第一章 藍野英助の決意②

「何やってんだろ……僕は……」


 翌朝。


 眠りから目覚めた僕は昨日の事を思い出し、自室のベッドの上で横になりながら強い自己嫌悪に陥っていた。


 あの後、僕は一人で帰った。

 最寄駅までは桜乃さんと一緒のはずだったが、その駅までの道のりも一人で歩いた。

 当たり前である。逃げてしまったのだから。

 あの場は逃げ出すところではなかったはずなのに。

 絶対変に思ったよね、桜乃さん。

 そう考えると再び気が滅入り、自然とため息が出てしまう。


「僕のバカ。意気地なし。ヘタレ。弱虫。脳タリン……」


 思いつく限りの罵倒の言葉を自分にぶつける。


 本当に何を考えてるんだ、僕は。あそこは無理をしてでも一緒に居続けるところだったはずだ。それなのに逃げ出すとかありえないだろう。まだ助けてくれた彼にお礼も言えてないのに……。


 でも――と、僕は言い訳を言うように一度区切った。


 あの時は、逃げずにはいられなかった。


 桜乃さんを守りきれず地に伏していただけの僕と、彼女を余裕で助けることのできた彼。

 そんな、自分と正反対の存在が同じ空間に立ったことで、「力が無いくせに虚勢を張るな。実力に裏打ちされていない自信なんかゴミクズみたいなものだ。分かったか?」と教鞭を垂れられた気分になってしまったのだ。実際、あの状況は僕が作ってしまったようなものだったので、余計に惨めな思いを感じ、彼と同じ空間に立っているのが苦痛になってしまった。


 それに、彼と対している時の桜乃さんの表情。


 彼女の可愛い表情や仕草はたくさん見てきた。それらはすべて心のフォルダに最高画質で保存してある。だが昨日の桜乃さんの顔は、今まで見たどの表情よりも可愛らしく、そして女性的色気を感じさせるものだった。


 熱にうかされたようなその顔は、まるで、恋という病にかかったような――


 ガバッ!!


 僕は勢いよく上半身を起こした。かかっていた毛布が前方へ折りたたまれる。


 心中には、強い焦燥感が渦巻いていた。


 ――ま、まさか、そんなことないよね! だって昨日会ったばっかりだもの。恋に落ちるには早すぎだよ!

 ――い、いやでも……僕は桜乃さんには一目惚れだったわけだから、可能性が無いことは……。

 ――だ、大丈夫だよ! そんなことがしょっちゅうあってたまるもんか! きっと地道に関係性を積み上げていった僕の方が有利さ! もっと自信を持て、藍野英助!


 ブンブンとかぶりを振りながら自分を元気づけ、独り相撲を強制終了させた。


 僕は自室を後にし、リビングに出る。冷蔵庫の中を覗いてありあわせの材料をすぐに見繕うと、フライパンを出して朝食を作り始めた。


 用意するのは僕の分だけだ。お父さんは仕事で海外にいるため当然家にはいない。お母さんも未熟児だった僕を産んですぐに亡くなっている。なので自宅であるこの高層マンションの一室に住むのは、必然的に僕一人である。


 携帯にお父さんからのメールが届く。内容は「口座に今月の生活費振り込んどいたぞ。体に気をつけてな。栄養に気ぃ配れよ」とのこと。


 そのメールを見た瞬間、僕は感謝の気持ちと同時に、どうしようもないほどの申し訳無さも感じた。僕は小室たちに昼代と称してお金をむしり取られていることを、お父さんに話していない。お父さんは純粋に僕の事を思ってお金を送ってくれているが、僕はそれを自己保身のために使ってしまっているのだ。


 幸いというべきなのか、お金を取られてはいるが、家での食事にはそれほど影響は出ていない。一人で家にいることが昔から多かったせいか、僕はごく自然に料理が得意になっていた。安い食材を買い溜め、それを少しずつ切り崩して使って調理すれば、案外なんとかなるものである。


 かと言って、このままじゃいけないということは僕も分かっている。でも、僕じゃどうやったって小室には勝てない。立ち向かうことは、殴られにいくことと同義だ。


 また消沈しそうになるが、食事の時くらいは気をしっかり持たないとご飯が不味くなると思い、自分に一度即席の元気を与える。


 朝食が出来上がり、それをきれいに食べ終えた後、歯を磨いてから制服に着替える。


 支度を終え、玄関で靴に履き替えながら思った。


 今日学校に行ったら、昨日逃げちゃったことを桜乃さんに謝ろう、と。









 あっという間に昼休みが訪れた。


 僕は小室たちの指示通り、連中の昼食を買いに購買までダッシュしていた。最近、もはや予定の一つとなりつつある行事だった。


 学校に来てすぐに桜乃さんを探したが見つからず、そのまま朝のホームルームの時間となってしまった。なので彼女を探すのは昼休みに先延ばしとなった。


 だがその前に、僕はパシリとしての職務を全うしなければならなかった。


 学校に来る前に口座からお金を引き出したため、なんとか足が出ることはなくなった。後は小室の強いたタイムリミットを外れないように努力しよう。僕はお父さんに心の中で謝りつつ、走る足にさらに力を込めた。


