先生と私の『盲信』

 また来たのか、と言われようと、私は何度でもここに来る。壊れかけのアパートの階段を登った3つ目の部屋だ。

 ドアを開けると、無反応だ。

「居ないはずはない…ということは」

 靴を脱ぎ、奥の部屋まで入ると案の定先生は眠っていた。いつものソファーに横になって小さい寝息を立てている。

 この部屋にはソファー、テーブル、テーブルの上の煎餅、箪笥、本、足元のペットボトル、CDコンポ、そして先生と私しかない。殺風景といえば殺風景、散らかっているといえば散らかっている。ボロボロのアパートの一室。この部屋はひどく狭いが、私にとってこの部屋の存在は何よりも大きい。

 そういえば先生は今どんな本を読んでいるのだろう。ソファーに投げ出してあるこの本だろうか、それともテーブルに積んである方かな。実は、私の理解力ではこの先生がどういう基準で本を買い、読んでいるのか見当もつかない。難しい哲学書や学術書ばかりあるのかと思っていたら、むしろそれらは本棚の2割ほどで、一般の書籍や文庫本が多いようだ。以前訪ねたとき少女漫画の雑誌を読んでいたときは流石に驚いたが、先生曰く「文章や画像といったものは根本的には情報にすぎず、読むものが何を得、考えるかが全てである」そうなので、いろいろ意味があるらしい。

「ん…」

「あ、起きましたか」

「なんだ…また」

「来ました」

「ふぅ、そうかい」

 先生はのそのそ起き出すとペットボトルに手を伸ばした。おなじみのラッパ飲みだ。

「どうした突っ立って。何か物色してたのか」

「いえ、別に。ただ先生が今どんな本をお読みか気になりまして」

「そうか」

 先生はまたペットボトルに口をつけた。答えないのか。

「それで、今日は何だい」

「あ、宗教についてです。特に、カルトな方です」

「ほう」

 おや、今日の先生はけっこう食い付きがいい。私は先生の向かいのソファーに腰を下ろし、ノートを開いた。今日のメモは世界史のノートに書いたのだ。

「またそんなノートに…ちゃんと勉強してるのか?」

「大丈夫ですよ。この前のテストも学年トップでしたし、模試の志望校判定も軒並み安全圏です」

「真面目なんだか不真面目なんだか」

「私がここに来始めた頃先生に『先生は教養も知恵もお持ちなのに、なぜ社会に出て行かれないんですか』と訊きましたよね。先生はそれに…」

「『社会が知恵も教養も"お持ちでない"から、言って聞かせるのが面倒くさい』と答えたんだったな。ふぅん、つまりそういうことか」

「はい」

口元を緩めながらそう答えると、先生は「やれやれ、キミまで世捨て人になってどうする」とブツブツ言いながら、ソファーにあぐらで座り直した。

「それではお話を始めます…1995年3月20日。東京で地下鉄サ○ン事件が起きましたね」

「あー、そんなこともあったねえ」

「先生がお幾つの頃ですか」

「さあ、いくつだろうな」

 先生は自分の年齢を明かそうとしない。以前何回も訊いたがはぐらかされた。

「そうですか。オ○ム真理教は御存知の通り、あらゆる仏教やキリスト教などを混ぜてオカルトを加えたハイブリットカルト宗教ですね」

「なかなか言うじゃないか」

「事実そんなものでしょう?現在でもア○フなどとして活動を続けています」

「しぶといよなぁ」

「ア○フについてはその実態がたびたびニュースで流れますが…基本的にオ○ム真理教そのままのようですね。例の教祖の崇拝も変わらないようです。そこで私は奇妙だと思ったんです。あれだけの事件を起こし、とんでもないカルト集団だと分かったにもかかわらず、なぜ未だに信仰を続ける人がいるのか、と」

「うん」

「マスコミでは、事件を知らない若い世代が多く入信しているといいますが、今は昔と違ってすぐネットで調べられます。カルトだと知らないから入るっていう論理はほぼありえないと思います。

