WhiteRoad
ショッピングモール。杉三と蘭が、買い物を終えて、タクシー乗り場を探している。
杉三「このショッピングモールも、よく改装するんだよねえ。この前まであった店がもうつぶれてる。」
蘭「もうって、僕らがここへ来るのは、年に一度か二度くらいでしょうが。」
杉三「だって、店がなくなっているんだもの。こんな派手な洋服売る店なんて、この前来たときにはなかった。」
蘭「この前っていつのこと?」
杉三「わからない。」
蘭「だよな。それなら、余計な事言わないで。それよりタクシー乗り場を探さなきゃ。たしか、ここにあったと思ったんだけどなあ。」
杉三「あれ、ここにあった入り口、ふさがれちゃった。」
蘭「塞がれた?」
そこはファストフードの店になっている。
蘭「あれ、タクシー乗り場はここだったはず。なんでここに店が?」
杉三「ねえ、店員さん、ここはタクシー乗り場で、タクシーがたくさんあったはずではないですか?」
蘭「聞かなくても、案内図見ればわかるよ。」
と、カバンから、案内図を取り出す。
店員「ああ、申しわけありません。タクシー乗り場は、移動してしまいましてね。裏口になります。」
杉三「裏口ってどこにあるんですか?」
店員「ああ、案内表示に従っていけば大丈夫ですよ。車いすの方も簡単に行けます。」
杉三「そうじゃなくて、裏口への行き方を教えてほしいんです。」
店員「だから案内表示を、」
杉三「僕は、読み書きができないので。あきめくらだから。」
店員「は?せめて、養護学校には行ったでしょ?」
杉三「学校になんていってませんよ。それより、裏口はどこですか?」
蘭「杉ちゃん、大体わかったからもういいよ。すみません、もう、行かせますので。」
杉三「まだだよ、蘭。答えをもらってない。」
蘭「答えは僕が持ってる。」
と、そこへ、店長が出てきて、若い店員に話しかける。しばらくして、
店員「わかりました。じゃあ、裏口までご案内いたします。」
杉三「ありがとう。でも、僕たちは、店の売り上げには協力しないよ。だって、僕らはうちに帰りたいだけで、障碍者を助けたことで、売り上げがあがるなんてことは、絶対にないから。」
店員は、一瞬動作が止まるが、
店員「まあまあ、そんなことはしませんよ。さて、お兄さんと一緒に、帰りましょ。」
杉三「僕は蘭の弟じゃないよ。友達だからね。」
店員「ま、まあ、タクシー乗り場まで案内しますから、きを悪くしないでくださいね。じゃあ、こちらにいらしてください。」
と、二人の先頭に立って、歩き始める。
しばらく行くと、年寄向きの洋服売り場に来る。その隣にひ、広めの自動ドアが設置されている。
店員「ここですよ。ここを出てくれれば、タクシー乗り場に出られます。じゃあ、戻りますので。」
杉三「なんだか、すごくわかりにくいところにタクシー乗り場を作ったんだね。段差が前より少ないからいいけど、見つけにくいや。それに、周りは、年寄りの洋服ばっかだし。なんか、人種差別のような気がする。そう思いませんか?」
店員「いやあ、わかりやすくするためじゃないですか?」
杉三「それだけでは、みんなが楽しめる場所とは思えませんね。だって、タクシー乗り場だけが、浮いているように見えますよ。お宅は、頻繁に改装工事を行っているようだから、次の工事ではもう少し、人種差別をしない、タクシー乗り場を作ってあげてくださいね。」
店員「僕に言われても困ります。」
蘭「すみません、すぐ仕事に戻ってください。杉ちゃん、わけのわからないこといわないで帰ろうよ。本当にすみませんでした。」
店員「彼の教育を考えなおさせるべきですよ。じゃあ、どうも。」
と言って、戻ろうとする。と、そのとき、
どどーん!
と大きな音と、キイーと車のブレーキをかける音。
杉三「な、な、何!」
蘭「事故でもあったのかな。」
店員「これは大変だ!早くいかなければ!」
と、慌てて外に飛び出していった。
杉三「ど、どうしたらいいんだろう。」
蘭「僕らは、ここにいるしかない。どっちにしろ、タクシーに乗らないと帰れないし。事態が落ち着くまで待機させてもらおう。きっと、てんてこ舞いだろうからね。」
杉三「声がするよ!」
蘭「え、、、。」
杉三「男の人が、一人倒れているみたい。あ、今救急車を呼んでる。大丈夫かな。」
蘭「あんまりぶつぶつ言うのも、、、。」
杉三「うん、救急車と警察が到着した。ああ、もう心肺停止だって、、、。」
蘭「杉ちゃん、めちゃくちゃを言うなよ。」
杉三「だって聞こえてくるものはしょうがないよ。」
蘭「聞こえてくる?」
杉三「うん。今、走り出したよ。きっともう駄目だと思うけど、、、。」
蘭の耳にも、救急車の走り出す音が聞こえてきた。
蘭「逆走しているのかな。まあ、緊急車両だから、逆走しても当たり前か。こんなところで事故が起こるとは、なんとも恐ろしい。」
杉三「じゃあ、タクシーが事故を?」
蘭「そうだろう。ここはタクシー乗り場だからね。」
杉三「じゃあ、僕らの帰りは、、、。」
蘭「うーん、福祉対応車が迎えに来てくれれば、いいんだけれど、、、。どうかな。僕たちは、車いすだから、現場にはいかないほうがいいし、、、。」
杉三「ほかの出口はないの?たしか、出口は一つだけじゃないと思うけど、、、。」
蘭「ちょっと待って。」
と、案内図を広げる。
蘭「ああ、障碍者用の出口はここしかないなあ。ここで、タクシーを呼んでかえってもらう設定みたい。他はみんな、階段で移動するようになっているし、、、。」
杉三「だったらどうやってかえるの?もう一つ出口は?」
蘭「改装したとき、壊したみたいだね。洋服売り場になってるよ。」
杉三「じゃあ、どうしたらいいんだよ!」
蘭「杉ちゃん落ちついて。とりあえず、タクシーを探してみよう。ここで、何か言っても始まらないよ。とにかく行こう。」
と、障碍者用出口から外へ出る。
そとはすごい人垣。事故と関係のないやじ馬で群がっている。シャッターの音が鳴り響き、報道陣たちが、あちらこちらで中継している。
人垣の中心には一台の車がレッカー車につながれている。いわゆる、軽自動車である。事故の衝撃で大破し、車と分かるが形をとどめていない。
蘭「あれ、タクシーじゃないね。普通の車だ。」
声「まもなく、車をレッカーで運び出しますので、どうぞ、道を開けてください!」
警官がやじ馬たちに、笛を吹いて道を開けさせ、レッカー車は大名行列のように、その間を走っていく。それを報道陣たちが、怒涛の如く追いかけていく。
杉三「かわいそうにな。誰が運転していたんんだろ。なんの目的でタクシー乗り場に来たのかな。」
レッカー車の走り去った後は、血の海が見えた。
杉三「もう、亡くなってしまったのかな。」
蘭「杉ちゃん、もう帰ろうよ。遅くなるよ。」
幸い、車を運び出したため、人垣は解散していった。
蘭「すみません、僕たち二人を乗せてくれませんか?」
と、近くにあった福祉車両タクシーの運転手に声をかける。
運転手「いいよ。乗りな。」
蘭「ありがとうございます。じゃあ、杉ちゃん、乗ろう。」
運転手「今、乗せてあげるからね。」
と、二人の車いすをそれぞれ引っ張って、先に杉三を乗せ、次に蘭を
車に乗せる。
蘭「じゃあ、田子の浦まで。」
運転手「まいどあり。」
と、ショッピングモールを出て、道路を走り始める。
杉三「運転手さん、今日は慎重だね。」
運転手「まあ、目の前であんな事故があったらね。多少は怖くなるもんよ。」
杉三「そうだよね。でも、なんであの車はタクシー乗り場に突っ込んだのだろう。普通車なのに。」
運転手「まあ、タクシー乗り場になる前は、一般乗降場所だったからねえ。」
蘭「そうなんですか?」
運転手「うん。去年まではね。店が改装して、駐車場ばっかりになったもんだから、タクシー乗り場は辺鄙なところに、押されてしまった。最近、年寄りでも車に乗る人多いじゃん、だからタクシーなんて、なかなか使わないんだよねえ。一般乗降場と、タクシー乗り場をまったくの正反対に移したもの
だから。」
蘭「ああなるほど。そういうテクニックだったのね。」
杉三「じゃあ、その記憶があれば、間違えるってこともあるよね。」
蘭「でも、もう一年くらいたつでしょ。」
杉三「そう?でも、覚えられない人もいると思うよ。」
蘭「それは杉ちゃんだけだよ。いくら何でも一年使えば、なれるでしょ。」
杉三「そうかなあ。」
運転手「まあ、人それぞれさ。ほら、そろそろ田子の浦港だけど、どこらへんで降りる?」
蘭「ああ、ありがとうございます。港公園まででいいですよ。」
運転手「了解。じゃあ、そこでね。」
蘭「どうもありがとう。」
タクシーは港公園につく。二人は、手伝ってもらいながら降りる。蘭は、運転手にお金を支払う。
運転手「はい、これ領収書ね。じゃあ、また何かあったら、電話くれれば、対応するからね。では。」
と、車に乗り込み、エンジンをかけ、走っていく。
数日後、杉三の家。杉三と蘭、美千惠が、夕食を食べていると、インターフォンが鳴る。
杉三「誰だろ。」
声「おーい、杉ちゃんいる?」
蘭「ああ、華岡だ。」
声「ちょっと、風呂貸してくれよ。」
美千惠「どうぞ、あがって。今涌かしたばかりだから、熱いわよ。」
と、居間のドアが同時に開いて、華岡が入ってくる。
華岡「ありがとうよ。入らしてもらうぜ。ついでに杉ちゃんのカレーを食べさせてくれ。そうすれば、元気百倍だ。」
