黒い犬
黒い犬
朝早く。水穂が、玄関の土間を掃除していると、
声「ワン!きょゆーん!」
水穂「犬がいる。」
と、箒を置き、庭へ出る。
声「ワン!ワン!」
水穂「どうしたのかな。」
と、せき込みながら庭を歩くと、松の木の下に漆黒の犬が座り込んで吠えているのだった。
水穂「どうしたんだ?イングリッシュグレイハウンドなんて珍しい犬だな。」
と、松の木に近づいて、犬を抱き上げる。
漆黒だがまさしくイングリッシュ、グレイハウンドである。水穂は、体を撫でてやると、犬も彼の顔をなめる。
水穂「人懐っこいからな。西洋の犬ってのは。柴犬とはわけが違う。君はどこから来たの?」
犬の後ろ脚からは血が出ていた。誰かに暴力をされたのだろうか?
懍「どうしたんですか?水穂さん。」
水穂「あ、教授、おはようございます。いや、今掃除していたら庭にこの犬がいたんですよ。すぐに僕になついてくるので、まあ、西洋犬ですから、人懐っこいのは普通なんですが。」
懍「日本ではめったに見かけない犬じゃないですか。しかも迷子札がないから、野良犬だったのでしょうか?」
水穂「野良犬でイングリッシュグレイハウンドが見つかるでしょうか?それはないと思います。柴ならまだわかりますけど。」
懍「しかし、足にけがをしていますね。それはかわいそうだ。もう少ししたら、獣医さんに連れていきましょう。何か食べさせてやったほうがいいかもしれませんね。」
ほかの寮生も起きてくる。
寮生「じゃあ、僕が犬のエサを買ってきます。コンビニでも、簡単なものであれば、犬のエサは買えますから。」
寮生「きれいなワンちゃんですね。私、初めて見ました。ラブラドールもかわいいけど、こういう犬もいるんだ。怪我していてかわいそう。」
寮生「ここでなら、飼ってくれると思って捨てていったのかな?」
水穂「そうですね。そういうことでしょう。一匹ぐらい動物がいてもいいんじゃありませんか?」
懍「いいですよ。足を怪我しているところから判断しますと、虐待をされていたかもしれませんから、僕らが癒してあげなければなりません。ドックレースの盛んなイギリスでは、灰色でないと殺処分されてしまうグレイハウンドがとても多く、日本で飼われているのは、それを免れさせるために、個人輸入した犬たちです。彼も、その一匹としてここにやってきたのでしょう。しかし、何かの原因で、虐待があったから逃げたのかもしれませんよね。それでは、彼がなんのために生まれてきたのか、わからない。僕たちで可愛がってあげましょうね。」
寮生「先生、名前を付けなくちゃ。」
懍「そうですね。第一発見者である水穂さんに名前を付けてもらいましょう。」
水穂「えっ、僕がですか?」
懍「はい。そうですよ。」
水穂「困ったな。僕は生まれてこの方、ペットなんて飼った経験がないし、子供を持った覚えもないので、、、。どうしたら、、、、。じゃあ、たまと。サザエさんのたまと一緒で。」
寮生「たま?猫じゃないんだから。水穂さん、しっかりしてくださいよ。それに雄犬ですよ。」
水穂「じゃあ、どうしたらいいんですかね。車の名前でもつけようか。」
犬「ワン!」
水穂「たまでいいのか?」
犬「ワン!」
懍「お返事をしたから、それでよいことにしましょうか。」
寮生「たま、よろしくね。」
寮生「一生懸命面倒を見るよ。
たまは、興味深そうに寮生たちの顔を見ているが、間もなく、水穂の腕の中で気持ちよさそうに眠ってしまった。
動物病院。
獣医「ははあ、お宅は犬まで預かりを始めたんですか。すごい事業ですな。」
懍「ええ。でも、動物がいれば、寮生たちも別の意味で成長できるかもしれません。だからと思って、飼うことにしました。名前はちょっと奇妙ですけど。」
獣医「たま、ですからな。で、たまくんの場合、左の後ろ脚に欠陥がありますので、レースには全く出られません。一般的なグレイハウンドのような、スピードは出ないので、普通の散歩で大丈夫です。年齢は、まだ一歳に到達しておりません。しかし、かわいそうな環境で育ちましたな。十分なエサも与えられていなかったのでしょう。一般的なグレイハウンドの大きさに成長していない。」
懍「それは先天的なものですか?」
獣医「いや。違います。これは明らかに虐待です。この後ろ足の傷も、鉄の棒か何かで殴られたのでしょう。後遺症はのこります。」
懍「つまり、僕みたいに障害のある犬というわけですな。それなら余計に寮生が学ぶことがふえますね。わかりました。責任をもって飼育いいたします。」
獣医「よろしくお願いしますよ。ついでに人身売買もやめてくれると、もっといいんだけどなあ。」
懍「いえ、人身売買ではございません。」
たまが二人のやり取りを不思議そうに聞いている。
製鉄所のなか。寮生たちが話している。
寮生「とにかく、たまを朝と晩に散歩しなければ。鉄づくりの間にやらなきゃいけない。」
寮生「でも、鉄を作る間は、火のそばから離れてはいけませんね。」
寮生「じゃあ、あたしが行きましょうか?」
寮生「ご飯はどうするんだよ。女性の仕事だろ?」
寮生「そうか。じゃあ、こうしたらどうだろう。あの、新しく入ってきた女性にやらせるんだ。」
寮生「でも、彼女にどうやって伝えようか?先生は、言葉が通じないほどひどいって言ってたぞ。」
彼女とは、先月からやってきた女性、小山麻衣子のことだった。母親と、精神障碍者移送事務所の職員と一緒に連れてこられた女性で、風呂にも入れないほど、症状がひどい女性だった。
