、そのために茉莉さんの言葉を信じよう。僕は弱いけど、茉莉さんは強い。なら、そんな彼女のアドバイスに勝利への糸口があるかもしれない。


 懸命に冷静さを自分に課しながら、視線を眼前の小室へしっかりと向けた。


「ようし。んじゃ――始めようぜ」


 そんな僕の眼差しから戦意を感じたのだろう。小室は薄笑いを浮かべながら数歩前へ出て、構えを取った。それに合わせて、僕も以前教わった通りに構える。

 僕と小室の取った構えは、どちらも似たような形だった。体の半分を前に出した上で、急所の集まりである中心線を両腕と前の膝で隠した半身の構え。門派は違っても、防御概念は変わらないようだ。


 空気が緊迫する。


 そんな中でも、僕はゆっくりと呼吸しながら自分を律し、小室の出方を待つ。


 僕は今までこいつに何度も殴られた。その経験は嬉しくないものだったが、今日初めてソレにアドバンテージを少し感じた。

 小室は僕を殴り終わると、決まって自分の武術について自慢げに語っていたのだ。なので、こいつの武術の正体は前もって知っている。


 東流七星術。

 足・膝・股関節・腰・肩・肘・拳――これら七つの人体の力点「七星」を同時に運用することで、七つの部位で作った力を合力させて打撃部位に集中させ、強力かつ鋭敏な打法『七星合一砲しちせいごういつほう』を放つことを主体とした新派だ。

 小技による攻撃を重ね、相手がひるんだ隙を突いて必殺の『七星合一砲』を叩き込む――これが主な戦闘法である。


 あいつの切り札である『七星合一砲』だけは何としても当たらずにやり過ごしたい。一度だけあれで殴られたことがあるが、気絶するかと思うほど痛かった。食らったら、もう僕はこの『組手』の最中は立てなくなるに違いない。


 僕はゴクリ、と喉を鳴らし、構えを崩さぬままジリジリと少しづつ、本当に少しづつ距離を縮める。


 だが、小室は急に後足で地を蹴ったかと思うと、一気に視界に大きく映った。八、九メートルほど開いていた間隔を、たった二歩大きく踏み込んだだけで一メートル弱まで狭めたのだ。

 僕はハッとする。沈黙が長引いたせいか、思わず反応が遅れてしまった。

 すぐ目の前に迫った小室は急激に転身。その遠心力に任せて右の鶴頭を横へ薙いできた。鶴の頭を形取るように手首を下へ曲げることで、その頂点は硬く強力になる。小室はそれを武器にした。


「がっ……!?」


 重い石を投げつけられたかのような衝撃が右の頬骨に叩き込まれ、目がチカチカする。


 その威力によってバランスを崩し、地面に横倒しになる僕。


 横になったまま、頬に余剰するジンジンとした痛みを認める。

 痛い。すごく痛い。今、殴られたんだ。だから痛いんだ。痛いのか。痛いみたいだ――不意打ち気味に味わった痛覚にひるみ、頭が混乱しかけていた。


 しかし往々にして、こちらの都合よく待っててくれないのが敵というものである。見上げると、小室が後ろへ大きく片足を振り上げていた。サッカーボールをシュートする直前のようなフォームだ。

 起き上がろうとしたのでは間に合わないと悟った僕は、瞬時に守りの体勢となる。


「ハッハー! シュゥゥゥゥゥゥト!!」


 嗜虐心丸出しな叫びとともに、小室は僕を思い切り蹴飛ばしてきた。

 蹴りはお腹を守っていた両腕に叩き込まれ、余剰した衝撃によって僕はゴロゴロと数度転がる。おかげで、小室と僅かな距離ができた。


 僕は衝撃でしびれる両腕に鞭を打ち、できる限り素早く立ち上がる。

 だがその時にはすでに、体をぐるりと回転させた小室がすぐ近くまで来ていた。

 そして、奴が振り向きざま、再び右の鶴頭を横薙ぎに放とうとしているのが見えた。


 それなら――

 とっさに体が動いた。僕は右側頭部を守るため、両腕を素早く右耳の近くに構える。この両腕で鶴頭をガードしたら、すぐにその右腕を捕まえ、昨日教わった合気道の『四方投げ』をかけてやる。


