第7話

 102号室の住人佐藤がアパート内で大麻を栽培し、幽霊騒動を起こして他の住人を追い払ったことは、俺の予想通りだった。

 カーテンが常に閉まっており、無職で年末以外は外出しないことから、俺は彼が大麻栽培をしていると推測した。大麻を売った金で、彼は生計を立てていた。

 さらに佐藤は、自分だけでなく、売人を通じて知り合った仲間にも、アパートに住んでもらい、アパートのすべての部屋で大麻を栽培することをもくろんだ。


 このアパートに幽霊が取り憑いたことにして、自分以外の住人を追い出すのだ。

 最初は、上の202号室から変な物音がすると言い出した。

 自分ひとりで騒いでも効果が薄いので、201号室のおばあさんにお孫さんの幽霊が出たと作り話をして、騒動を大きくした。

 それで幽霊は若い男になった。

 自らも幽霊を目撃し、会話もしたとして、話はどんどん大きくなった。

 認知性の気がある老婆には、そのままいてもらったほうがいい。残るは101号室だけだ。奥さんのほうは出ていったが、温厚で理知的なご主人は幽霊を信じなかった。

 そんなとき、103号室に新たな入居者が現れた。追い出す住人が増えたと思ったら、幽霊騒動を調査に来た探偵だった。


 降霊術は、俺が彼にしかけた罠だった。

 俺は彼に、調査費用をつり上げるため、降霊術で幽霊が現れたようにインチキをするので、協力して欲しいと頼んだ。彼としては、騒動が大きくなったほうがいいので、二つ返事で引き受けた。

 実は、彼が部屋を留守にするように、俺が仕組んだのだ。

 その隙に大家は、マスターキーで102号室に入り、中を調べる。

 降霊術の部屋を幽霊がよく出るとされる202号室ではなく、隣の203号室にしたのは、そのときの音が聞こえにくいよう、102号室と離したかったからだ。

 洋室と二つのクローゼットには大麻が栽培されていた。大家はすぐに警察に通報し、逮捕に至った。

 幽霊騒動と大麻栽培。担当の所轄やアシスタントの響子には悪いが、新聞の三面記事に小さく載る程度の、とるに足りない些細な事件だった。

 ついこの間、人類史上最大のミステリーと言われるゴミ屋敷のシンデレラ事件を解いた俺にとっては、朝飯前以下の屁の合羽以下で、IQ230の頭脳を使うどころか、足の親指の爪の垢だけで解決できた。


「人が苦労して解決した事件を屁の合羽はないでしょう。しかも自分の手柄みたいに表現して。あなたはコックリさんをしただけです。もう私の調査には首を突っ込まないでください」

 またいつものごとく、響子の嫉妬が始まった。俺が事件を解決する度にすねるものだから、ハンドバッグやネックレスなど、ご機嫌をとるための出費が馬鹿にならない。


「いつあなたにネックレス買ってもらったんですか?」

「今度、君の二十二歳の誕生日に二十二本の蝋燭を買ってあげるよ。十七本目からは一緒に火を点けようね」

「私はもう二十三です。あなたと知りあったのも十七じゃありません」

 彼女の目は、蝋燭みたいな食べられないものではなく、とびきり大きなケーキを買って欲しいと訴えていた。

「今の君の体型に特大ケーキは酷だ。あと三キロやせたら、牛ほどの大きさのショートケーキをあげるよ」

「何それ?」


 二人で無意味な会話をしていたとき、

「すいません。またお話聞かせてもらえませんか」

 若い刑事が俺たちのもとに来た。

 この刑事は俺に話をしろと頼んできた。そこでとっておきのホラー体験を語ることにした。


 タクシーの運転手さんから聞いた話なんだけど、ある夜、白い服を着た髪の長い若い女の客を乗せたら、墓場に向かうように告げられたんだ。運転手さんは、断ることができず、仕方なく言われた場所へ向かった。その間、バックミラーで女の様子を見ると、黙ったまま下をうつむいていた。


