第三章 実戦デビュー①

 ――ひたすら姿勢に気を配った。

 ――ひたすら中腰で立った。

 ――ひたすら蹴りを放った。


 茉莉さんの課してくる過酷な修行メニューを、僕はフルスロットルで突っ走るスポーツカーにしがみつくような必死さでこなし、そして懸命に食らいついた。

 ランナーズハイだったか? 苦痛もしつこく頻繁に味わい続ければ脳内麻薬の影響で快感へと変わっていくのだ。話には聞いた事があるが、僕は茉莉さんとの修行で初めてそれを体感した。それは裏を返せば、それだけ厳しい修行だということだ。


 気がつくと、修行初日から一週間が経過していた。


 この時すでに、修行中に茉莉さんに間違いを指摘される回数も最初と比べて結構減っていた。彼女の指導を必死に墨守していた甲斐があったというものだ。

 だが僕的にはそのことより、某DVDのブートキャンプが可愛く思えるほどの過酷な修行に一週間も耐え抜いたことの方がよっぽど嬉しかった。自分は何を始めても途中で落伍してばかりで、ここまで物事が続いたことがなかった。ゆえにここ一週間の時間が、これからの修行を続けるための自信と活力になりつつあった。


 そして僕は今日も、学校近くのうらぶれた公園で茉莉さんの指導を受けていた。


「――はい、そこまで。少し休もっか」


 茉莉さんの休憩の合図を聞くや、僕は崩れ落ちるような勢いで地面に尻を落とした。

 そのまま背を丸め、間隔の短い呼吸を繰り返す。鼻や髪の先端から地面へ落ちる汗の雫をじっと眺めながら、度重なる蹴りの反復練習によって疲労を訴える脚部を励ますようにさすった。

 左胸に砂城高校の校章がプリントされたTシャツは、大量の汗を吸って重たくなっている。制服でやると汚れてしまうため、修行を開始した日以降は、学校指定のシャツとジャージのズボンに着替えて修行していた。


「お疲れ様、英くん。はい、コレ」


 茉莉さんがにこやかに笑みを浮かべながらスポーツドリンクを差し出してきた。先ほどまで僕に喝を浴びせていた鬼コーチはなりを潜めており、親切で美人な先輩がそこにはいた。


 僕は「い、いただきます」とおずおず告げて受け取ると、キャップを開け、ボトルの飲み口に唇をつけて一気に傾けた。少し痛いくらいの冷たさを持った液体を喉へ通すたび、全身の熱が引いていく。

 今までの修行のハードさに比例したのか、ボトルの中身を飲み干す時間も二十秒と非常に早かった。

 僕の持っていた空のボトルを受け取り、それを十メートルほど先のゴミ箱へ華麗に放り込むと、茉莉さんは僕の頭を撫でながら、


「いいわよぉ。英くん。最初の日に比べるとだいぶ良くなったわ」

「そう、ですか……?」

「うんっ。『立禅』の時も姿勢が崩れにくくなったし、蹴りの練習でも足の動きからぎこちなさが消えてきたし。よしよし、頑張った頑張った」


 さらにくしゃくしゃと僕の頭髪をかき回してくる茉莉さん。その顔はなんだか嬉しそうだった。


「わぁぁ…………あ、あの茉莉さん、今僕の髪汗まみれだから……その……」

「いいっていいって。あたしは気にしないから。それに英くん全然臭くないもの」


 いや、そこは気にした方がいいと思う。年下とはいえ男の汗だよ? 女の子なら普通は嫌がるものじゃないの?

 一緒にいる機会が増えて分かったけど、茉莉さんは細かいことを気にしない性格みたいだ。大雑把だが、その分、そこらの男よりずっと頼もしく感じる。桜乃さんが「かっこいい」ともらした理由が少し分かった気がした。


 …………いけない。桜乃さんの事を考えるのはしばらくやめよう。考えるたびに失恋した時のショックがぶり返しそうだ。


 僕は思考を切り替え、何もせずにまったりと束の間の休憩時間を過ごす。

 すでに空は夕日が沈みかけ、暗くなり始めている。だがこの公園には街灯があるため、夜になっても比較的明るい環境で修行ができるのだ。茉莉さんもその点に着目し、ここを選んだのかもしれない。

 今日を含め、平日には放課後の時間を使っているが、休日は午前中から正午までをたっぷり費やして修行に励んでいた。もちろん、場所は同じくこの公園だ。


 しばらくすると、茉莉さんが僕の肩をポンと叩いて休息の終わりを告げてきた。


 僕は疲労で重くなった下半身に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がる。その時、教えられた正しい姿勢に全身を整えることを忘れない。その癖がついたためか、一週間前と比べてだいぶこの姿勢が体に馴染んできた。


 すでに『立禅』と「蹴りの反復練習」という二つの修行メニューを終えている。これからやる三つ目の練習が最後であり、内容は一つ目と同じく『立禅』。それがここ一週間ずっと続けている修行内容だった。

