愛だけあればいい

愛だけあればいい

道路。ちょうど産婦人科の前を通っていく、杉三と蘭。

杉三「あ、ちょうど出たところだね。」

蘭が見てみると、祖母に抱かれた赤ちゃんと、若い母親が医者に頭を下げていた。

杉三「お父さんはどうしたのかなあ。」

蘭「仕事にでも行ってるんじゃない?今日平日だし。」

杉三「そうかなあ。こういう記念日なら、いち早く駆け付けると思うんだけどな。」

蘭「杉ちゃんいこう。早く帰らないと、夕ご飯に間に合わなくなるよ。」

杉三「でも、気になる。」

蘭「そうやって、すぐに人のことに首を突っ込むけど、よしたほうがいいよ。そういうことはデリケートなことなんだし、神聖なことでもあるんだし、、、。」

杉三「気になるよ。」

と、そこで止まったまま動かない。

蘭「行こうよ。」

と、同時に赤ちゃんを抱いた、祖母と母親も杉三たちのほうへ近づいてきた。

杉三「こんにちは、初孫ですか?」

祖母「そうなのよ。待ちに待った、待望のね。」

杉三「待ちに待ったって、まだ若いお母さんじゃないの。」

祖母「いいえ、もう結婚して十年もたってるのよ。ましてや、ハイリスク妊娠だったし、無事に生まれるまでたまったもんじゃなかったわ。」

杉三「へえ、そんな年には見えないけど、、、。」

祖母「お世辞が上手ね。うちの子、こう見てももう35になるのよ。」

杉三「35じゃ、まだまだ若いじゃないですか、なあ蘭、三十五と四十五ではどちらが大きいの?」

祖母も母も、一瞬ぽかんとする。杉三はもちろん、悪気はないのだが、、、。

蘭「杉ちゃん、女の人に年の話をしてはだめだよ。あ、ごめんなさい、この人は読み書きも、計算もできないのです。だからそうやって、デリカシーというか、常識のないことを平気で言うんです。ごめんなさい。」

母「いいんですよ。だって、35が老けているのは事実です。それに、私、母が言ったことの通りですよ。まさしく、危険だと言われて、生まれるまでずっと、入院していたんですから。生まれた時も、帝王切開だったし。」

