植物になった杉ちゃん
植物になった杉ちゃん
池本クリニックに杉三がやってくる。
受付「だから、診察にはまだ二時間もあるんですよ、杉様。ほかのスタッフさんにも迷惑がかかるから、どっかほかのところでまっていてください。」
杉三「そうなんだけどね、時間なんてわかんないから、来ちゃったんですよ。」
受付「誰かに手伝ってもらって、正確な時間に来てもらいたいものですけどね。」
杉三「だったら、時計ってどうやって読むんですか?」
受付「杉様、そうじゃなくて、時計を読めるように学校へ行くとか、誰かに聞いてみますとか、そう答えを出すもんでしょう?」
と、その時、救急車のサイレンが聞こえてきて、病院の正面玄関の前で止まる。
受付「あら、どうしたのですか?」
救急隊員「はい、四歳の女の子なんですが、急に高い熱が出て、お母様が通報されてお願いしたのですが、中央病院ではもう一杯ということで、こちらにお願いしました。」
受付「あ、わかりました。では、院長を呼んできます。」
救急隊員「よろしくお願いします!」
受付は急いで院長室に走っていく。
受付「院長、院長!」
杉三「おかしいな。こんな時にインフルエンザでも、出たのかなあ。」
外を見ると、入道雲が見える。こんな夏の真っ盛りに?
数時間すると、患者たちが続々とやってくる。と、同時に受付もやってきて、
受付「本日の外来診療は中止します!」
患者「中止って、今日予約とったんですけどね。」
患者「薬をもらわないと困るわ。」
受付「はいはい、今日だけですから我慢してください。もし、どうしてもつらいようでしたら、ほかの病院に行ってください。」
患者「そんな、見捨てるつもりですか!」
患者「何を考えているのかしら!」
患者「ああ、もしかして、何かいけないことでもした危険な患者でも出たのかな。」
杉三「そんなこと言わないで!悪いことをしてここに来た人なんていないよ!」
患者「杉ちゃん、何か知ってるの?」
患者「いつも、ここが開く前からいるもんね。」
杉三「はい、小さい女の子が救急車で運ばれてきました。急に高い熱が出たんだって。」
患者「は?急に高い熱?」
杉三「うん、インフルエンザみたいだった。」
患者「顔を見たのかい?」
杉三「うん、真っ赤な顔してふうふう言ってた。」
受付「ちょっと杉様!ぺらぺらとしゃべんないでくださいよ。この病院の経営にもかかわってくるんですよ!」
杉三「そうだよねえ。難しい人を直せば確かに評判もあがるよね。でも、ほかの患者さんにも、しっかり伝えてあげなきゃだめだと思うけど?本当のことを言えばいいでしょ。小さな女の子が、この病院にきて、彼女がすごく大変だから、外来診療は中止しますって。」
患者「なるほど。そういうことか。肺炎でもなったかな。子供だから体力もないからな。まあ、こんな暑いときでも、肺炎になることもあるよな。よし、俺、帰るわ。ほかのところに行くよ。」
患者「あたしも、その子ぐらいの孫がいたら、お母様もかわいそうだし。ここ以外にも、病院は確かにあるんだから、私も帰ろ。ありがとねえ、杉ちゃん。」
患者たちは、そういいながら、病院を出て行ってしまった。
受付「もう、杉様、余計なことを言わないでくださいよ!これで病院がどうなると思うんですか。」
杉三「本当のことを話したほうがいいですよ。それなら、どうしようかって対策できるでしょ。そうやって、隠すから余計に評判悪くなるもんでしょうが。だったら、言ってしまったほうがいいんだ。」
受付「全く、そういうところが、変なんですよね。杉様は。」
と、そこへ池本院長がやってくる。
院長「心配ないよ。彼女は発見が早かったから、二、三日入院すれば帰れますよ。あとは、雑誌記者などが来なければいいんだけどねえ。」
杉三「どうしたんですか、彼女。」
院長「まあ、僕も彼女のような症例は、二十年ぶりだった。若いころタンザニアで見た覚えがあるが、その子よりもひどいタイプだったからねえ。」
杉三「い、一体何が?」
院長「ああ、杉ちゃんは知らないよね。アフリカ睡眠病だ。しかも、東アフリカで流行っているタイプだったよ。西アフリカで流行ったタイプは知っていたけど、東アフリカのほうは、知らなかったね。」
杉三「アフリカ睡眠病、なんだそれ。」
院長「ああ、アフリカでよくある感染症なんだけどね、トリパノソーマという寄生虫がおこすものだ。」
杉三「変な名前の病原菌だなあ。」
院長「しかし、不思議なものだ、なぜ、アフリカの病気がこっちに来たんだろう。しかも、この病気は、アフリカに生息するツェツェバエというハエがトリパノソーマを媒介するんだけど、そのハエは日本にはいないはずなんだけどね。」
杉三「つまりそれに刺されてかかるんだ!」
院長「そうだよ。だけど、日本にいるハエじゃないからおかしいわけよ。」
受付「あの、それは、人同士での接触とかでも感染するんですか?」
院長「いやいや、それはないよ。母子感染とか、性交渉で感染することはあるが、くしゃみとか咳とかで感染する可能性はないよ。大丈夫だからね。」
受付「ああ、よかった。それでアフリカなんとかびょうというものにかかる人はいないんだったら、あたしもまだまだ働けるわ。食べ盛りの子供三人抱えてると、働かなくちゃならないのよ。」
院長「まあいい。とりあえず、ほかの患者さんにも、電話しよう。きっと、午後の診察なら再開できるよ。」
院長「そうだよ。トリパノソーマも、少ないうちに駆除できるとおもうよ。アフリカではよく命取りになる疾患だけど、ここ日本では、ちゃんと薬があるから、すぐ治る。杉ちゃんも、あんまり気にしないでくれよ。さあ、すぐ診察再開の知らせをだそう。」
受付は、大きなため息をつく。
杉三の家。
美千恵「こら!またこんなところに!」
と、ハエたたきをもって、窓をたたく。