 今日も変わらず、そのルーチンに従うのだと思っていた。

 だが茉莉さんが張り切った様子で次に発した一言は、そんな僕の予想を裏切った。いい意味で。


「よし英くん、これから――技の訓練を始めましょ!」


 その言葉の意味を完全に理解するのに、五秒もかかってしまった。


「え、ええ!? いいんですか!?」


 狼狽を交えて訊いた僕に、茉莉さんは微笑んで首肯してから、


「何度も言うけど英くん、君は頑張ったわ。ここ一週間、逃げずにあたしの指導について来てくれた。そして、その成果はきちんと出てる。君の『骨』の練度は、その一週間の努力で飛躍的に上昇したわ。ギリギリ及第点って感じだけど、今はそれだけあれば十分よ。よって、これからは『骨』を鍛える修行と並行して、いろんな武術の技を教えるわ。『骨』を鍛えたことで高まった習得スピードを活かして、多くの技を覚えてもらう。いいわね、英くん?」

「はいっ! 頑張ります!」

「ふふふ、よろしいっ。それじゃあ、始めましょう」


 茉莉さんは腰に手を当て、意気込むように一息つく。


「本当ならジャンル問わず、無差別で一気に十個くらい技を覚えさせたいところだけど……その前に、まずは英くんの弱点の補強することを考えたいと思う」

「弱点、ですか?」

「うん。言うのはちょっと気が引けるんだけど……君は体が小さいわ。そして、小柄な人はリーチ的にも重量的にも、大柄な人よりもやっぱり劣ってしまう。だから自分よりも体の大きな人と同じ土俵で戦うには、それを補うための技術が必要になるの。回避する技術と、防御する技術がね。それがなきゃ、どんな強力な技だって届かないわ」

「つまり、僕がまず覚えるべきなのは、避ける技と防ぐ技、ってことですか?」

「そう。英くんにはその二つを中心に置いた上で技を習得していってもらうわ。それじゃあまず『三才歩さんさいほ』を教えるから、よく見ててね」


 そう区切るや、茉莉さんは右足を半歩退き、そちらへ重心を乗せて立った。腰を控えめに落とし、体の左半分を前に出した左半身(はんみ)の立ち方だ。

 その姿勢から、左足を左斜め前へ軽やかに踏み出し、そこへ全身を引き寄せて重心を移す。そこから素早く体の右半分を前に出し、さっきとは逆向きな右半身の立ち方となって静止した。


 そして、茉莉さんはゆっくりと直立姿勢に戻り、こちらへ歩み寄って来た。


 言われた通りしっかりと見ていた僕は、その動きのシンプルさゆえに物足りなさを感じてぽかんとしながら、


「……それだけ、ですか?」

「そうよ。これが『三才歩』。中国拳法でよく使われる歩法の一つ。一見簡単な動きに見えるけど、結構バカにできないのよ? 英くん、あたしに向かって腕を伸ばしてみて」


 僕は「こうですか?」と茉莉さんの胸――はマズイからお腹辺りに右手を伸ばしてみた。腕を伸ばしきらなくとも、余裕で届く距離だった。


 だが、その手が茉莉さんに触れる直前だった。

 彼女の姿が、その場から煙のようにフッと消えた。

 慌てて視線を左右に巡らせると、伸ばされた僕の右腕の側面にて右半身の構えで立つ茉莉さんが目についた。彼女はその構えのまま右拳をこちらへ伸ばしており、その拳は――僕の右脇腹で寸止めされていた。


 僕は再びぽかんとする。だが今度のソレは物足りなさからではなく、驚きから出たリアクションだった。


「――とまあ、『三才歩』はこんな具合で用いるの。相手の攻撃を躱しつつその攻撃のリーチの範囲内に侵入し、そこから反撃につなげる。君みたいに腕のリーチが劣る子にはピッタリな歩法だと思うわ。どう? やり方は覚えた?」


 僕は満足げに「はいっ」と頷いた。


「よろしい。これはあとで反復練習してもらうからね。じゃあ次の技を教えるわ。今度は太極拳の『懶扎衣(らんざつい)』という技。これは便利だから覚えることを強く推奨するわよ。英くん、あたしに殴りかかってきてごらん? 本気でね」


 茉莉さんの突拍子のない提案に、僕は恐縮しながら返した。


「で、できませんよ! 女の人にそんな!」

「うふふっ、女の子扱いしてくれてアリガトね。でも、武術の世界で性別の違いは関係ないわ。例えば、男が女を相手に試合で手加減したとする。普通なら紳士的と褒め称えられるような行動かもしれないけど、武術の世界ではそれを侮辱と取られることも少なくはないの。だから本気で殴りかかって来なさい。大丈夫よ。パンチが当たっちゃったとしたら、それはあたしの未熟さが招いたことだから君は悪くない。それに――今の君じゃ、あたしにクリーンヒットを与えることは決してできないわ」