杉三「あの、お父さんはどこに?」

母「ああ、その、、、。」

杉三「どこかに行っているの?」

母「まあ、そうなんですけど、、、。」

杉三「おかしいですね。お母様だけで子供を作るのはまずありえない話だし、それにそんなに大変だったのなら、お父様は喜び勇んで駆けつけてくるはずなんだけどなあ。」

母「ええ、ちょっと事情がありまして。」

杉三「事情って何なんです?」

祖母「あの、あなたは何者ですか?いきなり私たちに声をかけてきて、、、。」

杉三「僕は、影山杉三と言います。杉ちゃんと呼んでください。こっちは友人の伊能蘭です。」

祖母「その顔に合わない変な名前ね。」

杉三「はい、僕は馬鹿ですから、こういう顔なんです。こんなおかしな顔をしていて、笑われたことは何回もあります。」

祖母「馬鹿という割に、端正な顔立ちだなと思ったのよ。歩けないくせに、他人に絡みついて、私たちを巻き添えにするつもりなのかしら?それなら、結構ですから。」

母「でも、悪い人ではないと思うわ。」

と、そこへ赤ん坊が泣きだす。

祖母「ああ、怖かったね、すぐに帰ろうね。ほら幸子、家に帰ったら、すぐにミルクを作りなさいよ。」

母「は、はい。」

杉三「ああ、お乳が出ないのか。お名前、幸子さんというんだね。」

蘭「杉ちゃん、もう帰らなきゃ。」

幸子「ええ、そうです。野田幸子。」

祖母「自己紹介なんかしなくてよろしい。さ、帰りましょう。こんな変な人と絡んでいたら、優太朗が、かわいそうですから。」

杉三「ああ、赤ちゃんは優太朗君か。」

祖母「もう!いちいち赤の他人の家庭に口を出さないでください。それは、プライバシーの侵害というものですよ。さあ、幸子、帰りましょう。」

杉三「最後に一つだけ。なんでお母様ではなく、おばあさまが優太朗君を抱いているんですか?」

祖母「祖母である私が、孫を抱くのはいけないとでも?」

杉三「そんな意味じゃなくて、お母様の幸子さんに抱かせていない理由です。」

祖母「そんなこと聞いて何になるんです?」

杉三「僕は、一度疑問に思うと、答えをもらうまで納得できないんです。馬鹿だから。」

祖母「本当にあなたは馬鹿な人よ。常識的なことを全くわからないんだから!産業廃棄物と一緒に寝ればいいわ!」

幸子「それは言い過ぎだわ、きっとどこかに障害のある人なのよ。」

祖母「あんたも、甘く見すぎよ。さ、帰りましょう。」

蘭「すみません、今日は失礼しました。これで勘弁してください。」

と、蘭は祖母に一万円札を渡し、杉三の着物を引っ張る。

杉三「引っ張らないでよ!」


蘭「杉ちゃん、失礼なことはしてはいけないよ!」

祖母「そうそう、うんと叱ってもらってね。じゃあ、二度と私たちの前に現れないで!幸子、行きましょう。」

と、さっさと歩きだしてしまう。

幸子「ごめんなさい、少しばかりきついところがあるので、、、。」

と、言って母親の後を追いかけた。

蘭「もう、杉ちゃん、変なところでタイムロスしないでくれよ。」

杉三「あの二人、どこかやっぱりおかしい。」

蘭「おかしいって何が?」

杉三「何々とは言えないけど、何かおかしいんだ。普通の親子と違うんだ。」

蘭「それでは答えにならないよ。ちゃんと話して。」

杉三「わからないけど、感じるんだ。」

蘭「杉ちゃん!」

強く言うと、杉三は泣き出してしまう。


翌日

蘭の家。蘭が朝食を食べていると、美千恵がやってきた。

美千恵「ねえ、昨日杉三がなにをしたのか教えてくれない?」

蘭「は?まだ閉じこもったきりですか?」

美千恵「そうなのよ。何も話してくれないから、蘭さんに顛末を聞くしかないでしょう?」

蘭「本当にすみません。杉ちゃんは、本当に変なことばかり気にしてしまうんですね。それが、なぜ感じ取れるのかわかれば、僕らも苦労しませんよね。」

と、外で声がする。

声「おーい、蘭。いるか?」

蘭「華岡だ。何か事件でもあったのか?」

と、言うより早く華岡は玄関のドアを開けている。

蘭「もう、お前もインターフォンくらいならせ。」

華岡「いやあ、俺がパトロールをしていたら、この女の人が、この変に影山杉三という人が住んでいないかと、聞いてきたんだよ。」

声「昨日はすみませんでした。母があんな発言を。」

と、華岡に連れられて幸子が現れる。

蘭「幸子さん!」

蘭は驚きを隠せない。

蘭「すみませんなんて、こちらが言うセリフです。昨日、杉ちゃんがあんなことを言うから、ずいぶん迷惑をかけてしまったと、、、。」

声「誰が迷惑かけたって?」

杉三もそこにいた。

蘭「杉ちゃん、君はどうしてここにいるんだ。落ち込んで閉じこもったんじゃなかったの?」

杉三「幸子さんの声がしたから、すぐに飛んできたの。」

蘭「車いすのくせに、飛んでこれるわけないだろ。しかし、幸子さん、幸子さんが本当に謝りに来る必要なんてないですよ。ほら、杉ちゃん、せっかく来てくれたし、ごめんなさいと。」

幸子「いいえ、その必要はありません。母がああいう態度をとるのは、私が悪いんですから。逆に、私のほうが、母をやり込めてもらいたかったですよ。」

蘭「どういうことですか、幸子さん。」

幸子「ええ、私が原因で口論した後だったんです。だから、母は虫の居所が悪かったのでしょうね。それに、杉三さんの質問、本当に痛いところをついていましたよ。」

杉三「杉ちゃんでいいよ。僕はどうせ、さん付けで呼ばれるほど偉くない。」

美千恵「そういってやってください。こだわりの強い子ですから。ここでは話ができないでしょう。私たちの家で、のんびりと話しましょう。華岡さんも一緒にね。」

全員、杉三の家に移動する。


杉三の家の居間。

杉三「で、困ったこととは?」

蘭「杉ちゃん、あんまり率直に言うなよ。」

幸子「いえ、いいんです。こんな贅沢な悩み、誰に言ってもおんなじ答えしか出ませんから。それに、私は恵まれているし、こんな悩みを持っていたら、恵まれているのにそんなことで悩んでいるとは何事だって、皆さん嫉妬しますからね。」

杉三「でも、隠しておくのはいけないと思うけどね。いくら贅沢と言われようが悩みは悩みだと僕は思うけどなあ。そう思わないの?」

幸子「いえ、返ってくるのはみんな貧乏なのにお前は何事だという答えですから。それに、

思うんですけど、今の時代、真剣にやろうとすればするほど、かえって馬鹿にされるだけですから。病院でも、そういわれました。私は、恵まれすぎるほど恵まれているから、もっと自分に厳しくなれと。世の中には、私のような暮らしをしている人は、めったにいないから感謝しろと。でも、私は、どうしても充実した生活だと思えないんですよ。ただ、贅沢をしているだけで。」

杉三「じゃあ、僕なんかはもっと贅沢かなあ。歩けないし、文字もかけないし、そろばんもできないけど生きてるよ。」

幸子「杉三さんそれとは違いますよ。杉三さんは、歩けないんですから、誰かの力を借りないと生きていけないけど、私は、立てるし読み書きもできるし、見た目は普通の人と変わらないんですから、やっぱり自分に厳しく生きなければいけないかと思うんですけど、でも、私は、それができないから、悩んでいるんです。だから、誰かに相談してはいけないんです。

自分で全部できるようにならないと。私は、人に頼りすぎなんですから。」

杉三「すでに、そういうことを言っているだけで、苦しいんだと伝えたいんだとわかりますよ。だって、もし、本当に悩みがないんなら、変な理屈をこねまわして、自分を無理やり押さえつけようとはしないから。」

蘭「この発想は杉ちゃんしかできないよな。杉ちゃんは、変な奴といわれても、ありのままでだものね。」

華岡「俺たちは、味方ですよ。俺も警察の仕事をしているからわかるけど、ねたむ側よりねたまれる側が犯罪を起こす確率は高いんだ。そういう事件はこれまでにたくさんありました。だから、そういう人こそ、悩みを持ってはいけない。俺たちは、一切外部に漏らしたりはしませんから、隠さずに話してください。」