美千恵「よしやった!全く、今年は暑いからハエが多くて困るわ。」
杉三「ツェツェバエは怖い!」
と言って、泣き出してしまう。
美千恵「ツェツェバエじゃないわよ。ただのイエバエ。それに、そんな変な名前のハエ、聞いたことはないわ。」
杉三「でも、いるんだよ!だって、池本院長が言ったよ。」
美千恵「いるわけないでしょ。ばかも休み休みいいなさい。そんな変な名前のハエ、、、。」
杉三「いるんだよ、いるんだよ!だって、女の子が一人運ばれてきたよ!」
美千恵「一体どうしたの?どこでそれを聞いてきたの?」
杉三「病院で聞いてきた。アフリカ睡眠病だって。」
美千恵「あんた、ここは日本でしょう?アフリカじゃないんだから、ちゃんと考えてものを言いなさいよ、」
杉三「でも、本当なんだよ!」
美千恵「わかったわ。あんたが今まで言ってきたことに間違いはないわよね。とりあえず、何があったのか、母ちゃんに話してみて。」
杉三「あのね、救急車で四歳の女の子が運ばれてきたんだよ。急に高い熱が出たんだって。アフリカ睡眠病だって。もう、今にもなくなるのかとおもった。本当に怖かった。」
美千恵「わかったわ。じゃあ、彼女どうなるのか、母ちゃんが調べてあげる。」
と、電話をとって、
美千恵「もしもし、あ、院長?あの、こないだ運ばれてきた女の子って、どうなりました?あ、もう帰ったの?それはよかった。そうですか。いや、杉三がね、ハエを退治していたら急に怖いと言って泣き出して。ああ、もう大丈夫なんですね、それじゃあ、失礼します。」
と電話を切る。
美千恵「安心して。もう、彼女帰ったって。心配ないって。」
杉三「でも、ツェツェバエはいるんでしょ?」
美千恵「日本は狭いし寒いし。まあ、今年は暑いからいるのかもしれないけれど、冬になったら、消滅するわよ。大丈夫よ。」
杉三「だったらいいんだけどね。」
美千恵「大丈夫だから、そんなに騒がなくてもいいわよ。」
杉三「そうかあ、、、。」
数日後、蘭の家。テレビがついている。
アナウンサー「こんにちは、ニュースをお伝えします。まず、奇妙な病気がはやりだしたニュースです。静岡県富士市で、アフリカ睡眠病の感染が相次いで報告されており、すでに、二人の患者が確認されました。この病気はもともと、アフリカのサハラ以南でよくあるものですが、なぜかこの静岡で流行りだしております、特に抵抗力の弱いお年寄りは注意が必要です。この病気は、ツェツェバエというハエが病原菌を媒介しますので、ハエの徹底的な駆除をこころがけてください、また、公園など、草が生えているところには念のため、近づかないでください、、、。」
蘭「これでは、外へ買い物にも行けませんね。こまったなあ。スーパーに行くには、公園を通らなきゃいけないのに。」
懍「日本も物騒になりましたな。それだけ暑くなったということか。僕も、別のニュースで聞きましたが、ここで流行っているのは、ローデシア型だそうですよ。それが唯一の救いかもしれませんね。あれは、気が付いたときは手遅れっていう人が、本当に多い疾患なのでね。」
蘭「知っていらっしゃるんですか?そのアフリカ睡眠病って。」
懍「ええ。若いころ、アフリカでたたら製鉄の講習会をしていたことがあったのですが、同伴した学生がかかったことがあります。ワクチンはないので、全身に虫よけスプレーを塗りまくってね。それを忘れていったからかかったんでしょうな。ローデシア型でしたので、すぐにわかりましたけどね。これが、ガンビア型でしたら、恐ろしいことになったかもしれませんね。ウガンダでは、どっちも流行ってましたからね。識別ができないと。」
蘭「どう違うんですか?」
懍「ええ。ガンビア型ですと、ただの風邪と勘違いされて、放置されてしまい、ある日突然倒れて眠るようになって逝くんです。ローデシア型ですと、急に高い熱が出て、誰から見てもおかしいことがわかますから、発見は割と早いんですが。でも、九割は、ガンビア型ですからね。倒れた時は、もうておくれってことが非常に多い。睡眠病といわれるのは、倒れると二度と目覚めることはなく、眠るように逝ってしまうのでそういわれるのかなあ。」
蘭「お、おそろしい。教授、お宅は山の中だけど大丈夫ですか?水穂もいるし、」
懍「まあ、成り行きに任せるしかないですよ。幸い、うちでは、感染者は誰もおりません。かかったとしても、日本にはスラミンとか、メラノソプノールとか、薬剤もありますので、あんまり怖がる必要もないと思いますよ。これがガンビア型だったら、もっと大変なことになってると思いますけど。どうしても、発見が遅くなりますからね。」
と、インターフォンが五回なる。
蘭「杉ちゃんだ。買い物に行かなくちゃ。」
杉三「蘭、買い物に行こう。」
蘭「どうしても、あの公園を通らなければいけないし、、、。」
懍「お貸ししましょうか?」
と、カバンを開けて、虫よけスプレーを出す。
蘭「あ、ありがとうございます!」
と、玄関へ移動すると、もう土間に杉三が待っている。
蘭「杉ちゃんも虫よけスプレーを付けて。どうしても公園を通らないといけないんだから。」
杉三「そうだね。」
と、着物の上から虫よけスプレーをぶっかけて、
杉三「じゃあいこう。」
蘭「あのね、そうやって使い続けるものじゃないんだけどな。」
懍「杉三さんは、大島がそういう柄だから、結構予防になりますよ。ツェツェバエは明るい色にたかってきますから。いつも着ているその大島、あんまり寄り付かないんじゃないですか。シマウマがなぜ縞模様になったのかといいますと、ツェツェバエがシマウマのような白黒の柄を嫌うからだという説もあるんですからね。まあ、あんまり恐れるなということです。お気をつけて行ってらっしゃい。」
確かに杉三が来ているのは、白で大きな麻の葉柄を入れ込んだ黒大島の着物だった。