 最後の台詞を言った時の彼女の笑みには、妙な凄みを感じた。

 思わず唾を飲み込む。このひとは「閃電手」などという大層な二つ名を持つほどの使い手だと聞く。ならば、女性ながら武術の腕もそれなりのものだろう。


 僕はその実力の存在を信じることにし、キッと表情を引き締めた。


「分かりました。それじゃあ、遠慮なく行かせてもらいます」


 茉莉さんは快くコクリと頷いた。


 僕は少しばかり距離を離してから、一気に地を踏み切って瞬発する。

 ダッシュで勢いをつけ、あっという間に肉薄。そして握り締めた右拳を茉莉さんめがけて振り出した。

 走行による慣性を得た拳が、一直線に彼女の顔面へと迫る。


 だがヒットする直前、茉莉さんの細くなめらかな左腕が僕の右拳を下からすくい上げ、そのまま反時計回りの円運動に巻き込んだ。

 そしてその円運動が一周した刹那、茉莉さんは巻き取った僕の右腕をもう片方の手に持ち替え、フリーとなった左腕の肘をこちらの右脇腹に寸止めさせた。


 ……僕は総毛立った。動作の工程こそ多かったが、今の寸止めの状態に到るまでに一秒もかからなかった。なんという早業だろう。


「これが『懶扎衣』。円運動で相手の突きを受け流してからすぐさま反撃へと転じる技。太極拳らしく「後の先」に特化した技で、今やってるのこそ肘打ちだけど、実際はいろんな攻撃法へと変化させて、反撃が加えられるの」


 茉莉さんは今なお僕の右腕を捕まえたまま、空いた左腕でその「いろんな反撃」を実践してみせる。

 円弧を描く軌道で鎖骨の辺りへ手刀打ち。

 掴んでいる右腕を引き寄せ、同時に向こう脛へ踏むような蹴り。

 こちらの右腕の肘を左手で押さえ、関節極め。

 そして最後に――左肩を用いた体当たりで僕を吹っ飛ばした。


 計五種類の反撃パターンを体感した僕は地面を派手に転がり、仰向けで停止した。下が土だからか、転がってもそれほど痛くはなかった。


「ごめんごめん。大丈夫? これでも手加減したのよ」


 茉莉さんがすまなそうな顔をしながら駆け寄り、手を引いて助け起こしてくれる。


 パンパンと服についた土を払う僕を見つめながら、気を取り直したように再度口を開いた。


「まあ、こんな感じで『懶扎衣』は相手の攻撃を防いでから、あらゆる方法で反撃が加えられるのよ。変化が多彩な上、パターンが複数に分かれてる分次の手を読まれにくい。まさに五徳ナイフのような技! この『懶扎衣』に限らず、中国拳法の技は攻撃を防いだ後に様々な変化を用いて対応できるものが多いから、ワンパターンになりにくく、変幻自在の攻防が可能なの」


 僕は頷いて納得した意思を伝えると同時に、ふと、ある点に気がつく。


「そういえば、まだ二つだけですけど……今見せてもらった技って全部中国拳法の技ですよね?」


 素朴な疑問をそのままぶつけるや、茉莉さんは「よくぞ聞いてくれた!」とばかりに人差し指をこちらへ向けてきた。


「その通りよ。考えた結果、君には中国拳法の技術を中心にして技を覚えさせた方が手っ取り早く強くなれると思ったの。有名な中国拳法の達人には、君くらい小柄な人物も少なくない。「不要二打二の打ち要らず」と謳われた李書文はほとんどの相手を一撃で殺してきたことで有名だけど、その身長は一六〇センチ程度。君とそれほど変わらないわ。日本武道にも低身長な達人はいたけど、中国ではもっと多い。それはつまり、中国拳法には体格に恵まれていない小柄な者でも強くなれる技術がたくさんあるからに他ならないのよ。だから英くんには、そういった技術や技をたらふくその体に吸収してもらいたいと思い至ったの。分かった?」


 僕は感動のようなものを覚えた。


 彼女の言葉からは、ただ闇雲に技術を詰め込もうとしているのではなく、僕のことを真剣に考えて教えようとしていることがよく伝わってくるからだ。


 茉莉さんの指導に対する熱意を改めて感じ、心中に「頑張らなくちゃ」という前向きな気力が湧いてきた。この人の期待に応えたいと、そう思えた。


「はい! 僕、茉莉さんのためにも頑張ります!」

「ふふっ、ありがと。でも、あたしのためじゃなくて、自分のために頑張りなさいね」

「そ、そうでした。はははっ」


 僕の恥じらうような笑いを確認すると、茉莉さんは腰に手を当てて快活な笑顔で言った。


「じゃあ英くん、まずはこの二つを繰り返し練習して覚えてもらうわ。『骨』の修行同様、一切の妥協点も許さないから覚悟しなさいね? しごきまくってあげるから」


 僕は力強い首肯とともに、覇気を込めて返事をした。


 できる。絶対に続けられる。

 今までは何に対しても長続きしなかったが、今回はきっと大丈夫だ。

 だって、厳しいけど、こんなに弟子思いな先生がいるんだから。





 ◆◆◆◆◆◆





 それから、さらに三日が経った。


 ちょうど登校してきたばかりだった僕は、朝の学校の廊下を一人歩いていた。

 少し早く来てしまったせいか、素通りする生徒の数は少ない。逆に部活の朝練のためか、外からは高らかな掛け声やボールの弾む音が聞こえ、人の活気が盛んであると見ずとも分かる。