美千惠「あら、さっき作って、ルーを切らしちゃったわ。ほかのものを作るから、お風呂で待ってて。」
杉三「いや、鍋の中にまだ少し残ってる。それでカレーうどんにするよ、母ちゃん。そのほうがいいだろ、華岡さんも。」
華岡「うん、そうしてくれ。まだ、カレーが残っていれば、そっちのほうがずっといいや。」
杉三「わかったよ。じゃあ、そうするよ。」
華岡「ありがとう。じゃあ、ゆっくりつからせてもらうよ。」
と、風呂場に行ってしまう。
蘭「あんまり長風呂はするなよ。」
華岡「わかってるよ。」
杉三は、車いすを動かして、カレーの鍋を確認し、
杉三「大丈夫、一人分だったらなんとかできるよ。」
と、うどんを冷蔵庫からだしてゆで始める。
美千恵「そのうどんは太麺だから、カレーに向くわよね。」
蘭「いつも人をてこずらせている杉ちゃんが、カレーを作ると、普通の人以上に真剣になるのはなぜだろう。」
美千恵「考えないことにしてるわ。だってそれを含めて杉三なんだから。お医者さんなんかは、名前を付けるのが得意だけど、私は、そんなに気にしないようにしてるの。一口に、自閉症と言ってしまうには、あてはまらないこともたくさんあるからね。」
蘭「そうですか。そうやって結論が出るようになったのは、いつのことなんですか?」
美千恵「まあ、夫を亡くして、しばらくからかな。」
蘭「つまり杉ちゃんのお父様。僕は、顔を見たことはないけど、どんな人だったんですか?」
美千恵「ああ、全然ダメ。もうね、今だからいえるんだけどね、子供ができたと言ったら大喜びしたくせに、生まれてきて、あんなふうな体になってからは、俺知らないっていう感じかな。まったく、男の人って、そういうところ弱いわね。ほんと、あてにならないって感じ。まあ幸い、女が男の持ち物でいなきゃいけないっていう時代じゃないから、福祉設備も整ってて、四十五まで、育てることはできたけど。」
蘭「なるほど、テレビでよく出る父親ですか。」
美千恵「そうそう。昭和のお父さんとは全然違った。」
蘭「まあ、昭和のお父さんも困るところはありますけどね。」
美千恵「でも私、前に自閉症の子供を持つ親の会で講演をしたんだけど、かえって昭和のお父さんのほうが、自閉症児はよく育つのではないかっていう意見が多く出たのよ。」
蘭「へえ、それは初耳ですね。」
美千恵「ええ。昭和のお父さんのような、厳しい態度で接してくれれば、自閉症の子は、善悪のけじめがつくから、社会に対応できるんじゃないかって。でも、それは、単に意見だから、実際にどうかは疑問よね。昭和のお父さんが許容される時代でもないからね。ほかのお友達のお父さんと比べると、なんで自分だけがって思ってしまって、その挙句、自殺っていうこともなくはないからね。」
蘭「ああ、そうですね。今は、いろいろ道具があるから、家庭なんてすぐに比較ができますしね。杉ちゃんは、お父さんのことは、覚えているんでしょうか?」
美千恵「ほとんど、覚えていないわよ。きっと。でも、片親なら片親でかえってよかったと思うようにしてるわ。あの人、家にいるのに、家にいない人だったから。仕事が忙しいとか言って。死んだときは、杉三の着物を買いにいった途中だったんだけど。」
蘭「へえ、子供でも着物だったんですか。」
美千恵「そうだったのよ。私が、和裁教室に行かなきゃならないほどだったの。保育園に入れようとも制服は着ないし、靴は履かないし。洋服を着せようと思ったら、それをびりびりに引き裂いて、三時間以上泣き続けて。」
蘭「恐ろしい話ですね。」
美千恵「まあね。で、主人が亡くなった時、主人は助からなかったんだけど、着物は杉三のもとに届いたのよ。なんだか、誕生日に合わせて、郵送してもらうように設定していたんですって。主人は、着物の知識なんて何一つなかったけれど、その着物が大島だったから。」
蘭「そうなんですか!だから杉ちゃんは、どんな時も大島ばかり着ているんですね。」
杉三「大島は、触り心地がいいからね。」
美千恵「そうね。あんたがいつもそういってたから、しっかり覚えているわよ。」
杉三「はい、できたよ、カレーうどん。」
美千恵「じゃあ、テーブルに置くわね。」
と、杉三から、どんぶりを受け取り、テーブルの上に置く。
蘭「華岡のやつ、まだお風呂に入ってる。もう、40分以上たってるのに。
おい、カレーができたってよ!」
声「お、そうか?」
蘭「そうだよ。早く出てこい。さもないとのぼせて、ゆでたこになるぞ。」
華岡「おう、わかったぞ。」
数分後、風呂場のドアが開いて、華岡が出てくる。
蘭「本当に長風呂だな、お前。子供の時から変わってないな。男のくせに、ドラえもんのしずかちゃんみたいだよ。」
杉三「さあ、食べて。あり合わせで作ったけど。」
華岡「お、いただきまーす!」
と、美千恵から箸を受け取り、うどんを口にする。
華岡「うまい、うまい、うまいなあ。」
杉三「ありがとう。」
華岡は、すごい勢いでうどんを食べ、スープを飲み干す。
美千恵「一粒残さず食べるのね。」
華岡「はい、毎日カップラーメンばかりの生活ですからね。」
蘭「それじゃあ、栄養ないじゃないか。」
華岡「ああ。だからこそ、こうしてストレス解消と、栄養補給に来るんだよ。うちの風呂なんて、ホテルの風呂より小さいんだからな。足を延ばしてくつろぐなんて絶対できないから。」
蘭「まあな。でも、問題はここからだぞ。そのストレス解消がまだだよな。
一体何があったんだ?」
華岡「おう、よくわかってくれるな。さすが俺の同級生だ。あのな、この前、ショッピングモールで、すごい事故があっただろ?」
蘭「ああ、タクシー乗り場に?」
華岡「そうなんだよ。一回解決したみたいに見えたんだけど、ほかの問題があって。」
杉三「それ、僕たちも見た!たしか、タクシー乗り場と駐車場を入れ替えてたとか。」
華岡「そうそうまさにその通り。あの事故は、タクシー乗り場に軽自動車が突っ込んできて起きたんだ。ものすごいスピードでね。アクセルブレーキの踏み間違えだったんだけど。」
蘭「運転者は?」
華岡「ああ、83歳のおばあさんだったよ。ちなみに、被害者は、45歳の男だった。車にはねられて、即死だったらしい。あのショッピングモールの、従業員で、名を山田智義といった。」
美千恵「認知症でもあったの?」
華岡「いや、精神科で調べてもらったけど、それはないそうだよ。」
蘭「じゃあ、故意に事故を起こしたのか?」
華岡「うーん。それがわからないんだ。これまでの取り調べで、ショッピングモールに行ったのは認めた。でも、その理由を一回もしゃべらない。」
蘭「黙秘?」
華岡「そうなるのかな。家族構成も言わないし、ショッピングモールに行った理由も言わない。」
蘭「名前は名乗ったのか?」
華岡「ああ、名前は坂野麻衣子だ。それはちゃんと名乗った。しかし、そこから先を何にも言わないから、こっちも捜査がいつまでたってもできないんだよ。」
と、ため息を大きくつく。
蘭「結局それか。お前本当に取調べが下手なんだな。それなら聞き込みでもさせるとか、工夫をしろ。」
華岡「そうだよな。俺もしっかりしなきゃだめだ。ありがとな、蘭。さすがは俺の親友だけあるよ。」
蘭「いやいや、単に僕は聞いているだけだよ。華岡の取り調べが下手なのは、ほかの刑事さんから聞いたことでもあるんだし。」
杉三「どっちもかわいそうだな。亡くなった人も、はねた人も。」
蘭「杉ちゃん、なんでまたそういうこと言うの?」
杉三「だってそうじゃないか。なくなった人は帰ってこない。でも、はねた人も、帰ってこれない年だろうよ。そうなったら、どっちの家族もたまらないよね。」
蘭「杉ちゃん、亡くなったひとをかわいそうに思うのはいいのかもしれないが、なんで悪いことをした人も、かわいそうだと思うの?それって、犯罪者を擁護することになって、自分が不利になる可能性だってあるんだよ。」
杉三「そうなんだろうけど、僕は、自分が不利になってもいい。」
蘭「あのねえ、杉ちゃん、それは単に、悪いことした人を甘やかしているだけだよ。僕だけじゃなくて、周りのひとは、みんなそう思っているよ。それなのに、杉ちゃんだけが、悪いことをした人の味方になって、一緒に何かしようにも、だれも手伝いはしないよ。これは、本当だよ。」
美千恵「ああ、気にしないで蘭さん。これは、杉三の癖だから。」
蘭「そうですかね、直さなきゃいけないと思うんですけど。」
美千恵「まあね。治ったような態度を、とったことは一度もないわよ。」
華岡「とにかく、俺はもうちょっとしっかり取り調べをしよう。じゃあ、ありがとな。また、風呂をかしてもらうぜ。」
蘭「ああ、真ん中の僕はつらい。」
華岡「じゃあ、またな。カレーを食べさせてくれよ。杉ちゃん。」
杉三「うん、わかった。また来てね。」
華岡は椅子をおり、玄関から出ていく。
数日後、蘭の家。
アリス「ねえ、昨日お弟子さんからもらったんだけど、私忙しくて行けないから、あんたが代わりに行ってくれない?」
蘭「どうしたの?」
アリス「県立美術館で、やってるんですって。印象派美術展。」
蘭「ルノアールとか?」
アリス「いや、フォーブの系列の人たちよ。ブラマンクとか。」
蘭「僕はちょっと苦手だな。買取にでも出したらどうだ?」
声「僕は、ブラマンクの絵が大好きだよ。」