杉三「やっぱり僕は馬鹿だから、すぐにはかからないだね。」
蘭「いつも黒大島ばかり着てるけど、たまには役に立つときもあるんだなあ。まあいいや、本当に成り行きに任すしかないよね。じゃあ、杉ちゃんいこう。」
懍「じゃあ、僕も製鉄所へ帰りますよ。」
と、カバンを取る。
蘭「はい、じゃあ、とりあえず全員外へ出ますから、本当に気をつけましょうね。」
懍「はい。ありがとうございます。」
蘭「じゃあ、一人づつ出ましょうか。」
と、全員外へ出ていく。
公園。いつもなら子供たちがたくさん遊んでいるのに、子供たちは一人もいない。
杉三「さびれちゃったな。」
蘭「まあ、公園は、犯罪の発端になる場所でもあるからね。」
と、数人の、白い防護服を着た男性たちがやってくる。全員、背中に何か背負っている。
杉三「何しに行くんですか?」
男性「ああ、ツェツェバエの駆除です。市長から命令が出て。二人とも、どいてくださらないと、作業を始められませんよ。この薬品は強力ですから、むやみに吸うと、危険なこともありますよ。」
杉三「わ、わかりました。」
蘭「どうもありがとうございます。すぐに駆除をしてくれるなんて、日本はやはり優秀だね。」
男性「まあ、ツェツェバエは草むらの中に多いので、ここの草も、全部刈り取る予定ですけどね。」
蘭「きをつけてくださいよ。その作業で刺されることも多いみたいじゃないですか。」
男性「まあ、俺たちは、命令に従うしかできませんから。」
杉三「そうだよね、、、。そして駆除ができた時に一番褒められるのは市長さんだ。でも、それはいけないことで、駆除をした人を褒めないといけないんだよ、ほんとはね。」
男性「ありがとな。お二人さんもきをつけてよ。」
杉三「大丈夫。馬鹿は風邪をひかないから。」
蘭「それは迷信。杉ちゃん、早く買い物行こう。」
杉三「わかったよ。じゃあ、頑張ってください。」
と、作業員に頭をさげて、公園を出ていく。蘭も頭を下げてついていく。
スーパーマーケットの中のカフェ。
杉三「青柳教授のところはほんとに大丈夫かな。山だから、草のオンパレードだし。ねえ、蘭、電話かけてよ。」
蘭「電話?電話してどうするの?」
杉三「うん、水穂さんも心配だし、寮生さんの中で、かかった人はいないか聞くんだ。誰か一人か二人、かかる人がいるかもしれないからさ。」
蘭「それなら、公表するんじゃないのか?ニュースかなんかで。」
杉三「でも、僕は文字を読めない。」
蘭「知らせがないんだから、ないってことだと考えればいいんだよ。」
杉三「でも、読めない。」
蘭「あんまり心配すると、教授にも負担がかかるよ。」
杉三「でも、知りたいの。本当に気になるから。電話して、蘭。」
蘭「仕方ないな。みんな製鉄で忙しいんだから、すぐ切るからね。」
杉三「いいよ。」
蘭はスマートフォンをダイヤルする。
蘭「あ、もしもし、教授?お忙しいところすみません。杉ちゃんが、あの例の睡眠病にかかった人はいないか心配でならないから電話してくれと言ってきかないので、電話したんです。教授のところは、患者さんはでていませんか?」
声「はい、一人もおりません。水穂もいつも通りに暮らしています。」
蘭「杉ちゃん、誰もかかった人はいないし、水穂も普通にしているみたいよ。じゃあ、きるからね。」
懍「ただね、蘭さん。」
蘭「なんでしょう。」
懍「少しおかしいなと思うことがあるんです。確かに僕たちが住んでいるところは、患者が一人もいません。標高が高いので割と寒い地域ですから、ツェツェバエが住みにくいということもあるのでしょうが。しかし、もしツェツェバエが富士市内に生息しているのだったら、もっと患者が出てもおかしくないんですよ。特にローデシア型は、強烈ですからね。で、僕は調べてみましたが、患者はすべて須津地区に住んでいる人で、蘭さんたちが住んでいる田子の浦地区はもちろんのこと、ほかの地区では一人も患者を出していない。富士で温暖な地区はほかにもありますけど、それらの地区では全く患者が確認されていないんです。トリパノソーマが人に移る可能性は極めて低いのですが、ハエというのは非常に繁殖能力がありますから、急激にひろがってもおかしくないですよね。」
蘭「そうなんですか。そう考えてみれば、確かにそうです。ハエは飛ぶものですから、すぐに広がるのはある意味普通ですよね。それがないっていうことは、、、。」
懍「僕は警察ではないのでわかりませんが、これは、不特定多数の人を狙ったわけではないようなきもするんですよ。」
蘭「なるほど、、、。」
懍「僕は、近いうちに華岡さんに相談に行こうかなあと思ってるんです。日本ではよく知られない病気ですが、インターネットの普及した時代、何でもかんでも入手できるようになったのですから、何かの拍子でツェツェバエが紛れ込むこともあるのかもしれない。」
蘭「そうですね、、、。」
杉三、スマートフォンをひったくる。
杉三「僕も手伝いにいくよ!」
蘭「ちょっと、杉ちゃん!」
杉三「今の話が本当なら、僕もお手伝いをしたいんだ。」
蘭「そんなことして何になるんだ。君が言ってもなんの手伝いにもならないの。邪魔になるだけだよ。」
杉三「じゃあ、華岡さんに電話しますから。そして、三人で相談に行きましょう。」
蘭「三人で?」
杉三「僕と蘭と、教授と。」
蘭「もう、、、。」
杉三「そのほうが、話し合いも深まるよ。じゃあ、タクシー会社に電話してもらうので、待っていてくださいね。」
と、スマートフォンを蘭にわたし、
杉三「操作ができないから、これで頼む。」
蘭「ほんとにもう、しょうがないんだから!すみません教授、杉ちゃんってどうして、」
声「いいんですよ。さっさと連れていきましょう。」
蘭「はい、、、。」
と言って、一度電話を切り、華岡のところにかけなおす。
警察署。ワゴン車が一台止まる。杉三たち三人は運転手におろしてもらい、正面玄関から中に入る。