 小室は円弧を描きながら右鶴頭を振り出してきた。

 鶴頭が、構えられた僕の両腕に直撃する――ことはなかった。

 直撃の寸前、小室は右腕の肘を折りたたんで、前腕部を引っ込めたのだ。なので鶴頭は僕の両腕には当たらず、そのまま右腕ごと眼前を素通りしていった。

 しかし、それは小室の回転がまだ続いていることを意味していた。

 小室はもう一周回転し直してから、その遠心力を込めて回し蹴りを放った。


 来るはずだった攻撃が来なかったために惚けていた僕は、反応が遅れてしまい、それを脇腹に甘んじて受けることとなった。

 激痛が走るとともに体が吹っ飛び、そして再び地面を転がるハメになった。


「こんな簡単なフェイントに引っかかってんじゃねぇよ。カァス」


 小室と、そのはるか後ろにいる仲間四人が嘲りの笑声を上げる。


 僕は痛みと屈辱に必死に耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。


「オーケー、そうこなくっちゃなぁ。せいぜい頑張って立ち上がってくれや、サンドバッグ君♪」


 そんな僕を見ると、小室は愉悦に満ちた表情を浮かべ、歩み寄ってきた。徐々に、徐々に距離が縮んでいく。


 僕の鼓動が焦りで小刻みなものになる。マズイ。このままだとまた防戦一方だ。どうすればいいんだ。

 いや、待て。落ち着け。冷静になるんだ僕。茉莉さんも言ってたじゃないか。落ち着いて相手の動きを見ろ。落ち着け。落ち着け……。


 僕は深呼吸しながら、懸命に心を整える。

 そして、小室が一メートルを超えた辺りまで接近してきたところで、ようやく落ち着きを取り戻した。


「んじゃ、もう一発くらえやぁ!」


 腰を捻り、右拳で鋭く突きこんできた小室。


 普段なら反応しきれず、殴られるだけだったその拳のスピードは――今は少しだけ目で追うことができた。

 そしてその分、ちょうどいいタイミングで反応できるに至った。

 僕は向かって来た小室の右拳を、左腕による反時計回りの円運動で受け流し、巻き取る。

 そして一周させてから、巻き取った腕を右手に持ち替え、そこから流れるような手際で小室の右脇へと潜り込む。そして、肩から寄りかかるようにぶつかった。


 太極拳の一手『懶扎衣』からの体当たりを受けた小室は、そのまま後方へ吹っ飛び、背中から地面にドシャッと落下した。


 土煙をまといながら仰臥ぎょうがする小室を見て、僕は心中で歓喜した。

 僕の技が、通じた。

 あの小室に、一矢報いることができた。


「テメェ……藍野が…………よくもやりやがったな……!」


 少しすると、小室が忌々しげにそう唸りながら立ち上がった。その端正な顔は怒気で歪んでいた。

 その形相に僕はすくみ上がりそうになるが、深呼吸しながら必死に平成を保つ。冷静さを忘れるな。さっきだって対処できたんだ。落ち着いていればちゃんと技を当てられるはず。


 小室が鋭くダッシュし、接近してくる。その踏みしめる一歩一歩は力強い。憤慨がこもっているのが見てとれる。

 僕はその場からほとんど動かず、到着を待つ。小室がああして積極的に攻めて来れるのは、おそらく手足のリーチが僕よりもはるかに勝っているからだろう。ならばこっちは突っ込むわけにはいかない。攻撃をいなしつつ反撃を加えるという、体が小さい者に適した戦い方を続ける必要がある。


 まもなく小室は僕と急接近。そして、抱え込むように右膝を上げる。おそらく前蹴りだ。

 僕は蹴り足が伸ばされる前に『三才歩』を用い、左斜め前へと迅速に移動。蹴りの射程から外れる。


 半秒と立たぬ間に小室は蹴り出したが、目標を失って空振り。だが蹴り足を力強く着地させてダッシュの勢いを無理矢理殺すと、すぐさまこちらを振り返り、急迫しつつ右正拳で突いて来た。

 僕は小室の突き手の外側の面に自身の右前腕部を滑らせ、正拳を受け流す。そしてそこから、相手の脇腹を狙った右膝蹴りへと繋げた。ムエタイの膝斜め蹴りカウ・チアンによるカウンターだ。


 効いたのか、小室は苦しげに呻く。


 だが僕の攻撃はまだ終わらない。右足を引っ込めてから素早く体を反時計回りに回転。その遠心力に乗せた左肘による回転肘打ちソーク・ラップを腹のど真ん中へ叩き込んだ。


 小室は腹部を押さえながら、数歩後ろへたたらを踏む。その顔は苦悶に満ちていた。ムエタイの技は、肘や膝といった硬い部位を用いた強力な打撃が多い。それを二連続で食らったのだ。いくら僕より体格が良いといっても、ダメージにならない訳が無い。


「クソがっ……藍野の分際でぇぇぇっ!!」


 鬼のような憤怒の表情でそう怒号を発し、小室は僕の頭部に向かって勢いよく右手を伸ばす。髪を掴んでくるつもりだ。だが、そうはさせない。

 僕は伸ばされた右腕を、自身の右腕に擦らせて後方へ流す。そのままその腕を右手で捕まえつつ背後へ移動。空いた左手で後頭部を抱き込むようにして小室を手前に引き寄せてから、足の踏み出しとともに右手で顔を押し、背中から地面に倒した。


「かふっ……!?」


 合気道の『入り身投げ』で背中をしたたかに打った小室は、苦痛と混乱の混じった顔で空気を絞り出す。合気道の投げ技は受身を取らなければ凄まじく痛いのだ。


 倒れた小室を見下ろし、僕の心が歓喜でざわついた。


 凄い。どんどん技が決まってる。

 今までは僕が倒されてばっかりだったけど、今じゃ逆だ。初めて立場を逆転させることができた。

 勝てるかもしれない。本当にイジメから脱却できるかもしれない。お父さんからの仕送りをむしり取られることがもうなくなるかもしれない。


 すっかり僕は得意になっていた。


「もう降参しろ小室! お前のことは嫌いだけど、僕はいたずらに誰かを痛めつけるのは好きじゃないんだっ」


 そのためか、いつになく強気な口調でそう言い放つことができた。


 小室はしばらく何も言わなかったが、やがてクックッと喉を鳴らして不気味にせせら笑ってきた。


 その態度に僕は思わず気圧され、


「なっ、何がおかしいっ?」

「いやぁ……おめでてぇバカだなぁって思ったからよ。何勝った気になってやがんだ? 俺ぁもう見つけちまったんだぜぇ? テメェの弱点をよ」

「弱点っ?」


 思わぬ指摘に僕は内心狼狽えるが、それを隠して虚勢を張り、反論した。


「ハッタリを言うなっ」

「ハッタリ、かどうか……今から試してやろうか?」


 言うや、小室はむっくりと立ち上がった。僕は慌てて距離を取る。


 そして奴は、破顔一笑して告げてきた。


「出血大サービスだ。今から、俺の虎の子の技を見せてやんよ」


 不穏な前振りに、僕は即座に構えを作りつつ訊いた。


「『七星合一砲』か?」

「ご名答、と言いたいトコだけど、違ぇよ」

「なら、七星術の他の技かっ?」

「それも不正解。つーかよ――俺が教わってんのが東流七星術だけだと思ってる時点で、物笑いの種ってもんだ」


 言い終えると、小室は構えを取らぬまま、緩慢に歩み寄ってきた。

 体の中心線を晒した無防備な状態、そして「教わっているのは東流七星術だけじゃない」という台詞の二要素から警戒心を否応なく植え付けられる。だがすぐにハッとし、「冷静であれ」と自分を再度律しにかかった。今の僕なら大丈夫だ。何が来ようと、落ち着いて対処すればきっとなんとかなる。