蘭「杉ちゃん!いつの間に?」
声「いつもの買い物の時間だから。」
蘭「え、まだ二時間近くあるよ。」
アリス「まあ、仕方ないわよ。杉ちゃんは時計を読めないんだから。」
蘭「じゃあ、杉ちゃん、そこで待ってて。」
杉三「僕、行ってみたい。」
蘭「どうして杉ちゃんはあんな重たい絵を見に行きたがるの?それに美術館は遠いでしょうに。」
杉三「ブラマンクの絵は、一番描きたいことを正直に描くからいい。ルノアールとか、モネとか、対象を変に美化する人は嫌い。ブラマンクの絵は、まさしく描くひとの心そのものって気がするんだ。だから、見に行きたい。」
蘭「杉ちゃんらしいな。でも、考えてみてくれ。電車だって乗るのにすごく大変だし、そのあとの道も、坂道ばかりだし、、、。」
アリス「介護タクシーを頼めば?いつもの会社に電話すればきてくれるかもしれないわよ。」
蘭「そうだね。それしかないか。じゃあ、杉ちゃん、電話するから、玄関で待ってて。」
と、スマートフォンをダイヤルする。
杉三「わかったよ。」
蘭「もしもし、これから市立美術館に行きたいので、タクシー一台をお願いしたいんですけど、、、ああ、そうですか。そうですよね。今日は日曜だし、みんな出かけたくなりますよね。え、一人いる?じゃあ、その方にお願いします。ああ、佐久間さんですね。わかりました。人数は、二人です。よろしくお願いします。」
と、電話を切る。
蘭「杉ちゃん、来てくれるってさ。でも、まだ新人さんらしいから、お手柔らかにって。あんまりああしてくれといってはダメだぞ。じゃあ、行ってくるよ。」
アリス「チケットはこれね。」
と、封筒を手渡す。
蘭「ありがとう。」
と言って、カバンに封筒を入れ、玄関に向かう。
五分ほどして、ワゴン車が家の前に到着する。一人の女性が、ワゴン車から降りてくる。
女性「電話で話したかたですか?」
蘭「はい、伊能蘭です。」
女性「こっちは、弟さん?」
杉三「いえ、僕は、影山杉三です。弟ではありません。」
女性「ずいぶん、高級な着物着てるのね。車いすなのに。」
杉三「ええ、黒大島が一番好きなの。」
女性「まあ、贅沢!」
蘭「それよりも、乗せてください。あのお名前は、佐久間結子さんでよろしかったですか?」
女性「ええ、私が佐久間結子です。」
蘭「じゃあ、お願いします。」
結子は杉三の車いすに手をかけ、ワゴン車のスロープに乱暴に乗せる。
杉三「ちょっと、そんなにがたびししないで下さいよ。」
結子は黙ってスロープを操作し、杉三を無理やり乗せる。続いて、蘭も同様に乗せる。
杉三「ちょっと乱暴じゃありませんか。」
結子「ごめんなさいね、まだ慣れていませんので。」
蘭「新人さんなんだって。じゃあ、美術館へおくってください。」
結子「はい、わかりました。」
と、車のエンジンをかけ、道路を走り始める。かなりのスピードである。
杉三「も、もう少しゆっくり走ってください。」
結子は答えない。ある住宅の前を通りかかる。そこから、車が一台出ようとしている。
杉三「とまってあげて。」
結子は無視して、通り過ぎていく。
杉三「どうして止まらなかったんです?あの方、どう見ても出ようとしていたのに。」
さらに走り続けると、信号機が見えてくる。信号機が青から黄色に変わったが、無視して走り去ってしまう。
杉三「わたりたい人がいるんだから、止まってあげなきゃダメじゃないですか!」
蘭「杉ちゃん、まだ新人さんなんだから。」
杉三「でも、わたりたい人がいるなら、止まってあげるほうがいいと思う。だって、わたりたかったのは、お年寄りだったから。もし、止まらなかったら、渡り切れなくて、車にはねられてしまうかもしれないじゃないか。」
蘭「そんなことはめったにないよ。」
杉三「だって、この前のショッピングモールの事故もあったし、、、。」
蘭「それとは、話が違うよ。」
杉三「ううん、誰でもみんな同じだと考えないと、だめだと思う。」
蘭「杉ちゃん、どうしてそういう発想になるの?」
杉三「馬鹿だから。」
結子「あのですね、私たちは、慈善事業じゃないんです。いくら客商売とはいっても、そんなに文句ばかりつけるのなら、私ではなく、ほかの会社を頼めばいいでしょう!」
蘭「すみません、失礼なこと言って。二度と言わないようにさせますので。」
結子「障害があるからって、なんでもかなうとは思わないでください。私たちは、そんなに偉いひとではありません。私にも事情があるのですから、もっと、あなたたちは、福祉制度に感謝しても貰わないとこまります。」
杉三「へえ、事情って?」
結子「事情は事情ですよ。」
杉三「だから何なの?」
結子「そんなこと、あなたに聞かせることはないでしょう?」
杉三「だから、なんなんです?」
結子「話したって仕方ありませんよ!」
杉三「だから何なんですか?本当にそうなら、口に出して言ったって、いいと思いますけど。」
結子「なんで、他人に話さなきゃいけないんですか!」
蘭「杉ちゃん!」
杉三「他人に話せないのに、それを理由にして職務怠慢するほうがおかしいと思いますけど。」
と、後ろから、ものすごいクラクションの音。
声「いい加減に前へ進め!危ないじゃねえか!」
結子「わかりましたよ!」
と、思いっきりアクセルを踏んで、超スピードで車を飛ばしていく。
杉三「ジェットコースターじゃあるまいし、そんなに飛ばさないでください!」
結子はやけくそになって美術館の正面玄関に車を走らせる。
結子「つきましたよ!これで気が済んだでしょ!」
杉三「いえ、理由を聞いてないです。」
蘭「すみません、本当にすみません。いい、杉ちゃん、個人的な理由なんて聞いても意味はないよ。それを聞いて、僕らは何をできるというんだ。それでは全く意味がないでしょうが。すぐに他人の話を聞きたがるけど、それが果たして利益になるかどうか、よく考えてから聞くようにしてね!杉ちゃんが、知りたがる理由も、こっちがしりたいくらいだ!」
杉三「うん。だって、聞いてもらえば、何とかなることもあるじゃない。」
蘭「は?どういうこと?」
杉三「きっと、こまったことがあるから、この仕事してるんだなってよくわかったから。最初に僕を乗せてくれた時に感ずいたよ。あんな乱暴な乗せ方をするのは、仕事をやりたくないんだって。だから、聞いてみたかったの。」
結子「でも、仕事なんだもの。そんなことないでしょ。」
杉三「誰でも好きだから仕事に就くのなら、もっと丁寧にできるはずだよ。だから、やりたくないだって感じた。あきめくらだかから、文字は読めないから、それで情報を入手するしかないんだ。」
蘭「杉ちゃんのそういうところは、ある意味すごいけど、それは必要ないことだよ。誰でも仕事というものはそういうときもあるもの。」
杉三「そこはよくわからないね。だって誰でも好きなものがあって、そこから発展して仕事になるものじゃない。」
蘭「まあ、、、。杉ちゃんにかかわる人は大体そういうひとだからね。でも、そうじゃない人もいるんだよ。」
杉三「そうか。じゃあ、人のためにやるってことを、消し去ってしまわなければいけないんだ。そんなんじゃ、、、寂しすぎて、僕ならいやになるね。だって僕らが乗せてもらえてうれしかったとか、そういうことは印象に残してくれなくなるんだもんね。」
と、手拭いで涙を拭き、すすりなく。
結子「あなた、いったい何者なの?」
杉三「ただの馬鹿です。はい。」
結子「それにしては、不思議な人ね。」
杉三「僕は、思いついたことはすぐに口にしないと、つらいんですよ。」
結子「確かに、この仕事は好きじゃなかったわ。とりあえず、求人雑誌で見つけただけだから。いやいやながらやってた。」
杉三「やっぱりそうか。」
結子「ええ、介護の資金を作るためのお金を作るしか、目的がなかったから。」
杉三「だれか悪いひとでもいるんですか?」
結子「ええ、母が、認知症でね。老人ホームに入っているんだけど、その費用が大変で。それで、この仕事に就いたのよ。でも、思ったほど楽じゃなかった。」
杉三「だったら、僕たちが利用して、乗せてくれてありがとうっていっている顔を忘れないでください。僕たちは、こういうサービスがなかったら、どこにも行けませんよ。確かにお金を作るつもりかもしれないけど、こうやって、僕たちが利用しているんですから、そうやって人助けをして、お金を作っていると考えれば、きっと作業ももう少し楽になれるんじゃないかなあ。」
結子「人助け?」
杉三「そうですよ。僕はごらんのとおり、歩けないし。階段上りも、一人では何にもできませんよ。そうやって手伝ってもらったら、ああよかったなあって、本当に、うれしいですもの。あたり前のことが全然できないってのは、本当につらいから。」
蘭「杉ちゃんは、ほんとに、えらいのか、馬鹿なのか、わからなくなるよ。」
結子「そうですね。私、社会の役に立っているのですね。なんか、涙が出てきちゃった。本当に、、、。この前乗せたおばあさんは、本当に高慢ちきで大変だったのよ。まあ、警察に捕まって、楽になったでしょうけど。でも、こうして、いいことしたなあって思える時もあるね。重罪人だった私には、もったいないくらいだわ。ありがとう。」
と、ハンカチで顔をふく。
蘭「ああ、もしかして、」
結子「ええ、テレビでもやってるけど、坂野という人よ。私たちのことをさんざん悪く言って、もう、落としてやろうかと思ったわ。」