華岡「やーやーやーやー、青柳教授、お待ちしておりました。じゃあ、こちらに来てください。」
杉三「僕らはお手伝いだよ。」
華岡「おう、心強いな。」
蘭「杉ちゃんが暴走しだしたら止めてあげてね。」
華岡「おう。」
と、三人を応接室に連れていく。
応接室。
華岡「なるほど、そういえば、俺たちも、患者名簿を調べてみましたが、確かに須津地区の人たちだけですよ。俺はてっきり、医療が良いからきっとすぐに治ってしまったのかと思っていましたが、そういう見方もありますな。人から人へ移ることがあまりないのであれば。」
蘭「しかし、どういう動機があれば、ツェツェバエを凶器にしようと思いつくのかな。」
華岡「それは、これから調べればいいさ。とりあえず、アフリカ睡眠病をつかった、殺人未遂事件ということですな、教授。」
懍「平たく言えばそういうことです。かつては、天然痘を使った戦争もありましたからね。」
華岡「そういうこともあり得ますね。」
蘭「じゃあ、ツェツェバエの入手方法は、、、。」
懍「個人輸入じゃないですか?最近はスマートドラックというものを個人輸入するらしいですから。」
華岡「なんですかそれは?」
懍「頭が良くなる薬ですよ。記憶力をあげたり、脳の血のめぐりをよくしたりするだけですけどね。」
華岡「なんだ、俺みたいにダイエットの薬かと思った。体は変わらないけど、頭はよくなるってか。」
蘭「それは余分だよ、華岡。」
華岡「まあいい。とにかく、インターネットでハエを入手して、どこかに放つ、というやり方の殺人というわけだ。よし、捜査してみよう!」
懍「まあ、僕の勝手な想像ですけど。」
華岡「おい、話の腰を折らないでください。俺はやっぱ、苦手だよ、、、。」
杉三「まあ、とにかく、これ以上患者さんを出さないように、僕らも何とかしよう。」
須津地区の小さな家。表札には浅田と書いてある。
声「まゆちゃん、ご飯よ!」
中はきれいに掃除がされているが、何か異様な雰囲気であった。
声「まゆちゃん、ご飯!」
呼んでいるのは母親、ではない。それにしては若すぎる。
女性「まゆちゃん!」
すると、二階から乱暴にドアのあく音がして、一人の少女が現れる。
少女「なれなれしく呼ばないでくれる?勉強してるんだから、邪魔しないで!」
女性「まゆちゃん、」
少女「うるさい!出てって!さもないと硫酸をかけるわよ!」
女性は、仕方なく台所へ戻る。台所には中年の男性が座っている。
男性「まだ、出てこないのか。」
女性「本当に私、いいんでしょうか?このお宅にはいてはいけない気がしますが。」
男性「いや、いいんだよ。君が、亡くなった妻にそっくりでなかったら、こうして一緒に住むことはしないから。まゆもそのうちなついてくれるさ。」
女性「私、まゆちゃんに、浅田の姓を名乗るな、浅田美香と名乗る権利はないと叱られたことがありました。」
と、二階でドスンドスンという音。
女性「まゆちゃん、まだ怒っているのでしょうか。」
男性「君は浅田美香でいいんだよ。そして俺は浅田元春だからね。それでよいことにしよう。まゆのことは放っておくしかないよ。とりあえず、外に出てもらうことを目的として。」
美香「はい、、、。」
元春「じゃあ、出かけてくるよ。」
美香「はい。」
元春はカバンを取って、玄関から出ていく。
元春「なぜかこの地区で、変な病気がはやっているようだから、君も気をつけてな。」
と、玄関ドアを開けて外へ出る。
美香「わかりました。」
と、近くをハエが一匹通り過ぎる。美香は、ハエたたきを取り、ハエをぶったたいて、駆除に成功する。後ろを振り向くと、まゆが立っている。
美香「どうしたの?」
まゆ「なんでもありません。ただ、忘れ物しただけです。」
美香「ご飯を食べてほしいんだけどな。」
まゆ「そんなことを私に言う資格、あんたにはないわ!うちをめちゃくちゃにして!」
と、再び二階に戻っていく。
ちょうどその時、
声「こんにちは、宅急便です。印鑑をお願いします。」
美香は玄関へ行ってドアを開ける。
配達員「あ、こんにちは。浅田まゆ様にお荷物です。着払いで5000円です。」
美香「わかりました。今呼んできます。まゆちゃん、宅配便来てるわよ。」
どどどどっと、階段をおりてくるまゆ。持っていた印鑑を指定されたところに捺印し、荷物を奪うように受け取って、また自室に戻っていく。
美香「何か買ったの?あんまりお金を無駄使いしては、、、。」
返事はない。
まゆは、宅急便の包みを開ける。中には、箱が入っている。外には何か説明書きがしてあるが、英語であり、一般の人には解読できない。まゆはそれを開け、英語の本を取り出す。そして、そのページの中に挟まれている何かを取り出して、、、。」
美香は、落ち込んだまま、テーブルに座っている。
ばたん!というドアの音がして、まゆが出てくる。
美香「どこ行くの?」
まゆ「足りないものが出たから買いに行くだけよ!」
と、いって、まゆはさっさと家を出て行ってしまうのであった。その手には、彼女の実母で美香ではない女性が使ったカバンが握られていた。
ホームセンター。夏休み中なので、虫かごも売られていた。当然のことながらカブトムシのエサなどもあった。その中をまゆは歩いて、その餌を買っていった。
その帰り道、まゆは公園に来て足を止めた。そして、カバンを開けようとした。
声「そんなところで何をしてるんですか?いつまでもいると、ツェツェバエに刺されますよ。」
まゆが振り向くと、杉三がいた。
まゆ「あんたこそなんでこの公園にいるのよ!」
杉三「まあ、怒らないで。あの、落とし物をしてしまって。」
まゆ「落としたって何を?」
杉三「ああ、スーパーマーケットで買い物したんですが、急いで袋詰めしたものですから、ニンジンを一本落としたんです。でも、僕、歩けないから、探すこともできないで困ってしまったんです。」
