第二章 神楽坂式骨法
放課後となった。
教室の窓越しに見える太陽はオレンジ色に変化しており、薄い雲の裏に隠れて蜃気楼のようにその姿を揺らがせていた。
帰りのホームルームが終わるや、クラスメイトたちはわらわらと廊下へ出ていき、あっという間に教室には僕一人だけが残された。
「いたたっ……まだ口の中がしみる……」
僕は腫れた頬っぺたをさすりながら、一人そうぼやいた。
この傷は昼休み、小室に殴られてできたものだ。
武術を学んで強くなるという、今までの僕からすれば前代未聞の決意を茉莉さんの前で表明したまではよかったが、その時点では僕は、小室に昼食を買いに行かされているということをすっかり失念していたのだ。
その事に気がついて大急ぎで購買に向かったが、時すでに遅し。購買の前には長蛇の列ができていた。その時点で僕は小室のタイムリミットに間に合わせるのをすっぱり諦めたが、買わないで戻るより買って戻った方が受ける暴行の激しさも減るかもしれないという希望的観測を抱き、その列に並んだ。その結果、小室たちの注文の品とは全く異なるが、とりあえず全員分のパンは買うことに成功し、教室へと戻った。
しかし小室は手加減などしてくれなかった。それはもうメタメタに殴られたのだ。奴曰く手加減しているらしいが、絶対嘘に決まっている。僕は金輪際、手加減してもらえるかもしれないなんて甘い考えを抱かないと決めた。
顔だけでなく、腹や二の腕も痛む。だが、なんとか運動はできそうだ。
この後すぐに神楽坂式骨法とやらを学ぶべく、茉莉さんと学校近くの公園で待ち合わせをしている。今からそこへ行かなければならない。
僕は荷物を持って、教室を出る。
大勢の生徒の流れに紛れ、昇降口を目指して歩く。
絶対、強くなってやる。
そして、こんな痛いだけの日々とは決別するんだ。
「あっ……おーい英くーん! こっちこっちー!」
目的の公園までやってくると、そこで待っていた茉莉さんが大きく手を振りながら呼びかけてきた。
それなりの広さがあるが、ひどく殺風景な公園だった。遊具が一切なく、あるのはただ水飲み場とボロボロの木製ベンチ一つのみ。人も、彼女以外に一人もいない。
僕は、その公園のど真ん中に立つ茉莉さんの元まで駆け寄った。
「うわっ、英くん頬っぺた腫れてるわよ? どうしたの?」
僕の顔を見た途端、驚いたリアクションを見せる茉莉さん。
そうだった。僕の顔には殴られた跡があるんだった。
茉莉さんはためらいがちに訊いてきた。
「もしかして……誰かにやられた、とか?」
「えっと……それは……」
しばしの間、僕は理由を話すべきかと逡巡したが、この女性はこれから僕の師匠になる人だ。話しても構わないだろう。
僕は勇気を出して、小室智司のこと、そしてその小室にいじめを受けていることを、かいつまんで説明した。
それらを全て聞いた茉莉さんは、妙に気合の入った口調と態度で、
「よしっ! 分かったわ英くん! この神楽坂茉莉が、君をそんなおバカよりも強い男に育ててあげる! 大船に乗ったつもりでついていらっしゃい!」
「で、できるんですかっ?」
「ええ、できるわよ。大伯父様の創った神楽坂式骨法は知名度こそ低いけど、その理論は革新的の一言に尽きるわ。君みたいに体の小さい子でも、熱心に学べば確実に強くなれる。 ただし――その分、修行はすんごく厳しいわよ。加えてあたしはこう見えて結構スパルタだから、手加減は一切できないわ。心して臨みなさい。いいわね?」
――修行はすんごく厳しいわよ。
今朝までの僕なら、この言葉を聞いた瞬間、迷わず踵を返していたことだろう。
でも、今は違う。
僕は、守りたいものを守りたい時に守れるだけの力が欲しい。
そんな強い願いを思い出すだけで、どんな困難や苦行だって乗り越えられる気がするのだ。