蘭「のせたことあるんですか。」
結子「ええ、何度も。」
杉三「じゃあ、麻衣子さんのことは忘れて、僕らの顔を時々思い出してください。」
結子「あなたってすごいのね。なんだか、いやだった仕事が、宝物だと初めて思えたわ。」
杉三「いえいえ、僕にはただの馬鹿ですから、そんな改まったお礼をしなくても。」
結子「展覧会、楽しんできてください。そして、また行きたいところがあれば、いつでもお申し付けくださいね。私のほうこそ、本当にありがとう。」
杉三「いえいえ。また、帰りも乗せてくれる?」
結子「この領収書に電話番号がありますので、電話をくだされば、対応いたします。」
杉三「あきめくらなので、蘭に。」
結子「そうでしたね。じゃあ、お気軽にお申し付けください。」
と、領収書を書いて蘭に手渡す。
蘭「じゃあ、杉ちゃん、展覧会に入ろう。」
杉三「そうだね。」
二人、美術館に入っていく。
結子「どうも、ありがとうございました!」
一方、富士警察署では、
華岡「つまり、ショッピングモールに行って、何か買おうとおもったのですか?」
麻衣子が取り調べを受けている。確かに80代のおばあさんであるが、精神異常がありそうな様子はない。
麻衣子「わかりません。」
華岡「わかりませんじゃないでしょ、だって、事故を起こしたのは確かなんですから。」
麻衣子「本当にわからないんです。なぜ、あそこに入ってしまったのかも。
タクシーがたくさんあって、初めて気が付いたのです。」
華岡「あのねえ、人が一人なくなってるんだよ。その人の家族はどうするの?それを考えないで、そういう言い回しはないでしょ。それを考えれば、謝罪の言葉が出るんだと思うんだけどなあ。タクシー乗り場の、大きな看板があったのも気が付かなかったの?」
麻衣子「はい、気が付きませんでした。」
華岡「坂野さん、それは本当のこと?認知症の演技でもしているの?」
やり取りを、マジックミラーで、ほかの刑事たちが聞いている。
刑事「警視も、もう少し言葉の語彙があったらいいとおもうんですけどね。まあ、キャリアは仕方ないのかなあ。」
刑事「世の中そんなもんさ、苦労していないやつが偉くなるんだ。」
刑事「それはないと思っていましたが、警視の顔を見ると、そう思うようになりました。誰かの言葉を借りて言えば、「ロマンチストの豚」ですよ。」
刑事「そこまで言ってはいけないけれど、そう感じてしまうこともあるなあ。」
刑事「まあ、取り調べは、だめですね。」
華岡「じゃあ、初めから聞くけど、タクシー乗り場に突っ込んだのは、本当に何も知らなかった、これでいいの?」
麻衣子「ええ、そうしてください。完落ちでしょ、それでいいんでしょ?」
華岡「うーん、、、。それにしては、出来すぎてると思うんですけどねえ。」
麻衣子「刑事さんはただ、事件を調べて悪い人を捕まえればそれでいいんですから。二時間ドラマみたいに個性的なひとじゃ、そんなことはできませんもの。それでいいのならいいじゃありませんか。私も、ついの住処を得られたので、ほっとしています。刑務所で、静かに死ねたらこれ以上の幸せはありません。」
華岡「ちょっ、ちょっと待って。刑務所で静かに死ぬなんて、高望みはしないでくださいよ。刑務所は、死ぬのではなく、これから生きることを考えるところです。」
麻衣子「私の年を考えてくれれば、すぐわかるじゃないですか。私は、もう83ですよ。きっと、懲役何年とか言われるんでしょうから、これ以上の幸福はありませんよ。こんな年なんだから刑期を終える前に死ねるでしょう。
こんな素晴らしいことはないじゃありませんか。だって、私は、どこへ行っても相手にはされませんから!」
華岡「どこに行っても相手にされない?だって、あなたは一人ではないですよね?」
麻衣子「ええ。でも、もう必要とされたりはしませんよ。日本人は長生きしすぎですから。だから最期には、皆さんに注目されたいという要求が、私をあそこへ連れて行ったんじゃないですか?」
華岡「でも、ご家族はいるじゃないですか?」
麻衣子「いますよ。でも、死んだほうがいいって、私、はっきりわかります。それに、葬儀とかなんだとか、死んでからでも迷惑はでます。それなら、刑務所で死んで、納骨堂に収めてもらえたら、私のことは関係なく、あの子たちは、やっていけるじゃないですか。だから、これで完落ちにして、私を死刑でも、無期懲役でもすればいいのに!」
華岡「まってくださいよ。被害者の男性、山田智義さんは、どうなるんです。あなたが、刑務所で余生を過ごしたいとい前に、智義さんはもう帰ってこないんですよ!それをなくした家族はこれからどうやって生きていくか、途方にくれているはずです。それを考えたことがあるんですか?」
麻衣子「ええ、ありますよ!男ってのは、単に愛想が尽きると、勝手に出て行ってしまうものです。苦労は全部女の私に預けて。」
華岡「そうじゃなくて、智義さんの家族のことを言っているんです。」
麻衣子「しったこっちゃない。どうせ、周りなんてみんなバカですから。とにかく私をさっさと送致したらどうです?解決していない事件だってたくさんあるんでしょ?」
華岡「いや、それはしませんね、あなたがちゃんと理解してくれるまで!これから、被害者について聞き込みをしますから、随時ご報告していきますね
!」
と、机をたたいて立ち上がり、取調室を出て行ってしまう。
刑事課
頭をかきながら華岡が入ってくる。
刑事「警視、お疲れ様でした。」
華岡「まったく、高齢者のくせに、なんであんなに人を馬鹿にするんだ。高齢者ほど、人のありがたさを知っていると思ったが、全くダメだった。」
刑事「最近は、邪魔者扱いされる高齢者も多いですからね。その証拠に、高齢者施設のほとんどは、パンク寸前じゃないですか。」
華岡「それだけ年寄りが多いってことか。」
刑事「ええ。うちもなんとかしなきゃなあ。と、思う人は多いんじゃないですか?」
華岡「じゃあ、誰かの力を借りるとか?」
刑事「まあ、警視は独り者ですからね。お一人様には、わからないことですよ。」
華岡「そうか。じゃあ、誰に聞けばいいんだ?」
刑事「そんな簡単に言えませんよ、警視。誰でも平等に福祉設備があるわけじゃないんですから。まあ、とりあえず、警視の友達に聞いてみたらどうですか?文盲の。」
華岡「わかった、そうする。」
杉三の家。
蘭「僕らに聞いて何になるんだよ、何も参考になるものはもってないよ。」
華岡「そうなんだけど、俺はずっと独り者だから、年寄りがどんな思いで生きてるかなんて、まったくわからないんだよ。子供のころから、じいちゃんばあちゃんと一緒に暮らした経験もないし、、、。老人福祉のことなんて。」
蘭「僕はまだ、高齢者じゃないんだから、のこのここないでくれ。」
美千恵「私も、仕事でお年寄りを見てるけど、本当の気持ちはわからないわよ。」
杉三「へえ、母ちゃんでもそんなこというの?」
美千恵「まあ、私たちは、せわをするだけだからね。体の使えないところを助けるだけだから、本人がどんな気持ちで通ってくるのかなんて、わからないし。確かにインテークの段階では、悲しそうな表情してるお年寄りもいるわよ。でも、入ってしまえば、みんな楽しそうにしてるけど。でも、それって、ある意味家族に負担をかけたくないっていう、配慮かもしれないわね。」
杉三「うん。決して楽しくはないと思う。だって現実は、姥捨て山と同じでしょ。人に迷惑をかけるから、そこへ行かせているだけでしょ。お金さえあれば通えるし。本当は、大事にしなきゃいけない人たちなんだけどね。」
蘭「僕らもたまに言われるけど、健康な人にとっては、邪魔な存在なのかもしれないね。普通に暮らすってのは、一番簡単ではあるけれど、難しくもあるからね。」
杉三「そう!そこなの。普通の人はそこに気が付かない。」
華岡「つまり、高齢者は、自分が生まれてきたことを後悔しているひとが多いのだろうか?」
美千恵「全部のひとがそうだとは言えないわ。でも少なからずその傾向はあるんじゃないかしら。」
華岡「それで、刑務所にはやく行きたいと願うのだろうか?」
美千恵「そういうひともいるかもね。体も衰えて、先も長くない人たちは、
だんだん自分の存在が迷惑になっていくんだって気が付くでしょうからね。」
杉三「そうならないようにする道具はないのかなあ。」
美千恵「たぶんないわよ。どんなに化学が発達したって、追いつけないものは、必ずあるわ。」
杉三「じゃあ、その、麻衣子さんというおばあさんは、どうしてあんな事故を起こしたのかな。年をとって、先は長くないのなら、あんなに簡単に他人の命を奪っていいのか、知っているはずじゃ、、、。」
蘭「そうだなあ、、、。その原理が当てはまる時代は終わってしまったんじゃないのかなあ。」
杉三「この前の、介護タクシーの運転手さんはどうしただろうか?」
蘭「運転手?」
杉三「うん。結子さんだっけ。佐久間結子さん。元気にやっているかな?」
蘭「ああ、おそらくね、杉ちゃん、はっきり言うけど、また愚痴を漏らして、仕事していると思うよ。人間ってよいことはすぐに忘れて、つらいことばかりが残るようにできてるからね。」