 途中で人とぶつかりそうになり、一言謝罪してから再び走行する。


 廊下を歩く生徒の数は多い。少し出遅れてしまったのが災いしてしまったのだろう。急がないと大行列を並ばされることとなる。そうしたらタイムリミットをオーバーした挙句に言いつけられた品も買えず、その二重ミスのツケを痛みで払わされることとなる。そう思うと嫌な冷たさが背筋を駆け巡った。


 ペースダウンせず、ひたすらに走行を続ける僕。


 だがその途中で、僕は思わず足を止めた。一分一秒でも惜しい状況であるにもかかわらず、止めずにはいられなかった。


 廊下を往来する多くの人の中に、桜乃さんの姿を見かけたのだ。


「桜乃さ……」


 暗澹たる気分を一転、明るい気持ちとなった僕は思わず声をかけようとしたが、その呼びかけは途中で止まってしまった。


 桜乃さんの隣には、昨日僕らを助けてくれたあの青年がいた。


 そこまでならまだよかった。彼もこの学校の生徒なので、ここにいても何ら不思議ではない。むしろお礼を言うのを忘れていたので、彼に感謝するのと同時に桜乃さんに謝ることもできて一石二鳥というものだ。


 だが、僕の目には映ってしまったのだ。




 固く握り合っている――二人の片手が。




 僕の心の中が激しくざわついた。


「あ、藍野くんだ。おーい!」


 桜乃さんは立ち止まる僕の存在に気づき、手を振りながらそう声を張り上げた。


 戸惑いを隠してなんとか笑顔を作りながら手を振り返すと、とてとてと駆け寄って来てくれた――彼の手を引いて。


「こんにちは藍野くん。昨日、どうしていきなり帰っちゃったの?」


 彼女はそう訊いてきたが、僕の意識は完全に繋がれた二人の手に集中していたため、すぐには答えられなかった。


「藍野くん?」

「えっ? あ、ああっ、えっと、その、あの時はちょっとお腹が痛くなって……いきなりいなくなってごめんね」


 僕はなんとか急ごしらえの嘘で誤魔化した。桜乃さんは「そっか。よかったぁ」と、お日様みたいな笑顔を見せてくれた。


 いつもならば心ときめくところだが、不思議なことに今回は何も感じなかった。

 二人の手が繋がれているという点に、桜乃さんへのときめきを塗りつぶすほどの衝撃を感じてしまっていたのだ。


「どうしたんだい、ボーッとして?」


 そこへ、青年が話しかけてきた。


 僕は急に話しかけられて動揺しながらも、なんとか答えた。


「あ、えと、いや、な、何でもない、です」

「そっか。ちなみに優奈にも昨日言ったけど、タメ口にしてくれよ。同じ学年なんだからさ」

「あ、はい、じゃなかった……うん。あ、あの、昨日は助けてくれてありがとう」

「おう。どういたしまして」


 彼は軽く微笑んでそう相槌を打った。


 お礼を言うという目的を果たせて僕は一度安堵するが、すぐにあることに気づいた。気づいてしまった。


 ――今「優奈」って言った?


「……優奈、って誰?」


 僕は三日間飲まず食わずで過ごしたようなかすれた声で、分かりきっているはずの事を二人に問うた。


「もぉ、私の事に決まってるでしょお。桜乃優奈だもん。知ってるはずなのに、変な藍野くん」


 桜乃さんはクスクスと可笑しそうに笑う。


 彼女のその笑みはやはり可愛らしいものだった。だが今度はときめかないどころか、心に尖ったものが突き刺さるような嫌な感じがした。


 僕の視線がさっき以上の密度をもって、今なお繋がれている二人の手に注がれる。


 その視線に気がついたのか、桜乃さんは恥ずかしそうにはにかんだが、その手を離そうとはせず、むしろ一層強く握り締めた。青年の手もそれに答えるようにギュッと握力を強める。見ると、彼も桜乃さんと同じような、恥じらいの笑みを浮かべていた。


 ――嘘。


「え、えっとね……藍野くんに教えておきたいことがあるの…………」


 ――やめろ。やめてくれ。お願いだ。


「えっとね、実はね…………」


 ――嫌だ。やめて。言わないで。やめろ。やめて。やめてください、やめて、やだ、聞きたくない、何かの間違いだ、そうだ幻聴だ夢だ幻だ現実じゃないそうに違いないそうなんだろそうだって言ってよ――


「実は私ね、昨日からこの人と…………」


 ――分かった分かるから分かってるから知ってるから見れば分かるからちゃんと分かるから余裕で理解できるからそんなに鈍くないから分かってることわざわざ言わなくていいからお願いだ聞きたくない言わないで聞かせないでそんなの聞きたくない耳に入れたくない嫌だ嫌だ嫌だ嫌だやめてやめてやめろやめてくださいお願いしますお願いしますお願いします何でもするからお願いだから――