幸子「そうですか、それなら、、、。私、子供を育てられないんです。」

杉三「へえ、虐待でもしたのですか?」

幸子「それに該当するかはわかりません。食事も与えてますし、暴力をふるったこともないんです。でも、育てられない。」

杉三「じゃあ、具体的になんで育てられないというのですか?」

幸子「私が、育てる場所がないということです。つまり、私は、あの家で子供を育てる場所がありません。私ではなく、育てているのは、私の父と母です。」

杉三「つまり、おじいさまとおばあ様か。」

幸子「はい。私は、子供を育てる能力がないと言って、あの二人は私から子供を取ってしまうんですよ。優太朗は間違いなく私が生んだ子です。でも、私は育てるのを許されていないのです。それをほかのお母さんに話すと、おじいちゃんとおばあちゃんがそうやって熱心に育ててくれるのだから、贅沢は言うなと言われてしまうんですけど。でも、優太朗は私が育てたいんですよ。」

美千恵「ちょっと待って。理由はわかりますか?優太朗君を、お母様がとってしまった理由。」

幸子「ええ、たぶんやっとできた子だったからだと思うんです。」

華岡「何か商売でもしているの?それか芸事を伝える家元の家庭とか。」

幸子「ええ、店をやっています。私の父が一代限りで築いた店です。主人は婿養子で入ってきたんですよ。」

杉三「つまり家は、おじいさまとおばあさまが支配しているようなものか。」

蘭「杉ちゃん、それは言い過ぎだよ。じゃあ、家を出るわけにはいかないの?」

幸子「ええ、夫が、健康な人だったら、また違ったかもしれませんが、、、。」

杉三「お体が悪いんですか?」

幸子「ええ。だからダメなんですよ。体の悪い父親のもとで育てさせたら、絶対に優太朗は不幸になると、私の父も母も言い切って、、、。」

美千恵「ああ、なるほどね。そういうことだったのね。全容がわかったわ。まあ、答えは人それぞれだから、こうだと断定的に言うことはできないけど、それはね、迷信よ。私も、杉三が生まれてすぐに、夫を亡くして、女手で育てるのは大変だと世間に反対されたけど、ちゃんと杉三と暮らすことができてるもの。まあ、世間の人は不幸とか、かわいそうだとか言うけど、それはまやかしだと思いなさい。大切なことは、あなたが、お母さんだという自覚を忘れないことよ。」

華岡「俺は家を出ちゃっていいと思うけどね。だって、そうやって手を出されたら、おばあちゃんをお母さんと思ってしまうぞ。ちなみに仕事は何をしているの?」

幸子「主人が元気だったときは主人も花屋さんをやっていたんです。今はまた、私と父母でやってます。でも、主人がいた時に比べれば、もう売り上げは半分以下になってしまいました。」

杉三「へえ、花屋さんか!花を売るって夢を売る商売だよな。ぜひ、優太朗君にはいい花屋さんになってもらわなきゃ。つまり、そのために、優太朗君を盗られたのか。お母さんだけでは頼りないから、俺たちが何とかしてあげなきゃだめだって。それが強く出ちゃったということだね。」

蘭「杉ちゃん、なんでそんなことがわかるんだよ。」

杉三「そうだよね。男の人が頼りないのなら、年寄りたちが何とかしなくちゃって思うよね。でも、年寄りが、昔のやり方しか知らなくて、それを押し付けるしかできないから、困っているんだ。そうでしょう?何にも贅沢なんかじゃないよ。つらかったじゃないか。立派な悩みだよ。じゃあ、解決するために僕らもお手伝いをするよ。」

蘭「そう軽々しく言わないの!他人の家にすぐにそうやって首を突っ込むけど、僕たちは他人なんだから。それに、プライバシーの侵害にもなるよ。」

杉三「でも、彼女が悩んでいるんだったら、まぎれもない事実だし、プライバシーとか、そういうのは、かえって邪魔になると思うよ。だって、答えは出てるよね。周りの人は贅沢な悩みしか言わないってのが。このままだと彼女は、一生悩み続けて、本当に優太朗君を、放置してしまう気がするよ。そうなると、一番の被害者は、彼女ではなく、優太朗君だよ。だったら、赤ちゃんの時に何とかしてやるもんじゃないのか?彼が大人になったときを考えろよ。彼はどんな男になるのか、僕も想像すると、かわいそうだ。」

蘭「杉ちゃんはどうしてそんなにぽんぽんと考えが湧き出てくるんだ?じゃあ、具体的にどんな人物になるんだよ?」

杉三「たぶんきっと、たぶんだけど、彼はお母さんより先に逝くよ。ずっと年寄りが支配していたら、昔のやり方でがんじがらめにされて、すべて生まれてきた自分が悪いと考えるようになる。そして、もうこの家から逃れるには、逝くしかないと思うと思う。」

蘭「そんなこと言わないの!お母さんの前で!」

杉三「だったら、青柳教授のもとへ行ってみろ!そういう子がたくさんいるじゃないか!」

蘭「そうだけど、、、。」

幸子「杉三さん、そこまで言ってくれてどうもありがとう。私が、ため込んでいたことをみんな話してくれた。」

蘭「ごめんなさい、杉ちゃんは、言い出したら止まらないから、、、。」

杉三「杉ちゃんでいいよ。僕はいつでも、幸子さんの味方だから。」

美千恵「私も、杉三がいうとおりになるんじゃないかなと予測したわ。今の時代は、年寄りがいってることは通用しない世の中だし。優太朗君が思春期に入ったとき、年寄りの理屈にへこまされて、窒息死したら一番かわいそうな人がここにいるもの。幸子さんはきっとお父様やお母様とガチンコバトルをする時が来ると思うわ。それならば、赤ちゃんの時に手を打っておくのが賢明よ。」

