第4話
幽霊が出たときに備え、リビングと洋室の間のドアは開け放っておいた。それで洋室にいても、玄関ドアをノックする音が聞こえる。
顔を横に向けると、外の明かりが部屋の中に差し込んでいた。
いつの間にか眠ってしまっていたのだ。幽霊の足を見た気がしたが、あれも夢なのかもしれない。
どこからどこまでが夢だったのか、俺にもわからない。
少なくとも寝袋に入り、抜け出せないのは事実のようだ。
なぜなら、今も抜け出せないからだ。
ドアが開く音がした。足音が近づく。
「おっはよう」という響子の明るい声がした。
もう一つ、ばたばたとうるさい足音がする。
「何してるの?」
俺は声のほうを見ようとしたが、目の前が塞がれている。
「わかりました。私が移動します」
響子は目の前に来て、蓋を上げてくれた。俺の顔をのぞき込む彼女の顔の横に、小さな男の子の顔があった。
「ゆ、幽霊」
俺は叫んだ。
「どこに幽霊がいるの」
「こ、子供」
「ああ、ゆうすけ君ね」
どこかで見た顔だと思ったら、笠松保育園の園児ではないか。
「前から疑ってたけど、君の子だったんだね。父親はあの保育士かい?」
いい年こいて、「ませいわお」という名札をつけた青年だが、見た目はモデルのようで、ときどき響子が色目をつかっているのを俺は見逃さなかった。
ところが彼女は、
「ほら、パパだよ。ご挨拶しなさい」と子供に言う。
「たぶちゆうすけです。さんさい」といって、子供はぺこりと頭を下げた。
三歳?
俺は彼女を見て、
「もしかして、引っ越しの後で愛し合った結果か? 何故、子供を産んだことを黙ってたんだ」
と非難した。
「いつあなたと愛しあったというの。それに引っ越しは一年前」
「なんだ、他の男の子供か」と俺は落胆した。
「いつものことだけど、面倒くさい人ね。わかりました。はじめからわかるように言います。私立探偵である私は、ここの大家さんから幽霊が出るので調べて欲しいと頼まれました。心霊現象ではなく事件性があるかもしれず、また一人だと怖いので、あなたと夫婦という設定にしました。
私はそれだけでいいと思ったんですが、あなたが教えてくれた例の間取り図が載っているサイトを調べました。すると、三歳くらいの男の子を時々見かけると記されてました。そこで、さのえりか先生に相談して、先生からゆうすけ君のお母さんにお話していただき、私が保育園に送っていく代わりに、この子を少しの間預かることになりました」
「あんたの説明は長すぎて、日が暮れちまうぜ」
俺の言うことは誇張ではない。もう夕暮れだった。おかげで何を聞いたのかさっぱり思い出せない。
「もういいです。理解する頭がない人に説明しても無駄だとわかりました」
わかりました。彼女は確かにそう言った。
「わかればいいんだ。わかれば」
彼女が俺のことを理解してくれて、俺はハッピーな気分だった。これまで誤解ばかりだったが、ようやく二人の気持ちが通じ合ったのだ。
「それでは、これからここのアパートの人たちに挨拶に行きます」
「そうだな」
「挨拶に行きます」
「是非、行くべきだ」
「だから、早く起きてください」
「起きたいのはやまやまだが、ここから出られない」
俺は恥をしのんで、事実をうち明けた。
「歳のせいで筋肉痛?」
「仕組みはわからないが、寝袋から体が抜けないんだ」
「抜けないって? わかった。スリムサイズの寝袋に無理に肥満体を押し込んだから出られないんだ」といって、彼女は笑った。意味がわかっているか不明だが、ゆうすけもつられて笑った。
「人をデブ扱いするな」
俺は叫んだ。
ピザの食べ過ぎで自宅ドアから出られず、壁を破壊して救出される本場のデブに較べれば、寝袋から出られないくらい肥満のうちに入らない。
「ピザ頼んだの?」
「ラーメンしか食べてない」
「まかない飯ね」
「俺は閉店間際の従業員じゃない」
「そうだ、ゆうすけ君、ピザ食べようか」
「でんわするの?」
「そうじゃなくて、ピザ屋さんに行くの。それじゃ、所長、後よろしく」
彼女は、子供をつれて出ていこうとする。
「ピザなら好きなだけおごるから、ここから出してくれ」
俺は必死で叫んだ。
「ゆうすけ君、おじさん出してあげて」
「はい」
ゆうすけは俺の前に来ると、両手で顔をつかみ、「よいちょ」といって、後ろに引っ張った。幼児の力ではびくともせず、尻餅をついて、泣きながら響子のところに戻っていった。
「仕方ないわね。非力な乙女でもがんばってみるか」
響子も同じ行動をとった。ウェイトがある分パワーもあり、俺は体ごと床の上を滑る。
「痛い、痛い」
「おかしいわ。どうして抜けないのかしら」
彼女は、わざとらしくとぼけている。
「顔を引っ張るだけじゃ、動かないことくらいわかるだろう」
寝袋を押さえながら、引っ張らないと意味がない。その場合、人体に危険があるが。
「あっ、その手があったか」
江戸川乱歩の小説に芋虫という作品がある。戦争で手足を失った主人公は、身動きがとれず、妻に虐待される内容だ。今、俺は芋虫のように無力だ。6フィート2インチの大男が、女子供にいいように扱われている。
「虐待なんかしてません。少しふざけただけです。でも、どうやって出せばいいのかしら」
さすがの彼女も方法が見つからず、困惑しているようだ。
最悪の場合、はさみやカッターなどで寝袋自体を切り裂くことになる。それも仕方ない。
すると、彼女はスマホをいじりだした。
「寝袋 ウツボカズラで検索……。あった、あった。中に輪っかのついたひもがあって、それを引けば、口の部分が緩むそうです」