まゆ「誰か付き添いはいないの?」
杉三「追い出されちゃったんですよ。」
まゆ「どういうこと?」
杉三「つまり、蘭が今、店に問い合わせしているので、それが終わるのを待ってるんです。たぶん落としたのはこの公園だと思うんですけど、店の中に落としたのかもしれないでしょ。」
まゆ「あなた、それなら、店の人を呼んで何とかすればいいじゃない。」
杉三「僕、できないんです。お金の勘定もできない。どれが一万円札なのかもさっぱりわからないんですよ。」
まゆ「学校、行ってないの?」
杉三「行っていません。どうせ、馬鹿にされるだけだもの。」
まゆ「へえ、そういうことを許される男がいるとはね!」
杉三「なんでそんなに怒るんです?」
まゆ「は?」
杉三「許されるってどういうことですか?僕は読み書きができないから、学校へ行っても無意味だってみんないうから。」
まゆ「みんなって誰よ!」
杉三「僕の家族と、友達と。」
まゆ「あなた、それで世の中渡れるって思ってるの!なんでひょうひょうと人前に現れられるの!世の中を渡り歩くには何が必要か知ってるの!それができないとどうなると思う!死ぬしかないのよ!ましてや男はその作り手じゃないの!そうならなきゃいけないのよ!なのに、そうやって高級な着物着て、歩けない生活して!殺しても殺しきれないわ!」
杉三「僕は生きていてもいいと思いますけどね。それができなかったら、ほかのことをすればいいでしょ。不自由だと思ったことは一回もないですよ。」
まゆ「じゃあ、その、落とした時のいきさつを、話してみてちょうだいよ!」
杉三「はい、こういうことです。つまり僕がニンジンを買って、蘭がお金を払ってくれたんですが、袋詰めしようとしたらニンジンがなくなってました。だけど、蘭は、お金を全部払ったといいましたし、店員さんもレシートに書いてくれたみたいですが、僕はわからないので、泣いてしまいました。今蘭は店員さんと話しています。僕は邪魔だからここで待っていろと蘭が言ってた。」
まゆ「まあ、依存症なのね!そうやって、誰かの手を借りて!障害のある人って、甘えてるのに聖人君子みたいな言い方するから嫌なのよね!」
杉三「じゃあ、どうしてそんなに怒るんです?」
まゆ「話したって仕方ないでしょ。」
杉三「いや、知りたいんです。だって、悪いのは僕のほうだから。僕みたいなのは、ここにいたってしょうがないでしょ。そう思ってるってはっきりわかるから。僕みたいなのはいないほうがいいんだ。だって、こんなにたくさん迷惑かけてるから。」
まゆ「まあ、そのことわかってる障碍者は珍しい。」
杉三「だから、聞かせてくださいよ。」
まゆ「まあ、大別すればこういうこと。私も、必要のない人間なの。父親がそういってた。あの男は、私なんてただの付属品。お母さんが死んだ後、すぐに再婚したりするんだから。」
杉三「そうか、再婚しないでといったんだ。」
まゆ「ええ。でも、通らなかった。」
杉三「なんで?」
まゆ「だって、私が悪いからっておばあちゃんが言ってた。もうすぐ受験なんだから、母が必要だって。でも、私、あの女は嫌い。」
杉三「まあ、一般的にはそういうけど、一番の被害者になっちゃうよね。」
まゆ「そうなのよ!あなた、馬鹿だと言っておきながら、意外にそういうこと言えるのね。私、お母さんの面影を忘れたくないの。でも、おばあちゃんも、あの男も、みんな新しいお母さんがいたほうがいいっていう。本当は私、苦しくて仕方ない。いくら訴えても無駄だってはっきりわかったの。だから復讐してやりたいんだ。」
杉三「そういう気持ちにもなるよね。勝手な判断はやめてもらいたい。そう言いたいんでしょ?」
まゆ「そうなのよ!誰も私のことなんて考えてくれることはないのよね。教師もさ、正しい生き方は、お金を稼いで親を養うことだしか言わない。男の子にはよくそう言ってたわ。でも、私は、あの女と父親にお金を出してやる気にはなれないな。たとえ、あの二人が誰かの介護なしでは生きられなくなったとしてもね。」
杉三「まあ、そうなるよね。大人って、子供のためと言っておきながら、結局、自分のためにしか動かないんだよねえ。」
まゆ「よくいってくれたわね!そう、それが私の許せないところ。」
杉三「でもさ、こういう馬鹿がいることも覚えておいてほしいな。僕は、歩けないし、お金の勘定もできない。文字も読めないし、書けない。悪いところばっかりだけど、その分別のことで思い出がいっぱい詰まってる。あの時、ああして動かしてくれたなとか、自動販売機で飲み物買ってくれたなとか、みんな詰まってる。だって、僕はできないもの。何もできないもの。一人じゃ。だから、それをしてくれて、本当に良かったと思ってる。それって、
きっと、やってくれた人は、自分の大事な時間をつぶされて嫌な奴だとしか感じないでしょうね。でも、僕には、できない。そんな風に思うことなんて。自分のためなんて、思えない。だっていろんな人にやってもらってるから、自動的に誰かの役に立ててうれしいなとしか思えないんだよね。そういう馬鹿もここにはいるんだよ。」
まゆ「本当に変わった人ね。でも、あなたが、私の気持ちを初めて聞いてくれた人だったわ。」
顔に何かポロン、と落ちる。
杉三「それだけさみしかったの?」
まゆ「あ、こ、これはね、まあ、困るわ。涙なんか流して。私、かっこ悪いわよね。」
杉三「いいんじゃない?誰か一人、聞いてくれる人がいるんだってわかれば。」
まゆ「ねえ、あなた、どこに住んでるの?」
杉三「読めないんだ。蘭は、よくたごのうらと言っていたんだけどね。」
まゆ「そうなの。今度地図で調べて会いに行ってもいいかしら?」