「はいっ! お願いします、茉莉先生!」
僕は覇気をもって返事をした。
「あ、あはは……改めてよろしくね英くん。でも、「先生」はちょっとこそばゆいから、今まで通り「茉莉さん」でいいわよ?」
頬を掻きながらバツが悪そうに照れ笑いする茉莉先せ――もとい茉莉さんの指摘に、僕は「はい」と再度頷いた。
「よし、それじゃあ気を取り直して始めるわよ! 早速修行、と言いたいところだけど、その前にまずは神楽坂式骨法がどんな武術なのかを説明する必要があるわね」
そう前置きをすると、茉莉さんはゆっくりと語り始めた。
「神楽坂式骨法は、あたしの大伯父様である神楽坂
「『骨』……ですか?」
「ええ。世の中には様々な武術が存在するわ。それでもって、その形、動作も総じて千差万別。でもね、そんな多種多様な武術でも、共通して求められている要素が三つあるの」
茉莉さんは指を三本立ててから、その先を続けて言った。
「「
やけにエネルギッシュな茉莉さんの説明のおかげか、僕はすんなりと理解へ到ることができた。
つまり神楽坂式骨法を学べば、武術の覚えがすんごく早くなるということだ。武術ではなく、それらに通じる共通点を学ぶことで、全武術の速達を助ける。まるでティッシュペーパーが水を吸い取るような速度で武術の動作を習得できるということなのだろう。
「今の説明を聞いて分かったと思うけど、これから英くんにはその『骨』を徹底的に鍛えてもらう。そしてその練度が及第点に及んだら、今度は『骨』の鍛錬と並行して様々な武術の技を覚えてもらうわ。『骨』を鍛えたことによって上昇した吸収力を利用して、多くの技法を短期間で体に詰め込むのよ。技の習得は簡単だけど、『骨』の鍛錬はものすごくキツいから、覚悟してなさいね」
茉莉さんはそう言って、僕の頭をサラサラと撫で回してくる。
「は、はいぃ……」
僕はその手にぐるぐると頭部を揺らされながらも、そう返事をした。
茉莉さんの手が頭から離れた。
「よし、それじゃあそろそろ実技に移りましょっか。まずは三つの『骨』のうちの一つ、「上虚下実」からいくわよ。「上虚下実」とは読んで字のごとく、上が「虚」で下が「実」であるということ。「虚」とは力が抜けた状態で、「実」がその逆で力が充実した状態。つまり、「上半身に余計な緊張が無く、下半身に体重が集中した身体状態」という結論に到るわ」
「その「上虚下実」だと……何かいいことがあるんですか?」
僕がそう何気なく問うと、茉莉さんはやや驚いた様子で、
「ええっ? わ、分からない? 武術が普及してる今の時代なら、みんな大体そうする意味を知ってるはずなんだけど……」
「……ごめんなさい。僕、今まで武術を避けて生きてきたから……分からないです」
「あ、ああ! いいのよ別に? ごめんなさい。そうよね、知らない人だっているわよね。分かったわ。それじゃ、あたしが説明してあげる」
茉莉さんはそう僕をなだめると、咳払いして説明し始めた。
「「上虚下実」――つまり上半身から力の抜けた状態は、全ての武術において非常に重要なものなの。武術の動作は力学的に非常に理にかなっていて、それら全ての動きの主体は足の力。上半身の力はその添え物に過ぎないのよ。簡単に例えるなら、相手をぶん殴るとしましょう。その場合、相手の至近距離で立ち止まった状態から殴るのと、遠くから助走をつけてぶん殴るのと、一体どっちが痛いと思う?」
この華やかな女性の口から“ぶん殴る“などという乱暴な言葉が出た事に一瞬驚くが、僕はとりあえず彼女の質問に答えた。悲しいかな、殴られることは僕の専売特許なので、考える時間を要さずに返答できた。
「そりゃ……助走つけて殴った方が威力が高いに決まってますよ。だって、ダッシュの勢いが拳に乗りますし…………あっ!」
茉莉さんがビシッと僕を指差した。