美千恵「そうね。本当に大切なことはすぐに忘れてしまうものよ。まあ、私たちは、それがないと生活できないだから、不満を言わずに暮らしていかなきゃね。分かち合う道具って、ありそうだけど見つからないのが今の時代よ。一昔前ならできたかもしれないけど、今はそうじゃないから。これだけものがあふれてるから、物で解決するほうが自然になってしまってるのよ。」
杉三「さびしいな、、、。」
蘭「杉ちゃん、生きるにはもっと強くならなきゃ。」
杉三「僕、できないよ。」
蘭「杉ちゃん。努力だけでもしなきゃ。」
杉三「でも、彼女があの時に見せてくれた、笑顔は忘れられない。」
華岡「どんな人だった?」
杉三「かわいい人だった。はじめはぶっきらぼうに応対していたけれど、僕らを乗せてくれたら、すごく綺麗なひとになってた。認知症のお母さまを介護するんだって。その資金のために運転手をしているんだって。」
華岡「なるほどなあ。かわいい人がそうして介護の仕事をしているなんて、つらい時代だなあ。」
杉三「でも、どこかで僕らのことを覚えていてほしいな。それは確かだ。」
翌日、刑事課。華岡が出勤してくる。
刑事「おはようございます。」
華岡「おはよう。麻衣子はどうだ?」
刑事「どうだって、相変わらず強いままですよ。朝食も残さずしっかり食べるし。」
華岡「まあ、ご飯を食べるのは誰でもそうだろう。」
刑事「食べ物を粗末にすると、罰が当たる、とか言って。」
華岡「年寄は言いそうなことだ。」
と、そこへ婦人警官がやってくる。
婦人警官「忙しい中申し訳ないのですが、」
華岡「なんだ、何かあったのか。」
婦人警官「あの、山田みき子という若い女性がきているのですが。」
華岡「なんだ、ストーカー被害なら、今は大事な事件を抱えているから、ほかへ行けと言ってくれ。」
婦人警官「それが、いくら言っても聞かないのです。この間の事故で亡くなられた、山田智義の娘だといっているのですが。」
華岡「ああ、それか。」
刑事「警視、なにを言っているんですか、山田智義に娘はいないでしょ。」
華岡「あれ、同じ山田なのに?」
刑事「もう、世界には同じ苗字なんてたくさんいますよ。」
華岡「じゃあ、なんで山田智義の娘と、自分を偽って、こんなところに?」
刑事「障碍者でしょ。精神障碍者。おそらく、統合失調症とかじゃないですかね。有名人の血縁者だと名乗って自分のわがままを通そうとする、馬鹿な連中ですよ。」
華岡「なるほど、すぐに追い出してくれ。」
婦人警官「それができたら、苦労はしません。できないから来たんです、警視!」
刑事「ほら見てください。ああいう人は、もともと社会に甘えて生きているんですから、変に特権意識があって、こういう職業を馬鹿にするんです。警視のほうが、我々より階級も上だし、効果は大きいでしょう。そういう人間は、意外と階級に弱いから。だから警視が追い出してきてください!」
華岡「追い出すってどうやればいいんだよ。」
刑事「もう、これだからキャリアは困るんですよね。みんな聞き込みに行きますから、何とかして警視が追い出して下さいよ。警視ほど暇人は、ここにはいませんから!」
ほかの刑事たちも、次々に刑事課から出てしまう。
婦人警官「すみません、お願いします。」
華岡「うーん、、、。とりあえず、連れてきてくれ。」
婦人警官「はい、、、。」
数分後。ものすごい形相をした若い女性が、刑事課に入ってくる。顔つきは、怒りそのもので、ちょっと触ればすぐに爆発しそうなほどである。
華岡「警視の華岡保夫です。お名前をどうぞ。」
女性「はい、山田みき子といいます。あの事故で死んだ、山田智義の、娘です。」
婦人警官「違うでしょう、山田智義さんはお父さんではないでしょう?」
みき子「うるせえんだよてめえ!」
華岡「あのね、伝えたいことがあっても、他人を名乗っちゃいけないんだよ。」
みき子「そうですか。結局、私の話なんて聞いてはくれないんだ!いいわ、それなら国会に行くから。年寄りを車に乗せるなという法律を作ってほしい。」
華岡「その考えは間違いだよ。君は疲れているんだから早く精神科とかに行ったほうが、、、。」
みき子「みんなおんなじことを言うけれど、私はやめないわ!だって年寄りがあまりにも多すぎて、私たちが生きていけない社会なのよ。日本人は長生きしすぎ。だから、それを早めるために、自殺を合法化させてほしいの!」
華岡「お年寄りにむかって、そんなこと言っちゃだめだ!はやく病院に行きなさい!」
みき子「そんなことばっかり言ってると、あんたも殺すわよ!」
婦人警官「説得屋にきてもらいましょうか?」
華岡「そうだな」
と、スマートフォンをとる。
華岡「あれ、おかけになった電話をお呼びしましたが、おつなぎできないって、、、。」
婦人警官「ああ、きっとほかの人の説得をしているのかしら。」
華岡「うーん、困ったな。」
みき子「どうせ、病院に行ったって同じことよ。誰も私が苦しんでいるなんて気が付きはしない。私の中では、本当に苦しいのに。」
婦人警官「病院はその苦しみをとってくれるところよ。」
みき子「違うわ!」
華岡「そうだ、いい説得屋がいた!」
と、再びスマートフォンをとる。
蘭の家。蘭が、スマートフォンで電話している。
蘭「えっ、杉ちゃんに説得を?精神障害の人に入院させろと?」
声「そうなんだよ。こっちがいくらなだめても瞬間湯沸かし器で、いうことを聞かないんだよ。だから手伝ってくれ。説得屋さんも電話したが、たぶん忙しいのか、まったくつながらないんだ。だから頼む!」
蘭「でも、僕も杉ちゃんも歩けないんだし、いざというときどうするんだよ。暴れだして、彫る道具を壊されたりしたらたまらない。確かに僕が相手にした人で、怖い感じの人は結構いたが、そこまで妄想があるとなると、」
声「でも、何とかしてくれ!」
蘭「しょうがないな。じゃあ、うちで暴れないように対策を練って来てくれよ。」
声「わかった、そうする!今から連れて行くから、ぜひ説得を頼むよ。」
蘭「はやくしてくれよ。下絵も書かなきゃいけないんだから。」
声「おう。じゃあ、頼むな。」
蘭「はいよ。」
と、電話を切る。
杉三「何を頼むんだって?」
蘭「説得。僕みたいな仕事をしていたら、多少通じることもあるだろうから、手伝ってくれって。」
杉三「何に通じるって?」
蘭「まあ、確かに犯罪を犯した人にも彫ったことはあったけど、それは、反省の意味で彫ったからな。二度と悪事をしないようにって、観音様を彫ったけど、その人は神様が見ているって、体に印をしたい、と言っていたんだ。」
杉三「なんだか宗教的だね。」
蘭「日本人には、神様が見ているという概念は少ないけれど、人間がおごらないようにするのが宗教だから、それもいいんだと思ってる。」
杉三「じゃあ、今から来る人はどんな人だろう。」
蘭「精神疾患を持ってるみたい。」
杉三「精神?僕みたいなの?」
蘭「うーん。どうかな。」
杉三「まあ、僕はただの馬鹿だけど、つらい人ってのはある意味では優れた能力がある人が多いって、青柳教授が言っていたよね。」
蘭「そうだね、、、。そういわざるを得ないかな。感性が良すぎちゃうんだよね。それが犯罪につながることもあるけれど、、、。」
と、車が止まる音がする。
声「ここ?」
蘭「来たのかなあ。」
声「おーい蘭、連れてきたぞ。よろしく頼む!」
蘭「ついに来たか。」
と、玄関に行ってドアを開ける。
蘭「こんにちは。」
玄関には華岡と、手錠をはめられたみき子が立っている。
みき子「こんにちは。初めまして。山田みき子と申します。」
蘭「伊能蘭です。よろしく。」
みき子は、手錠をはめられた両手を差し出し、握手するようなしぐさをする。蘭が手を出すと、彼女は両手で握る。
みき子「ありがとうございます。」
蘭「どうぞ、あがってください。」
と、車いすを動かして、みき子を居間に招き入れる。
居間に入ると、杉三がテーブルの上にお茶を置いて待機している。
蘭「杉ちゃん、みき子さんだよ。」
杉三は、きゅうすをテーブルに置く。
杉三「初めまして、影山杉三です。」
みき子「よろしくおねがいします。杉三さん。」
と、蘭にしたのと同じしぐさをする。杉三は同様に両手で握りかえしてやる。
杉三「杉ちゃんでいいですよ。こんな馬鹿な人間に、さんをつける必要はないですから。ごらんのとおりお茶だけで、お菓子も何も出すことができませんでしたが、申し訳ないです。」
みき子「面白い方ね。」
華岡「とりあえず、彼なら何でもきいてくれるから、ここで隠さずに話してくれ。」
杉三「そうだよ。僕は、馬鹿だから聞くことはできるが、具体的にどうしろああしろということはできないけど、話せば、きっと何か変わると思うから。あきめくらだから、メールなんかもできないしね。だから、言葉で聞くしかできないんだ。でも、そのほうが顔を見て話し合えるから。」
みき子「あきめくら?メールができない?」
蘭「そうなんですよ。この人はひらがなもカタカナも、漢字もなにも読めないのです。」
杉三「あきめくらは、取り調べの記録もかけないわけで。だから、話を誰かに漏らすこともできない。安心して。」
みき子「私、今働いていないの。どうしても解決できない理由があって。」
杉三「それはお辛いだろうね。働いていないからどんなに楽かといわれたり、家族の中で発言を禁止されたりするからね。」