杉三「いいよ。その時は、みんなで青柳教授のところに行ってさ、食事でもしようよ。みんないい人たちだもの、すぐに仲良くなれるよ。」
まゆ「本当?」
杉三「本当。だって、みんな僕みたいに欠陥のある人たちだから、決して自分のためにかっこいいことはしないもの。それは態度でわかるよ。僕は文字を読めないからね。」
まゆ「そうね。文字が読めると、だまされることは結構多いものよ。何回だまされてきたか。もう、、、数えきれないわ。」
杉三「泣かないでよ。ごめんね、僕も自分の名前すら書けなくて。もし、蘭がいれば、書いてくれたんだけどね。でも、本当に、みんないい人たちだよ。だまされることは絶対ないよ。」
まゆ「ありがとう。名前をうかがってもいいかしら?」
杉三「いいよ。影山杉三。杉ちゃんだよ。」
まゆ「意外に硬い名前をしているのね。なんかあんまり口に出して言いにくい名前。杉ちゃんと、呼びたい。」
杉三「もったいぶらないで杉ちゃんでいいよ。僕も、名前を聞いていい?」
まゆ「浅田まゆ。まあ、どっかのスポーツ選手に近い名前だけどね。だからそれにかこつけられて、いろいろ嫌がらせもされてきてるから、この名前は嫌いだわ。」
杉三「そういうことも、僕にはできないや。だって、読めないんだから。」
まゆ「そうね。そういうことになるわね。あなたって、不思議だわ。でも、なぜかこんなにうれしい気持ちになったのは、何年ぶりかしら。」
杉三「それでいいんだよ。分析なんかしなくたって、うれしいならそのまま味わっていればいいじゃないか。」
まゆ「そうね。ありがとう、杉ちゃん。」
杉三「こちらこそよろしくね、まゆさん。」
と、右手を差し出す。まゆもカバンを下して右手を差し出す。杉三はその手をしっかりと握りしめる。
杉三「また、会いたくなったらここにきて。いつも買い物するときにこの公園を通ってくの。だから、会える確率は極めて高いし、いつもは蘭もいるよ。」
まゆ「お兄さんがいるの?」
杉三「ううん、僕の親友だよ。」
まゆ「じゃあ、私も、その仲間に入れてよ!」
杉三「もちろんさ!」
まゆの顔に涙があふれてくる。まゆは杉三の手を放し、顔をふく。
まゆ「まあ、私ったら恥ずかしいわ。まったく、こんな時に限って、、、。」
杉三「気にしなくていいよ。だって楽しいことは今始まったばかりだもの!」
まゆ「そうね。」
と、夕刻を告げる鐘が鳴る。
まゆ「まあ、もうこんな時間!日が長い時期だからまだまだ明るいけど、あなたみたいな人には、暗くなったら命取りになるわ。じゃあ、今日はここまでにして、また会いましょ。今度は、ほかの方も紹介して頂戴ね。」
杉三「うん、わかったよ!また会いに来るよ!本当は優しいんだね。」
まゆ「まあ。ほめるのが本当に上手なのね。でも、素直に受け止めるわ。私もなんだか久しぶりに楽しい気分になれたみたい。じゃあ、また会いましょうね!」
と、カバンをもって肩にかけ、
まゆ「ありがとう!ほんの短い会話だったけど、楽しかった!またね!」
と、いい、軽やかに去っていく。
蘭の声「杉ちゃん、ごめんね、遅くなって。結局、店員さんのミスだったよ。」
と、言いながら蘭がやってくる。
蘭「どうしたの?何かあった?」
杉三「浅田まゆさんという女性と知り合った。でも、何かわけがあると思った。今度また会おうって約束した。」
蘭「そうか。杉ちゃんは友達になるのは天才だからな。じゃあ、うちへ帰ろ。」
杉三「そうだね。」
二人、公園を後にする。
まゆの家。鼻歌を歌いながらまゆが帰ってくる。
美香「あら、まゆちゃんどうしたの?」
まゆ「ええ、ちょっと買い物に行ってたの。遅くなってごめんなさい、ご飯は後で食べるから、出しておいてね。」
美香「まゆちゃん、そんな言葉、、、。」
まゆ「ごめんなさい、今まできつくあたって。」
美香「いいのよ、おばさんは、まゆちゃんのお母さんの代わりには絶対なれないから。」
まゆ「これからやってけばいいじゃない。」
美香「まゆちゃん、、、。」
まゆ「じゃあ、もう少ししたらご飯食べるわ。」
と、自室に引き上げる。自室に入ると、まゆはかばんを開ける。そして、中に入っていた昆虫のエサを窓から捨てる。そして、オリーブオイルの瓶を取り出す。
まゆ「あれ、ふたが開いてる、、、?」
中身をふってみるがいつも聞こえる音はしない。
まゆ「嘘!」
一気に顔の表情が変わる。
蘭の家。朝早く、電話が鳴る。食事の支度をしていた蘭は、急いで受話器を取る。
蘭「もしもし、伊能ですが?」
声「杉三がなんだかおかしいのよ。」
蘭「は?」
相手は美千恵だった。
蘭「杉ちゃんがどうしたって?昨日熱を出したと聞きましたけど、風邪じゃないんですか?」
美千恵「そうなのよ。昨日熱を出したから、病院に行こうって言って寝かせたんだけど、今朝起こしに行ったら、全く起きなくなっちゃって。これってもしかして、、、。」
蘭「それは大変だ!すぐに池本先生のところへ!きっと、杉ちゃんは、今はやっている、、、。」
美千恵「そうね。じゃあ、すぐにそうするわ。警察にも連絡したほうがいいかもしれないわね。」
蘭「そうですね。僕は青柳教授のところにも電話してみます!」
美千恵「わかったわ!」
と、電話は切れる。蘭は朝食の支度などそっちのけで、車いすで家を飛び出していく。
池本クリニック。救急車にのって杉三がやってくる。追いかけてきたパトカーに、華岡と蘭が乗っている。杉三はすぐに集中治療室に運ばれて、ありとあらゆるところにチューブをつけられ、いわば植物状態となる。
華岡「大丈夫かな、、、。有力な証言が得られるか、、、。」
蘭「一体、どう捜査しているんだよ。」
華岡「ああ、これは、一種の快楽殺人とみなしてる。凶器はツェツェバエであることは間違いない。正確には、それが媒介するトリパソノーマなんだけど、犯人は、ツェツェバエを個人輸入し、草むらなどに放すというやり方で、殺人を図ったのだということは分かった。ただ、このあたりでそのハエを飼っていたという人物はまるで見つからずで、、、。」