「そう! 助走をつけるパンチは腕じゃなくて、足腰の力を使っているから強いのよ! 武術の動作はその理屈をハイレベルで実現させたものが非常に多い! 重心移動、後足の瞬発による推進、両足の捻り……あらゆる方法で足の力を用い、それを打つ力、投げる力などとして運用するのが、あまねく武術の基本というものよ。けど、最大限に足の力を用いるには、上半身の力を抜かないとダメなの。例えば、ボクシングのストレートは足腰の捻りによって強い力を出すパンチだけど、もしもそれを打つ時に肩や腕がガチガチに凝り固まっていたとすれば、せっかく足腰で作った力が途中で停滞を起こして、腕の力だけで打つことになってしまうわ。所詮腕の力は、人体を普段から支えている下半身のそれには及ばない。だからこそ、上半身の脱力っていうのは重要なの――英くん、ちょっと失礼するわね」
一旦言葉を区切ると、茉莉さんは僕の元へ歩み寄ってきた。
彼女は至近距離まで近づいたと思ったら、しゃがみ込み、僕の骨盤辺りに抱きついて――臀部を掴んできた。
「ちょ、ちょっ!?」
その予想外かつ大胆な行為に、僕は動揺と驚きの声を上げるが、
「動いちゃダメ」
茉莉さんは真下から僕を見上げつつ、そうたしなめてきた。
その顔は真剣そのものであった。きっと意味があってやっていることなのだろうと思い、黙ってされるがままになることにした。
茉莉さんの手は、尾てい骨を内股に納めるようにして僕の骨盤を起こした。
さらに足の位置や腰の位置を動かされ、両足の重心の配分なども変えられていった。
「今、あたしは君のズレた姿勢を整えている最中なの。上半身の筋肉が緊張するのは、地球の重力に逆らっているから。筋肉を稼働させ続けていないとバランスを崩して倒れてしまうような姿勢や体勢だから、体が本能的に筋肉を稼働させてバランスをとっているのよ。つまり、上半身に余計な緊張がある人は、姿勢が歪んでいるということなの。その歪みは日常生活の中で余計な動作をしすぎている現代人のほとんどの体にあるわ。ならどうすればいいか? 答えは簡単よ。正しい姿勢を作ればいいの。自重が前後左右どちらにもバラける事なく、地面と垂直に立った一本の線のようにすとんと真下に降りる、そんな重力に逆らわない正しい姿勢に直すのよ。だから英くん、それが終わるまでもう少しジッとしててね」
僕はただ「はい」と答えるだけにリアクションをとどめた。頷いてしまうと、それによってせっかく直された姿勢が崩れてしまうかもしれないからだ。
それからも次々と体の位置を手直しされていく。
やがて、僕の顎関節を真後ろに動かすと、茉莉さんは「よしっ」と一息ついたように言ってから、
「終わったわよ英くん。どう? 体の調子は」
「……なんだか、変な感じです。めちゃくちゃ違和感感じます」
僕は素直な感想をこぼした。
頭、肩、胸郭、腰椎、骨盤、両足。それらが普段していた姿勢とはまるっきり異なる位置にあるため、なんだか傾いた状態で立っている感じがするのだ。
だがその代わり、足裏には先程までなかったはずの感覚があった。まるで重い荷物がのしかかっているような強い重量感が土踏まずの辺りに集中していた。これが茉莉さんの言う「自重が真下に降りた状態」なのだろう。
「普段それだけ歪んだ姿勢に慣れていた証拠よ。だからその違和感に慣れなさい。あたしが直してあげたその姿勢を覚えて、練習中でも日常生活の中でもその姿勢を保ち続けること。そして最終的にそれを普段の姿勢として上書きしなさい。それができないと神楽坂式骨法は神楽坂式骨法足り得ないわよ」
少し厳しめな事を言ってから、茉莉さんはVサインよろしく二本の指を立てた。
「これで「上虚下実」は教えたわ。次は二つ目の「下半身の強靭さ」。これも言うまでもなく重要ね。全ての武術の動作は足が命。その足腰が貧弱じゃ話にならないわ。だから、これも当然鍛えるのよ。そのために神楽坂式骨法では『