みき子「そうよ、そうよ、そうよ!結局のところ、私なんてみんないらないのよ。学生時代は試験の点数を取って、会社に勤めて、親御さんの老後をみて、というのが正しい生き方になってるから、できない私は、何も許されない。だから、被害者の名をかたるしかなかったの、幸い、私も同じ山田だしね。」
杉三「なるほど、つまり正しい生き方ができていなくても発言したいことが
あるんだね。」
みき子「そうなのよ。法の下に平等といっておきながら、こういう差別がどこの家にもあるのよね。」
杉三「うん。そうだね。それをくぐるのもまた難しいよね。だって、好きなことをやってはいけないって言われて、その通りにして大人になったら、何もできない大人になった、という人多いよね。だから、仕事に縋りつくしか、自慢できることが何もないんだよ。それで正しい生き方っていうから、若い人がよけいに混乱するんだよね。」
みき子「そうなのよね。なんか、お金を作れるって、そんなに偉いのかしら。」
杉三「本当はね、お金を作るそのまた向こうに何があるかを見極めないと、やっていけないんだよね。それを、発見できないから、つらくなってしまうんだよ。」
みき子「杉ちゃんはすごいのね。私が関わってきた人とは、全然違うわ。」
杉三「みんな、バカの一つ覚えで覚えてきたことだよ。」
みき子「それなら、私の話を聞いてくれるかしら。」
杉三「いいよ。」
みき子「なんていうのかなあ、、、。私、すごく不安なの。この先、年寄りの手伝い人だけの人生しかないのかって。」
杉三「お年寄りの手伝い人?」
みき子「ええ、この間、スーパーマーケットで大きな事故があったじゃない。テレビで特集があったけど、その容疑者は年寄りで、取り調べでも、態度がでかくて、困っているというじゃない。それで私、すごく腹が立って、すぐに抗議に電話を回したけど、だめで。だから、警察に直接行こうと思ったのよ。テレビの映像で、富士警察署が出たから、そこにいるんだなって直感でわかったの。でも、何もない人間がのこのこ行ったって、門前払いになるのがおちだから、被害者の娘と名乗ったのよ。そうしたら、ここへ連れてこられたの。」
杉三「そうか、そんなことまでわかるんだね。僕は全然読めないよ。訴えたかったのは何だったの?」
みき子「ええ、あんまりにもお年寄りに対して甘すぎるんじゃないかっていいたかった。だって私は、年寄りに人生めちゃくちゃにされたようなもんだから。つかまってもまだしらばっくれるお年寄りにね。」
杉三「何か、ひどいことされたんだね。」
みき子「そう。私が大学を受験するときにね、いきなりそんな学問は世の中やっていけないと言い出されて、親も年寄りには逆らえなかったから、私は、英文科に行くしかなかったの。好きな勉強じゃないから、苦しくてたまらなかったし、友人もできなかったわ。だから、仕方なく空想で遊ぶしかなかった。それを医者に言わせると病気なんだといわれるけれども、私にとって、こういう嘘は私が生きるためには必須なのよ。倫理的にはいけないことなのかもしれないけど、周りに誰もわかってくれた人はいないもの。同級生は、家族が多いんだからとか、教師も甘ったれるなとか、そればっかり。だから、作るしかないじゃない!そうしなければ寂しさなんか忘れられない。
まあ、えらいお医者さんなんかは、自分を受け入れろというわよね。でも、私は、一度でいいから、君は悪くないよと、言ってもらいたい。学校がそんなに苦しかったんだなと、言いあえる人がいてほしい。」
杉三「そうだね。本当にそうだ。だって僕にはできないよ。読み書きができないから、大学受験なんてできやしない。それができる人はすごいと思う。
僕は、バカの一つ覚えで生きてきたけど、専門的な知識を知っているのなら、それを共有することができたら、どんなにいいんだろう。教える人も、教わる人も。でも、その喜びなんて今はもう、誰も感じないんだろうな。」
みき子「そうね。誰か、私を求める人はいるのかしら。」
杉三「いっぱいいるよ!探しに行けばいいじゃない!」
みき子「どうしたらいいかしらね。」
蘭「提案の一つとして、インターネットを使う手もありますよ。せっかく英語を学ばれたのですから、これからの武器になりますよ。それを使えば、うまく世の中を渡れるようになるんじゃないですかね。」
みき子「そうか、その手もあるわ!」
杉三「そうそう、前向きに、努力していってください。日常が充実すれば自動的に、妄想なんてなくなりますよ!」
と、そこで蘭のスマートフォンが鳴りだす。
蘭「もしもし、ああ、いつもお世話になります。あ、華岡ですか、華岡はいま一緒にいますけど、え、何だって?」
杉三「どうしたの蘭。」
蘭「華岡、すぐに中央病院にいってくれ。麻衣子さんが、自殺を図ったそうだから。」
華岡「自殺を図った?」
蘭「そうなんだよ。みんな聞き込みにいって出てるし、お前もここにきているから、刑事課に誰もいなくなっただろ、そのすきを狙って、自殺を図ったらしいんだ。」
華岡「なに、それは本当か?」
蘭「あたりまえだよ。いま、婦警さんから電話があったぞ。幸い、すぐに見つかって救急搬送されたから、命に別状はないけど、これは職務怠慢ということになるんだから、すぐに、麻衣子さんのところへ行ってやれ。彼女は、僕たちが、送り返すから。」
と、再びスマートフォンをダイヤルしようとすると、
杉三「待って!」
蘭「杉ちゃん!」
杉三「彼女も、一緒に連れていってくれないかな。」
蘭「杉ちゃん、何バカなこといってるの、僕らが行っても邪魔になるだけなんだよ!よく考えなよ!」
杉三「いや、彼女に命ってのはどんなものなのか、教えてあげたい。」
蘭「杉ちゃん!そんなことを言っている事態じゃないんだよ!病気の人間を、ましてや精神障害のひとを連れていくなんて、」
杉三「だからだめなんだ!暴れるからだめだといいたいんでしょ?でもね、暴れるくらい強い怒りがあるのなら、それを打ち消すところへ連れて行かないと、いつまでたっても治りはしないよ。だから、連れていきたいの。精神の病気だろうが、そんなの関係ない。むしろ、周りの人に心を傷つけられた人は、こういうところをうんと見せてあげれば、素晴らしい学習能力を発揮するよ!」
蘭「杉ちゃん、でもさ。」
みき子「いえ、行きます!」
蘭「みき子さん、」
みき子「いえ、私を連れて行ってください。」
蘭「でも、ああいうところは、、、。」
みき子「いいえ、私、生きたいんです!」
華岡「わかったよ、特別に許可をするから、みき子さんも来てください。じゃあ、みんな急いで支度して。急ごう!」
と、自身のスマートフォンをダイヤルし、介護タクシーを取り寄せる。
数分後、ワゴン車が止まる音。
声「お待たせしました。介護タクシーの佐久間です。」
蘭「佐久間?」
華岡「いや、みんな出てしまっていて、運転手が指名できなかったんだ。まったく、富士の介護タクシーは、実に業者が少ないなあ。」
蘭「まあいいや、とにかく乗ろう。」
全員、玄関先に移動する。
杉三「あ、結子さんではないですか!」
運転手は、確かに佐久間結子だった。
結子「お久しぶりね。じゃあ、今回は急いでいるようだから、急いで乗ってね。」
と、車いすの二人を手早く乗せる。
杉三「上手になったね。」
華岡と、みき子が座席に座る。
結子「どこに向かわれますか?」
杉三「あの時の、投げやりな口調じゃないな。」
蘭「とりあえず、中央病院の、」
華岡「裏口にしてくれる?正面玄関は、人が多くて乗り降りしにくいからさ。」
結子「わかりました。」
と、アクセルを踏み、ワゴン車は走り出す。大通りを走る時も、カーブで曲がるときも、彼女は慎重な運転をし、しっかりと中央病院の入り口まで連れて行ってくれた。
結子「ここですよ。」
華岡「ありがと、帰りも乗せてくれる?」
蘭「いや、ここは段差がよくあるところだから、僕らは手伝ってもらわないと入れないんだ。この病院、建物が古いから。」
結子「わかりました。お手伝いいたします。」
と、二人を慎重に降ろす。その間に華岡は、裏口から受付に行く。
みき子「あ、私も手伝います。」
杉三「じゃあ、お願い。」
杉三はみき子に、蘭は結子に車いすをおしてもらって、正面玄関から部屋に入っていく。
華岡「麻衣子さんは最上階だそうだ。もう、意識もあるし、面会もできるって。」
結子「じゃあ、そこまでお手伝いしますね。」
杉三「ありがとう。」
みき子「エレベーターでいきましょう。」
蘭「そうだね。なんだか大丈夫かな。」
最上階。坂野麻衣子と書かれた病室。
華岡「入りますよ。警察の華岡です。」
返事もなしに華岡は、病室に入る。真っ白な髪をした老女が、ベッドの上に座って、何か考えている。
華岡「お返事くらい、してくれませんか。どうして、自殺を図ったのか、教えてくれませんかね。俺たちの目を盗んで、勝手に迷惑をかけないでもらいたいな。」
麻衣子「そのほうがいいんじゃないですか、私なんかに目を向けるより、凶悪な事件はたくさんあるでしょ?」
華岡「そうなんですけどね、そうはいかないんですよ。ちゃんと事件の全容を知らないと、こっちが別のところに怒られてしまうので。」
麻衣子「被疑者死亡のままにしてくれたら、それでいいのに。だって、事故を起こしたのは、まぎれもなく私なのよ。」
華岡「確かに、それはよくわかっているようですな。」