「それは確かにそうだな」

「そもそもオ○ム真理教に限らず、近代社会で宗教を生活の中心に据えて盲信するということがおかしいと思います」

「テレビのワイドショーでそんなことを言ったら『それが日本人の感性だ』とかお決まりの文句が聞こえてきそうだな」

「あの自称専門家の方々は、きっと西欧人の無神論者の存在を知らないんでしょう」

「まあ、そうだろうな。それで、つまりキミは今回"盲信"することについて話したいということか」

「ええ、そうです」

「ん」

「ただ…今回私は自分で"これだ"という論を考えることが出来ませんでした」

「珍しい」

「だってどうしようもないじゃないですか、国会や警察や裁判所があって、人工衛星が山ほど地球を回ってる時代に宗教だなんて…しかもカルト」

「ははは、まあそうだな」

「なので、先生とお話しながら考えたいな、と」

「いいだろう。じゃあまずはキーワードの"盲信"とは何かを考えよう」

「"盲信"…言葉通りに考えるなら『あることを、一切疑わず盲目的に信じること』でしょうか」

「それが模範解答だな。そして実は…もうそれだけでこの話には道筋が見えてくるんだよ」

「え、これだけでですか」

「そうだ。我々は宗教だけを"盲目的に信じる"のではない」

「といいますと…?」

「たとえば、キミはここにあるペットボトル入り飲料の消費期限表示を疑うかい」

「それは…疑いませんね」

「キミは日本から出たことが無いね」

「ありません」

「なのに日本以外の国家、大陸が存在することを疑うことなく信じている」

「それは…はい」

「人間には幸福な状況と不幸な状況があると疑いなく信じている」

「え、無いんですか?」

「さあどうだろう。幸福と不幸についてはまた後で話すとして…とにかく我々はあらゆるものを疑いなく信じる。それは何故だ」

「信じる理由、ですか」

 先生はペットボトルのスポーツドリンクをラッパ飲みした。信じる理由か。いや、というよりそれは…。

「むしろ考えるべきは、疑わない理由ですよね」

「ふぅん」

 当たっていたらしい。疑わない理由。そもそも人間は、何かに対して疑いを持つことというのは少ないのではないか。目の前の出来事、特に他人の意志が介在しない出来事、例えばボールを投げたら地面に落ちるとか、明日が必ずやってくるとか、そんなことには日常疑問を持たない。

「いちいちあらゆるものに疑ってかかっていたら、まともに生活できませんね」

「そう、まさに問題はそこなんだ」

 先生はあぐらから足を組むように座り直した。

「我々はあらゆる事象について、疑わず、ただ受け入れるだけで生きている。それは日常生活において当たり前のことで、そうでなければまともに生活出来やしない」

「朝起きたら、『これは夢なんじゃないか、夢が現実だったんじゃないか』ってはじまる感じですかね」

「荘周か。ベッドからも動けなくなりそうだ。それで、さっきも言ったが"他人の意志が介在しない"というところがポイントなんだ」

「人間は嘘をつくことができるからですか?」

「いや、というよりも…投げたボールが地面に落ちる、という事実があるとして、『ボールが自分から落ちていった』『神の力が働いて落ちた』『私が超能力で落とした』という"解釈"を行うのが人間だから、だ」

「! "解釈"ですか」

「うん。投げたボールが地面に落ちること。これは地球上で疑う余地が無い。しかしそこに加わった人間の"解釈"、これには多分に信憑性のない部分がある」

「ええ。でも、ちょっと待ってください、投げたボールが地面に落ちることを取り扱った宗教なんて実際には無いと思いますが」

「おいおい、あるじゃないか。万有引力の法則という"宗教"が」

「ちょっ、先生それは」

「まあ聞きなさい。自然科学に対するこういう批判は荒唐無稽に思われるかもしれないが、それこそが"盲信"なんだ。たしかに重力、引力というものが存在するかもしれない。そしてその作用を計算によって算出することができるかもしれない。だが、それらは無数の経験、実験、論考、精査によって承認された、自然という事実に対する人間の"意見"なんだ」

「それは…分かります」

「科学には科学のルールがある…科学と認められるためのね。それは人間が定めたルールであって、自然のルールではない」

「科学という宗教、ということですか」

「妥当性の問題だよ。私たちはオ○ム真理教をカルトだと言って差し支え無いだろう。一方、科学をカルト呼ばわりすることは?」

「信じるに足る論証を重ねている…」

「そう、科学は人が築き上げた信じるに足る"体系"だ。人類にとって重みが違う」

「なるほど…。ですが、それでは何故、今さら宗教を"盲信"してしまうのでしょう?」

「…例えば、科学は死因を教えてくれる。宗教は死に意味を与えてくれる」

「あっ、そ、そういうことですか!」

「もう分かるね」

 人が好むのは、"意味"。どんなに科学が進歩しても、それは変わらない。科学と宗教いずれも人間のなら、それの重みは好みによって決まるのだ。そして人が求めるのは、基本的に単純明快で安らぎを与えてくれる、"意味"という"答え"だ。


「今日はもう帰りなさい」

「え?」

 珍しく突き放した言い方。

「今日はを背負ってしまったろう。帰りなさい。人生にはそうすべきときもある」

 そういうことか。

「…はい!」

 返事して帰ろうとすると、急に呼び止められた。

「あ、あ、ストップ。そのレジ袋は…」

「ああ、忘れてましたお煎餅です」

「それは置いていっても…」

 私はしばらく手に持った袋を見て考えたあと

「これはので、また来たときに」

「ちょっと、いいじゃないか今日置いていっても」

「失礼します!」

「あっちょっ」

 バタン。

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