第2話

 裏野ハイツは木造二階建てで、各階には三部屋ずつある。大家はその隣の庭付きの一軒家で暮らしている。俺たちはまず大家を訪ねた。


 玄関で呼び鈴を押すと、「は~い」という年増女の素っ頓狂な声が聞こえた。

 ドアが開き、女が顔を出した。歳の頃は六十。どう見ても十六には見えない。

「は?」

「あの、ご依頼された件で伺ったんですけど」

 響子は頭を下げた。

「あ、探偵さんね」

「こちらは?」

 女は、俺を指して彼女に聞いた。

「所長です」

「独り言ばかり言うって聞いてた人ですよね」

 大家はそう言った。


 俺が独り言を言うようになったのには、それなりの理由がある。俺は今から三十年以上前に三重県の漁師町で産声を上げた。父親も祖父も漁師で、元気な男の子に育って欲しいという願いを込めて、俺は仮面ライダーにちなんで頼太と名付けられた。

 生まれたばかりの赤ん坊は、あまり本名で呼ばれない。俺はらいちゃんと呼ばれた。それが言いにくいので、すぐにらあちゃんに変わった。

 親父が、市役所に名前を申請に向かった。このとき他に親戚が付いていってくれればあの惨劇は起きなかった。


「いまはそんな話いいから、大家さんの話伺います」


 俺と響子は家にあがった。居間に案内され、お茶を出されると、俺の閉ざされた心が解放され、世間話がはずんだ。


 漁師の朝は早い。親父は一仕事終え、酒盛りをした後で市役所に向かった。ひどく酔っているので、申請用紙にうまく記入できず、窓口の職員にミスを指摘された。それが頭に来たようで、やけくそになって、人様の本名をらあちゃに改名してしまった。

 親父はそのことを黙っていた。気がついたときは後の祭り。俺は幼稚園以降、まともに名前を呼ばれたことがない。クラスメートからは「変な名前」と呼ばれ、日本人なのに外国人扱い。