麻衣子「だって私、アクセルとブレーキを踏み間違えたって、何度も言っているんですけどね!これを覚えているんだから、認知症でもなんでもない。だから、早く私を、検察に送るなりしてくれればいいのに。私なんて、どうせ必要ない人間なんだから!あんまりにもあんたたちのスピードが、遅いから、私の方からリタイアしようと思ったら、こんな立派な病院に入れられて。たまったもんじゃないわ!」
蘭「そうですね、確かに、認知症ではありませんね。お年を召しているのに、そうやっていろいろ記憶できるのなら。でも、一人亡くなったことを忘れないでください。その人は、きっとあなたにとっては、邪魔な存在かもしれません。でも、その人も、必要な人なんです。」
杉三「そうですよ。その人だって、大事な家族がいるかもしれないし、誰か、愛してくれる人がいるかもしれないじゃないですか。あの、もしかして、わざとブレーキとアクセルを間違えたのでは?」
麻衣子「え、、、。」
杉三「きっと、最期には、派手にやりたいってどこかで思っていたのではないですか?」
麻衣子「そんなことはないわ。ただの踏み間違えよ。運転にも慣れてなかったし、あのショッピングモールに行くには、車でないといけない距離だから。年寄りには、方向所持のマークの意味だって分かりづらいのよ。」
杉三「そうかもしれないけど、、、。もし、買い物が大変ならタクシーを頼むとか、お手伝いさんに行ってもらうとか、いろいろ手段はあるはずですよ。」
麻衣子「あたしは、自分でできないと気が済まないのよ!」
と、急に涙を流し始める。
蘭「そうだけど、もうできないって、割り切ることも必要なんじゃないですか?」
麻衣子「若い人たちって、みんなそういうわよね。でも、私は、そうじゃないのよ。だって、ただでさえ女は馬鹿にされる時代、三人の食べ盛りの子供たちを育てて、私は、自分の好きなことも何一つ捨てて、仕事をしてきたんだから!みんな、新しいところへ行ったけれど、それが完遂できたんだから、福祉なんかには頼りたくはないわね!」
杉三「違うでしょ?」
麻衣子「違う?私の働いたのは、あんたたちとは違う時代だったから。」
杉三「だったら、年齢を考えてくださいよ!少なくとも、完遂して幸せになっているのだったら、子供さんたちも大人になっているでしょうし、子供さんだってお母さんに会いに来ると思いますよ。そうだったら、あんなショッピングモールに、車で来る必要もないですよ。あなたは、完遂なんてできてはいないんだ、できてないから一人で車に乗って、買い物に行くんだ。できてないから、自殺をしようって、考えているんでしょ、違うの!」
蘭「杉ちゃん、どうしてそんなことわかるんだ?」
杉三「みんな、顔に書いてある!」
結子「そう、考えている人もいますよね、、、。私、母の介護がものすごくつらくて、薬物まで使ってしまったこともあったから。母もやっぱり同じ考えでした。私は、いつまでも母の娘でいなければならないってことに本当に苦しみました。でも、私は、母に育ててもらってここまできたことをずっと
忘れていて。私、杉三さんにあって、介護タクシーの仕事のすばらしさを知りましたから。いろんなお年寄りを乗せましたが、麻衣子さんのように感じていらっしゃる方も大勢いるんですよ。お年寄りって、本当に寂しい人たちなんだって、身に染みて感じました。私の母も、麻衣子さんも、みんな同じ。みんな同じなんだって、、、。」
麻衣子「そうだよ。あたしがあの子たちを作ったんだから。あたしは、人生の手本として生きて行こうと決めたけど、子供たちは出て行ってしまうし、出て行っても金はよこせというし、逆に私が助けてというと、何もない。」
みき子「だから、そういうことが、年寄って一番困るところなのよ。確かに現代の日本を作ってくれた人なのかもしれないよね。でも、私たちは結局、あんたたちの飾り物でしかないわけよ!あんたたちは、きっと、あたしたちが、あんたを作ったんだ、だから従いなさいというでしょ。そして、お父さんやお母さんに自分の世話をさせるでしょ。それが、ほんとに嫌だった。そして、私の親が仕事をしているのをいいことに、いい子を作らせて、私を精神病までもっていくの。そして、体がだんだん弱っていくことを美化して、私たちの将来を押し付ける。何が亀の甲より年の劫よ!そんなの押しつけに過ぎないわ。まあ、確かに自分で稼げないから、何も言ってはいけないのは多少わかるけど、この病気にさせた責任はとってもらいたいわね!だって、あんたたちが苦労して、この日本を作り上げたのなら、ちゃんと明確な指針のある社会にしてくれているはずよ!そのせいで私たち若い人が苦しんでいるのなら、責任とってよ!」
華岡「責任のなすりあいをしてもしかたない!それよりもなぜ事故を起こしたのか、、、。」
麻衣子「もう、私は不用品だ。産業廃棄物だ。だからもう死んだっていいじゃない!邪魔しないで死なせてよ!」
杉三「でも、それだけは、いけないよ。」
麻衣子「人間なんて、ただのごみよ、私は長生きしすぎたの。今の年寄りはみんなそうよ。誰にも恩賞はもらえず、ごみのように捨てていく。まあ、そういう時代だから仕方ないのかしらね。私、やったのよ。事故。」
華岡「ほ、本当ですか?」
麻衣子「ええ、記録してよろしいわ。今から本当のことを話すから。」
華岡「じゃあ、記録させていただきます。」
と、鞄の中からノートパソコンを取り出して、近くのテーブルに置き、記録を始める。
麻衣子「みんなも知っていると思うけど、大きな戦争があって、家も、主人もみんな亡くなって、私は三人の子供を抱えて、この街に来たのよ。右も左もわからなかったけど、何とか見つけたのが酔っ払いの相手。今みたいに、女が働くことはなかったから、給料もさほど安いわけじゃないし、生活していくにも全く足りなかったから、自分の体を売るしか商売にならなかったのよね。」
みき子「つまり、街娼というわけですか。」
麻衣子「そうね。」
みき子「汚い話ですね。」
麻衣子「その通り。性病にかかったこともあったのよ。まあ、幸いすぐに回復したけど。これがその時の証拠品。」
と、彼女は袖をめくる。ところどころ、発疹のあとがみられる。
麻衣子「それでも、働かなくちゃいけないから、病気を隠して働いたの。こんなことをしていたから、再婚なんてできるもんじゃないわ。でも、働かなきゃいけない。やがて、子供たちが学校へ行くようになるとね、同級生からばい菌と言われていじめられて帰ってきた。売春婦の子供なんて嫌だって、
泣かれたこともあったわ。それでも、この仕事をやめるわけにはいけなかった。上の子が、東京の料理学校に行きたいと言い出した時は、きっと私のせいだと思って、その通りにかなえてあげた。でも、それっきり、もどってこなかった。教室でいい人を見つけて、結婚して。今は、料理学校で教えているみたい。」
杉三「で、あとの二人のお子さんは?」
麻衣子「中の子は、一番気が強かった。まあ、真ん中は強いということはよくある話だけれど、でも、本当は一番繊細で泣き虫だったのよ。売春婦の子供って言われて一番泣いていたんだもの。でも、強くなりたいからって、同級生にそそのかされて柔道を始めたら、今は師範の免状までとってしまって。それっきり、戻ってこなかったわ。今は道場を開いて、たくさんのいじめられっ子達が、入門しているみたいだけど。」
結子「一番下のお子さんは?」
麻衣子「下の子は、女の子で。まあ、三人の中で優しかったのは彼女かな。
まあ、末っ子で甘え上手というか。でも、疲れた時に肩をたたいてくれたりして。その肩たたきを仕事にして、今は、鍼と灸のサロンを経営しているのよ。やっぱりもどってこないけど。三人とも、みんな忙しいのはわかるけど、何一つ送ってよこさないのは、私が、やっぱりこんなに汚い仕事をしていたせいなんだなって、思うのよ。だから、誰も寄り付かない。助けを求めても、やっぱり、汚い仕事をしていたってことがネックになって、誰も来てくれないのよ。体を売るっていうのは、椿姫の登場人物のような、美しい人間になるのは、とても無理ね。」
杉三「まあ、あれはオペラですからね。現実とは違いますよ。」
結子「でも、そうなるしかできなかったとしても、いいお子さんをもっているじゃないですか。だって、お話を聞いたら、三人さんたち、みんな他人を助ける仕事をしているでしょ。長男さんは、料理で、次男さんは柔道で、長女さんはかたもみで。それはきっとお母さんの愛情をたくさん感じ取ったのだとおもいますよ。」
麻衣子「でも、三人とも、結婚してから、メールで写真を送る程度で、まったく顔を見せなくなったんです。それは、私が、汚い仕事をしていたからでしょう。」
華岡「思い出話はもういいので、事件のことを話してくれませんかね。」
麻衣子「ああ、ごめんなさい。あの日、私は、隣のお宅に回覧板を届けた帰りだったんです。」
華岡「で、どうして、あのショッピングモールに?」
麻衣子「はい、隣のかたは、夜勤をしているらしく、昼間に行くとパジャマで応答しているのですが、その日は奥様ではなく、夜勤をしていたご主人が出てくれて。回覧板と言って、手渡ししたら、、、。」
杉三「手渡ししたら?」
麻衣子「汚いばあさんから、回覧板をもらいたくないって言われて。」
結子「そんなこと、気にしてはだめですよ!」
麻衣子「はい、そのあとで怒りがわきました。車にのって、ショッピングモールに行きましたけど、、、。」