「お客さん、着きました」

 女は運転手にそう言われ、顔をあげた。

 運転席に運転手の姿はなかった。運転手はいないのに、後部座席のドアが開いたので、女は「キャー」という悲鳴をあげて、外に飛び出した。

 すると、後ろから、

「すいません。お支払いまだなんですけど」という運転手の声が聞こえたとさ。


 俺が話を終えると、少し離れた位置で響子と刑事が密談を交わしていた。俺の話があまりに怖くて、この刑事は途中で逃げ出したのだ。

 俺は、口の動きから彼らの会話を読みとれる。名付けて伊賀忍法読唇術。


刑事「今回のプランはあなたおひとりで考えたことですか?」

響子「いえ、私はただ所長の指示に従ったまでです」

刑事「所長さんのお名前は?」

響子「比由といいます」

刑事「珍しい苗字ですね。今の総監も比由といいますけど」

響子「このことは秘密なんですけど、どうも親戚のようです」

刑事「あの方が総監の……お見それしました」

 俺が総監の甥だからなんだと言うんだ。逆だろう。警視総監などはいつの世にも存在する。俺という空前絶後な存在は、広大かつ悠久の宇宙の中で今ここだけのものだ。総監が俺の叔父であることが凄いのだ。


 くだらない世間話につきあいきれず、俺は先に帰ることにした。

 俺が自分の車のほうに歩き始めると、

「ひとりで先に帰らないでよ」という響子の呼び止める声がした。


 彼女のことなどすっかり忘れ、俺は勢いよく車に飛び乗ると、アクセルを思い切りふかし、自宅へと向かっていた。


「いくら仕事とはいえ、あんな恐ろしいところはもうごめんだ」

 今になって俺は、今回の仕事を引き受けたことを後悔した。もう二度とあのアパートには近づくことはないだろう。


 気がつくと、最近借りたばかりのアパートの前に立っていた。

 たしか俺の借りているのは103号室のはずだ。鍵をかけて出たつもりだったが、ドアノブを回すと、ドアが動いた。


 四畳半一間には髪の長い女がいた。安奈だ。

「もう銭湯から戻ったの?」

 俺はそう聞かれ、本当のことは言えず、

「ああ、さっぱりしたよ」と嘘を吐いた。


 彼女はへたくそな手つきで、俺のギターをポロロンポロロンと奏でていた。

「ギター売ってくるって言ったよな」

「一旦売ったけど、また買い戻してきたの」

「どうして?」

「あなたからフォークをとったら何が残るの?」

 学生運動に挫折したくせに、就職を拒む俺は、社会のはみ出し者だった。

「フォークじゃ食べていけないよ。最近じゃニューミュージックというのが流行だそうだ」

 熱い七十年代も終わろうとしていた。そこには間違いなく俺たちの青春があった。

「こうやって時代に取り残されていくんだな」

 俺は、自分の人生を回想するようにしみじみと言った。

「時代なんか関係ないわよ。あなたはあなたらしく生きればいい。そう思わない?」

 そう、安奈の言うように俺は自分以外の人間にはなれない。今は他人の歌を聴きながら、ただ待てばいい。


 安奈とは学生運動で知り合った。彼女は謎の多い美女だ。

「安奈、君は東京生まれなのか?」

「生まれはムンバイ。東京に来たのは五年前」

「まだ本当の名前を聞いていなかったな」

「本名はアナンダ・クリシュだけど、日本では安奈で通用してるわ。それにしても、このシタール、音が変ね」

「シタールじゃなくて、ギターだからさ」


 ああ、せっかくの七十年代気分が台無しだ。


 そうだ。今は2010年代。とうの昔に俺たちの青春は終わっていた。現実を受け入れることができず、俺はアパートを出て、寝静まった街の中を徘徊した。




 朝になった。気がつくと、事務所のある笠松ビルの前に立っていた。無意識のうちにここまで歩いて来たようだ。


 事務所に入ると、すでに応接セットが戻してあった。

 裏野ハイツと同じように、テーブルの上にはウィジャ盤とプランシェットが乗ったままだ。

 俺は自分のデスクに向かい、椅子の背にもたれ、目を閉じて、今回の事件を振り返ってみた。


 俺の活躍により、犯人は逮捕され、幽霊騒動が彼の狂言だとわかった。

 夏のホラー企画など、俺の手にかかればその程度のものだ。

 それなのに、こみ上げてくる良心の痛みは何だ?


 俺はデスクの上のパソコンの電源を入れ、ホラー企画のサイトを開いた。

 アパートの間取り図や人物設定を読み返した。

 完璧のはずだった。

 それでも、何かが違う気がする。


 そうだ、あのときだ。

 103号室に一人で留守番をしていたとき、俺は70年代フォーク気分に包まれていた。たしかに俺はあのとき、四畳半一間と描写してしまった。

 四畳半一間という表現は、物件情報の改変に当たる。物件情報の改変とは公式設定の使用条件を満たさない。


 俺は、設定を台無しにした。

 この企画を考えてくださった裏方の方々へ、なんとおわびをすればいいのだろう。持てる能力のすべてを捧げ、精神錯乱状態になるほどの苦悩を経て、築三十年のおかしな設計のアパートをこしらえ、夏のホラーという前代未聞の斬新な企画を立ち上げてくださった。噂によると担当者は直後に過労死され、この企画の成功を遺言として残したそうだ。欠員を埋めるため、八月一日に総合職が募集されのは記憶に新しい。


 だが、そんなことはどうでもいい。俺はミステリの探偵なので、ホラーなんか糞食らえだ。大麻の栽培が行われていたように、これはホラーではなく、ミステリなのだ。そちらさえしっかりすればいい。


 だから、裏野ハイツ事件のすべての謎を解き明かすのだ。


 謎はまだ残っている。


 十円玉は誰も手を触れていないのに、なぜひとりでに動いたのだろうか。

 テーブルの下には人が隠れる余地はなかった。十円玉はごく普通のもので、小細工がしてあるようには見えなかった。


 俺は応接セットのところに行き、ウィジャ盤を眺めた。

 どんな不可能犯罪も適切な公式に当てはめれば必ず解ける。

 今回の公式は、これが設定のある企画ということだ。


 探偵が登場し、大麻を栽培する犯罪者が登場するなどミステリ的な要素を含んでいても、あくまでこれはホラー小説であって、すべての謎が合理的に解き明かされる必要がない。いや、謎が残っていなければホラーにならない。


 通常のミステリなら、磁石を使って動かしたなどというトリックが暴かれるが、夏のホラー企画のため、どうしても幽霊の仕業にしなければいけない。そういう事情の元で、事件が起きたのだから、仕方がない。

 この二十一世紀の世の中で、信じられないことだが、幽霊の意志で十円玉が動いたのだ。

 探偵の立場としては心苦しいが、設定上そうしなければならない。


 俺は、ノックスの探偵小説十戒第二条を破り、超自然現象を扱ってしまった。

 エラリー・クイーンにどう顔向けすればいいのだ。

 ファイロ・ヴァンスが見下している。「ヒュー君、君は馬鹿だね」

 シャーロック・ホームズが皮肉な笑みを浮かべる。「田圃のかかしは僕ではなく、君のことだったんだね」

 サム・スペードがあきれている。「とんだハードボイルドだったな」 

 リュー・アーチャーはご機嫌斜めだ。「名前は俺と似ているが、あんたとは関わりたくないね」


 困り果てた俺は、警察庁長官に出世している昔の部下に電話をかけた。

「これはこれは、先生のほうから私にご連絡をいただけるとは」

「困ったことが起きた。君の力を借りたい」

「どうなされたんです」

「世界一の名探偵であるこの俺が、謎の怪奇現象を幽霊の仕業にしてしまった……」

 俺は詳細を説明した。彼は、俺の予想外の言葉に驚き、一瞬言葉を失い、

「まさか先生がそんなことを……」と絶句した。

「俺だってスーパーマンじゃない。たまにはこんなこともあるさ」

 俺は平静を装った。

「先生はスーパーマン以上のお方です」

 こいつはいつどんなときも、お世辞を忘れない。

「何かいい対策はないものだろうか?」

「それならこういうのはいかがです。先生は他の事件で忙しく、その事件は途中から我々警察が引き継いで、警察の公式見解として十円玉がひとりでに動いたと発表するのです」

「マスコミはそれを受け入れるだろうか」

「彼らだって、夏のこの時期には、テレビやラジオでさんざん納涼ホラー企画を行っています。警察を批判できる立場ではないはずです」

「つまり、日本の警察は、少ない予算のなか、夏のホラー企画を行ったということか?」

「タレント呼んで、一日署長をやることにくらべれば、費用は安いものです」

「ありがとう。恩に着る」

 俺はそういって電話をきった。これまで何の役にも立たない無能な男と思っていたが、いざというときには助かる。


 問題を解決した俺は、プランシェットの上に指を乗せた。

「鏡よ、鏡、世界で一番賢くてタフな探偵はだあれ?」

 と質問すると、

「お」「ま」「え」という答えだった。


 俺はそこで満足し、十円玉から指を放した。すると、まだ続きがあるようで、硬貨が独りでに動き出した。


「が」「ば」「か」「だ」


 続けると、「お」「ま」「え」「が」「ば」「か」「だ」となる。


 おまえが馬鹿だ。


 はて? どこかで聞いたような言葉だ。


 そうだ、思い出した。 

 俺が事件を解決しそうになると、必ずこの言葉を投げかけて来る一人の幼児がいた。


 彼の名はあらきまこと。

 おまえが馬鹿だ。

 いつもこの言葉を言うとき、彼の目は真剣だった。それは決して俺への悪口ではない。おごり高ぶる俺への警告だった。


 しかし、今回は彼本人から告げられたわけではない。たまたま彼の言葉と同じになっただけで、そこにたいした意味はない。俺は軽く受け止め、気にしないことにした。



 米国で発売されたウィジャ盤と違い、手作りのこの盤は処分する必要がある。俺はポケットからジッポーを取り出し、火を点けた。

 そのとき「熱い」という女の声が聞こえた気がしたが、気のせいに決まっている。


 もうひとつ、プランシェットも処分する必要がある。期限は三日以内。これは燃やすわけにもいかず、使い道を考えてみたが、大富豪の俺には十円で買える具体的なものが浮かんでこなかった。


 そうだ。後で園児におこづかいとして贈与しよう。無論、贈与税はかからない。


 この件はこれで終わり。別の仕事に取りかかろうと考えていると、ちょうど園児達が登園する時刻で、廊下のほうが騒がしくなった。


「やだ、おうちに帰る」

 女の子がごねる。

「ダメです。幼稚園に行きなさい」と注意する母親の声。

「あ、あつし君のママだ」

「おはようございます」


 ドアをノックする音がした。響子が出勤してきたと思ったら、そっとドアが開いたので客のようだ。


「まだ、営業時間前なんですけど」と俺は言った。「ですが、準備も何もあったもんじゃないから、応対します」


 客は、無言のまま近づいてきた。

 俺は長椅子の上で体をひねり、訪問者のほうを見た。


 笠松保育園のあらきまことだった。

 俺の目の前まで来ると立ち止まり、

「おまえがバカだ」といういつものセリフを言った。


 ただその声は幼児の声ではなく、地獄の底から響いてくるような野太い男の声だった。


 俺は、プランシェット代わりに使った硬貨を彼の手に握らせると、

「少ないが、これでお袋さんに土産物でも買ってあげな。親が生きてるうちしか、親孝行できないんだよ」と言って、彼の肩を叩いた。


 それから俺は、呪われし笠松ビルを出て、太陽の光を浴びながら、裏野ハイツに向かって歩き出した。

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Mr.ハードボイルド ~裏野ハイツの裏の顔 @kkb

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