寮生「しかし、彼女にどうやって、こっちへ戻ってきてもらおうか?」
寮生「だから、たまのさんぽをしてくれと言えばいいさ。」
寮生「私は、賛成だわ。彼女にも、何か役割があれば、立ち直りも早いんじゃないかな。製鉄だけが、立ち直る手段ではないって先生も言ってたし。」
寮生「よし、そうしよう。」
と、寮生たちは、麻衣子が居住している部屋へ向かった。
寮生「麻衣子さん。」
返事はない。
寮生「お願いがあるんだけど。」
声「あなたたちには応じないわよ。私は、ファッションモデルになるんだから。」
麻衣子は、そればかり口にしていることから、精神疾患の一つである、妄想性障害と診断されていた。
寮生「そうなんだけどね、人が足りないから、犬の散歩に行ってほしいんだけどな。」
麻衣子「なんで私みたいな人が、犬なんか。犬の糞で体に汚れが付くわ。」
寮生「どうして汚れてはいけないの?」
麻衣子「だって私は、モデルだもの。体に汚れが付く製鉄なんてやってられないし、勉強も、何もしたくない。どうして、私だけがこんなにも不幸なのかしらね。」
寮生「じゃあ、歩く練習のつもりでさ、たまくんと一緒に外へ出てくれないかな。そうすればさ、みんな、振り向いてくれるよ。これを繰り返せば、美人になれることうけあいさ。だって歩けば、足が鍛えられてきれいになれること間違いなし!」
麻衣子「本当?」
寮生「そうだよ。だから朝と晩に、たまの散歩に行って。外の空気を吸ってこい。」
麻衣子「わかったわ。」
寮生「よし!交渉成立だ!」
寮生「あんたって、口が達者ね。営業でもやればいいんじゃない?」
寮生「まあ、いいってことよ。俺は、何もとりえのない男だけど。」
寮生「じゃあ、麻衣子さん、たまのリードと首輪は、水穂さんのところにあるからな。毎日朝晩、必ず散歩に連れて行ってくれよ。」
と、麻衣子の居室から出ていく。
数時間後。麻衣子は、ランニングシャツに、ホットパンツといういでたちで、たまのリードをもって外にでる。近隣の住人が、何事かと、彼女を見ている。
住人「あら、いい年した娘が、そんな恰好でなにやってるんだ?」
麻衣子「スーパーモデルになる、練習よ。」
住人「足丸出しで、痴漢にでもあったら困るじゃないか。」
麻衣子「逆に見られたいくらいよ。私は美しいんだから。」
住人「ははあ、君は青柳さんの家から出てきたから、また買われた娘か。」
麻衣子「私は被害者よ。学校で、全部なくしたの。だから、モデルになる夢は捨てれない。」
住人「そうだけどね、そんなお乳丸出しで、外を歩くなんて、いくらなんでもねえ。」
麻衣子「だって、そういうモデルはたくさんいるわよ。」
住人「うーん、でも、世間ではそれは認められないね。」
麻衣子「まあ、ひどいこと言うわ!もう帰る!」
たま「ワン!」
住人「まあ、まあ、せめて公園だけは連れて行ってやりな、このかわいいワンちゃんが泣くぜ。」
麻衣子「仕方ないわね!」
と、公園に向かおうと方向を変えるが、厚底靴であったので、転んでしまう。
声「どうしたんですか?」
振り向くと杉三がいる。
杉三「お怪我でもされたのかな?」
麻衣子「何よあなた。そんなみずぼらしいかっこうして。」
杉三「そういわないでもらいたいよ。これは大島なんだから。」
麻衣子「大島ってどこの島?三原山があるところ?」
杉三「ちがうよ。てーちぎのあるところ。」
麻衣子「てーちぎ?何よそれ?」
杉三「この大島もてーちぎと泥で染めるの。」
麻衣子「何を言ってるかわからないわ。あんたみたいな馬鹿な人、ほかにいるかしら。歩けないくせに、歩ける人に声をかけないでもらいたいものよね。この世は、あんたたちみたいに、できないことが多すぎる人のためのものじゃないんだから。それよりも、私たちのおかげで生かしてもらってると思ってちょうだい。」
杉三「でも、かわいい犬を飼ってるね。」
麻衣子「そうやってはぐらかすのも、憎らしいところだわ。」
杉三「だってかわいいんだもの。触ってもいい?」
麻衣子「なれなれしくしないで、って、足が痛い。」
杉三「厚底の靴なんか履くから悪いんだよ。少なくとも、五寸くらいはあるでしょ。」
麻衣子の右足には、黒いあざがでかでかとついている。
麻衣子「ゴスンって何よ!あなたって本当にわけのわからない人ね!もう、帰るから!」
といって、方向を変えようとするが、足に激痛がする。
麻衣子「いたたた、、、。」
杉三「あるけないのか。」
たまが、心配そうに麻衣子を見つめている。
杉三「犬が、心配そうに見ているよ。」
麻衣子「犬には何もできないわよ。」
杉三「君どっから来たの?蘭が戻ってきたら、タクシー呼んであげる。そうすれば、家に帰れるよ。」
麻衣子「だったら今、呼んでちょうだいよ。」
杉三「ごめんなさい。僕はあきめくらで電話ができない。」
麻衣子「はあ?なによそれ?本当にあなたって、変な人だわ。ひょっとして人間とは違う種族の人なのかしら。」
杉三「なんなんでしょう。」
麻衣子「何とかして、、、いたたたた、、、。」
と、唸っていると、蘭がやってくる。
蘭「ごめんね遅くなって。ほしいものがなかなか見つからなくて、結局店員さんにもってきてもらったりしたんだ。あれ、杉ちゃん、この女の人は、、、。」
杉三「なんだろう?五寸もある靴のせいで転んだみたいで。犬の散歩中に。なあ、蘭、電話かけてやってよ、この人を自宅まで送り届けよう。」