蘭「お母さんまで、、、。」

美千恵「嫌味を言う人の中には、こうなることを予測できるから、いい気味だと思って、贅沢な悩みだというのかもしれなくてよ。」

幸子「そうですか!皆さん、本当にありがとうございます。杉三さん、あ、杉ちゃんが、私の気持ちを代弁してくれて、本当にうれしかった。早く何とかしなければと、私も思いました。でも、その方法が、、、。」

美千恵「問題はそこね。」

杉三「一度、お宅を訪問しないといけないかな。」

蘭「杉ちゃん、それだけはよしたほうがいいよ。」

幸子「いえ、来てください!私の家は、店と兼用になってますから。久沢のロゼという花屋です。」

蘭「久沢は、製鉄所の近くだな。でも、どうやって会いに行く?他人が乗り込んできたら、あやしまわれるし?」

華岡「花を買いに来たといえばいいんじゃないの?俺たちも、捜査で誰かの店を訪問するときには、客に成りすます手を使うよ。」

杉三「よし、それでいい!蘭、よろしく!」

幸子「よろしくお願いします。」

と、頭を下げる。


池本クリニックの待合室。水穂が、椅子に座って会計を待っている。少しばかりせき込む。

看護師「磯野さん、つらいんだったら、向こうの別室で休みましょうか?」

水穂「結構です。もうすぐ会計も終わりますし。」

看護師「そうですか。無理はしないでくださいね。気分お悪いようでしたら、すぐに言ってくださいよ。」

と、診察室に引き返していく。同時に診察室のドアが開いて、真っ白な顔をした男性が、出てくる。

男性「あの、ここへ座ってもいいですか?」

水穂「ああ、かまいません。」

男性「ありがとうございます。」

水穂は、再びせき込み、少しばかり指を汚す。

男性「今時、労咳なんですか?」

水穂「違いますよ。確かに放置しすぎて、こうなってしまいましたけど。」

男性「そうですか。でも、お辛いでしょう。これさえなかったらなあとお思いになることも、多いでしょうね。」

水穂「まあ、そうですね。でも、なったものは受け入れるしかありませんから。」

男性「すごいですな。そうやって受容できるなんて。僕は、病気になったばっかりに、婿養子に行った家から閉め出されて、生まれたばかりの息子にも合わせてもらえないし。本当に、なぜ生きているのかなって感じですよ。一生懸命仕事して、頑張ってよいお父さんになろうと、努力していたのに、神様は残酷なことを平気でするもんですなあ。そんな状態ですから、受容なんてとても、、、。」

水穂「そうですね。男なんて、仕事をしなければ粗大ごみみたいになりますな。」

男性「よくわかりますね。でも、あなたはまだいいんじゃないですか。そんなにお奇麗なんだから、回復したら、テレビタレントでもなれるのでは?」

水穂「そういわれても困りますよ。」

男性「いやいや、正直にお伝えしますと、そんな気がするんですよね。どっか外国の俳優さんみたいですから。きっと、女性から声をかけられることも多いでしょうな。」

水穂「まあ、たまに言われます。でも、僕は既婚者ですし。それに、妻が帰ってきて、誰も出迎えるものがいなかったら、それこそ哀れですよ。だから、それまで待ってないといけないんですね。」

男性「奥様も美人なんでしょうな。きっと、ヴィヴィアン・リーに似ているとか、そういう人でしょう。海外でお仕事でもしているんでしょうか?」

水穂「該当するかはわかりませんが、僕が世界で一番大切な人物とみなした人です。だから待ってなきゃならないんです。」

男性「ちなみに、あと何年?」

水穂「少なくとも、10年は待ちたい、、、。」

と言いかけて、再びせき込む。

男性「やれやれ、イケメンの悲劇か。」

水穂は、返事ができなかった。

看護師「磯野さんどうしたの?ちょっと、休んでようか。お会計まだまだみたいだから。」

と、彼の肩を捕まえて無理やり立たせ、別室のほうへ移動させる。

男性「やっぱり、奇麗な人は得をするなあ、、、。」

診察室のドアが開く。

医師「塔野さん、いらしてください。」

男性「はい。」

と、診察室に入る。

医師「塔野和美さんね。えーと、藤川病院からの紹介ですね。」

和美「もったいぶらないで早く。」

医師「そうなんですけどね、これから、重大なことをお話ししますので、、、。」

和美「重要、ですか?」

医師「はい、単刀直入に申しますと、あなたはあと、半年、もって一年です。それ以上はどんなに頑張っても現代の医学ではもう、」

和美「どうしてそうなるんだよ!」

医師「どうしてって言われても困りますよ。ペースメーカーを植えるとかすれば、多少長くなるかもしれませんが、いずれにしても、この状態では、長くは持ちませんね。」

和美「わあーっ!」

と、顔を覆って、男泣きに泣く。

医師「入院してみますか?」

和美「いえ、帰ります!」

医師「怒りを持ってはいけませんよ。こうなったのは、確かに病気のせいなのかもしれませんが、少なくとも、あなたがそれを作り出したのも忘れないでくださいね。野菜を食べるとか健康な食事をして、十分な運動をして、明るい前向きな考えを持っていれば、こうはならなかったかもしれません。生活習慣病とはそういうものです。」

和美「ああ、そうだともそうだとも!少なくともあんたは、それが商売だから無責任にそういうことが言えるんだ。でも、そんなきれいごとが実現できるかっていうと、そうでもないものもいるんだよ。誰のおかげで飯が食えるのかよく考えろ!」

看護師「安定剤もって来ましょうか?」

和美「いらないよ、そんなもの!」

医師「いや、打ったほうがいい。」

和美「その、前向きになるにはどうしたらいいんだ!人の批判ばっかりしやがって、これだから病院というところは嫌なんだ。患者を馬鹿にして説教を平気でする!それに、」

次の言葉を言おうとすると、腕にちくりと痛みが刺さって、急に力が抜けてしまい、へなへなと床に崩れ落ちた。

和美「すみませんでした。」

医師「緩和ケア、用意しましょうか?」

和美「わかりました。その前に一度だけ帰らせてください。たった一人の妻と生まれたばかりの息子に会っておいてから死にたいんです。確かに、不健康な生活をしてしまったのは認めます。ですが、せめて一度だけ、一度だけ、、、。」

医師「本当は、病院にとどまってくれたほうが安全だとは思うのですが、どうしてもそれを望むというなら許可しましょう。」

和美「ありがとうございます!もうダメなことはわかっていますから。息子に一度だけ合わせてくれたら、それで本望です。」

看護師「無理はしないでくださいね。」

和美「はい、決していたしません。」

医師「今日のところは帰ってよいでしょう。」

和美「ありがとうございます。」

と、ふらふらと立ち上がって、診察室を出ていく。


花屋、ロゼ。たくさんの花が置かれている、昔ながらの花屋。営業時間が終了し、幸子は花を片付けて、住居部分である二階に戻っていく。

優太朗の泣き声が聞こえる。ミルクをほしがっているのだろう。

声「はいはい、おばあちゃんがミルクを作ってあげるわよ。」

という声とともに泣き声は止まってしまった。祖母、幸子にとっては母の茉奈が、ミルクを作ったのだ。

幸子がドアを開けると、まさしく茉奈が、優太朗を抱いてミルクを飲ませながら、あやしていた。

幸子「お母さん。」

茉奈「何をやっていたの?もうミルクの時間はとっくに過ぎているから、代わりにあげただけよ。」

幸子「もういいわ。あとは私が世話をするから。」

茉奈「まだやることがあるでしょ?全部片付けてからにしなさい。」

幸子「もう、店も閉めたし。」

茉奈「食事の片づけとか、お風呂掃除とかいろいろあるでしょう?優太朗のことは私が見てるから、家のことを片付けなさい。」

幸子「そうじゃなくて、母親は私なんだから、優太朗の世話は私がやるわ。」

茉奈「何言ってるの。あんたにできる作業じゃないわよ。」

幸子「どうしてそう言えるの?」

茉奈「あら、この前お風呂に入っていた時、優太朗を風呂桶に突き落としたじゃない。」

幸子「突き落としたわけじゃないわ。ただ手が滑って風呂桶に入ってしまっただけよ。」

茉奈「それがいけないのよ。それでは母親としての監督不行き届きよ。だからそれ以降、優太朗がお風呂に入る度に泣き出すようになったんじゃないの。そんなこともできない人が、

母親業なんてできるはずもないわよ。」

幸子「一度や二度、失敗するのは誰だってあるじゃない!」

茉奈「ほら、そうやって何かあるとすぐ怒る。激しやすい性格なのも自覚しなさい。そうしなければ、母親にはなれはしないわ。はやく、片づけを済ませてきないな。」

幸子「お母さんがそうやってるから!」

突然優太朗が火が付いたように泣き出す。

茉奈「ああ、ああ、びっくりしたね。ごめんね。ほら、幸子、何よりの証拠よ!はやく片づけをしてきなさい。」

幸子は何も言えず、台所に移動する。家族の食器が積まれているのだが、それを洗う気にはなれなかった。

幸子「もう、どうしてあたしだけ!」

と、流し台をたたく。

茉奈「誰でも、できることとできないことはあるの。そんな状態では、健康な子に育てることなんてできやしない。それをちゃんと受け入れて、静かに生活しなさいね。」

幸子は、しぶしぶ食器を洗い始める。

幸子「もう、死ぬしかないのかな、、、。」


翌日。製鉄所。寮生がたまの散歩から戻ってくる。

寮生「先生、またたまがいうことを聞かないんです。竹林の中でずっと動かなくて。」

懍「たまが?」

寮生「はい。図鑑で調べたのですが、グレイハウンドのような犬は、レトリバーなどと違って、人間にあまり忠実ではないと書いてありました。近所の猫などの小動物を追いかけてしまうとか。もともと、ウサギ狩りの犬ですから、先生、どうしつけたら従順になりますかね。」

懍「待ちなさい。このあたりで猫を飼っている家はどこにあります?野良猫はどこにもいませんし、ウサギを飼って居る家もありませんよ。それは図鑑に書いてあったことですから、今住んでいるところに結び付けてはなりません。」