蘭「最近はパソコンで個人輸入もできる時代だからな。学生のほうが英語を覚えていることも多いから、犯人は若者なんじゃないのか。それに、トリパノソーマだよ。」
華岡「なるほど!」
声「杉三さんは?」
と、言いながら懍がやってくる。
蘭「あ、青柳教授!」
懍「いてもたってもいられなくなって、こちらに来させてもらいました。今は集中治療室かな?」
華岡「杉ちゃんが戻ったら、すぐに有力な証言をしてもらおう!」
懍「そうなんですけどね、昏睡状態になってしまうと、スラミンは難しくなりますからね。」
蘭「じゃあ、杉ちゃん、もしかして、、、?」
懍「いや、日本ではそうなる確率は低いとは思うのですが、、、。」
華岡「おいおい困るよ!蘭までパニックになると!」
蘭「杉ちゃんはかけがえのない、友達だからな!」
華岡「蘭、、、。」
懍「華岡さん、慎みなさい。今は、捜査のことを口にしてはなりません!」
華岡「はい、わかりましたよ。青柳教授。」
同じころ。
まゆ「えーと、かげやま、かげやま、、、。」
と電話帳を開いて、電話をかけまくっている。
まゆ「世帯主の名前しかないから、、、。」
といって、電話をかけてみるが
まゆ「るすか、、、。」
また別の家に電話すると、
声「あのな、人の家族がどうなったかなんて、プライバシーの侵害か!」
とガチャンと切れる音。まゆは一番最後に書かれていた「影山美千恵」と書かれている番号に電話をし、、、。
池本クリニック。受付係が走ってくる。
受付「影山さん、お宅の電話がひっきりなしになっていてうるさいと、近所の方から連絡がありました。もう、電話線を抜いてしまいましょうか?」
というが、蘭は話す気をなくしている。
懍「それなら、僕が応答しましょうか?華岡さん、一度送ってください。蘭さんは杉三さんについているように。」
と、受付と一緒に、一度病院を出る。
数時間後。公園では一斉に殺虫剤が散布されている。近所の人たちも、怖がって外に出ないので、スーパーマーケットも閉鎖している。
池本クリニック。
懍が戻ってくる。まゆもついてくる。
懍「まゆさん。」
まゆ「杉ちゃん、いや、杉三さんは、」
懍「いえ、それではありません!」
まゆ「え、、、?」
懍「見なさい!目を開いてよく見るんです、僕も、蘭さんも、華岡さんも!」
まゆ「教授、、、。」
懍「これでも、謝罪の言葉は出てこないというのですか!」
チューブでつながれた杉三。
放心状態の蘭。
祈りの姿勢をしている美千恵。
どうしたらいいかわからず、うろうろしている華岡。
そして、懍の目にも涙が出てくる。
懍「最近の子供は、悲しみを失って、怒りのほうが勝るといいますが、それを正当化して犯罪に走ったのは、いかがなものかと!」
集中治療室のなかでは、池本院長が、新たな点滴を杉三に投与している。美千恵が何か応対しているが、その表情はわらにもすがろうという態度である。
まゆ「わたし、、、。」
がっくりと肩を落とすまゆ。
まゆ「、、、ごめんなさい、、、。」
急に今まで持っていたものがすべてガラガラと崩れていくのがわかる。
まゆ「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
蘭「何を言っても帰ってこないよ。」
まゆは床に突っ伏して泣きじゃくった。と、その時、
声「杉三、わかる!」
蘭「杉ちゃん!」
池本院長が出てくる。
院長「遅くなってすみません。先ほどの薬剤が思ったより効いたみたいです。三日三晩、本当に大変でしたけど、おかげさまで持ち直しましたよ。まったく、彼の生命力には驚くばかりです。」
と、汗をふきふき、苦笑いする。
蘭「ああ、よかった、よかった。本当によかった。」
と、涙を流して顔をくしゃくしゃにする。
華岡「よし!これでやっと逮捕だ!署まで来てもらいますよ!何をやったか、きちんと思い知ってもらわなきゃ。あなたがやったことは、本当に重大ですからな!」
と、まゆを無理やり立たせ、腕を引っ張り、手錠をかける。
まゆ「みなさん、本当にごめんなさい!そして、短い間だったけど、ありがとう!」
と、言いながら、華岡に連れられ、パトカーに乗っていく。
院長「皆さん、あとはゆっくり休んでください。もう大丈夫ですから。」
蘭「あの、話をすることはできますか?」
院長「ああ、いいですよ。もう、再発はしないと思いますので。」
蘭「じゃあ、ちょっとだけ話をさせてください!」
院長「わかりました。どうぞ。」
と、集中治療室に入れてやる。
入ると、杉三も蘭のほうを見る。
蘭「杉ちゃん、わかる?僕、僕だよ!」
杉三「蘭だろ!いくら馬鹿でもそのくらいわかるよ!」
蘭「よかった。よかった。もうだめかと思った。」
杉三「馬鹿は川も渡れないよ。僕、番人さんに言われたんだ。もう少し、馬鹿を直してからここへ来いと。」
気が付くと、懍もそこへ来ていた。
懍「そうですよ、杉三さん。なかなか川は渡れませんよ。人間ですから。」
杉三「本当ですねえ、青柳教授。」
美千恵「とにかく、杉三が戻ってきてくれてほっとしたわ。」
杉三「まあ、馬鹿には川は渡れなかったというわけで。」
全員笑顔になる。
取調室
まゆ「私、どうかしてましたね。あの時は、怒りの波にのまれて、何もわからなかったのでしょうか。私は、家族の中で母が一番好きでした。母だけが、私のことを認めてくれている存在でした。ほかの家族は、私のことを全然勉強ができなくて、塾にいかせたり、運動ができないからと言って、陸上をやらせたりしました。それで、私は陸上大会に出たり、試験でいい点を取って、仮面のいい子になりましたが、それと並行して怒りがあふれてきて。私がやっていることは、私のためでなく、家族がいい顔をするためだって。私は、そのための道具なんだなって。でも、母だけはそうじゃありませんでした。ちゃんと、ありのままの私を見てくれました。その代り、ものすごく体は弱い人だったのですが。」