 小学校に入ると、さらにエスカレートした。

 板子一枚下は地獄と言われる、荒っぽい漁師の仕事。

 漁師町の子供は気性が荒い。ガキ大将みたいな奴らばかりだ。

 俺は、奴らにとって格好の攻撃対象となった。

 イジメなんて生やさしいものじゃなく、集団リンチだった。

 朝礼のとき前に立たされ、至近距離から顔面にドッジボールを全力で投げつけられた。

 休み時間には、三人ほどに髪の毛をつかまれ、廊下を端から端までひきずられた。しかも、横から六人ほどがシューズの裏で叩き付けてくる。

 今から思うとかなりすごいが、暴力が常態化している学校なので、それほど目立たなかった。

 学校は敷地が広く、遊具がたくさんあったが、喧嘩にあけくれ、誰も遊んでいなかった。

 うちのクラスなどは、隣のクラスと戦争をしていた。

 きっかけは番長グループのちょっとしたいさかいだ。

 それがクラス全体に広がって、戦争と呼ばれるようになった。

 子供同士のトラブルなんて、甘いものじゃない。

 数人がかりで一人を滅多打ちなんて当たり前だ。

 戦争となると、素手での殴り合いではなく、武器を使う。

 ほうきなどの凶器で、相手を突いたり、たたいたりする。時には、相手のクラスに殴り込むので、女子も戦わなくてはいけない。

 うちのクラスは構成員に序列があり、番長を頂点とした暴力団のようだった。番長は様付けで呼ばれた。

 相手のクラスは自由で都会的なチーマーだ。番長は親しみを込めて、君づけで呼ばれていた。

 そのくせ、うちのほうが劣勢だった。チーマーに負ける暴力団ほど情けないものはない。

 負けている理由は、番長が弱かったからだ。なぜ、彼が番長になったのかわからないが、とにかく気が強く、言うことだけは勇ましい。

 番長本人はほとんど喧嘩をせず、数人の有力メンバーが主に戦った。

 相手クラスの番長は、身体能力が高く、クラスで人気者のスポーツマンといった感じだ。


 壮絶な一学期が終わり、夏休みが来た。

 俺は、近所の子供二人とセミを獲りに行った。日差しは強いが、さわやかな風が心地よい朝だった。

 すぐに虫かごが一杯になった。まだ帰りたくなかったので、その場でぶらついていた。

 二学期になったら、主力メンバーに入れてもらおうと、ブルースリーの真似をしていたときのことだった。


「アチョー」


「なかなか筋がいい」

 黒装束の老人が、突然目の前に現れ、俺に向かってそう言った。


「おじさん、誰?」

 俺は聞いた。


「十七代目服部半蔵」

 忍者は言った。


「様に仕える者だ」


「忍者?」

 服部半蔵の名は聞いたことがある。


「どうじゃ、小僧。わしのもとで修行をせんか?」

「知らないおじさんについていっちゃダメだって先生が言ってたよ」

「ならば仕方がない」


 忍者は俺に縄を投げた。縄は俺の胴体にからみつき、はずれない。


「助けて!」


 他の二人の子供は逃げてしまった。俺はそのまま車に乗せられ、どこかの山小屋に連れ込まれた。

それは、外から見るとただの山小屋だった。だが、脱出を試みると、仕掛けが作動し、俺は抜け出せなかった。


 それでも俺はあきらめなかった。

 拳を鍛え、床を破壊し、穴を掘った。穴から出ると、外に師匠が待ちかまえていた。


「おまえの考えることくらいお見通しだ」


 師匠は、俺の前に立ちふさがった。

 俺は師匠の頭を飛び越え、そのまま山を下りた。

 すでに五年の歳月が経っていた。

 本来なら小六の夏休みだ。

 同じ小学校に復学した。すでに何度もクラス替えが行われ、過去のいさかいが嘘のように、かつての敵同士がなかよくしていた。

 あの戦争は何だったのか。

 うちの番長は、すでに番長でなく、「やん」付けで呼ばれ、お調子者で有名だった。



 俺は、一年のとき以上に馬鹿にされたが、五年の修行を経て、子供ながら、戦闘力は下手なプロレスラーより上だ。

 忍者は人前で戦ったりしない。こっそり相手をつけまわして、不意打ちした。俺にやられたことにすら気づいていないはずだ。

 それが、まもなく卒業というときに、一年のときの番長と敵クラスの番長を堂々とたたきのめした。それで学年全体が敵になった。このまま中学に進学すれば、俺かあいつらのどちらかが滅びるまで戦わなくてはならない。

 卒業後、俺は日本を去った。



「人の話聞いてる?」と響子は俺に質問した。

「ああ、これから大家さんの話を聞くんだよな」

「もう終わりました。103号室の鍵を渡されたので、これから見に行きます」


 俺と彼女は、隣のボロアパートまで歩いた。103号室は一階の端にある。玄関ドアは当然表だが、窓のある方の端。つまり建物の一番端に103号室のドアがあることになる。おかしな間取りだが、間取り図がそうなっているから仕方がない。

 玄関ドアの上には二階に続く鉄階段がある。103号室だけでなく、101にも102にも同じように玄関ドアの上に鉄階段が設けられている。つまり、二階までの階段が三個あることになる。普通は階段は端に一つだけあり、二階の各部屋の前は廊下になっている。おかしな間取りだが、間取り図がそうなっているから仕方がない。


 なにしろ、間取りの変更、住人の入れ替えなど、開示されている物件情報の改変は不可なのだから、この間取りに従うしかない。

 俺に文句を言われても困る。設計した本人に言ってくれ!

 きっとそいつは設計事務所で働いた経験もないズブのど素人に違いない。適当に一部屋分の間取りだけこしらえて、全体がどうなるか、ろくに考えもしないものだから、いざ実際にここを訪れた主人公が混乱することになるのだ。

 俺だって好きで主人公してるわけじゃない。できれば誰かに変わって欲しい。だが、そこいらの探偵の頭では、これから起こる難事件を解決できないから、わざわざ俺が登場してやっているのだ。


 103号室の前に来た。

 響子が、鍵を錠に差し込み、回すと、ガチャという音がした。そっとドアノブを回す。

 幽霊が出ませんように。彼女は心の中でそう祈っていた。


「私の心の声を勝手に作り出さないで。本当に怖いんだから」

 彼女は俺のほうを見てそう言った。悪鬼のごとく、その目は血走り、口の端から鮮血がしたたっていた。


 土間に足を踏み入れると、すぐに9帖のLDKだ。

 空き室なので、調度品の類はなにもないかと思っていたが、流し台は備え付けで、32インチの薄型テレビもある。


「話聞いてなかったんですか? ここですごすのも退屈だから、大屋さんが気を遣ってテレビを貸してくれたんです。もちろん、電気も通じています」


 リビングの隣は6帖の洋室だ。さすがに絨毯は敷いておらず、フロアリングがむき出しだ。洋室はテラスに面し、大小二つの物入がある。それ以外の詳しい間取りは、例の間取り図を見てもらえばおわかりいただけると思う。