 そんなサウンドを他人事のように耳に入れながら、歩みを進める。


 階段の踊り場まで来た事を確認すると、僕は周囲をキョロキョロと見回した。

 誰もいない事を確認すると、鞄を近くの壁際に置き、踊り場の中心にしっかりと立った。


 ふう、と静かに一息つき、心を落ち着ける。姿勢に生じていた微細な歪みを確認し、それをあるべき位置へと修正する。両足の土踏まずに自重が集中し、立ち方にピラミッドのような磐石さが生まれる。


 それを確認すると、僕は「歩法」を開始した。

 爪先を体の「外側」へ向けた状態――『擺歩はいほ』で左足を踏み出す。

 次に、爪先を「内側」へ向けた状態――『扣歩こうほ』で右足を前に出す。

 そこからさらに左股関節を外側へ回し、反時計回りに身を翻すと同時に『擺歩』となった左足を出す。その後、すかさず右足による『扣歩』で一歩進む。


 ――それ以降も、上記と同じサイクルで足さばきを繰り返す。


 『擺歩』、『扣歩』、『擺歩』、『扣歩』、『擺歩』、『扣歩』、『擺歩』、『扣歩』……二つの歩法を絶え間なく交互に行うことで、僕は小さな範囲の中をグルグルと周回して歩き続ける。

 その様子は、格好良く例えれば「とぐろを巻いて動く龍」のようで、ちょっと格好悪く例えるなら「自分の尻尾を追いかけて周り続ける犬」のようであった。


 これは昨日茉莉さんから教わった、中国拳法「八卦掌はっけしょう」の基本歩法である『擺歩』と『扣歩』だ。

 片足に『擺歩』。もう片足に『扣歩』。その二つを交互に連携させて、爪先で敵の足を払って転ばせたり、回転運動によって敵の周囲へ踊るようにまとわり付いたり、攻撃を受け流したりなど、あらゆる戦法へと応用させることができる。


 昨日は『擺歩』『扣歩』の交互転換によって、狭いスペースを何度も周回する練習をさせられた。今やっているのがまさにそれだ。


 後ろの曲がり角の奥から人の足音が近づいてくるのを確認すると、すぐに歩法をやめ、鞄を持って階段を上がり始めた。武術が普及した世の中とはいえ、コレを人前でやるのは少し恥ずかしかった。


 階数を進めながら、僕は自分の手をじっくり見つめていた……不思議そうに。


 先ほどの『擺歩』と『扣歩』は、股関節と骨盤のコントロールを少しでも誤ると、すぐにバランスを崩してしまう難しい歩法だった。僕も最初は何度も失敗して転んだ。そして、これを身につけるには時間がかかると感じ、これから長い時間をかけてゆっくり完成へと近づけようと思っていた。

 だが不思議なことに、茉莉さんに言われた注意を守りながら行うにつれて、重心が崩れて尻餅を付く回数が徐々に減り、やがて一度も失敗することなく歩けるようになり、その流れがずっと続いた。

 そして最終的に、さっきのような快調さで行えるようになった。


 昨日まで全くその歩法を知らなかったことを考えると、驚異的な吸収力だ。特に中国拳法の技は覚えるまで長い年月を要すると聞いたので、余計にそう感じた。


 しかも、異様なスピードで覚えた技はこの歩法だけではなかった。


 中国拳法だけでなく、空手やムエタイ、合気道といった武術の技も教えられた。


 その多くはやはり、一日やそこらで覚えられるものではない動作が多かった。だが『擺歩』と『扣歩』同様、次の日の朝を迎える頃には、たいていの技や動作が楽々と出せるようになっているのだ。


 これまでしたことのない難しい動きが、たった短時間でまるで慣れ親しんだような動きとして体の芯までインプットされていく。その習得スピードは凄いを通り越して、不気味とさえ思った。


 そしてその結果、僕の体にはすでに――三十種類以上の技が染み付いていた。


 原因ははっきりしている。

 『骨』の修行によって、体が技を覚える速度が急速に上昇したのだ。

 最初は「覚えが早くなる」程度の認識しかしていなかったが、実際に体感し、その程度の甚だしさがよく分かった。

 これは速達なんてレベルを余裕でぶっちぎっている。まるで武術の教本の内容を、そのまま僕の体という名のまっさらなコピー用紙にプリントアウトしているかのようだ。運動センス皆無なはずの僕が、短期間でこれほど多くの技を身に付けられた。この事実がそれを雄弁に物語っていた。


 だが逆に考えると、あの拷問とさえ思えるような『骨』の修行を切り抜けた成果が、きちんと現れているということ。

 そう考えると、感じていた不思議さは嬉しさへと変わった。

今の僕は、もう今までのひ弱なだけの僕とは違う。苦行を乗り越え、その確かな見返りを手にした。

 今の僕なら、もしかして小室を倒せるかも――。


「……いや」


 考えかけて、本能的に思考を止めた。

 何を考えているんだ。思い上がりもいいところだ。

 確かに僕は以前より強くはなったかもしれない。でも、小室に比べればやはり武術の年季が浅すぎる。


 おまけに、奴はケンカ慣れしているのだ。

 いくら武術の技巧が優れていても、僕には実戦経験が足りない。僕にあるのは「こうきたらこう返せ」という雛形的な方法論だけだ。その点で差があるため、小室に勝てるとは思えない。