華岡「具体的にお母様に何をしてもらったの?」
まゆ「ええ、数は少なかったんですが、いろんなところに連れて行ってくれました。陸上の練習で疲れて寝ていると、こっそり日帰り温泉に連れて行ってくれたりしたんです。そして、二人で岩盤浴して、お互いの顔を見合わせた時は、本当に最高でしたねえ。でも、母が弱っていくにつれて、父がお母さんに手を出すな、病気なんだからってすごく叱るようになりましたけど。」
華岡「なるほど。」
まゆ「そして、母は、逝ってしまったんです。私が最期を看取りました。私は、三日三晩泣き続けました。でも、思ったんです。今まで母に任せきりだった父が、少しは私のほうを見てくれるんじゃないかって。」
華岡「ああ、そういうことか。」
まゆ「でも、半年もしないうちに父は再婚しました。それが、美香さんなんですが、美香さんのことをどうしても邪魔な存在に思ってしまって。」
華岡「どうしてそう思ったの?」
まゆ「お母さんとは全然違ったからです。お母さんは決してきれいな人ではなかったです。むしろ、太り気味で。だから父がよく、お母さんみたいになるなよって、冗談ですけどよく言っていました。私は、父が、お母さんのことを愛しているからわざとそういっていると思っていたのですが、そうじゃなかったんですね。美香さんは、まるで女優さんみたいにきれいな人でしたから、ああ、やっぱり父は、お母さんのことを愛していなかったのかと、大きな衝撃でした。これを機に、私は、なぜ私だけが普通の家族を持てなかったのか、本当に悩みました。それが怒りに変わっていって、なんだか、すべての人が、幸せそうにくらしているのが、憎たらしくなってしまって、、、。」
華岡「それで、殺害を思いついたのか。」
まゆ「ええ。そうです。どうせやるんだったら、うんと苦しめてからやってしまいたい。私はそう思いました。幸い、英語が得意でしたので、インターネットで取引するには問題はありませんでした。本当に、すべてのひとが、眠る様に逝ってくれたらって、私は思ってしまったんですね。亡くなった二人の方と、杉三さんには申し訳ありませんでした。もう、死刑でもなんでもしてください。私は、もう、この世にいる資格など到底ありませんから。」
華岡「そうか。でも、そうじゃないとしたら?」
まゆ「そうじゃないって、事実そうですから。」
華岡「いや、違うと思いますよ。」
声「失礼します。」
と、取調室のドアが開き、部下の刑事が現れる。そして、そこにいたのは、、、。
美香「まゆちゃん。」
まゆ「美香さん!」
美香「まゆちゃん、まゆちゃんが、罪を償ってもどってきたら、一緒に暮らそうね!おばさん、ずっと待ってるから!」
まゆ「そんな、私は、そんなこと、、、。」
華岡「美香さんは、まゆさんが悩んでいることを薄々知っていて、どう対処してあげたらいいのか、ずいぶん悩んでいたそうなんです。そして、この結論に至ったそうなんですよ。どうです?これでも、誰もいないとお思いですか?」
美香「まゆちゃんに話せばよかった。おばさん、ここに来た時、お母さんの代わりになるように努めようと一生懸命努力していたんだけど、まゆちゃんには苦痛だったみたいで、どうしたらいいかわからなかったのよ。もっとまゆちゃんにいろんなことしてあげたかった。お母さんの代わりにどうしてもなりたかった。でも、やっぱりだめだったのね。せめて、ごめんなさいだけでも。」
まゆ「ごめんなさいは、こちらのほうよ!馬鹿はこっちだわ、本当にごめんなさい。」
美香「こんなだめなおばさんだけど、許してくれないかな?まゆちゃんが罪を償って帰ってきたら。おばさん、ずっと待ってるから!」
まゆ「あたしにはそんなことを言う資格なんかないわよ。でも、ありがとう。お母さん。」
美香「まゆちゃん、、、!」
華岡「抱きしめてやってくれませんか?それが、答えを表す一番の方法だと思うんですね。」
まゆ「ごめんなさい!」
美香「ごめんなさい!」
二人は、強く抱き合いお互いの肩を涙で濡らした。
刑事「じゃあ、行きましょうか。検察庁へ、、、。」
まゆ「はい。しっかり償います!」
美香「ずっと待ってるからね!」
まゆは、新しい母親の手から離れ、刑事二人に連れられて、取調室を出ていく。
池本クリニック。
美千恵「本当に、どうもありがとうございました。お礼の言葉もありません。一時はどうなるのかと思いましたけど、院長先生に感謝です!」
と言って頭を下げる。
杉三「やっぱり、馬鹿は風邪をひかないですね。」
蘭「杉ちゃん、こんな時に馬鹿というなよ。しっかり帰ってきてくれたんだから、もっと他の自己評価はないの?」
杉三「いや、馬鹿以外思いつかないんだ。」
懍「まあ、それが杉三さんの個性のようなものだから、いいんじゃないですか。」
院長「まあ、もうハエに刺されることはないと思うけど、気を付けてちょうだいね。病院がパンクしたら困るからね。」
杉三「はい、決していたしません!」
院長「うん、それが出れば大丈夫だ。」
と、そこへタクシーがやってくる。
運転手「早く乗ってくださいよ。次のお客さんもいるんですから。」
杉三「はいはい、すぐ乗りますから!」
美千恵「じゃあ、院長、お世話になりました。」
杉三「またね!」
美千恵と運転手の介助で、三人はタクシーに乗り込む。タクシーは重たい腰を上げるように、走っていく。
空は青空。日のさす公園の草むらにハエが一匹止まる。それはツェツェバエではなく、イエバエであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます