Mr.ハードボイルド ~裏野ハイツの裏の顔
@kkb
第1話
都心の最高級マンションで王侯貴族のように暮らしている俺が、築三十年のぼろアパートに住むようになったのには理由がある。
事情は話せば長くなるが、話すほかないので我慢して聞いて欲しい。
「聞いて欲しいって、誰に向かって言ってるの? 小説みたいに独り言話すのは勝手ですけど、まるで聞き手がいるような勘違いはさすがにまずいでしょ」
アシスタントの飯室響子が俺の話に口を挟んだ。彼女は、事務所の窓を開け放ち、洗濯物を干しながら、森のくまさんの替え歌を歌っている。
るん、るん、るん、ハエが飛ぶ~♪
断っておくが、雑居ビルの片隅に位置するラーチャー&スミスバーニー探偵社には洗濯機はない。彼女は自宅で洗濯をして、そこで乾かさずに、日当たりがいいという理由で、わざわざ職場に洗い物を持ってきた。見かけ通りの非常識な女だ。
「こっちも断っておきますが、私は自宅の乾燥機兼用の洗濯機で乾かしてます。理由まで言われると、本当に聞こえるからやめて欲しいわ。それに森のくまさんじゃなくて、ぶんぶんぶん。それ以前に、私歌なんか歌っていません。窓を開けたのは、所長がタバコを吸うので、空気を入れ換えているんです」
伏流煙で迷惑をかけていることには謝りたいが、断じて俺は、格好をつけてタバコを吸っているわけではない。
「そんなことより、例のアパートの件、本気で考えてください」
命にかけて、俺は、格好をつけてタバコを吸っているわけではない。
「格好つけて吸ってるなんて言ってないでしょ」
「わかればいいんだ」
俺はそう言い残し、事務所を出た。
「勝手に出ていかないでください。これからそのアパートについて詳しく説明します」
彼女は応接セットにいた。テーブルを挟んで、二人がけの長椅子が両側にある。俺は彼女の隣に腰を下ろした。
「話しにくいから、隣に座らないでください」
腰を下ろした、と過去形で言ったのに、彼女は俺が座ろうとした場所に手を置いて、隣に座るのをかたくなに拒んでいる。
俺が彼女の向かいに座らないのは、彼女が美しすぎるからだ。真っ正面から眺めたら、見惚れてしまって、仕事が手につかない。
「みえすいたお世辞は結構です。隣に座られると、私が立ったり、座ったりするたびに、クッションが激しく揺れるとかいって、デブ扱いするから、拒否しているのです」
彼女は、身長が5フィート8インチもあるが、体重が130ポンドを越えているので、自分でいうほどスリムな体型ではない。
「私、自分がやせているなんて言ってません。それにフィートとかポンドとか、この間調べたけど、身長はもう少し高くて体重はそんなにありません。所長だって、6フィート2インチもないじゃないですか。自分が読んだ外国の小説に合わせて、現実をねじ曲げないでください」
「そんな無駄話はやめて、仕事の話をしよう」
と、俺はおしゃべり女を注意した。俺はやさしくいったのに、彼女は、万引きをとがめられた小学生のように泣きべそをかいている。
「無駄話が多いのはそちらです。では、さっそく始めます。探偵業務はいつもは私ひとりで担当していますが、今回に限り、所長に協力してもらおうと思います。
依頼人は、裏野ハイツというアパートの大家さん。二年くらい前から、幽霊が出るという苦情があって、住人の半分が出ていって、幽霊アパートというレッテルを張られ、新らしく入居する人もいなくなり、大家さんは困っておられます。
アパート取り壊して、土地を売ればいいんだけど、残っている住人が出ていこうとしないから、それも難しいみたいです。今残っている住人というのがひとくせもふたくせもあって、大家さんひとりでは解決する見込みがなく、うちに頼んだという次第です。
私たちは夫婦という設定で、ここの103号室に入居して、交替で見張りにつきます」
夫婦という設定……それは彼女からの俺へのプロポーズだった。結婚してくださいと素直に言えず、設定という遠回しな言い方だったが、彼女なりの愛情表現だった。
「ごめん、僕からプロポーズすべきだったのに、君から先に言わせてしまったね」
「誰があなたにプロポーズしたというの?」
籍には入れてないが、もうすでに夫婦同然だった。
「たとえ地球が壊れてもあなたとは結婚しません」
彼女のその言葉は、すなわち俺との離婚を意味していた。
「ああ、ややこしい。結婚してないのに離婚なんかできるわけないじゃないの」
彼女が無駄口ばかり叩くので、ちっとも会議がはかどらなかった。ここは保育園じゃないんだから、いい加減、仕事に集中してくれ。
「はい。わかりました。仕事に集中します」
以心伝心というか、俺の表情から気持ちを読みとった彼女は、猛烈に反省した。
その割に顔が怒っているのはどうしてだろう。
さあ、仕事の話だ。どこまで話したか思い出そう。
「今、入居するって言ったよな。事務所のほうはどうするんだ?」と俺は質問した。
「今? かなり前に話したことを、今って言われても困るんだけど……。えっと~、基本交替なので、できるだけどちらかがいるようにします」
「そう言われても、俺のほうは外出する仕事が多いけど」
麻薬捜査官である俺は、エアコンの聞いたオフィスで、書類作成にいそしんでいるわけではない。身分を隠して、やばい奴らの巣窟を渡り歩かねばならないのだ。
「その点ですが、他の仕事はできるだけ入れないようにします。田中産業さんや長岡害虫駆除さんにはしばらく仕事を入れないように頼んでおきました。犬の散歩は、臨時にバイトを雇います」
「どうせなら、研修のためヨーロッパ旅行にでかけますと張り紙しておいたらどうかな」
「それはちょっと……」
「冗談だよ」
ハネムーンはヨーロッパと決めたのは彼女のほうだった。俺は近場の伊香保温泉でいいといったが、彼女の子供の頃からの夢なので、こちらが折れるしかなかった。
しかし、そんな新婚気分を台無しにする驚愕の事実を思い出してしまった。
「ちょっと待てよ。さっき幽霊って言わなかったか?」
「簡単に言うと、今回は幽霊の調査です」
「なんでそれを先に言わないんだ!」
「最初に言いました」
「俺はそんなものちっとも怖くないが、万が一幽霊が出たらどうするんだ?」
「怖くないなら、別に問題ないと思いますが」
俺は名だたるお化け屋敷をすべて制覇した勇者だ。幽霊なんか怖くなかった。その時点では……。
「その時点ではって、この先幽霊と出会うようなホラー表現やめて欲しいわ。本当は私だって怖いんだから」
紹介が遅れてしまったようだ。俺の名は比由らあちゃ。
三重県尾鷲市生まれの三十三歳。生まれてこの方、学校にはほとんど行っていない。小学一年の夏、雑木林で出会った老忍者に拉致され、五年後、自力で脱出した。学業に復帰したものの、授業についていけず、卒業と同時に日本を離れ、ニューヨークを拠点に船員見習いとして、世界各地をまわった。
二等航海士として、ニューヨークからマドリードに向かう豪華客船に乗船していたとき、不可解な連続殺人事件が起きた。その船には偶然、休暇中のニューヨーク市警のパティンソン警部が乗り合わせていた。俺と警部の二人三脚で事件は解決した。俺の探偵デビューだ。日本に戻ると、弁護士のスミスバーニー氏と共同で、ラーチャー&スミスバーニー探偵社を設立し、今日に至る。
これまでに解決した事件は五千件を越える。フィクション、実在を問わず、古今東西の名探偵が総力を合わせても、俺の足下にも及ばない。典型的なアームチェアディテクティブなのに、強面の外見と腕っ節の強さから、Mr.ハードボイルドと呼ばれる。
相棒のスミスバーニーは、「君が弁護士でなくてよかったよ。その優秀な頭脳で弁護されたら、どんな凶悪犯も無罪になるからね」と言うが、
「仮に俺が弁護士だっとしても、悪いやつを弁護するつもりはない。なぜならそれが俺の流儀だからさ」と俺は答える。
伊達にMr.ハードボイルドと呼ばれているわけでない。
「よくそこまで話を盛れますね。Mr.ハードボイルド? 聞いたことないけど、そう呼ばれてるの? どこにスミスバーニーさんがいるの? 一度も会ったことがないんだけど」
新米アシスタントの響子は、まだ俺の本当の姿を知らない。俺の壮絶な過去を知れば、自分がいかに甘えた境遇にいるか自覚することになる。
最初に彼女と知り合ったのは、俺の客としてだった。当時、俺は空き倉庫を借りて始めた「便利屋らあちゃん」が軌道に乗り、笠松ビルの一階に事務所を移転したばかりだった。