 それに、修行で味わう苦痛と、殴られて味わう苦痛はモノが違う。

 茉莉さんは修行中に言っていた。「武術の修行は確かに苦しくて、時に痛いわ。でも、誰かに殴られるのはもっと痛いわよ。だから殴られないように修行を頑張るのよ」と。殴られ慣れていた僕もそれは承知だった。そしてそれを考えると、どうにも二の足を踏まずにはいられなくなる。


 でも、このままウジウジしていても、小室のイジメやパシリから脱却することはできない。きっと卒業式まで搾り取られる。あいつはそういう奴だ。

 脱却はしたい。でも痛い目にあうのは嫌だ。

 臆病さから来るジレンマだった。

 

 はぁ、と深いため息をつく。小室のご機嫌伺いは、もうしばらく続きそうだ。

二階の踊り場へとたどり着いた時だった。


「おっはー、英くんっ!」


 そんな無駄に陽気な掛け声とともに、背中にバシッと平たい衝撃が走った。


「けほっ、けほっ……!」


 不意に訪れたショックに思わずむせ返る。なんなんだ。


「やーねぇ、男の子でしょ? ヨボヨボの爺さんじゃないんだからそのリアクションはないんじゃない?」


 見ると、すぐ隣には呆れ笑いを浮かべた茉莉さんが立っていた。そして僕の背中には、彼女の掌が添えてあった。さっきの衝撃は紅葉張り手を食らったせいだったのだ。


「あ、ほら、猫背になってるわ。それと頭が少し左に傾いてる。きちっと直さないと」


 そう言いながら、茉莉さんは僕の姿勢をきびきびと整えてくれる。

 間近に迫った彼女の顔に、僕は不覚にもドキリとする。いや、もう修行で少しは慣れたはずなのだが、こういう普通の生活空間で近づかれることはあまりなかったため、なんだか未知の体験みたいに感じてこそばゆかった。


「はい終わり。さ、行きましょっか。途中まで一緒でいいわよね?」

「あ、はい。構わないです」


 僕が了承したことを合図に、二人横に並んで階段を再度登り始めた。


 僕ら一年生の教室があるのは最上階である五階で、茉莉さんたち二年生はそのいっこ下の四階だ。僕らが別れるとしたら、四階の踊り場だろう。


 かつ、かつ、かつ、と、ゆっくりだが規則正しいリズムで段数を詰めていく僕ら。


 その最中、僕は茉莉さんの方を横目に見た。

 真の美人はどの角度から見ても美しいというが、彼女はまさにソレだった。

カッティングした黒曜石を眼窩にはめ込んだような漆黒の瞳、透き通った鼻梁、桜の花びらのような薄紅色の唇。黒い絹糸をまとめたような長く綺麗な黒髪が、一つ結びにされた上で背中へしなやかに垂れている。背筋に棒でも入ったかのように姿勢の整った体躯は、細身だが女性的凹凸に富んでおり、制服を内側から押し返して柔らかそうな山を作っている。


 こんな綺麗なお姉さんに手取り足取り教わっているのだと僕は再確認し、そして、その美貌に見とれてしまっていた。


「あ、あのー、英くん? どったの?」


 だが、茉莉さんの引きつった笑みを捉えたことで我に返った。


 ……いけない。最初に会った時と同じ失態を犯してしまった。


 僕は素直に頭を下げて、


「す、すみませんっ。何でも無いです」

「いいけど、女の体をジロジロ見るのはあんまり良くないわよ? 誤解されちゃうわ」

「ほ、ほんとごめんなさい。変な意味は無いんです。その……見とれてただけで」

「や……やだぁー! 英くんお上手なんだから―!!」

「はぎょぷっ!」


 茉莉さんが恥ずかしそうに放った張り手が頬っぺたに命中。僕は奇怪な呻きを上げて端っこの手すりへ吹っ飛んだ。


「んもぉー、オーバーリアクションねぇ」


 今のは僕じゃなくてもこうなったと思う。


 茉莉さんに助け起こされ、二人並んで階段登りを再開。


 そして、三階の踊り場に到達した時だった。


 まとまった柔道着を背負った男子数人が、階段を勢いよく駆け下りてきた。おそらく柔道部員で、これから朝練にでも行くのだろう。


 彼らはすれ違いざま茉莉さんへくわっと目を向けるが、勢いそのままに下降を続け、あっという間に下層へと消えていった。


 一瞬だが茉莉さんを見た彼らの目は、女性に見とれるソレだった。僕はそんな彼らに共感を感じる。やはり他の目から見ても綺麗な人のようだ。


「行きましょうか」


 そう言って、茉莉さんの方を向いた。


 だが彼女の表情からは、先ほどのような明るさが消えていた。


 どこか切なげな顔で、去っていった柔道部員たちを見送っていた。


「茉莉さん?」


 僕がそう声をかけると、茉莉さんはハッとしてこちらへ振り向き、


「あ、ご、ごめんね英くん。どうしたの?」

「その、茉莉さんの様子がちょっと変だなって思って。どうかしたんですか?」


 茉莉さんはしばし押し黙ってから、ゆっくりと口を開いた。


「えっとね……柔道部は人が多くていいな、って思ったんだ」


 その言葉の真意を読みかねて僕はぽかんとするが、すぐに補足説明を始めてくれた。


「実はね、神楽坂式骨法研究会には英くんが来る前に――部員が三人いたの」

「……そうなんですか?」

「うん。でもね、全員入って一日で辞めちゃったんだ。あたしの修行があまりにキツ過ぎる、って」


 そうだったのか……。


「はっきり言うとね、神楽坂式骨法みたいに基礎力を徹底的に鍛え上げる武術って、今の世の中にはあんまり無いの。いくら武術が盛んになったからといって、現代人が時間的余裕に乏しい事実は昔とあまり変わりない。修行に費やせる時間や労力は自然と限られてくるの。おまけに今の世の中は飽きっぽい人が多い。そんな人たちが、地味で苦しい基礎修行を長く続けられると思う? だから多くの武術道場はそういった人に合わせて、望む人以外には地道な基礎修行は課さず、多くの技を詰め込むように教えるの。苦痛はほどほどに、それでいて飽きられないように教える技のバリエーションは多くする。そうしないと門下生が集まらないからね」


 茉莉さんは控えめに、だがそれでいて語気に静かな必死さを込めて続けた。


「でも、神楽坂式骨法はそれじゃダメなの。苦しい基礎修行を地道に重ねて『骨』を磨いてこそ、神楽坂式骨法は神楽坂式骨法なの。あたしは、大伯父様から受け継いだこの新派が好きだった。でも、部員のみんなには受け入れてもらえなかった。さらにみんなを介して修行の過酷さが知れ渡って、とうとう入部希望者は一人も来なくなっちゃった。あたしは気にしてないとばかりに笑顔で勧誘を続けてたけど、本当は悔しくて、寂しかった。あたしの大好きな武術が、世間に否定されたみたいで。だからね……」


 スッと、僕の頬にそのなめらかな手を添えてくる。


「英くんが「入部したい」って言ってくれて、頑張って一週間も続けてくれて、すごく嬉しかったんだ。ああ、ちゃんと受け入れてくれる人もいるんだって思えて、まるで奇跡みたいだった」


 澄み切った漆黒の双眸に、僕の顔がくっきりと映る。


「だからね――ありがとう、英くん」


 そして、茉莉さんはとびきりの笑顔を見せた。

 花が咲くような笑み、とはまさにこのことをいうのだろう。桜のような可憐さと、ヒマワリのような明るさが合わさった、極上の笑顔。会ってまだ一週間とちょっとだが、茉莉さんが今まで見せた中で文句なしに最高の笑みだった。


 それを目の当たりにした瞬間――心臓が胸郭を突き破らんばかりに跳ね上がった。


「え、えと、ど、どいたしまして」


 あまりの恥ずかしさから、カタコトのような呟きとなってしまった。

 顔が熱い。まるでお風呂あがりの時のように頬が上気している。真冬なら湯気を出せる自信があるくらいだ。

 こんな顔を見られたくない、俯きたい。でも、彼女の素敵な笑顔をもっと見ていたい。そんな思いから、目線の位置が固定されることとなった。


 そんな僕の様子に気づいた茉莉さんは、


「ん? どうしたの英くん? あー、もしかして、またあたしに見とれちゃった感じぃ?」

「へっ!? いや、その、えっと……!?」

「隠さなくてもいいのよぉ? ほれほれ、白状しろ藍野英助ー!」


 茉莉さんはいたずらっ子のような表情で、僕の頬っぺをあちこちへむにむに伸ばす。


「あはは、やわっこーい。お餅みたーい」

「ふぁ、ふぁへへふははひやめてくださいー!」


 僕はしばらくの間むにむにされ続けた。


 やがて茉莉さんが満足げな顔で頬っぺたから手を離し、


「……ふう。堪能堪能」

「酷いです……絶対頬っぺた伸びましたよぉ」


 頬をさすりながら涙目で抗議する僕。


「ふふふ、ごめんごめん。さ、そろそろ行こっか」


 茉莉さんは謝ると、そう進行を促してきた。


 僕も頬を膨らませながらもそれに頷き、歩きを再開しようとした――時だった。




「あれぇ? 藍野じゃねぇかよ。今日もタッパ小せぇなオイ」




 そんな声が、馬鹿にしたような響きをもって僕を呼びかけてきた。


 ――この声は。


 聞き覚えのありまくるその忌まわしい声は、今いる踊り場とつながった廊下側から聞こえた。僕は恐る恐る、そちらへ視線を移す。


 やはりというべきか、そこには思った通りの人物が立っていた。

 毛先から生え際まで金一色の毛髪。日本人離れして整っているが、瞳の奥に底意地悪さが見え隠れする顔。小室智司が、お馴染みの四人の仲間とともに仁王立ちしていた。


 僕は顔を背け、苦々しい顔をした。嫌な奴に会ってしまった。


 小室はドカドカとこちらへ歩み寄り、無遠慮な口調で言った。


「おいなんだよ藍野ォ? 俺は挨拶してやったんだぜぇ? お前も人の道守って挨拶返せよオラ」


 さっきの言葉で挨拶したつもりなら、お前は国語教育を一からやり直せ――そう皮肉ってやりたい衝動に駆られる。でもそれを言えばボコボコとまではいかなくとも数発は殴られるだろう。だから我慢して秘めておく。


「…………おはよう」


 蚊の鳴くような声量で、ぼそっと呟いた。お前と挨拶なんかしたくない。そんな意思を表すなけなしの抵抗だった。


 だが小室は納得していないのか、僕の向こう脛を小刻みに何度も蹴りながら吐き出してきた。


「ええぇ? なに? 聞こえねぇんですけどぉ? 俺の耳がジジイ化してんのかなぁ? そんなわけねぇよなあ? ならお前が悪い。ほら、もっぺん言えや……ん?」


 言いかけて、小室は僕の隣にいる茉莉さんへと目を向ける。


 途端、おべっかを使うような声色に変えて尋ねた。


「あれぇ? 誰かと思えば「閃電手」の神楽坂先輩じゃあねぇッスか。そんなとこに突っ立って何か用ッスかぁ?」


 茉莉さんは目を閉じたすまし顔となり、平坦な口調で返した。


「見て分からない? あたしはこの子と教室までご一緒してる最中なの。そこでアンタが止めた。だからこうやって立ち止まるハメになってるんだけど?」


 彼女の声には、皮肉るようなイントネーションが含まれていた。


 だが小室はそれ以外の点に注意が偏っていたようだ。


「……は? 誰と誰がご一緒?」

「だから、あたしと英くんが、よ」


 茉莉さんがうんざりしたように言う。


 途端、小室は信じられないといった半笑いを浮かべながらまくし立てた。


「は? マジ? リアリィ!? うわーありえねぇ! 豊島、新宿、文京の三区を制したという天下の「閃電手」様が、こんなワンパン一発でKOするような砂城高屈指の雑魚キャラと仲良くご登校ってかぁ?」

「あたしが英くんと一緒にいちゃおかしいわけ?」

「ミスマッチ過ぎんでしょうよ。しかも英くんとか馴れ馴れしい呼び方してるしよ……まさかとは思うが、あんた藍野とネンゴロってわけじゃねぇッスよね?」

「違うわ。あたしは英くんに武術を教えてるの。だから一緒にいることが多いだけよ」


 ひたすら淡々と答えていく茉莉さん。


 だが彼女の最後の答えを聞いた瞬間、小室は心底可笑しそうに爆発した。


「ギャハハハハハハハハハハハハハッ!! そーッスよね! そーッスよね!! あんたみてぇな上等な女が、こんなクソカスと付き合ってるなんて話無理があるッスよねぇ!? ありえねぇコト聞いてどうもスンマセンしたーーーっ!!」


 階段全体に響きそうなバカ笑いを上げながら、おどけた口調で侮辱の言葉をはっきりと放つ。


 ……僕は唇を噛み締め、拳を固く握り締めた。


「つーかぁ!? 藍野ごときが「閃電手」サマとツルんでること自体あっちゃならねぇコトでしょうよぉ!! コイツみてぇな奴はあんたの写真隠し撮りでもして、家ン中でハァハァ言って自分で自分を慰めてん方がよっぽどお似合いだっつーの!! もしかすっとコイツのケータイ、あんたの写真でいっぱいなんじゃないッスかねぇ!? クハハハッ!!」


 小室の嘲りの言葉が、無数のナイフとなって僕の胸に刺さっていく。


 歯にヒビが生えそうな力で切歯し、爪が食い込んで血が滲むほど握りこぶしを固める。


「てかあんたもさぁ、こんなゴミなんざ見限れよ。コイツは所詮、他人の言うことにホイホイ従う事しか能がねぇクズ野郎だ。目ぇかけるだけ無駄ってもんッスよ。よかったら俺と付き合わねぇッスか? 俺今前の女とバイバイしててフリーなんスよ。このゴミと俺、どっちが強ぇか、どっちが優れてるかなんて、わざわざ深く考えるまでもねぇよなぁ?」


 小室は僕を押しのけ茉莉さんに詰め寄り、そう口説きにかかった。


 奴の後ろにいる四人の仲間が、ゲラゲラと嘲笑する。


 僕はひたすら悔しかった。恥ずかしかった。

 奴の言い方がものすごく下品で乱暴で無礼であることは、わざわざ言うまでもない。

 だが、隠し撮り云々の話を除いて、あいつの言っていることはすべて本当なのだ。

 だから否定できない。言い返せない。そもそもそんな度胸もない自分が憎らしく、涙すら目に浮かんできた。それを項垂れることで隠す。


 不意に、茉莉さんがぽつりと口を開いた。だが小室に遮られているため、彼女の表情は見えない。


「……アンタは、英くんよりも強い?」

「決まってんでしょう」


 小室は何を言わんやといった感じでそう返す。


 次の瞬間、茉莉さんは、




「嘘ね。それは」




 はっきりとそう告げた。


 その淀みのない声音には、自分の意見を信じて疑わない、強い意思が込められている気がした。


 僕は思わず顔を上げる。

 予想外の反応をされて驚いたのは僕だけではない。小室も気圧されたように茉莉さんから後ずさる。


 そして見えた彼女の表情は、挑戦的に微笑んでいた。


 小室は多少狼狽えながら、


「は、はぁ? そりゃ、どういう意味ッスか?」

「そのままの意味よ。アンタは英くんよりも弱いってこと」

「へ、へぇ……あんた、冗談のセンス皆無ッスね……」

「ええ、皆無よ。だって冗談じゃないんだもの。もう一回言う。アンタより今の英くんの方が強いわ」


 茉莉さんの前では比較的穏健な態度を崩さなかった小室も、それを聞いた瞬間、額に青筋が走った。拳も力み過ぎでブルブルと震えをもっている。


「……ほほう。んじゃ、こういうのはどうッスか? 俺はこれから藍野と『組手くみて』をする。そんで藍野が勝ったらそのヨタ話を信じてやるよ。だがもし俺が勝ったら――あんたには俺の女になってもらう。どうだ? こんな条件出されても、まだ藍野の方が強ぇなんて吐かせんのかよ?」


 僕は思わず瞠目した。


 今、小室の使った『組手』という言葉は、本来の意味として使われたものではない――タイマンを張るという意味の「隠語」として使われたのだ。

 この日本には「決闘罪」という罪がある。ゆえに堂々と果し合いやタイマン勝負を行えば、警察のお世話になってしまう。だが武術や格闘技の「組手」なら、決闘罪は適用されない。ゆえに武術を身につけた多くの若者たちは『組手』という言葉を隠れ蓑にし、タイマン勝負を合法的に行っているのだ。


 だが、そこは今さほど問題点ではない。問題は「負けたら茉莉さんが小室と付き合う」などというペナルティだ。


 こんな悪条件、頷くべきでないことは火を見るよりも明らかだ。


 だが茉莉さんは頷いた。頷いてしまった。


「いいわよ。だけどこっちの勝利の見返りが少ないわ。だから追加しなさい。もしアンタが英くんに『組手』で負けたら、アンタは金輪際英くんをイジメるのをやめる。それを呑むなら受けてもいいわ」


 僕は思わず茉莉さんに近づき、食ってかかった。


「ちょっと茉莉さん、何を――ムグッ」


 だが、彼女に口を塞がれてそれ以上喋れなくなる。


 小室は最初、ひどく驚愕した顔つきだったが、


「俺ぁそれでも構わねぇッスけど……いいんスか? 吐いた唾は飲めねぇッスよ?」


 やがて歪んだ笑みを浮かべ、粘ついた視線を茉莉さんのボディラインへなぞるように送りながら再確認してきた。


「女に二言はないわ」


 茉莉さんは勇ましく一笑し、そう宣言してくれちゃった。


「んぐ~~~~っ!」


 異議ありまくりな僕は必死に暴れるが、彼女の手は一向に口から離れてくれず、喋れない。とても女性とは思えない力だ。いや、僕が非力なのかもしれない。


 小室はクックッと不気味に喉を鳴らしながら、


「オーケーオーケー……んじゃ、時間は今日の放課後。場所は砂城高校ここの校舎裏。もしもどっちかが来なかった場合は、その来なかった奴の負け。そういう条件でどうッスか?」

「承ったわ」

「……せいぜいエロ可愛いおべっかの練習でもしててくださいよ」


 そう言い捨てると、小室はすでに勝ち誇ったような顔をしながら、仲間四人とともに廊下の奥へと去っていった。


 小室の姿が見えなくなるのと同時に、僕の口を押さえていた茉莉さんの手が離された。


 すかさず彼女の方を振り返り、自由になった口で抗議した。


「なっ……何考えてるんですか貴女はっ!!」

「だって、これはイジメ脱却のチャンスじゃない? あんな奴ぱぱっとやっつけて、平和な学園生活を勝ち取りましょ?」


 そうしれっと返答してきた茉莉さんに、僕はますます怒りを露わにした。


「そういう問題じゃありません!! 自分を安売りするような真似はやめてくださいって言ってるんです! だいいち、僕が勝つなんて保証がどこにあるっていうんですか!?」

「保証ならあるわ。だって、このあたしが育てた君だもの」


 怒りモードの僕の苦言をそよ風のように受け流し、茉莉さんはそう落ち着いた調子で言った。


 そして、僕の両頬を、そのすべすべした手でそっと触れてくる。


「大丈夫。君は勝つわ。あたしはそのための方法や理屈をすべて君に叩き込んだ。それを思い出して戦いに臨めば、君の勝利は約束されたようなものよ。賭けてもいいわ」


 確信めいた口ぶりで、茉莉さんは優しく囁いた。


「……茉莉さん」


 普段の僕なら、それを聞いてさらに抗議を重ねたかもしれない。


 でも、どういうわけか、茉莉さんのその言葉を信じてみようという気持ちになれた。

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