「『立禅』、ですか?」
こくんと頷く茉莉さん。
「中国武術には「
茉莉さんは再び僕に近づくと、ゆっくりと僕の膝を曲げ、腰を深々と落とさせた。
両膝をやや内側に寄せた中腰の姿勢。言っていた通り、まるで乗馬でもしているような足の形だった。
中腰くらい楽勝だ――内心そう思っていた僕だったが、膝に凄まじい重量をずしりと感じた瞬間、そんな考えを即座にゴミ箱へぶち込んだ。
茉莉さんに姿勢を手直しされていたため、僕の自重は下半身に集中している。その状態にした上で腰を深く落としたのだ。自重が集中している分、膝にかかる負荷は通常の何倍にもキツくなっていた。
僕はたまらず姿勢を崩したが、途端に茉莉さんの手によって強引に直された。
「崩しちゃダメ! 『立禅』の最中でも正しい姿勢は続けなさい! いい英くん? 『立禅』は下半身の鍛錬だけじゃなくて、正しい姿勢を体に覚えさせるのにも必要なの。人間は苦痛を伴って覚えたことは忘れにくくなるようにできているわ。この『立禅』はその理屈を利用したもの。長時間にわたる苦痛を交えて、体に正しい姿勢を無理矢理覚え込ませるための修行法でもあるの」
茉莉さんは僕の頬にそっと手を当て、さっきまでとは違う柔らかな声色でささやいた。
「苦しいかもしれないけど、ここは頑張りどころよ。大丈夫、君ならできるわ」
僕は膝にかかる重鈍な負荷に耐えながら、ガチガチと歯の根がうまく合っていない口で「はい」と返事した。
そうだ。何を恐れることがある?
修行が大変なのは分かりきっていたし、覚悟していたことじゃないか。
お前は強くなると誓ったはずだろう、藍野英助。
僕は自身を叱咤激励しながら、ひたすら『立禅』の体勢で立ち続けた。
「――はい、終わり。一旦休憩」
茉莉さんのそんな一言とともに『立禅』は終わった。
僕は中腰からゆっくりと直立姿勢に戻った途端、崩れ落ちるように尻餅を付いた。
「はーっ……はーっ……はーっ…………」
僕は汗だくになった顔を手で拭いながら、ひたすら息を荒げた。
『立禅』は茉莉さんが「いい」と言うまで体勢を維持し続けるというものだったが、なんと、あれから約二十分以上も立たされてしまった。そのため、太腿がパンパンに張り詰め、膝も笑っていた。
「しばらくしたら再開するから、それまで休んでね」
そう言って気さくに笑いかける茉莉さん。そこにさっきまでの鬼教官の姿はなかった。
茉莉さんは自身をスパルタだと形容していたが、それは嘘ではなかった。
『立禅』の最中、僕は何度も手直しを受けた。「首が右に傾いてる!」「上半身が前傾してるわよ! 英くんはまだお年寄りじゃないでしょ!」「重心が左足に偏ってる!」「今度は頭の位置が左にずれてるわ! 左に一体何があるの!?」「顎が前に出てるわよ! 猫背になっちゃダメ!」「肩に力が入りすぎ! それじゃ「上虚下実」じゃないわ!」「肩や首の力で体を支えようとしない! あくまでも正しい姿勢を心がけて、下半身の力で体を支えるのよ! 「上虚下実」ができてなきゃ、『立禅』はただの我慢大会と一緒よ!」…………一体いくつの檄を飛ばされたか覚えていない。
僕は早くもくじけそうだった。
何度も手直しされたこともそうだが、あのしんどい姿勢で二十分も立ち続けるという苦行をこれから毎日しなければならないのだと思うと、なんだか気が重くなってくる。ちゃんとこの先続けていけるのだろうか、と。
だが僕は慌ててかぶりを振った。
何を弱気になってるんだ。まだ始まったばっかりじゃないか。
先のことなんて今は考えなくていい。現在の修行を真剣にやるんだ。
僕は必死に自分を励ましながら、微動だにせずジッと休み続けた。