麻衣子「えっ、らんというのはあなたのこと?」
蘭「そうですよ。僕が伊能蘭です。」
麻衣子「まあ、そうだったの!連れがいたのね!」
杉三「ちなみに僕は影山杉三。杉ちゃんって呼んでね。」
麻衣子「まあ、その顔に合わない名前ね。その顔から判断すると、妖精の王子みたいな顔しているけど。いたたた、、、。」
杉三「妖精ではなくただの馬鹿。それよりもさ、病院行ったほうがいいかもよ。」
蘭「ははあ、捻挫でもしたな。プラットフォームは、そういうところが危ないよね。若い人だから、そういうのをはいてみたい気持ちもわからないわけではないけれど、、、。」
杉三「じゃあ、池本クリニックに行ってみる?」
蘭「整形外科に行ったほうがいいよ。」
麻衣子「やめて!」
杉三「なんで?けがを治してもらわなきゃ。」
麻衣子「とにかくやめてちょうだい!病院なんて!」
杉三「でも、捻挫は癖になるっていうし。それに、見てもらったほうが、早く治るよ。」
麻衣子「あんなところ、収容所と一緒よ!障害のあるものを、そうやって閉じ込めて、自分が楽をしたいからって、捨てていくのよ!そんなところ、絶対に行きたくないわ!」
杉三「ああ、なるほどね、よくわかりました。たしかに、ごみ箱みたいになっている病院もあるよねえ。本当は、人間で、ごみなんかじゃないんだけどね。でも、現代の医学では、ごみにするしかない人もいっぱいいるんだよね。」
麻衣子「そうよ。病院に行きたくないって言ったら、別のゴミ箱へ売られてしまって。」
蘭「売られてしまったんですか?人身売買は日本では禁止されているはずじゃ?中国なんかではまだあるようですが、、、。」
麻衣子「それがあるのよね!どこか楽しいところへ行こうって言われて、その通りにしようとしたら、鉄を作っているところに売られてしまって。親が泣きついてね。多額の現金を渡して、私を売ってしまったの。」
杉三「なるほど。僕、そこ知ってるよ。友達だから。」
麻衣子「知ってる?じゃあ、そこへ戻すことも、、、。」
蘭「まあ、落ち着いてください。あそこは、人身売買をするところではありませんよ。単に、傷ついた人を立ち直らせる施設です。まあ、入ったばっかりの人の目から判断すると、人身売買に見えたのかもしれませんね。」
杉三「しかし、その犬はどうしたのかな。青柳教授が飼うように命令したのかな?」
麻衣子「私は知らないけど、どこかで拾ってきたのを買ってるんじゃないかしら。挙句の果てに、犬の散歩まで押し付けられて、私は、売られるために生まれてきたのかしら!」
蘭「いやいや。売られたのではありません。あそこは、僕の大学院時代の教授が主宰しているんです。寮生の皆さんだって、あなたと同様、何かしらのことで傷ついてきた人たちで、それを忘れようともできないからあそこで製鉄をしているんですよ。まあ、人身売買に見えてしまうのも確かですよね。偏見も強いですからね。でも、僕たちは、決してそのような態度をとることはありませんし、偏見もありませんよ。もし、居づらいなと思ったら、たまってるものをなんでも口にしてみてください。そうすると、必ず答えが出ます。」
杉三「とにかくさ、青柳教授のもとへ返してあげよう。」
麻衣子「私、、、。」
杉三「ああ、お気持ちはよくわかります。そりゃ最初は、捨てられたと思って泣くでしょうね。でも、みんなそれを知ってますから、とにかく、隠さないことが大切です。」
麻衣子「そう、、、。」
蘭「じゃあ、青柳教授に電話しようか。きっと、帰ってこないからって心配しているだろうから。」
と、スマートフォンをダイヤルする。
杉三「犬が、君のことをずっとみてるよ。何か声でもかけてあげなよ。」
たまは、本当に彼女のことをじっと見ていた。
杉三「名前はなんていうのこの犬?」
麻衣子「たま。」
杉三「猫みたい。でも、犬なんだよね。」
麻衣子「変な名前だわ。あの雑用係が命名したんですって!」
杉三「うん、その雑用係もとてもいい人だから、安心して生活してね。」
麻衣子「まあね。」
杉三「もし、つらかったら、中ではなく、外を見るといいよ。外の空気を吸ったほうが、新しい発見もあるよ。」
麻衣子「意味が分からないわ。」
蘭「話が付いたよ。タクシーで迎えに来てくれるって。で、捻挫はやっぱり見てもらいたいだろうから、富士以外の整形外科に、ほかの寮生さんが連れていくみたいよ。」
杉三「そうか。やっぱり、いい人たちじゃん。たたら製鉄は、三日間不眠不休でやるんだから、相当体力いるのに。」
蘭「まあ、全部手作業で、機械なんて一切使わないでやるからね。」
と、一台の軽自動車がやってくる。
寮生「麻衣子さん、犬の散歩に、厚底サンダルは向きませんよ。このことでよくわかったでしょ。製鉄がひと段落したら、スニーカーを買いに行きましょうね。」
麻衣子「まあ、そうかもしれないわね。」
寮生「ムキにならなくてもいいんです。じゃあ、これから、沼津の整形外科に行きましょうか。」
麻衣子「わかったわ。いたたた、、、。」
寮生「私につかまって。」
と肩を貸してやり、体を支えて車にのせてやる。たまは、別の寮生が車に乗せる。
寮生「じゃあ、杉ちゃん、どうもありがとう。蘭さんも、連絡ありがとうございます。またどっかで、お会いできましたら。」
と、車に乗り込んで去って行ってしまう。
杉三「今の人は、相当傷ついているみたいだな。きっと、居場所がないんだろうな。」
蘭「本当は、ああいう人は、誰かに必要とされたいんだと思うんだよね。」
と、車が遠ざかっていくのを悲しそうに見つめる。
蘭「それが実感できないのが学校なんだろうな。」
杉三「全く、学校というところは、百害あって一利なしだ。」
蘭「杉ちゃんいいこと言う。もう、そういってもおかしくない時代になったよ。」
厚底靴の悲劇はすさまじいもので、麻衣子はギブスをつけて安静にしなければならなかった。こうなると、犬の散歩は免除されたが、その代り、一日中布団で寝ているという暇な労働を強いられた。
声「お茶、いかがですか?」
と言って、水穂がやってきて、枕元に正座で座った。
麻衣子「いりません。私はどうせ、いらない存在ですから、このまま何も食べないで死にます。」
水穂「ここは、終の住処にしてはなりませんよ。いずれは出て行ってもらわないと。」
麻衣子「まあ、あなたまでそのセリフを言うんですか。」
水穂「ええ。ルールはそうなってますからね。まあ、唯一のルールですけど。」
麻衣子「たまはどうしてる?」
麻衣子は不意に聞いた。
水穂「寮生が交代で散歩に行ってます。」
水穂も意外そうな表情で、そう返した。
麻衣子「私、悪いことしたかな。」
水穂「それは、僕が判断することではありませんね。あとで電話を杉ちゃんにもらったのですが、」
麻衣子「ああ、あの、天人みたいな変な男ね。」
水穂「まあ、それはおいといて、たまは、あなたがけがをしたとき、ずっと目を離さなかったというのです。つまり、それだけ心配していたということですね。」
麻衣子「犬がそんなことできるのかしら、心配だなんて。」
水穂「犬はロボットではありません。盲導犬サーブの話を聞けばわかるはずです。」
麻衣子「少し、学校で聞いたこともあるわ。でも、それが何になるの?点数を取るための道具に過ぎないじゃないの。学校なんて。」
水穂「そうですね。今の教育は、点数が取れればすべての道で成功するというように教えられますが、そうはいかないんですよ。それに躓いて、ここに来た寮生もたくさんいます。」
麻衣子「そうなの。私は、それだから、嘘の世界に逃げるしかなかったの。」
水穂「それはお苦しかったでしょうな。」
麻衣子「それが私の原点みたいなものかな。点数が取れないせいで、すごくたくさん叱られたし、高校も、底辺の高校しか行けなかったし。そこはね、すごく教育困難校だったのよ。それに、私は家にお金がなくて、私立の高校に行けなかったからね。だからさらにいやだった。」
水穂「なるほど、そういう高校生も今多いですよ。あなただけではありません。きっと、あなたは勉強をさぼろうというひとじゃなかったと思うんです。でも、そうせざるを得なかったから、躓いたのでは?」
麻衣子「そうなのよ!私、同級生からいじめられたの。勉強はすごく楽しかったけど、まず、勉強を始めようとするだけで少なくとも三十分はかかったわ。私が嫌な顔すると、同級生は、お前は優等生ぶってといって、私を殴った。どうして私だけ、こんな目にあわなければいけないのか、不思議で仕方なかったわ。だから私はわざとかわいくして、それを阻止するしかなかったの。そうなるとね、今度は教師が指導をするでしょ、その板挟みで苦しくて仕方なかったわね。でもね、私、この顔でしょ?この体格でしょ?だからどんなに頑張ってもきれいにはなれなかったのよ。」
確かにそうだ。麻衣子は身長こそあるが、胴回りは少しばかりふくよかな体格であった。これで厚底靴を履いても、きれいとはいいがたかった。
麻衣子「だから私は、スーパーモデルになって、みんなからいじめられない自分を想像していたの。そのうち、それがないと、いられなくなってしまって。気が付いたら、こういう病気になってたわ。」
水穂「そうですか。それはよくわかりました。やむをえずだったのだから、倫理的に悪いことであっても仕方ありません。でも、それを他人に話してみるということをやっていれば、人生は変わったかもしれませんね。」
麻衣子「そんなことできたら、今頃ここにはいないわよ。」
水穂「はい、そうですね。それも確かにそうです。やむを得ないことに、こうしろああしろと指示をしても意味がないのです。しかし今は、そのことは持っているだけで、もう現在のものではないのです。それを語っていく、伝えていくことが一番たいせつなのではないのでしょうか。世の中は、失敗のほうがはるかに多いんですから、成功した人の話ばかり伝えても何もなりませんよ。むしろ、失敗をどう乗り越えるかを伝授するべきでしょう。それに、成功した時の記憶は一時はあるかもしれないけど、すぐに消えていくものですよ。それよりも、失敗の記憶のほうが、頭にずっと巣食って離れないことのほうが多いんです。それを解決するには、同じことをした人に出会うしかないのかもしれません、、、。」
麻衣子「水穂さんってすごいのね。そうやって、生き方や考え方をちゃんと教えてくれるんですね。そういう人って、すごいなって私思います。私、相田みつをさんの詩を、高校時代に読んでいたことがあるんですが、その中の登場人物みたいですよ。もし可能であれば、二人で読めたらいいな。私、改めて読んでみたくなりました。」
と、急に静かになる。周りは、製鉄をしている音しか聞こえない。
麻衣子「どうしたんですか?」
激しい咳の音。
麻衣子「水穂さん、大丈夫?」
咳とともに、赤い血が水穂の手を汚す。
麻衣子「あ、どうしよう、、、。」
と、困っていると、製鉄をしていた寮生たちも気が付いたようで、
寮生「おい、見に行ってやってくれ。」
一人の寮生が、まきをくべるのをやめて、部屋に入ってくるのが、窓から見える。
寮生「水穂さん、大丈夫ですか?今、吸い飲みもってきますから。」
と、急いで台所に行き、吸い飲みを持ってくる。そして水穂の手を口から離し、彼の着物の懐から粉薬を出して、口に入れてやり、吸い飲みを押し込んで飲ませてやる。その数分後に、喀血は止まる。
水穂「ごめんね。」
寮生「いいんですよ。あんまり無理はしないでくださいね。麻衣子さんも、足が良くなったら、てつだってくださいよ。」
麻衣子「は、はい、、、。」
寮生「水穂さん、少し横になりますか?僕、布団敷いてきます。」
水穂「ありがとう、そうして。」
寮生「わかりました、立てます?」
水穂「はい。」
と、寮生の肩を借り、立ち上がる。
寮生「じゃあ、行きますよ。」
と、彼を支えて、静かに麻衣子の部屋を出ていく。
麻衣子「私、、、。」
突然顔を覆って泣き出す。
麻衣子「録音テープでも持ってればよかった、、、。」
同時に、自分の怪我した足が憎らしく思えた。時間がわからなくなるほど、彼女は泣いて泣いて泣きはらした。
ようやく、立ち上がるのを許されたのは、三週間以上たってからだった。歩けるようになった朝、麻衣子は、まず厚底靴を、川に投げ捨てた。続いて、何十本もあるマスカラ、ファンデーション頬紅もみな川に投げ捨てた。川は、エサを待っている動物のように、それらを飲み込んで流れてしまった。
麻衣子は、スニーカーを履いて、今度はジーンズとカットソーを身に着け、化粧を全くしないでたまを連れて散歩に出た。
麻衣子「たま。」
優しく彼に話しかけた。
麻衣子「足は大丈夫かな。」
すると、それに呼応するかのように、たまは、いつもいっている散歩コースとは、全く違う方向へ歩き出した。
麻衣子「どうしたの、たま!」
リードを引っ張ったがいうことを聞かない。
麻衣子「そっちは危ないわ。早く帰らなきゃ。」
と、言ってもたまは歩き続ける。いくらチョークしても効果はなかった。やがて、古ぼけたアパートの前で彼は止まった。
麻衣子「どうしたの?」
元の飼い主だろうか。たまは、そこの玄関の前に座り込んで動かないでいる。
麻衣子「たま、帰らなきゃ。」
と、言ってみたがたまは全く動かないのだった。逆に何か言いたそうに振り向き、そのアパートに向かって遠吠えを始めた。
麻衣子「やめなさい!迷惑が掛かるわよ!」
と、たまを叱責するためたたこうとしたのと同時に、
ガタンガタンガタン、ドスン!
という音が聞こえてきた。同時にたまはアパートの非常階段のほうを向いてさらに吠え続けた。
しかし、そのマンションの裏側には、製紙工場があった。それは間違いなくたっている。
麻衣子「ほら、たま、帰ろう。住んでる人に迷惑が掛かるわよ!」
すると、角部屋の窓ががらりとあいた。中から、女性が一人顔を出した。
女性「その犬、何とかして頂戴よ。」
特に普通の女性だった。不良っぽい感じもなければ、変に落ち着きがない感じでもない。
麻衣子「すみません、ご迷惑でしたか?」
女性「迷惑でも何も、毎日吠えられてこまってるのよ。」
麻衣子「ご、ごめんなさい。ほら、たま、帰ろう。迷惑がってるわよ。」
と、麻衣子は無理やりリードを引っ張った。足の悪いたまはそれ以上抵抗することはなかったので、何とか製鉄所に帰ることができた。
製鉄所に戻ると、夕飯の準備が行われていた。寮生たちはまだ作業をしなければならないものを除いて、全員食堂に集まっていた。
寮生「遅かったじゃないか。どうしたんだ?」
麻衣子「わからないわ。たまが、古いマンションの前でずっと吠え続けて。」
寮生「そうなんだよね。僕も犬語がわかったらたまに聞いてみたいよ。毎日毎日あのマンションに行って、ずっと吠え続けてるんだよね。なんなんだろうな。」
麻衣子「私にもわからないわよ。」
寮生「そうだよね。じゃあ、明日の散歩は、ほかのコースを行くようにしてくれ。」
麻衣子「わかったわ。」
翌日も、麻衣子はたまをつれて散歩に行った。このときは、別の道を取ることにした。しかし、たまは、ぐいぐい引っ張ってあの建物に行こうとする。
麻衣子「たま、ほら、そっちに行ってはダメなんだってば!」
麻衣子は、無理やりチョークしてたまを従わせた。その日は、別の道を取らせたが、たまはなかなかついてこようとはしなかった。製鉄所に戻ろうとしたら、後ろばかり見て、なかなか進もうとしない。何とかチョークを繰り返して、製鉄所に戻ってきたが、麻衣子はくたくたに疲れ果てていた。
寮生「あ、おかえり。」
麻衣子「もう、この犬は何なのよ!」
寮生「またいうこと聞かないのかい?」
麻衣子「私のほうが疲れるわ。私、やっぱり、ダメなのかしら。」
寮生「先生は、すぐにあきらめてはだめと言っていたよ。しつけは根気よくと。」
麻衣子「そうだけど。でも、根気よくやってもどうせ駄目なことのほうが多いんじゃないの?」
寮生「まあ、落ち着いてくれ。とにかく、犬は人間とは違うんだから、犬なりの習性かもしれないし。」
寮生「村下さん、もうすぐ炉を消しましょうか?」
寮生「ノロは、結構たまったかな?」
寮生「そうですね、ひびが入ってきました。」
寮生「よし、そうだね。じゃあ、もう火をとめよう。すぐにいくよ。」
村下と呼ばれた少年は、急いで製鉄現場に戻ってしまった。いつ火をつけたかにもよるが、作業は、昼も夜も関係なくぶっ通しで行われるため、ある意味では忙しい生活である。
麻衣子「強制労働のように思う人がいないのが不思議だわ。なんで私ばかり不運な目に合うのかしら。」
それを心配そうに、たまは彼女を見つめているのであった。
と、インターフォンが鳴った。応接室で、誰かが話している。
後ろを振り向くと、水穂がお盆に湯呑を二つ乗せて、応接室に向かおうとしていた。
麻衣子「水穂さん、大丈夫なんですか?」
水穂「ええ。ほかに誰もやる人はいませんから。」
麻衣子「いえ、無理をされてはこまります。私が代理で。」
水穂「じゃあ、この二つを、杉ちゃんと蘭さんに。」
麻衣子「わかったわ。」
相手が誰なのか、さっぱり忘れていた。
麻衣子「失礼します。」
と、応接室のドアを開けた。
懍「あれ、水穂さんではなかったのですか?」
麻衣子「いえ、水穂さんでは、大変だと思ったから、私が代理で持ってきました。どなたかいらしたのですか?」
蘭「ああ、この間お会いしましたね。足は大丈夫ですか?」
応接室には、杉三と蘭が来ていた。
麻衣子「まあ、お二人とも今日はどうしたんですか?」
杉三「ええ、蘭が竹の子をもらってきたんですが、うちで食べるには多すぎるから、おすそわけ。」
テーブルの上には竹の子が三本おかれていた。
麻衣子「竹の子。」
杉三「蘭の奥さんの、ピアノの生徒さんが竹の子とりに行ったんだって。今年は竹の子が良く取れて、豊作だったんだって。」
蘭「五本ももらっても、うちでは妻しかいないし、杉ちゃんの家族もお母様しかいないから、もってきたんです。」
懍「まあいいでしょう。今夜、竹の子ご飯にでもしてもらいましょう。竹の子は、鬱の症状をやらげる効果もあるようですしね。じゃあ、これを台所にもっていってくださいね。」
麻衣子「わかりました、、、。」
杉三「どうしたの?」
麻衣子「な、なんでもないです。ちょっと、考え事していただけ。」
杉三「いや、その顔は、明らかに不満があるときの顔だな。」
麻衣子「そんなことないですよ。」
杉三「ううん、まだ君が持ってる問題が解決には至っていないのかな。だって、やりたくないんだなってのが、丸見えだもの。」
麻衣子「そんなことありませんよ。どうしてわかるんですか?人の気持なんかわかるはずないでしょ?」
蘭「そうなんですけどね、杉ちゃんにはすぐにわかってしまうものですよ。僕も、何回もあるから、隠し事はできませんよ。」
杉三「何か悩んでいるんでしょ?悩んでいるとね、幸せが逃げていくよ。」
麻衣子「当り前じゃない!なんで私だけ、、、。」
懍「麻衣子さん、ここで怒りを持ってはなりません。」
杉三「いやいや、ここで言ってしまってもいいんじゃないですか?青柳教授。だって、怒りがたまりすぎて、ここへ来たんですから。」
麻衣子「杉ちゃんはよくわかるのね。ここにきて、何もいいことなかったわよ。犬の散歩しか役割がもらえないし、犬がいうこと聞かないし、私は、一生不幸な目にしかあえないのかしら!せっかく、水穂さんに聞いてもらっても、あの人は早く死んでしまいそうだし、、、。私は、、、。」
杉三「それほど嫌なら、僕と散歩に行ってみよう。」
蘭「杉ちゃん、そうやって、人に突っ込むなよ。」
懍「いえいえ、こういう時は、杉三さんは役にたつものですよ、蘭さん。僕たちが知らないことを彼は知っていますからね。ふたを閉めて閉じ込めるのではなく、能力を発揮させるほうが、人間は人生を楽しめるものです。二人で、たまを連れて、公園に散歩してくるといい。」
杉三「じゃあ、行ってきます。」
蘭「あんまり長くいすぎないでね。」
懍「じゃあ、準備していってみてください。」
麻衣子「ありがとうございます。」
道路、リードをもって歩いている麻衣子に、杉三は車いすでついていく。
杉三「いうことを聞かないって、どんな風に?」
麻衣子「行ってみればわかります。」
と、同時にたまはリードをぐいぐいと引っ張って、またあの建物の前に連れていく。
麻衣子「ほら、たま、またこのマンションの人に怒られるといけないから帰ろ。」
しかし、たまはこれまで以上に吠える。
麻衣子「ほら、今日はお客さんもいるのよ。迷惑かかるから帰ろ。」
杉三「ちょっと待って!」
その声色に麻衣子は驚く。
麻衣子「何があったのですか?」
杉三「ううん?声がするの。」
同時にまたドスン!ドスン!という音。
杉三「これ、もしかしてだけど、虐待じゃないかな。たまは、それを知らせたくて、言うことを聞かなかったのでは?」
麻衣子「虐待?そんなことないわ。マンションの近くの工場で何かやっているみたいけど。」
杉三「工場?どこにあるの?」
麻衣子「マンションのすぐ後ろにあるじゃない。」
杉三「工場ってどれ?」
麻衣子「だから、マンションの後ろにあるじゃない。坂野製紙って。」
杉三「どれが坂野製紙なの?」
麻衣子「どうしてそんなこと聞くの?目が見えないわけでもないのに。」
杉三「僕はあきめくらだから、、、。」
麻衣子「あきめくら?今時そんな人いるかしら。」
杉三「いるんだよ。ここに。」
すると、たまがさらに高く吠え始めた。まさしく猟犬そのものだった。猟犬は、獲物を見つけたり、仕留めたりすると、このようになく。
杉三「たまもそういってる。乗り込もう!」
麻衣子「だって、どの部屋なのかも、あなたわからないでしょうに。」
杉三「おそらく、角部屋じゃないか。」
麻衣子「何階の?」
杉三「二階の、、、。でも、僕は二階には上がれないよ。歩けないから。」
麻衣子「ちがうと思うわ。ただ、工場がうるさく鳴ってるだけじゃないかしら。」
杉三「いや、それを感じているのは、僕だけではなく、たまもだ。」
と、再び二階の角部屋の窓ががらりとあいた。あの女性が顔を出した。
女性「ちょっと、いい加減にその犬黙らせてよ!こっちも集中できなくてたまんないわ!」
杉三「お母さん、息子さんにご飯くらいあげたらどうですか?」
女性「息子?ああ、無理に食べさせてもいけないってお医者様に言われたのよ。でも、あなた、うちの息子のことをどこで見たの?うちの子は引きこもりだし、私いつもカギをかけて仕事に出てるから、見かけないと思うけどな。」
杉三「違うでしょ。息子さんに、ご飯を食べさせないで、暴力ふるってるでしょ。」
女性「全く、変な嘘を作らないでよ!私は、虐待なんかこれ以上してませんから!」
杉三「でも、聞こえてきたんだけどな、ドスン、ドスンって。」
女性「ああ、それじゃあ、裏の製紙会社の音と勘違いしたのね。あそこの音は本当に困るのよね。それは息子も嫌がってるわ。でも、私の賃金で引っ越ししようにもできないから、我慢してここにいるしかないのよね。」
杉三「違うでしょ。本当はね、口減らしをしたいんだ。そうでしょ?」
麻衣子「杉三さん、一体、この人をせめてどうするの?」
杉三「杉ちゃんでいいよ。だって、いけないことをしているんだもの。」
女性「いいえ、私はしていません。変な音は、製紙会社がうるさいだけ。それに、ちゃんと、拒食症と診断されているんだから、へんなことは言わないでください!それじゃ!」
と、窓をバシン!と閉めてしまう。
杉三「麻衣子さん、警察を呼んできてくれないかな。」
麻衣子「必要ないと思いますけど?」
杉三「あの人は、本当に悪い人だ。息子さんにご飯食べさせないで死なせようとするなんて!それに、このたまもいい証人だよ!」
麻衣子「証人って犬じゃない。」
杉三「犬だからこそ、そういうことを早く感じ取れるものさ。だからはやく。」
麻衣子「そんなこと、」
杉三「とにかくはやく!」
麻衣子は、その緊迫した表情を見て、しぶしぶ110番をダイヤルする。それを見た、たまが、さらに吠え続ける。
杉三「このたまが、何よりの証拠だ!つかまらないなんてことは絶対にないから。」
数分後、華岡が部下を引き連れてやってきた。
華岡「杉ちゃん、通報してくれてありがとう。虐待をしている女って、櫛田常子だな。よし、杉ちゃんが確証を得てくれたから、すぐに突入しよう。」
杉三「違うよ華岡さん。これはたまが教えてくれた。」
華岡「たま?猫はいないじゃないか。」
杉三「違うよ。この犬がたま。」
華岡を見ていたたまは、今度は遠吠えを始める。同時に、
ガタンガタンガタン、ドスーン!という大きな音が聞こえてくる。
華岡「やったな!よし、今度こそ突入だ。行くぞ!」
と、角部屋に向かって走っていき、階段を急いで登って、インターフォンを押す。
華岡「すみません、警察のものです。」
すると、ドアが開いて、先ほどの女性が出てくる。
女性「今度は何ですか。犬じゃなくて、警視さん?」
華岡「はい、今、外を通ったら、ドスンという音がしましたので、気になったものですから、訪問させていただきました。」
女性「ああ、裏の製紙会社の音じゃないですか。いつも、うるさくて困ってるんです。子供が寝なくて。」
華岡「じゃあ、子供さんを連れてきてくれますか?」
女性「あいにく、入院しています。ひどい拒食症で。」
華岡「お母様、何をしに来たのか、お分かりになりますか?これはね、お母様が、息子さんを虐待している可能性があるからですよ。」
女性「変なこと言わないでください。警察のくせに、人のうちに勝手に入るなんて、虫が良すぎます。」
華岡「でも、あなたは櫛田常子さんでしょ。」
女性「同じ名前くらいいるわよ。」
華岡「警察をなめないでくださいよ。いいですか、もう、近所の方から、となりの部屋から変な音がすると、こちらに相談が来ているんです。ですから、言い逃れにはなりません。署まで、ご同行願います。」
常子「わかったわ。でも、必要があれば、黙秘しますから。」
華岡「じゃあ、来てください。」
と、常子を連れて階段を下りていく。
常子が地上に降りてくると、たまがさらに高らかに吠え始める。
常子「何よこの犬!」
杉三「どうして、言うことが聞けないの!ご飯を食べさせてやってるんだから、泣くもんじゃないわ!本当に私が生んだ子とは思えないわ!」
麻衣子「それ、誰の言葉?」
杉三「この人だ!そう聞こえたんだよ!」
麻衣子「聞こえたってどこから?」
杉三「あの部屋からだ!そして、ガタンガタンドスンという音がして、息子さんを高いところから突き落としたんだ!」
常子「一階にいたのにどうしてそんなことがわかるのよ!」
杉三「だって、その音がして以来、何もしなくなったじゃないか!もし、裏の工場がうるさいのだったら、絶えず、そのドスンという音がしているはずだ!」
常子「しまった!」
杉三「それはね、息子さんが亡くなったということなんだよ!」
華岡「杉ちゃんの言うとおりだ。今、遺体の確認に来るからな!虐待の理由や、日常生活、すべて話してもらうぞ!」
その時、何台かパトカーがやってきて、警察官たちが、常子の部屋に突入し、やがて少年の遺体が乗った小さな担架を担いで戻ってきた。少年というより赤ん坊のように小さく、ところどころに内出血が見られ、人間の体に、くろぶち模様が付いたように見えた。
華岡「確か、五歳だと聞いていたが、これでは、それどころじゃないみたいだ。ご飯もろくに食べてなかったんだろう。」
部下のものがやってきて、常子をパトカーに乗せていった。
華岡「どうもありがとう。通報してくれて。」
麻衣子「いや、お礼なんて、私、杉ちゃんの、いや、杉三さんの話を本当だと思えなかったので、もらう資格はありません。」
華岡「いやいや、杉ちゃんには、電話の操作などできませんから、通報してくれて助かりました。実は、あの女の隣近所では、あの女が息子さんい日常的に虐待をしていることは、よく知られていて、しかし、誰も通報する勇気がなかったそうなんです。児童相談所が、介入しようとしたこともあったのですが、彼女が頑としていうことを聞かず、みんな困り果てておりました。昔だったら、隣近所の人が通報してくれていたのですが、今は、逆に通報した人も、やられてしまう可能性のある時代になりましたから、警察になかなか伝わりにくいんですよ。虐待の仕方も、すごく恐ろしい手口を使うようになりましたから、近所の人も恐ろしく思っていたのでしょう。」
麻衣子「どんな風に虐待していたんでしょうか?」
杉三「きっと、網棚の上でもおいて、放置していたんじゃない?高いところから、転がり落ちたような音だったよ。」
華岡「うん、近いね。正確にはロフトベッドの上に置いて、全く食事を与えなかったそうなんです。泣き出せば、殴るけるを加えてね。だから、ぶち犬みたいにあざがあったでしょ。」
麻衣子「まあ、ひどい!そんなことって、、、。」
華岡「そうなんですよ。だから、早く逮捕してしまいたかったんですけどね。何度も逃げられてしまって困っていたところだったんです。いや、本当にありがとうございました。後で、感謝状を贈ります。」
麻衣子「いりませんよ、感謝状なんて。私、何も大したことはしていませんよ、本当に。」
杉三「いやいや、もらっておけばいいじゃないか。それを持ってれば、何かつらいことがあったときに、自分って、こんなことをやったのだって、自信を取り戻せるよ。」
麻衣子「杉ちゃんまで、、、。」
華岡「その通り!せっかくのことなので、部下のものに製鉄所まで送らせます。その、黒いワンちゃんも一緒にね。」
麻衣子「本来なら、たまに感謝状をあげてください。たまが、この事件を発見してくれたんですから。名犬ラッシーにも、負けず劣らずですよ。」
華岡「よし、特製のドッグフードも送りますね。」
このころにはたまも吠えるのをやめて、尻尾を振りながら、伏せて座っていた。
華岡「じゃあ、本当に、ご協力どうもありがとう!」
一台のパトカーがやってきて、三人を乗せて、製鉄所へ走っていった。
製鉄所
ついた時には、夕食の時間になってしまっていた。麻衣子は、パトカーを運転していた警察官に礼を言い、製鉄所に戻っていった。杉三の乗り降りは警察官が手伝った。
麻衣子「青柳教授、遅くなってすみません。」
懍「おかえりなさい、華岡さんからメールで顛末を聞かせていただきましたので、夕飯の支度は今日だけ免除しますが、」
麻衣子「ええ、教授、明日からちゃんと、夕飯の支度もしますし、鉄づくりも手伝います。頑張れば私も、何かできるのかもしれません。新しい自分は待ってちゃだめですね。自分から動かなければ。だから、鉄づくりが、その足掛かりになれば。」
懍「いえいえ、たたら製鉄は、女人禁止制なんですよ。有名なあの映画では、女の人がやっていますけれども、本来は女人禁止でしたし、第一、ふいごを動かせるほどの体力は、女の方にはありませんから、ありえない話なのです。」
麻衣子「それでは、私、何をがんばったらいいのでしょう?」
杉三「麻衣子さん、女の人にしかできないことってさ、いっぱいあるじゃないの。いくら男女平等だって騒いでも、女の人にしかできないことってあるよ。それを勉強していったほうが、ずっと幸せになれるって、青柳教授は言ってますよ。」
懍「そうなのです。男女平等の時代とは言いますが、現実はそうはいきますまい。ですから、あまりジェンダーというものを意識しないほうがいいのです。男性は、男性の良さがあり、女性は女性の良さがあるのです。それをごちゃまぜにしてしまうから、犯罪が増えているような気がするんですね。」
麻衣子「ええ、わかりました。今日のことと、教授のお話で、私、ちょっとだけ、自信が持てた気がします。だから私、これから頑張って生きていきますよ。」
蘭「でも、あんまり気負ってはだめですよ。気軽に生きてくださいね。」
麻衣子「そうでしたね。でも、私、この製鉄所に来れてよかったです!」
声「食事ができましたよ!」
麻衣子「わかりました、すぐ行きます!」
麻衣子は、食堂に向かって走っていった。
床の上には、たまが体を伸ばして寝そべっていた。床に臥せていた水穂も、麻衣子の声を聞いて、安心したようだった。
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