「例の間取り図って何?」

「この部屋は、例の間取り図に従って存在する」

「従わないとどうなるの?」

「従わないと、俺達は裏野ハイツに関わることができない。絶対のルールなんだ」

「それって、幽霊と関係あるの?」

「当然さ」

「前の住人の方はそのルールを破ったのね。その祟りで幽霊が出るようになった」

「たぶん、君の言うとおりだと思う」

 前の住人が逃げてから、103号室は廃墟のようにひっそりとなりをひそめている。でも、新しい住人が入ったのだから、もう廃墟なんて言わせない。


 103号室。そこは二人が暮らす愛の巣だ。四畳半一間の空間は、俺たち学生にとって充分な広さだった。愛があれば、貧乏なんてなんてこともない。


「四畳半じゃなくて、9帖と6帖。学生でもないし、一緒に暮らしてません」

 そう言い残し、彼女はこの思い出深い裏野ハイツを出ていった。


「まだ出ていっていません。でも、もうすぐ他のクライアントと打ち合わせがあるから、これからでかけます。所長はここで夕方六時まで留守番してください。そこで私と交替」


 ひとりぼっちになった俺は、無性に外の空気が吸いたくなり、窓を開けてベランダに出た。

 ベランダのすぐ下には、神田川が流れていた。裏野ハイツの裏の顔が神田川だったとは、例の間取り図を見てもわからなかった……。

 どこからか南こうせつのあの曲が流れている。長髪を切って就職したが、俺は学生運動をあきらめたわけではない。

 以前、このアパートで、俺は彼女と同棲していた。彼女は学生運動をあきらめた俺を非難し、ここから出ていった。


「ただいま」

 ここから出ていった彼女が、銭湯から戻ってきた。意外と浴衣が似合っている。湯上がりのいい匂いがする。

「もう戻ったのかい? 中古でいいギター手に入れたから、吉田拓郎の歌でも歌ってあげようか」

「それどころじゃないわ。さっき井戸端会議で聞いたんだけど、日本赤軍が浅間山荘に立てこもって大変なの」

「本当かい?」

「学生運動、この辺で潮時ね」

 そのとき青春が終わりを告げた。

「俺も髪を切って就職するよ。もう若くないからな」

「ギターはどうするの?」

「買ったばかりだけど、中古屋に売ってくる」

「買った本人が持っていくと、中古屋さんに失礼よ。代わりに私がいくわ。もちろん、売ったお金は私のもの」


 彼女は俺からギターを受け取ると、フォーククルセダーズの帰ってきたヨッパライを歌いながら、部屋を出ていった。


 そして俺は、史上空前の視聴率をあげたあの中継を見ようと、テレビを点けた。

 だが、テレビ画面には浅間山荘ではなく、吹き替えなしのインド映画が放送されていた。字幕はあったが、ヒンディー語で使うデーヴナーグリー文字なのでさっぱりわからない。昼間から、なんというものを放送するものだと思ったが、テレビ離れの影響でテレビ局も自前でドラマを製作する予算がなく、海外から安く輸入するしか生き延びる道はないのだ。

 それにしても日本語字幕さえないとは、視聴者はどうすればいいのだ。


 他にすることがないので、仕方なく映画を観ることにした。言葉はわからなくても、映像だけで、おおよその内容はわかる。貧乏な主人公はヒロインにひとめぼれ、金持ちの男と奪い合い。話の筋と無関係な象が画面せましと暴れ回る。脈絡もなく、派手な格好の大勢のダンサーが出てきて、陽気に踊りまくる。

 こいつらのせいで、せっかくの七十年代フォーク気分が台無しだ。


 そのうちに雨が降ってきた。

 すると、画面が乱れ始めた。せっかくいいところだったのに、そこであきらめた。

 きっと、幽霊の仕業だ。

 誰もがそう考えるが、俺は何かおかしいような気がした。


 雨が降ると、テレビの画像が乱れる。この因果関係はいかなるものなのか。

 世間の言うように、果たして幽霊の仕業だろうか。

 この人類最大の謎を解いた者は、これまで誰もいない。

 どうやら名探偵パスカルの登場のようだ。

「どんなミステリーも、適切な公式に当てはめれば、必ず解ける」

 俺はそうつぶやき、意識を問題に集中した。

 思考マシンと化した俺の周囲に、階乗が持つ素因数の数を求める、ルジャンドルの定理の公式が浮かび上がる。

 違う、この公式ではない。

 そうだ、あれだ……… ¢▽∂∬Å♂℃※⊆〒↑⇒∞∧∃≒‰♪¶%∴±¥☆£◎§★ゑグヰヰΨζΘΔΦυπЮЁЙ┿┻㌢㏄㍑㌘㈲℡㍼欝 …………


 わかった!!