そして五分ほど経つと、茉莉さんは「そろそろ再開するわよ。ほら、立った立った」と僕を立たせた。
僕が教えられた通りの正しい姿勢に全身を整えたのを確認すると、茉莉さんは満足げに頷いてから口を開いた。
「それじゃあ今度は三つ目の『骨』を鍛えましょっか。残りの一つは「足の器用さ」。これは読んでそのままの意味で、手先の器用さならぬ、足先の器用さのことよ。これも武術をやる上で無視できない要素なの」
「足が器用だと良いんですか?」
「そりゃあもう、良い事ずくめよ。武術には多種多様な歩法、つまりフットワークが存在するわ。そして、それらは重心移動などで強大な攻撃力を生み出したり、相手との距離を一気に詰めたり、攻撃を躱しつつ懐に潜り込んだり、距離感を狂わせたり……色々な効果を持っているの。でも、歩法は普段しないような複雑な足の動かし方を用いることが多いから、得てして身につけるのが難しいのよね」
そこまで聞いて、僕は茉莉さんの言わんとしていることが理解できた。
「つまり「足の器用さ」を身につけるのは、そういう難しい歩法をやりやすくするため……なんですか?」
「だんだん察しが良くなってきたわね英くん。その通りよ。足を器用に、それも手と同じくらい自在に動かせる技量さえあれば、どんなに複雑な歩法やフットワークだって簡単に覚えられるわ!」
「でも、どうやってそこまで足先を器用にするんですか? まさか……足でご飯を食べたりノート取ったりしろ、みたいなことは言いませんよね?」
「あ、それいいかも。採用しようかしら」
「勘弁してください!」
僕の必死な訴えに、茉莉さんはお腹を抱えながら「じょーだんよぉ、じょーだん」とケラケラ爆笑した。その上品な美貌には似合わないリアクションに思えた。
「ふふふふっ……! まあ、あたしはできる自信あるけど。あとでスポーツドリンク足で飲んで見せよっか?」
「え、遠慮しておきます。それで、足を器用にする方法って何ですか?」
「「蹴り技」よ」
茉莉さんは口端を歪めて言った。
「いろんな歩法があるのと同じくらい、武術にはたくさんの蹴り技が存在するの。そしてそれは前蹴りや回し蹴りといった単純かつポピュラーなものから、テコンドーや中国武術で用いるような複雑かつアクロバティックなものまで多々あるわ。神楽坂式骨法では世界中の武術の中から厳選した色々な蹴り技を何度も反復練習することで、あらゆる足の動かし方を覚え、そして慣らす。そうして広範囲かつ精緻な足の操作を可能にし、結果的に歩法やフットワークの習得スピードがアップするというわけ。実際武術の上手い人は、総じて蹴り技もすごく上手いものだしね」
「はい……でも僕、そういう複雑な蹴り技できる自信ないです……」
「大丈夫大丈夫! 最初は蹴上げとか、そういう単純な蹴り技から始めるから。それに失敗したっていいのよ。大切なのは、色々な足の動かし方を覚えることだもの。それを追求していれば、いずれ英くんが心配してるような複雑な蹴りもできるようになるわ」
そこまで言うと、茉莉さんは軍人よろしくビシッと両足を揃えて立った。
「じゃあ、まずは簡単な蹴上げから。一回お手本を見せるから、良く見ておきなさい」
「はい! ――え?」
蹴りを出そうとする彼女を見て、ふと思った。
スカートで蹴上げをするのは――マズイ。
「それじゃ、いくわよ!」
「うわーー! ちょっと待って茉莉さん!」
僕は素早く顔を背けながら叫んだ。
「コラ、英くん! ちゃんと見てなきゃダメでしょ!?」
「いや、だって! 茉莉さん今スカートでしょう!? それで蹴上げはちょっと……」
「何言って…………ああ、そういうこと」
納得したような茉莉さんの声。
やっと分かってくれたか。そう思いながら僕が前へ向き直ると、
「大丈夫よ、ほら」
茉莉さんが自身のスカートを平然とたくし上げていた!!