廊下の向かい側には、ビルとは資本関係がないくせに笠松保育園という無認可の保育所があり、子供たちがうるさいので、格安で借りることができた。
「引っ越しを頼みたいんですが」と彼女から電話があって、俺は知り合いに軽トラックを借りて、彼女の荷物を運んだ。
彼女は女子大生を名乗っていたが、俺は探偵だと見抜いた。俺の観察眼に惚れ込んだ彼女は、「一生ついていきます。弟子にしてください」と懇願したので、俺は仕方なく彼女を雇った。そのとき、社名をラーチャー&スミスバーニー探偵社に改名した。
「誰が弟子にしてくれと頼んだの? 私は独立したかったけどお金がないから、便利屋さんと一緒にいるだけです。仕事は別ですけど」
今、俺と彼女は、裏野ハイツの最寄り駅の駅舎のなかでベンチに腰掛け休んでいる。休んでいるというのは、そう見せかけているだけで、この近辺の住民の性質を観察するのと、今後の作戦を練っているのだ。
「中で座れなかったから、死ぬほど疲れたって、いってたよね」
「もちろん、フェイクさ」
「たったの徒歩七分だから、こんなところで休んでないで早く行きましょう」
彼女の失言を、たまたま近くを通りかかった駅員が聞き逃さなかった。
「こんなところとはなんです。これでも私たちは毎日必死に働いているんですよ。ちゃらちゃらした格好の水商売の女性に言われる筋合いはありません」
彼女は激高して立ち上がった。売り言葉に買い言葉だ。
「なによ、いきなり。水商売って、お客に失礼じゃない。こんなところだからこんなところって言ったまでのことよ」
「だから、うちのどこがいけないのです? わかるように説明してください」
「第一に駅員の態度、第二に駅員の態度、第三に駅員の態度」
「うちの駅員はみんないい人ばかりです。その問題の駅員を私の前に連れてきてください」
「問題なのはあんたよ」
「だから、その問題の駅員を私の目の前に連れてきてください」
「本人を本人の目の前に連れてこれるわけないでしょ」
「言い訳でごまかしているのは、負けを認めるということですね」
彼女は駅員に問いつめられ、ついに泣き出した。
「すいません。態度が悪いのは駅員さんじゃなくて私です」
駅員の圧勝だった。
気がつくと、彼女の姿も口論の相手の駅員の姿もなかった。
「まずい。置き去りにされた」
俺は慌てて、駅舎から出て、彼女の姿を探した。彼女の行きそうな場所を重点的に当たった。
パチンコ屋に彼女の姿はなかった。俺は一緒に探してくれた店員にチップをはずんだ。
「今日はついてたよ。たったあれだけの時間で、ボロもうけ。気分がいいから三百円あげるよ」
「またおこしください」
店員は百円玉三枚を大切に握りしめ、自分の仕事に戻っていった。
パチンコ屋から出るとすぐ
「あっ、いた、いた! どこ行ってたの?」
と、彼女のほうから声をかけてきた。
「探したのはこっちのほうだ」
「なんで携帯でなかったの?」
「せっかくの大当たりを携帯なんかで邪魔されてたまるか」
「もしかしてパチンコ行ってた?」
「君を捜すため、客の振りをしただけだ」
「さすが探偵といいたいけど、結局、私を見つけることができなかったみたいね」
と、彼女は上司である俺を見下した言い方をした。
彼女の嘲りは、裏返せば俺の才能への嫉妬だった。俺はわざと彼女に見つかるようにしたのだ。彼女はそのことに気づいているが、自分の負けを認めたくないので、言い出せないでいた。
「しゃべってないで、歩いてください」
それから数分間、住宅街を歩き続けた。
「あ、あそこじゃない? 裏野ハイツ」
彼女は、一軒のボロアパートを指さした。
「ほ、本当だ。嘘じゃなかった。裏野ハイツはやっぱりあったんだ」
俺は感激に打ち震えた。古里の連中は皆そんなものは存在しない。ただの伝説だと言っていたが、俺は諦めることなく、古文書をひもとき、裏野ハイツを探し続けた。
苦労のかいあって、ようやく目的の建物を見つけだした。駅から徒歩七分という紹介だったが、優に一時間は超えている。誇大広告もいいところだ。
「誇大広告じゃなくて、あなたがパチンコしてたから時間がかかったんです」
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