そういえば、ちょうど右手の辺りに、プラスチックの小さな輪があった。俺は中でそれを引いた。それで、袋の口はゆるみ、俺は無事脱出できた。
「あんたらのおかげで命拾いしたぜ。約束通り、これからピザ屋につれていってあげるが、その前にこいつに落とし前つけてもらう」
俺はそう言って、憎っくき寝袋を上から踏みつけた。
「バカなことしてないで、ご近所さんに挨拶」
響子に言われて、外に出た。
偽装家族である俺と響子とゆうすけは、まず始めに101号室のドアをノックした。
返事はない。
「会社員だから、仕事に行ってるのね」と響子はあきらめがちに言った。
ゆうすけはあきらめない。
ドアを蹴って、「バーカ」と叫んだ。
「よしなさい」彼女は慌てて注意した。「おとなしい子という設定なんだから。本当にあそこの園児はこんな子ばかり」
彼女の言うように、笠松保育園の子供達はどいつもこいつも礼儀知らずで、親の顔が見てみたい。
「他の幼稚園を当たるべきだったな。あそこは大人をバカ呼ばわりする悪ガキしかいない」
「人ごとみたいに言わないで。あなたがバカみたいな大人だから、子供たちは大人をバカにするようになったんじゃないの」
次は隣の102号室だ。昨夜、俺に苦情を言ってきた人物だが、名前は聞いていない。他の部屋同様、表札がかかっていない。
俺はドアをノックした。
ここも反応はない。
「また留守みたいね」
響子があきらめかけたそのとき、ゆっくりとドアが開いた。
「なんです?」
昨日の男が顔を出した。
「また、おたくですか。おや、こちらは」
男は、偽装家族の妻役と子供役に気づいた。
響子は俺を一睨みすると、男に向き直り、
「隣に引っ越して来た笠松といいます」と名乗った。事務所のある笠松ビルから名前を借りるとは発想がせこすぎる。
「すると、こちらがご主人?」といって、男は俺を見た。「なんか、裏事情みたいなこと話してますけど」
「気にしないでください」
響子は、得意の作り笑顔を浮かべた。
それで、一旦はうまく行きかけたが、
「たぶちゆうすけです。さんさい」
と子供が本名を名乗ってしまった。
「?」
囚人102号は状況を理解できぬようで、「私をからかっているんですか?」と疑いの目を向けてきた。
そこで俺は、「その通り。からかっているんです」と言った。それから、
「今日の八時に203号室で降霊術を行いますので、是非というか、何が何でも来てください」
と用件を伝えた。
「降霊術? 昨日もそんなこと言ってましたね」
「このアパートに出る幽霊を呼び出して、本音を聞くのです」
「私の役割は?」
「司会進行と質問係をしてもらいます」
男は少し考えると、
「まさかインチキじゃないでしょうね。出席するかどうかは今のところ保留です」
といって、ドアを閉めた。
ドアが閉まると、
「もう少しちゃんとしてよ」と響子はゆうすけを叱った。
「ゆうすけ君じゃなく、所長です」
その隣にも挨拶しなければならない。俺はドアを叩き、
「すいません。新しく引っ越して来た者です」と声をかけた。
反応はなかった。
階段を上りかけていた響子は、
「それコントのつもり? 自分の借りた部屋に挨拶しに行く馬鹿なんている」
と俺に聞いてきた。
「もちろん、冗談に決まっているよ」
俺はそう言ったが、本気で103号室に挨拶するつもりだった。
たぶちゆうすけも面白いことが起こっているとわかったようで、
「おまえがバカだ」と、年長組のあらきまことの口癖を真似た。
それから俺たちは二階の住人にも挨拶した。といっても201号室に年金暮らしのおばあさんが住んでいるだけだ。
老婆は、お茶でも飲んでいくよう誘ってきた。響子は遠慮したが、ゆうすけが土足のまま入り込んだ。それで仕方なく、偽装家族がお邪魔することになった。
「自分が土足で上がったのを、子供のしたことみたいに表現しないでよ!」
いままで数知れず響子を怒らせてきたが、ここまで憎しみに満ちた目は見たことがない。
「いい大人がなんてことするのよ!」
彼女は両手で顔を覆って、その場から逃げ出した。子供も一緒に逃げ出した。そこで俺一人で年寄りの愚痴を聞くことになった。
設定通り、気さくで面倒見のいいお婆さんだった。ここに住み始めてもう20年は立つそうだ。俺としては、漢字の二十年を使いたかったが、設定のほうが20年なので仕方がない。
「二階はおばあさん一人で寂しいでしょう?」
と俺が聞くと、
「お隣さんがいるからそんなことないよ」
おかしなことを言うものだ。隣は留守のはずだ。すでに認知症が始まっているのだろう。
「認知症? そんなことないよ」
「そういえば、幽霊が出るって聞いてますけど」と、俺はさりげなく本題を切り出した。
すると彼女は、箪笥の引き出しから何かを取り出した。
八歳くらいの男の子のカラー写真だ。すでにボロボロになっており、頻繁に手にしていたのだろう。
「お孫さんですか?」
「なんで幽霊になってしもうたのやら」と、老婆は意味不明な言葉をつぶやいた。
これ以上長居は禁物と俺は悟り、
「今日の八時に203号室で心霊実験をしますので、ご協力お願いします。きっとお孫さんの気持ちがわかるでしょう」
と用件を告げ、部屋を出た。ドアを閉めたとき、自分が靴を履いたまま、部屋に上がっていたことに気づいた。
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