僕が慌てて再度顔を背けようとすると、茉莉さんは「平気だってば。ほら、スパッツだもん」と呼びかけてきた。
恐る恐る目を向ける。スカートを退けてさらけ出された彼女の大腿部は、確かに真っ黒いスパッツに包まれていた。
「な、なんだ……よかった……」
僕はホッと胸を撫で下ろす。
「英くん」
「はい?」
茉莉さんは意地悪そうにニンマリと笑いながら、
「えっち♪」
「うっ!? ち、違います、僕は別に――!?」
「あっはははは! 冗談よぉ! やーね、もぉ、そんなに狼狽えちゃってー! 可愛いなぁ」
可笑しそうに笑声をこぼす茉莉さんに対し、僕は頬を膨らませながら抗議の視線を送った。
そんな僕の顔を見て、茉莉さんはひーひー言いながらも笑いを止め、
「ごめんごめん。それじゃあ気を取り直して、蹴上げの練習と行きましょうか」
「あ、はいっ」
僕も気を引き締め、そう返事をした。
だが、ふと気がかりなことが心の中に生まれた。
「あ。そういえば質問なんですけど……」
「何かしら?」
「今からやるのは蹴上げですけど、当然そのほかの蹴り技もいっぱいやるんですよね? だとするなら、一種類の蹴りは何回練習するんですか?」
僕のその問いに対し、茉莉さんは満面の笑みを浮かべて答えた。
「――五〇〇回♪」
「もうダメ……死んじゃう…………」
疲労困憊という表現が生易しく思えるほどの疲労感を引きずりながら、僕はようやく自宅の玄関にたどり着いた。
靴を履いたままバタン、と床に倒れ伏す。もうこのまま寝てしまってもいいような気がしてきたが、風邪を引く可能性が高いので仕方なしに起き上がった。
靴を脱いで床に上がり、リビングに重々しい足取りでたどり着く。壁掛け時計を見ると、すでにその針は九時を指していた。窓から見える景色にも夜の帳が下りきっている。
ソファーにどさっと腰を下ろし、ため息をついた。
あの後の修行はまるで拷問だった。最初の蹴上げを含む多くの蹴りを五〇〇回ずつ反復練習させられた。それだけでもすでにヘトヘトなのに、なんと最後にもう一度『立禅』をやらされたのだ。厳しいのは覚悟していたつもりだったが、いくらなんでもハード過ぎる。
僕の中に、早くも後悔の念が生まれ始めていた。
こんな過酷な修行、貧弱な僕では長続きするとは思えない。体を壊す前に、やめてしまった方がいいのではないのか。
武術なんて、他にいくらでもあるだろう。あの時は勢いで茉莉さんに師事したようなものだ。もっと冷静になって選べばよかったのかもしれない。
そうだ。別にこんなめちゃくちゃな修行じゃなくたっていいじゃないか。他に僕に合った武術があるかもしれないじゃないか。
さっさとやめて、他の武術に鞍替えすればいい――。
そう考えた時だった。
昨日の路地裏での出来事が、脳裏をよぎった。
ブルリ、と総身が粟立つ。
何一つできぬまま、一方的に叩きのめされるだけだった自分。
不気味な男に抱きつかれ、身動き一つ取れぬまま恐怖に涙する桜乃さん。
そんな自分たちを見ながら、覆面の下に愉悦の表情を浮かべる男たち。
それらの映像が、まるでつい先程の出来事のように思い浮かんだ。
「……バカだな、僕は」
スポンジのようにふにゃふにゃだった背筋に、ピリリと力が宿った。
何を甘っちょろい事を考えてたんだ、僕は。
ああいう出来事をもう二度と繰り返さないために、僕は強くなろうと決めたんじゃないか。
他に自分に合う武術を探せばいい?
他の武術に鞍替えしよう?
そんな心持ちじゃ、きっとまたあの時のような事を繰り返す。繰り返してしまう。
修行はキツいけど、茉莉さんの指導方針は非常に理にかなっていた。
ならば、たとえ過酷であったとしても、確実に強くなれる道に手を伸ばすべきじゃないのか。
そうだ。諦めるな。やるんだ、藍野英助。
お前の覚悟が本物なら、やらない手はないはずだ。
気がつくと、僕は立ち上がっていた。
茉莉さんに教わった姿勢を思い出しながら、体のパーツの位置を調整した。
相変わらず、体が傾いたように感じる変な姿勢だ。不自然さが否めない。
だがいずれ――この「不自然」を「自然」にしてみせる。
僕はその姿勢のまま台所へ向かい、夕食を作り始めた。
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