寮生「たまが一番いうことを聞くのは、僕じゃなくて、水穂さんですよ。でも、水穂さん、最近動けないですよね、、、。」

懍「じゃあ、水穂さんに、散歩させてみましょうか。僕も一緒に行きますよ。彼も、調子が悪いからと言って、ずっと寝ているわけにもいかないでしょうからね。」

と、水穂の居室に移動して、

懍「水穂さん。」

と障子を開ける。水穂は横になってはおらず、机に座って何か書いている。

水穂「は、はい。」

と、書いたものを隠す。

懍「何を書いていたのですか?」

水穂「なんでもありません。単にピアノ曲の構成です。今日は晴れているせいか、久しぶりに布団から出てみました。それより、どうされたのですか?」

懍「そうですか。まあ、今日は良しとしましょう。たまの散歩に行ってください。なぜかまた、言うことを聞かなくなってしまったそうなので。」

水穂「またですか?」

懍「ええ。彼が言うことを聞かないというときは、必ず何か大変なことが起こることを告げたいときでしょう。寮生にはそこが理解できないようですから。」

水穂「わ、わかりました。すぐにしたくしますから。」

と、筆を置いて、急いで羽織を着、部屋を出る。書いたものが机の下に落ちる。そこには、

「真理子へ。今日から君に手紙を書くことにした。今、君はどこで何をしているだろうか。きっと、タンスでも作りながら、更生させてもらっているのだろう。いつまでも待っているから、更生したら会いに来てくれ。真人間になったら、もう一度暮らしたい。」

と書いてあった。


道路。懍は車いすで、水穂がたまにリードを付けて、いつものコースを歩き出す。途中、竹林にやってくる。ところどころ竹の子が生えている、観光用の竹林である。

水穂「ああ、竹の子が生える季節ですね。もうすぐ、子供たちが竹の子を食べに来るかな。」

懍「かつては、自殺の名所だったんですよ。ここは。偏見の払しょくのため、木を全部切り倒して、代わりに自殺には使えない、竹を植えたんです。」

水穂「ああ、なるほど。そういうところだったんですか。」

と、急にたまが高らかに遠吠えする。

水穂「どうしたの、たま。」

思わずリードを落とすと、たまは竹林に入ってしまう。

水穂「たま?」

たまは、遊歩道を歩いていき、ある地点で止まる。そして再び遠吠えをする。そこには一人の男性が立っている。よく見ると、その顔は、水穂にも見覚えがあった。

水穂「あれ、この前病院でお会いした方ですね。」

和美も、水穂のほうを見る。

和美「どうしてこんなところにいるんですか?」

水穂「僕は、この近くの製鉄所で生活しているので。」

和美「どうして、この大事な時に邪魔されるんだろう、、、。」

水穂「大事な時って、ここで何をするつもりだったんですか?」

そこへ遅れた懍が到着する。

懍「二人とも、お知り合いだったのですか?」

水穂「ええ、この間、診察に行ったときに、話をしたのです。確かお名前は、塔野さんとか。」

和美「ええ。塔野和美ですよ。本来は勝俣和美。でも、正式に離婚したわけではないので、塔野和美と呼ばれていますけど。もう少しで楽になれると思ったのですが、それも犬に邪魔されるとは、、、。」

懍「いえ、どんなことがあったとしても自死は許されません。」

和美「だってもう、それしか方法は、、、。」

懍「まあ、落ち着きなさい。ここで話しても、意味がありません。製鉄所で話しましょう。きっと、何かお辛いことがあってここに来たんでしょうが、ここはもう自殺の名所ではなくて、観光化されていますからね。偏見の払しょくのためにも、話し合いましょう。」

和美は落胆の表情を見せる。たまが、それに抗議するように吠える。

懍「たまもそういっています。行きましょう。」

和美「は、はい、、、。」

全員、元来た道をかえって、製鉄所に戻る。


製鉄所の応接室。

たまが、和美が座っている椅子の下に座る。水穂が、軽く撫でてやる。

懍「水穂さん、お茶を持ってきてあげてください。」

和美「水穂さんというのですか?」

水穂「ええ。磯野水穂です。旧姓は右城ですが、それに戻ることはないと思います。」

と、湯呑を和美の前に置く。

和美「えっ、水穂さんも改姓したのですか?」

水穂「ええ。妻が一人っ子であったので。」

和美「ははあ、、、。それは珍しい。でも、嫌ですよね。」

水穂「いえ、そうは思いません。」

和美「そうですか、、、。」

懍「それより、和美さん、本題はここからです。なぜ自殺をしようと思ったのですか?」

和美「知っていたのですか?」

懍「ええ。あの竹林は、昔から自殺の名所で有名でしたからね。ちょうど十年前に、木をすべて切り倒して、竹林に代えたのですが、今でもたまに、本来の目的で来た人を見かけますからね。」

和美「そうですか、地元の方にはやっぱり、お見通しなんですね。」

懍「地元というか、それがきっかけで寮生が増えたことがありましたからね。」

和美「寮生?何か学校でもやっているのですか?」

懍「問題のある人に、鉄を作らせて、立ちなおらせるための施設なんですよ。ここは。」

和美「どうして、こうやって運は悪いんだろう、、、。」

懍「何があったか話して御覧なさい。そのほうが楽になる可能性もありますよ。」

和美「いえ、もう何をしても無駄とはっきりわかったので、、、。」

と、そこへインターフォンが鳴る。

懍「宅急便でも届いたのですかね。」

水穂「僕が応答してきます。」

と、席を立って、玄関に移動する。

声「青柳教授、母がどら焼きをもらってきたからおすそわけです。」

声「どうもありがとう、杉ちゃん。今お客さんが来てるんだ。」

声「じゃあ、僕らは帰ったほうが良いかな。」

声「お客さんってどんな人?」

懍「この応対は間違いなく杉三さんですね。水穂さん、杉三さんたちをお通しして。」

水穂「いいんですか?」

懍「ええ。多くの人に聞いてもらったほうが、彼も喜ぶと思います。」

水穂「わかりました。」

数分後、杉三と蘭がやってくる。

杉三「教授、お客さんってどの人ですか?」

懍「このかたですよ。」

杉三「初めまして、僕、影山杉三です。こっちは、友人の伊能蘭です。杉ちゃんと呼んでください。どうぞよろしく。」

と、和美に向けて右手を差し出す。和美もしぶしぶ握手する。

和美「一体、あなたたちはどこから?」

蘭「ああ、僕らは教授と古い知り合いです。正確には僕が大学院時代にお世話になったよしみで、付き合ってるんです。」

和美「まあ、それは高学歴ですな。そんな方にお話なんかできませんな。」

杉三「ご安心ください。蘭はものすごい偉いのかもしれないけど、僕は読むのも書くのも、そろばんもできないただの馬鹿です。そういう基本的なことが全部できないわけですから、

まあ、親友に話すつもりで、どうぞどうぞ。」

和美「みなさんがうらやましいです。」

と、再び泣き出す。

杉三「どうしてです?」

和美「皆さん、そうやって支えあって生きている。お体は確かに不自由なのかもしれませんが、そうやって、一緒に笑い飛ばして、なんでも浄化できるシステムを持っているんだ。この世の中っていうのは、こういう底辺の人間には、何もくれないんですね。それなのに、こんな欠陥ばかりの人間には、こんなにたくさんの幸せをくれて。僕は、一番愛する人を得て、幸せをつかんだと思ったら、彼女の両親に奪われて、望みであった子供まで奪われ、さらに健康さえも奪われた。こんな悲しいこと、皆さんわかりますか?きっとそんな経験、ないですよね。皆さんのような人は、すぐに誰かが助けるように教育するからすぐに手がでてくれるのでしょうが、僕みたいに、底辺の位置にいる人間には、何も幸せなんかくれませんよ。神様は。」

水穂「ああ、そういうことだったのですか。それは確かにお辛いと思います。僕も、結婚して改姓しましたけど、あまりいい扱いは受けてきませんでしたから。」

和美「いやいや、そんな美しい方に言われたくありませんな。あなた、学校とか行きました?」

水穂「ええ、僕は、桐朋音大まで行きましたけど、、、。」

和美「ああ、やっぱりそうだ。お会いした時に、その顔からみて、通常の人間ではないなということが感じ取れました。」

杉三「ちょっとまって、通常の人間ってどんな人なの?」

和美「ええ。だから、特別な才能を持っているわけでもなく、容姿が特別きれいなわけでもなく、良い学校に行ったわけでもない人のことです。この世は、この中のどれか一つに当てはまらないと、幸せをもらうことはできないんですかね。」

杉三「僕はどれでもないよ。この顔だし、読み書きできないから頭も悪いし、当然、いい学校にもいってないよ。」

和美「でも、そうやって、のんびりと生活しているじゃないですか。」

蘭「そういうのなら、生活することをなんだと思っていますか?」

和美「僕は、難しいことを望んだわけではありません。ただ、妻と生まれたばかりの息子と、平穏に静かに楽しく暮らしたい、それだけなんです。それはあり得ないことなんですか?妻と知り合って結婚を申し込んだとき、妻のご両親が、たいして学歴がない男に娘をやれない、改姓して、うちの家の一部になってくれれば認めてやるといいますので、そのとおりにしたけれど、花屋の雑用しか押し付けられないで、僕が発言する権限はほとんど与えられませんでした。そして、二年後に子供が与えられたのですが、妻がひどい中毒症になって、責任は僕にあるといわれて追い出されてしまうし。さらに最近になって、僕ももう、一年後には、あの世へ行くのだと宣告されてしまったのです。もう一度聞きます。学歴のない男が、並大抵な幸せを望むのは、ありえない望みなのでしょうか?」

杉三「ちょ、ちょっと待って。今、花屋さんといったよね。」

和美「言いましたけど?」

杉三「奥さんの名前はもしかして、塔野幸子?」

和美「そうですよ。なぜそれを知っているのです?」

杉三「僕はあったことがあるからです!」

和美「幸子は、幸子はなんて?」

蘭「似たようなことを申していました。やっぱり、ご両親に息子さんを盗られてしまった、と。僕は理由を探していましたが、そういうことだったのですか。」

和美「幸子は、無事に生まれたんでしょうか?」

杉三「うん、生まれたよ、名前は塔野優太朗。すごくかわいい赤ちゃんだった。でも、彼女が育ててるわけじゃない。おばあさまが主導権を盗ってる。」

和美「そうですか。最後に幸子に会ったときは、病院の中で、とにかく絶対安静だったんです。一日中アイマスクをつけられて、変な機会をいっぱいつけられて。そして、その責任は僕だと、彼女のお母さん、つまり塔野茉奈さんから、散々叱られて、、、。幸子は激しやすいというか、感情をコントロールするのが苦手で、お母さんとよく衝突していました。」

懍「失敬、幸子さんは、病院などには通われていましたか?」

和美「ええ。僕が行かせました。激しやすくて、泣くと誰もてがつけられないほどの状態になるからです。」

懍「何科に?」

和美「精神科です。」

懍「診断名は?」

和美「はじめは軽い鬱と言われました。でも、いつまでも治りませんでした。三人目の担当医に変わったとき、僕は、なぜいつまでもこうなのか詰め寄りました。そうしたら、担当医が、気になるところがあるから、発達障害の検査をしようと言ったので、そのようにしたら、妻のIQはほかの人より、若干低いとわかりました。」

懍「ああ、最近よくあるパターンですよね。大人になってから発見されるって。そうやって、新たに基準を作るのは、医者の側から見たら治療がしやすいかもしれませんが、単に人種差別を助長するだけに過ぎないと思いますけどね。」

杉三「取り戻してあげなよ!息子さんも、おかあさんも。」

懍「いえ、杉三さん。結論から言ってしまえば、おそらく優太朗君は、おばあ様のもとで育てられるでしょう。お母様が精神障害があり、お父様が余命一年となれば、いずれにしても養育能力のあるものはおばあさまとなりますから、日本の法律では、そうなります。残念ながら、それだけは、僕たちがどんなに、ないてもわめいても、変えることはできません。」

和美「だから、もう死ぬしかないんですよ!お分かりになりましたでしょう?ほかに打つ手なんてないって最初から知ってました。それなのにどうして邪魔をしたのですか?」

沈黙。

声「ごめんなさい。」

蘭「杉ちゃん?」

杉三「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」

蘭「なんで杉ちゃんが謝るの?」

杉三「偉い人たちは謝れないから、僕が代わりに謝ったの!」

蘭「どういうつもりなんだ?」

杉三「だってそうじゃないか。愛情だけはたくさんあると思うんだ。それなのに、二人とも会わせてもらえないって、こんなにおかしなことはない。それに、間違いなく有害な結果になるだろうと思われるほうを正しいと思わなきゃいけないなんてさ!そんなにかわいそうなことはないよ!だから誰かが謝ってあげなきゃいけないんだ!一番愛情のある人のそばにいるのが一番なのに、それができないって偉い人たちは、何を考えているんだろう。きっと、この顔を見せれば、偉い人も変わってくれると思うけど、それができないのは本当に残念だよ!」

水穂「杉ちゃんはやさしいね。でも、不条理であることが、法律では当たり前になっているって、結構あるよ。」

杉三「どうしてそうなるの?なんで一番好きな人のもとへたどり着けないの?なんで一番幸せになれる、幸せにしてくれる人のもとへたどり着けないの!それが一番かわいそうだと思う。僕たちは確かに恵まれているのかもしれないね。できないことってのは、こういう時には癒しになるのかもしれないね!でもね、僕みたいに馬鹿な人はね、そうならないんだよ!」

水穂「本当は、杉ちゃんの言う通りなんですよね。少なくとも、ここにいる僕たちは、かっこつけた批判などはしません。きっと、お辛いと思いますけど、、、。生き抜いてください。もしかしたら、教訓として残すことはできるんじゃないですか。生きることって、テクニックでもありますよ。できなかったことはね、できなかったことなんです。確かにお辛いと思います。でも、ちょっと周りを見渡してみるとね、おんなじことで悩む人も結構いるものですよ。人間って、他人の言うことをそのまま飲み込むことはまずできない。自分で見つけるものですから、そのための道具として、書物というものがあるんじゃないかと。」

蘭「お前、たまにはいいこと言うな、水穂。」

水穂「そして、それが、愛だけあればいいという社会を作れる礎になっていくんじゃないかなと思いますけどね。」

和美「しかし、この怒りも、この悲しみもどこへ向けたらいいのでしょう?僕たちは、これだけ息子を愛しても、法的には実現しないのです。その悲しみは、皆さんにはわからないでしょうね。」

懍「率直に、文字として表現することは可能ですよ。杉三さんは、それができないから、悲しみをもろに背負ってしまいますが、あなたはまだ、それはできます。今は、いましかないのですから。」

和美「わかりました。切り替えるまで時間をくれませんか。書物として残す前に、思いっきり泣いてしまいたいのです。皆さんは、お体が何かしら不自由だから、すぐに切り替えられるのかもしれないけれど、僕はそうはいかない、、、。」

懍「ええ、かまいませんとも。必要があったら、ここにある何かを壊してしまってもかまいません。また買ってくればいいだけの話ですからね。人間はどうしても、泣きたいときもありますよ。それをやってはいけないと教育が禁止するからおかしくなる。そこをうまく捕まえる存在というのは非常に少ないですからね。このテーブルも、年に一度は買い替えてますから。」

水穂「でも、体まで壊してしまってはなりません。それは忘れないでね。」

杉三「僕はまだ、足りないことがある。もし、優太朗君がおばあさまのところで育てられるしかなくなったとしても、」

懍「どうしたんですか?杉三さん。」

杉三「せめて、何か二人の記念品のようなものは残せないだろうか。優太朗君が大きくなって、自分を本当に愛してくれたひとが、もうこの世にいないとわかって、絶望してしまったときに、これさえあれば、思い出すことができる、そういう記念品が、、、。」

和美「わかりました。自身をいやすことができたら、息子に向けて何か書こうと思います。まずは、その第一歩として、思いっきり泣かせてください。」

懍「ええ、どうぞ。」

和美は両手で顔を覆って、これまでにない悲しい声で泣きはらした。杉三たちは黙って、彼が泣き続けるのをいつまでも見ていた。誰も手を出す者はなかった。水穂が、そっと、彼の背に手をかけてやった。懍は、天井を見て、蘭は下を向き、杉三は一緒になっていつまでもすすり泣いた。

やがて、優しい夕日が全員を照らした。一早く杉三がそれに呼応した。

杉三「僕、思うんだけど、太陽って沈む寸前が一番優しくなるんだねえ。」

誰も何も言わなかった。













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