 そして、小室が一歩前ほどの距離まで近づいてきた。しかし、得意げに笑みを浮かべてこそいるものの、未だ手を出す気配はない。


 やっぱりハッタリか――そう思った時、奴の右手の像が一瞬閃いた。


 同時に、僕の顔面が、脳を揺らさんばかりの強いインパクトに叩かれた。


「え……?」


 顔全体に広がる激痛。鼻腔から湧き出す赤い雫。

 空を仰ぎ見ながら、それらの事象を他人事のように感じ取る僕。

 今、何が起こったんだろう。なんでこんなに痛いんだ。なんで鼻血まで出てるんだ。


 呆然とした頭で考える。

 小室の手が閃いたと思った瞬間、顔面に何か硬いもので打ち付けられたような衝撃が走った。そして今、鼻血を散らしながら仰向けに倒れようとしている。

 手が閃いた瞬間、鼻血を散らして倒れる――その現象には既視感があった。

 忘れもしないあの時。僕と桜乃さんを助けてくれたあの青年が使っていた、拳が閃くような凄まじく速いパンチ。


 まさか、あれは――


 小室の使った技の正体についてほぼ確信に到ると同時に、背中から地面に倒れた。その衝撃で、僕の意識が現実に引き戻される。


「うう……っ!?」


 そして、顔面の痛み、鼻腔から流れる生暖かい鮮血が、全て自分の身に起きている事であるということをとうとう認め、涙目で苦悶した。


 鼻を押さえて血の流出を止めながら、僕を見下ろす小室を睨み上げる。ニヤついた顔をしていた。


「俺が今何やったか、分かっかよ?」


 楽しげな口調で問われた僕は、よろよろと立ち上がってから返答した。


「……ジャブ……」

「へえ? もう気づいたのか。もう少し時間がかかると思ってたけどな。仰る通り、さっきのは旧派、ボクシングのジャブだ。俺の東流七星術にはスピードのあるパンチが少なくてよ、補強する形でジャブも鍛えてたんだよ」


 小室は右拳をさすりながら、さらに続ける。


「あれだけ反撃されたのには正直驚いたぜ。けど、別に大したことでもねぇ。それに、さっきも言ったよなぁ? テメェには弱点があるってよ」

「なんだ、それは……?」

「テメェと俺には圧倒的リーチ差がある。だからタッパの小せぇ自分から突っ込むのは自殺行為だと、テメェは考えたんだろうよ。確かに賢い判断だがよ、テメェはその分、後から攻撃することしかできなくなる。防いだり避けたりしてから反撃する――今まで俺が浴びせられたのは全部そういった技だ。そういう攻撃しかして来れないと分かれば対処は簡単だ。対処が追いつかないほど素早い攻撃をぶち当ててやりゃいい。だから俺はジャブを使った。それでもってこれからも使い続ける。もうテメェに反撃なんざさせねぇ。そんな屈辱はもう絶対受けたくねぇからな……何もできずにブッ倒れやがれッ!」


 両脇を締めて拳を構えた小室が、再び急迫してきた。


 慌てて構えを取る――前に、頬へ鋭いジャブがぶち込まれた。

 強烈な衝撃に世界が明滅し、足から力が抜けそうになる。だが僕は踏ん張り、おぼつかない足取りで数歩退いた。

 なんて速いパンチだ。ほとんど目で追えない。それに威力も十分ある。

 受け流せない避けられない以前に、対応が追いつかない。おまけにパンチを打った後にすぐ拳が引っ込むため、捕まえることもできない。実に厄介な攻撃だ。


 そうこう考えている間にも、怒涛の連続ジャブが襲いかかり、体のあちこちに鈍い痛みが走る。


「ハハハハハハッ! オラ、どうしたよ!? 頑張れよ藍野! ホラホラ、愛しの茉莉さんが見てるぞぉ!? クハハハハハハ!!」


 小室は僕を何度も殴りながら、心底愉快そうにそう言ってくる。


 やり返したいが、一発当てるたびに別の位置へ移動するというヒットアンドアウェイで仕掛けてくるため、ジャブの速さも込みで対処に非常に困っていた。


 次々と絶え間なくやって来るジャブ。ジャブ。ジャブの嵐。僕は為す術なくそれを浴び続け、気力と体力をガリガリと削られていった。


 そして、突然ジャブが止んだ。


 殴られている最中ずっと閉じていた目をゆっくりと開くと、懐に小室の姿。

 右足を後ろへ引いて腰を深く落とし、右拳を脇に構えた姿勢。

 見覚えのある体勢だった。


 マズイ、これは――!




「――グッナイ」




 小室が右拳を一閃させてきた。


 一見何の変哲もない正拳逆突きだが、その鋭敏さは群を抜いていた。はっきりと聞こえてきた「シュビンッ」という風切り音からも、その突きの鋭さと疾さが容易に伺える。

 右足・右膝の伸び、股関節・腰の捻り、右の肩・肘・拳の進行――それら「七星」の運用を同時に行うことで、七つの運動エネルギーを一つに合力し、迅速かつ強大な一拳を打ち出す技。


 その一撃『七星合一砲』が、僕の腹に深々と食らいついた。


「ウグゥッ――――!!」


 気持ち悪いとさえ感じるほどの激烈な痛みを受けると同時に、僕の体は直撃箇所を中心にくの字にひん曲がり、そこからまるで弾かれたような勢いで後ろへ吹っ飛ぶ。


 何回も地面を後転し、八メートルほど切り離されたところでようやく仰向けになって止まった。


 すっかり砂埃にまみれた僕は胎児のようにうずくまり、打たれた場所を押さえながらゲホゲホと激しく咳き込んだ。腹にはまだ不快感のようなものがとり憑いたみたいに残留しており、目には意思とは関係なしに涙が浮かんでくる。


「ハッハッハッハッハッ!! そう、それだよ! ボッコボコにやられた後のその姿が、テメェにゃ一番お似合いだ!! どんなに頑張ったって滑稽! ただ誰かに何かを力づくでられんのを待ってんのが宿命! そういう星の下にテメェは生まれてきたんだよ!! もう降参しろよ。んでもって神楽坂センパイ――いや、「茉莉」は俺がもらってってやるよ。だからホラ早くギブしろよギブゥ!」


 降りかかって来る小室の嘲笑と侮辱に、僕は切歯扼腕する。


 ほらみろ、勝てなかったじゃないか。惨めな思いと痛い思いをセットでしただけだ。

 そもそも、僕みたいなチビで非力な奴が、小室に勝とうなんて夢物語なんだ。そう考える時点でおこがましいことだったんだ。なのに茉莉さんはそんな変えようのない現実を、非科学的で確証のない精神論で無理矢理捻じ曲げようとした。その結果がこのザマだ。これは貴女のせいだ。こんな勝負、最初から受けるべきじゃなかったっていうのに――!

 そんな責任転嫁に等しい抗議の意思を込めて、後ろに離れた場所で立っている茉莉さんに目を向けた。


 しかし、僕は思わずその目を大きく見開いた。


 茉莉さんの浮かべていた表情は、僕が負けたことに対する失望でも、これから自分に降りかかるであろうペナルティへの憂鬱感のいずれも表していなかった。


 あるのは、堂々と自信に満ちた笑み。やせ我慢の色は微塵も感じられず、ただただ誠実な眼差しが漆黒に光り、僕をしっかりと捉えていた。


 まだ――信じているのだ。僕の勝利を、僕が最後に立っているという結末を、彼女はまだ信じてくれている。少しも疑っていない。


 虚脱しかけていた四肢に、僅かながら力が湧いてきた。

 そうだ。まだ諦めるな藍野英助。

茉莉さんが課したとんでもない修行にさえ、お前は懸命に食らいついたじゃないか。前の部員に出来なかったことを、お前は人一倍貧弱であるにもかかわらず見事にやって見せたんだ。だからそれと同じようにあがいて見せろ。できるはずだ。振り絞れ。

 守りたいものを守る以前に、まず自分を守れないようじゃ話にならないんだ。


 僕は少し時間をかけ、ゆっくりと立ち上がった。その様は足腰の弱いお爺さんに似ていたが、それでもまた立つことができた。


 生まれたての小鹿のようにおぼつかない足腰を、気合いとともにどっしりと磐石にする。


 小室は一瞬驚いた顔をしたが、それはすぐ企むような笑みによって掻き消える。


「……へぇ? まだ立つのか。ちったぁタフになったじゃん。まあ、また寝かすけどね」


 そう言って、ゆっくりと近づいて来る。


『大丈夫。君は勝つわ。あたしはそのための方法や理屈をすべて君に叩き込んだ。それを思い出して戦いに臨めば、君の勝利は約束されたようなものよ。賭けてもいいわ』


 不意に、茉莉さんの言葉を思い出した。


 そうだ。よく考えろ。僕は修行の中で何かヒントをもらってるはず。受けた教えを思い出し、それを探れ。その先に、勝機が見えるかもしれないんだ。


 僕は思考をフル回転させ、ここ一週間少々の間に茉莉さんから受けた教えの数々を、まるでおもちゃ箱をまさぐるように必死に調べた。


 そして、小室との間隔が二メートルを下回った瞬間、ビンゴを二つ引き当てた。






『全ての武術の動作は足が命。その足腰が貧弱じゃお話にならないわ』




『はっきり言うとね、神楽坂式骨法みたいに基礎力を徹底的に鍛え上げる武術って、今の世の中にはあんまり無いの。いくら武術が盛んになったからといって、現代人が時間的余裕に乏しい事実は昔とあまり変わりない。修行に費やせる時間や労力は自然と限られてくるの。おまけに今の世の中は飽きっぽい人が多い。そんな人たちが、地味で苦しい基礎修行を長く続けられると思う? だから多くの武術道場はそういった人に合わせて、望む人以外には地道な基礎修行は課さず、多くの技を詰め込むように教えるの。苦痛はほどほどに、それでいて飽きられないように教える技のバリエーションは多くする。そうしないと門下生が集まらないからね』






 茉莉さんが以前に口にしたそれらの台詞に僕は着目。その上でそれらを突き詰めて考え、そして――到った。


 一つだけある。小室を倒す方法が。

 予想が正しいなら、「この方法」で攻めれば勝つことができるはずだ。


 そうと決まれば善は急げ。僕は両前腕部同士をくっつき合わせ、顔と胸の前に壁を作るようにした守りの体勢となった。


「ハッ、なんだよ? 何をするかと思えば。何? そのガード一辺倒な構え。万策尽きたって感じか?」


 何とでも言え。今の僕じゃこうすることでしかお前のジャブを防げないんだ。

 こう構えたのは、考えた策を成功させるために最も邪魔なジャブを封殺するためだ。


 僕はその構えのまま、小室に向かって突っ込んだ。


「ほらよ」


 そんな軽い掛け声とともに、小室の右手が一瞬ブレる。そして、ガードに使っている両腕に重い衝撃。ジャブを叩き込まれたのだ。


 僕はよろめきそうになるが、決死の思いでバランスを保ち、なおも進行を続けた。


 小室へ真正面から突っ込む――ことはせず、反復横とびの要領で一歩横へズレる。このまま真っ直ぐ進めば小室とすれ違う。そんな位置関係だった。


 そして僕はすれ違いざま、小室の向こう脛へ、ありったけの脚力を込めたローキックを叩き込んだ。


「ガッ――――!?」


 直後、苦しげな小室の呻きが耳に入った。

 しかし、一発だけで終わらせるつもりはない。すれ違って奴の真後ろへ来ていた僕は機敏にきびすを返し、再び小室めがけてダッシュ。そして今度はふくらはぎを思い切り蹴りつけた。


「~~~~っ!!」


 口を金魚のようにパクパクさせた悶絶の表情で、声なき叫びを上げる小室。


 しかし、僕はさらにローキック。

 再びローキック。もう一度ローキック。しつこくローキック。とにかくローキック。ローキック、ローキック、ローキックの嵐。

 最後の力を振り絞った僕の攻撃は、常に小室の足へと集中していた。


 しばらくすると、小室の両足はガクガクと震え、重心にぐらつきが生じ始めていた。


 ――思った通りだ。


 未だ構えたままの両前腕部の裏で僕は微笑み、茉莉さんの教えに心から感謝した。


 足を集中して狙うこと。それが僕の考えた策だ。

 全ての武術の基礎は足。足で歩法を行い、足で蹴りを放ち、そして足で体を支えて立っている。ならば、その足そのものを攻撃して、弱らせればいい。そうすれば移動速度が落ちるだけでなく、技を満足に出すこともできなくなるはずだ。


 しかも、茉莉さんはこうも言った。「今の世の中、神楽坂式骨法のように基礎力を徹底して鍛え上げる武術はあまり無い」と。

 僕はこの一週間少々の間で、全ての武術に共通する基礎力の一つである「足の力」を結構な水準で身につけた。東流七星術の道場が、小室にそういった地道な基礎修行を課していなかったとしたら…………僕と小室の脚力は互角か、あるいは僕の方が上になるかもしれない。


 そして、その予想は見事に当たった。

 鍛え上げた足の力を総動員して放った僕のローキックは、思いのほか効いていた。


 ガードを崩さず、反撃への警戒を怠らず、逐一立ち位置も変え、何度も、何度も小室の足を狙って蹴り続ける。


 そして、とうとう小室の下半身がガクッ、と崩れかけた。


 ――ここが攻め時だと、瞬時に悟った。


 地を力強く蹴って疾走。そしてその勢いを乗せ、ムエタイの飛び膝蹴りカウ・ローイを放った。やじりのように突き出された僕の膝が左鎖骨近くへ深く突き刺さり、その勢いに押されて小室はたたらを踏みながら後退。

 僕は着地してすぐに小室を追いかけ、今度は空手の正拳突きの一つ『順突き』を腹へぶち当てる。踏み込む足と同じ側の拳で突く技であるため、突き手には全体重が乗っかる。「拳を用いた体当たり」と形容してもいいかもしれない。


 小室は再び後ろへ押し流されるが、後ろ足を踏ん張り、必死で倒れまいとバランスを取った。


「っ……この、藍野風情がぁぁぁぁ!!」


 苦痛と憤激がないまぜとなったいびつな表情で右拳を振り上げると、もたついた足取りで僕に接近。前のめりに踏み出し、殴りかかってきた。しかし、力任せに出されたその拳は遅い。この戦いで速い攻撃を何度も見て慣れた今の僕にとって、避けるのにそう手こずるものではなかった。

 僕はやってきた奴の右腕に自分の右腕を滑らせ、パンチを後方へ流しつつ、二度目の膝斜め蹴りカウ・チアンを腹部へ刺すように入れる。肘や膝といった硬い部分を使った攻撃はダメージを与えやすいため、小柄で力の劣る僕には重宝する。


 さらに反撃は続く。僕は右手で小室の右腕を掴むや、そのまま背後へ移動。空いた左手で後頭部ごと奴の体を手前へ引き寄せる。

 そして、重心移動と同時に右手で顔面を押し出し、小室を背中から強く地面へ叩きつけた。合気道の『入り身投げ』だ。


「かはっ――!?」


 バタンッ、とはっきりした転倒音が響くほどの力で背を打った小室は、かすれた叫びを上げた。


 それからしばらく喘息のように咳を繰り返してから、小室は再び立ち上がろうと試みた。


「ぐふっ……藍野、テメェごときが、この……っ!」


 だが、いくら立とうとしても途中で失敗し、元の仰向けの寝姿勢に戻ってしまう。

 何度も立とうとするが、やはり結果は同じ。仰向けという楽な状態になってしまったことで、蓄積されたダメージが一気におもりとなってのしかかってきたのだろう。特に足が、あからさまにガクガクと笑っていた。