 俺の暮らす夜景の綺麗な最高級マンションと同じで、このボロアパートもアンテナレベルが低かったのだ。

 俺は、テレビの前に部屋の鍵と彼女への伝言メモを置いた。

「これから旅に出ます。探さないでください。いままでありがとう」

 テレビ鑑賞という楽しみを失って、俺はいつものように大都会をさまよい歩くことになった。



 手持ちの金が尽き、日雇いの仕事を探していると、閉店間際というラーメン屋の看板が目に入った。店主に頼んで、そこで配膳と湯切りをしていると、俺の携帯が鳴った。


「今、どこにいるの?」

 最近疎遠になっている響子だった。

「赤ちょうちんの屋台で一杯ひっかけてる」

「もう交替の時間すぎてるから、早く帰ってきて」

 そう言われたが、手ぶらで帰るわけにはいかない。夏なのに寒い夜だった。きっと彼女はキャベツをかじっている。

「もうじき閉店だから、おでんを買って帰るから、待っててね」


 俺がそう言っても返事がない。

「どうした?」

「で、出た……」

「何が?」

 返事の代わりに、ドアを開ける音と走る足音が聞こえた。


「おい、大丈夫か?」

 相変わらず、返事がない。人は本当に怖い目に遭うと、悲鳴も出ないというのは本当だった。

 しばらくして、彼女からメールが入った。

「ユウレイガデマシタコワイノデイエニカエリマス」


 いつも彼女からのメッセージはわかりにくい。探偵趣味が高じて、なにかと暗号を使いたがる。だが、どんな暗号も適切な公式に当てはめれば、必ず解ける。

 この場合は、おそらく逆から読むだけの簡単なものだ。すると、

スマリエカニエイデノイワコタシマデガイレウユ、となった。逆から読んだだけでは意味不明だ。もう一手間かけている。そこで、ラザフォード散乱の公式から、


 幽霊が出ました 怖いので 家に帰ります と導いた。


 数々の修羅場を体験した彼女がそんな弱音を吐くとは、相手の幽霊はよほど恐ろしいに違いない。

 どんな謎も適切な公式に当てはめれば、必ず解ける。俺は必ず、幽霊の正体を解き明かして見せる。



「まだ閉店してないよ。そんな無駄話してないで、さっさと洗い物してよ」

 店主にそう言われた。

 彼の言うとおり、俺の前には使用済みの器やレンゲが山と積まれていた。俺は懐からタバコを取り出すと、燃えたぎるガスの炎に晒し、火を点けた。

「仕事が終わった後の一服はとりわけうまい」


「早く、仕事しろ!」


 勤務態度が悪いと言われ、四時間働いて、日当はたったの二千円だった。時給換算で五百円。法定最低賃金を下回ると抗議すると、

「あんたの場合はアルバイトじゃなく、便利屋の請負だから歩合制。自分がどれだけ仕事したかよく考えてみろ」と返された。

 これでは今はやりのブラック企業だ。俺は二千円を受け取ると、

「こんな店、もう二度と来ないからな」と言い残し、その店を出た。去り際に、

「また何かありましたら、実績と信頼の便利屋ラーチャー&スミスバーニー探偵社へご連絡ください」と念を押しておいた。


 夜遅いので電車は動いていない。俺は愛車マセラティで裏野ハイツを訪れた。ここには駐輪場はあるが、駐車場がない。そこで大家の家の庭に車を停めた。軽一台くらいの余裕はある。イタリアのスーパーカーブランドのマセラティなのに、俺の車はなぜか日本の軽自動車ほどの大きさだ。


 103号室は明かりが点いたままだ。

 ドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。幽霊の出現に混乱した響子は、照明を切ることもなく、鍵をかけないまま、ここを走り去った。

 俺はそっとドアを開けた。

 テレビが点けっぱなしだ。

「お邪魔します」

 といって俺は上にあがった。


 放送されていたのは、最近には珍しいモノクロ映画だ。

 田舎から上京し、東京に染まっていく青年。ガールフレンドが出来、お決まりの同棲。そこに田舎でつき合っていた彼女がやってきた。田舎の彼女はショックで自殺、都会の女は他の男と出来て、主人公のもとをさった。なんともやりきれない話だ。

 せつない映画だったが、途中のCMがそぐわない。

 インド映画のCMで、せっかくの七十年代フォーク気分が台無しだ。

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