「この人と――付き合う事になったの」






 心が砕ける音がしたような気がした。


「颯爽と助けに現れてくれたこの人に、私キュンと来ちゃったんだ。こういうのを一目惚れっていうのかなぁ? それでね、二人で帰ってる途中で思い切って告白したら、なんとOKもらっちゃったの! えへへ、すっごい嬉しかったよぉ」


 そうはしゃぎ気味に言いつつ、青年の腕に嬉々として抱きつく桜乃さん。そうされた彼も困ったような照れ笑いを浮かべていた。


 口の中が一気に乾燥する。

 全身が得体の知れない震えに支配され、四肢の末端に嫌な汗がじっとりと浮かび上がる。

 立ちくらみのように頭がボーッとし、眼振によって世界が不規則な揺れを見せる。


「あれ? どうしたの、藍野くん?」


 そんな僕の体調など知らず、桜乃さんがきょとんとした顔で話しかけてくる。


「え……あ…………いや……なんでも、ないよ。そっか、つ、つきあうことになったんだ。そ、そっか、それは、おめでとう。おしあわせに。そ、それじゃぼく、これからいそぎのようじがあるから、ばいばい」


 たどたどしい口調で必要なことのみを押し付けるように言うと、二人の横を早歩きで通り過ぎた。


 二人からある程度距離が広がったことを確認すると、僕は弾かれたように駆け出した。











 衝動の赴くまま、僕は走り続けた。


 目的地なんかない。ただあてもなく、無秩序に校内を走り回っているだけだ。


 たびたび誰かと肩がぶつかったが、それを気にすることのできる余裕は今の僕には皆無だった。


 瞳に溜められた涙が、視界を揺らがせる。


 ――ちくしょうっっ!!!


 ここが学校でなければ、そう思い切り叫びたいところだった。


 ひたすら悔しい。

 ひたすら悲しい。

 ひたすら呪わしい。

 自分という存在に対し、今日ほど憎悪を抱いた日はなかった。

 弱い自分が、ただただ憎かった。


 どれほど妄想の中で快勝しても、弱い自分では現実の小室には勝てない。

 どれほど虚勢を張ろうとも、弱い自分では好きな女の子一人守れない。

 どれほど関わった月日が長くとも、弱い自分では強い男よりも価値がない。

 平和も、勝利も、想い人も、何も手に入れられない弱い自分が嫌で嫌でたまらなかった。


 走っている途中で両足が重なり合い、転んでしまった。うつ伏せに倒れ、リノリウムの廊下に体の前面を強打した。


 その痛みによって、まるでタガが外れたように涙があふれてくる。


 そんな自分をすれ違いざまに見て、気味悪そうな声を出す周囲の生徒たち。


 僕は四つん這いに立つと、悔しさに駆られてブレザーのポケットを強く鷲掴みにする。クシャッ、という紙の音と感触がした。


 それによって僕はふと思い出し、そのポケットに入っていた一枚の紙を取り出し、それを広げた。




《老若男女関係なく強くなれる武術、『神楽坂式骨法』!! 学習希望者随時募集中!! 詳しくは部室棟三階、神楽坂式骨法研究会の部室まで!! 

神楽坂式骨法研究会部長 神楽坂茉莉》




 昨日、茉莉さんにもらった勧誘のビラだった。


「……神楽坂式、骨法」


 知らずのうちに、その武術の名を諳んじていた。

 武術。

 それは、力。

 みんなが持っていて、僕には無い力。

 僕みたいな弱い人間が強くなることのできる、唯一の可能性。


 ――天啓を得た気がした。




「――あれ? 英くん?」




 さらに、計ったようなタイミングで、聞き覚えのある声が降ってきた。


 顔を上げると、そこには予想通りの人物。

 神楽坂茉莉さんが、僕の顔を見下ろしていた。

 彼女の片脇には、僕が持っているビラと同じ紙が束になって抱えられていた。勧誘の最中だったんだろう。


「え、英くんどうしたの? 何で泣いてるのっ? 何かあった?」


 茉莉さんは僕の顔を見て、困ったような、戸惑ったような表情を浮かべる。


 僕は涙を勢いよく袖で拭った。


 そうだ。僕の失敗は、全て僕自身に力がなかった事が原因で起こったことだ。

 ならば、その「力」を手に入れればいい。

 守りたいものを、守りたい時に守れる力を手に入れればいい。

 今まで避けて通ってきた武術の道。

 茨の道となるかもしれない。

 でも、今足を踏み入れなければ、一生後悔すると思った。


 涙を拭いきると、僕は茉莉さんの顔を真っ直ぐ見上げ、そして決意を込めて言った。






「茉莉さん、僕――神楽坂式骨法研究会に入部します!」






 強い意志のこもった僕の声が廊下に響き、やがて空気中に溶けて消えた。


 茉莉さんはしばらくぽかんとしていたが、すぐににへっと笑い、嬉しそうに弾んだ声で言った。


「――入部希望者一名、確保しましたっ」

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