 僕はそれを、立って見下ろしている。


 実感が湧かない。

 だが、この結果の意味するところは、一つしかなかった。



 この『組手』は――僕の勝ちだ。




 それを確信した時だった。


「ざけんなよボケ!」「よくも小室を!」「ぶちのめせ!」「死にさらせやぁ!」


 今まで離れて見ていた四人の仲間が突然どよもし、こっちへ向かって走ってきた。連中の怒りの眼光は、僕に一点照射されていた。


 マズイ。もう僕は体力の限界だ。このままだと袋叩きにされる。


 そう焦った瞬間、一陣の追い風が横切った。


 そして気づいた時には、さっきまで遠く後ろにいたはずの茉莉さんが、いつの間にか三メートルほど前方に立っていた。やって来る四人を通せんぼするかのように仁王立ちしている。


 目の当たりにした奇妙な現象に、僕は驚きを通り越して呆然とした。

 茉莉さんは今、確かに前に立っている。だがそこへ来るまでの「過程」が全く視認出来なかった。後ろから素早く移動して来るのではなく、まるで茉莉さんの立つ座標位置のみを変えたかのような、そんな瞬間移動じみた動きに見えたのだ。


「止まりなさい」


 茉莉さんは静かに四人へそう告げた。


 四人は彼女の前で立ち止まる。


「んだよオイ、通せよ。「閃電手」だかなんだか知らねぇが、こっちは男が四人――」


 連中の一人が強気にそう言いかけた瞬間、茉莉さんの両腕の像に一瞬、ブレが生じた。


 途端、今までボタンの閉じられていた四人のブレザーが、手をつけていないにもかかわらず勝手にオープンとなった。連中は揃ってそれに驚きを見せる。

 よく見ると連中の制服からは、さっきまで付いていたはずのボタンがなくなっている。


「お探しのものはこれかしら?」


 茉莉さんが連中の一人の手を掴んで引き寄せると、その掌の上にジャラジャラと何かを手渡した。それはすべて、制服のボタンだった。

 僕はギョッとした。まさか、あの一瞬で四人全員のボタンを掠め取ったっていうのか。

 四人もそれを見て、すっかりおののいていた。


「倒れた仲間を連れて去りなさい」


 粟立つほど低い声色だった。


 瞬間、四人は慌てて小室を担ぎ、曲がり角の向こうへと逃げ去った。


 二人だけになるや、茉莉さんはくるりと振り向き、僕のうなじに手を回して抱き寄せて来た。


「やったぁー! 英くん、勝ったよぉー! あっははははははっ! おめでとー!」


 僕を強く抱きしめながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねて大はしゃぎする。


 一緒に喜びたかったが、僕はそれどころではなかった。茉莉さんのけっこう豊満な双丘の奥深くまで顔が埋まり、恥ずかしさと苦しさのダブルパンチを受けていた。ものすごい力であるため、逃れられない。それになんだか……脳がとろけそうなほどいい匂いがする。


「よしよし、よく頑張ったわ。いやー、あたしは信じてたぞぉ? 君なら絶対勝てるって。うふふ。よしっ、これから勝利祝いってことで、一緒に焼肉でも食べに行こっか! ご褒美にあたしが奢ってあげるわっ」


 茉莉さんは僕を離すどころか、嬉々としてさらに強く抱擁した。


 ぐおおおおお!? 苦しい! 息できないよぉ!






 ――この日、僕は薄氷の勝利を掴み、茉莉さんのおっぱい攻撃に殺されかけた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る