杉三「すごく怒りをためてショッピングモールにいったんだね。」
麻衣子「はい。自分でもなんでこんなに怒りをもってしまったのか、わからないほどでした。」
杉三「で、そのままタクシー乗り場に?」
麻衣子「ええ。気が付いたらタクシー乗り場だったのです。なので、方向転換しようと思って、ブレーキを踏んだつもりだったのですが、、、。」
華岡「それで事故を起こしてしまったわけですね。」
麻衣子「申訳ありません、、、。」
と両手を差し出す。
杉三「きっと、きっとね、子供さんたちは、どこかでお母さんを見ていたのではないでしょうか。いくら、娼婦であっても、愛情は伝わっているとおもいますよ。まだ、不安はあるのかもしれないけど、きっと、一生懸命生きているんじゃないでしょうか。僕は、少なくとも、そうしたいです。」
麻衣子「もういいんです。時代はかわってしまいました。私のような人間は、本当に汚いでしょう。三人の子たちが、かおを見せないのは、そういうことだと思うんです。」
杉三「そうかな。」
華岡「これでもう、いいですか?」
麻衣子「ええ。」
華岡「わかりました、では近いうちに書類送検しますので。」
と、ノートパソコンをパタンと閉じる。
華岡「やっと俺たちも次の事件に進めますよ。テレビドラマじゃないんですから、警察は暇じゃないですからね。」
と、頭をかきながら立ち上がり、
華岡「じゃあ、また迎えをよこしますので、そのまえによく休んでくださいね。きっと、検事や裁判官がおんなじことを聞くと思いますが、ちゃんと答えを出してくださいよ。こっちが責任を問われることになりますからなあ。」
麻衣子「ええ。死刑になれる日を心より待っています。世界で一番必要とされない女の、あっけない結末です。」
杉三「そうかな。」
華岡「杉ちゃん、君も協力してくれてありがとう。おかげで、早く検察庁に引き渡せるよ。そうすれば、次の事件に取り掛かれるよ。日本の警察は甘すぎると、言われないようにね。じゃあ、もう、解散だ。ありがとう。」
蘭「お前も取り調べが下手なの、直せよ。人のふり見て我がふり直せ。一番よく合う言葉だ。」
華岡「わかったよ。ああ、今日はいい一日だった。」
と、手早くパソコンをかばんにしまい、さっさと病院を出ていく。
蘭「さ、僕らも帰ろうか。」
と、ダイヤルを回すが、杉三は何か考えている。
数分後、正面玄関。看護師に車いすを押してもらって、二人は用意したタクシーに乗り込む。二人が乗ると、タクシーは走り出す。
蘭「どうしたの杉ちゃん。何を考えているんだ?」
杉三はうつむいたまま答えない。
運転手「この間、坂野さんという方を乗せましてね。」
杉三「さかの?」
運転手「ええ、若い女の人でした。なんだか仕事がうまくいかなくて、気が付いたら、精神障碍者手帳をもらう羽目になったそうなのです。まあ、歩けないというわけではないのですが、障碍者手帳を持っていたので、こちらも乗せなければならないのですが、」
杉三「どこまで乗せろといったのですか?」
運転手「ええ。警察署です。しかし、そこまで走って到着したら、何人かの報道関係者が待機していましてね。彼女は半狂乱になり、慌てて精神科の病院まで連れて行って、やっと落ち着いてもらいました。」
杉三「で、そのあとどうしたのですか?」
運転手「病院で一泊させてもらって、翌日に帰ったそうですよ。その時は、僕ではなく、ほかの運転手が運転していきましたけどね。でも、坂野という苗字はこの辺りではほとんどないですよね。だから、どこかほかの県からきたのかな。富士で長く、この仕事をしていますが、坂野という客を乗せたことはあまりありません。きっと、都内かどっかの人なのかな。まあ、最近は転勤族もよくいますが、介護タクシーを転勤族が利用するケースはあまりありませんから。」
杉三「それだ!」
蘭「どうしたの杉ちゃん。」
杉三「よし、蘭。電話帳を用意して。とにかく、坂野という家に片っ端から電話しよう!」
蘭「なにばかなことを言っているの!確かにこの富士では珍しい苗字だとは思うけど、ほかの県には星の数ほどいるんだから!その全部に電話をかけるつもり?」
杉三「そうだよ。麻衣子さんに会わせてあげたいの!そうすれば、麻衣子さんは、また立ち直れると思うんだ。そのためには、子供さんたちを探し出して、」
蘭「そんなことして何になる?いい、杉ちゃん、他人のことに簡単に首を突っ込むのは、善意であってもだめな時もあるんだよ!それに、なんでもかんでもできると思わないでよ!」
杉三「だって、運転手さんが、坂野という苗字は少ないといったんなら、同じ苗字の人が、血縁関係にある可能性もあるじゃない。その誰かにあたって、その人を通じて、子供さんたちを呼び出してもらう。そうしなければ、麻衣子さんは、一生傷ついたままだ。それに、子供さんたちだって、傷ついたままだよ。確執が残ったまま亡くなったら、次の子孫が必ず何か弊害をこうむるよ。そうならないように、僕は解決させたい。」
蘭「悪いんだけどね、杉ちゃん、君の感性が全部の人に届くということは絶対にないんだからね!」
運転手「おい、お客さん、つきましたよ。」
と、タクシーが止まる。
蘭「ああ、すみません。本当に大きな声を出してしまって、すみませんでした。」
運転手「いえいえ、杉ちゃんの話を聞いたら、切なくなりましたよ。こういう方には、嘘も理屈も通じませんな。だからこそ、彼は苦しくなるのだと思いますが。どうか、がんばってください。」
蘭「はい、、、。じゃあ、僕たちをおろしてください。」
運転手「わかりました。」
と、手際よく、二人を外へ出す。杉三は、どんどん自宅に入ってしまう。蘭は急いでお金を払うと、杉三を追いかける。
蘭「杉ちゃん、もうやめようよ。坂野さんの話は。」
声「蘭、電話帳はどれ?」
蘭は仕方なく部屋に入り、テーブルの上に置かれた分厚い本に目を通す。
蘭「これ。」
と、黄色い冊子を指さす。
杉三「じゃあ、これで、坂野という人を見つけて。それで、片っ端から電話して。」
蘭「電話って何を伝えるんだよ。」
杉三「坂野麻衣子という女性を知っていますかと。」
蘭「自分でしなよ、、、というわけにはいかないのか。」
杉三の目に涙が光っている。
蘭「しょうがないな、、、。」
と、スマートフォンをダイヤルする。
蘭「あ、坂野さんですか、身内に、坂野麻衣子という方は、、、。」
声「あんな、犯罪を犯した、汚いおばあさんと一緒にしないでください。」
と、言ってぷつんと切れる。
杉三「次、お願い。」
蘭はダイヤルを回す。
声「ただいま留守にしております、御用の方はメールで、、、。」
蘭「留守みたい。」
杉三「次お願い。」
蘭はダイヤルを回す。
声「もしもし?」
若い女性の声。
蘭「あの、妙なことを申し上げますが、お宅のご親族に坂野麻衣子という方は、いらっしゃいませんか?」
声「ああ、聞いたことがあります。」
蘭「ご親族の方ですか?」
声「ええ、父の。」
蘭「お父様?つまりあなたは?」
声「私は、坂野あや子と申します。坂野麻衣子は、父の母親で、私の祖母になります。あの、報道関係の方ですか?」
と、杉三がいきなりスマートフォンを取り、
杉三「初めまして。僕は影山杉三です。今日おばあさまにあってきました。今、電話を掛けた、僕の親友である伊能蘭が、取調官の華岡警視と同級生だったので。で、お願いがあるんです。」
あや子「お願い、なんでしょう?」
杉三「はい、お父様に、おばあさまつまり麻衣子さんに会ってあげてほしいと伝えてくれませんか?」
あや子「そうですか。父はいま、道場でけいこをしています。すぐに伝えるのは難しいのですが、、、。」
杉三「お父様は、おばあさまのもとを離れたくて、道場を作ったのですか?」
あや子「口に出していったことは一度もありません。でも、そんな気持ちもあるのだと思います。」
杉三「さっき、タクシーの運転手さんが言ったのですが、あなたにとってはおばさんにあたる方が、警察署を訪れたそうなんですね。おばさまは、いまお体が悪いようです。肩もみの仕事をされていたことは知っていますか?」
あや子「ええ。でも、繁盛しなくて、結局やめてしまったと聞きました。」
杉三「それは、おばあさまが娼婦として生きてきたからですか?」
あや子「たぶん、そうだと思います。私も、それで何回かいじめにもあいました。現に、今私が自宅にいるのは変だと思いませんか?本来なら学校に行っている時間ですよ。」
杉三「ああ、ぼくは、時計を読めないので、、、。」
あや子「私、いじめられて、いま学校に行ってないんです。通信制の学校に行こうかと思っているのですが、なかなか一歩が出なくて。またいじめられるのではないかって、不安なんですよ。」
杉三「お年は?」
あや子「ええ、十八です。大幅に遅れていますよね。父はそれを祖母のせいだとしているのです。」
杉三「おばあさまは、いま事故のせいで、自殺を考えておられます。だから僕は、おばあさまに一人ではないことを伝えたいのです。だから、お父様のお兄さんと妹さんに連絡をしていただいて、富士の警察署に来てくれませんか?」
あや子「私では何とも言えないのですが。」
杉三「伝えるだけでいいですから。おばあさまに、もう一度生きようって気持ちを取り戻してもらえるように。」
あや子「祖母のことを、そんなに大事にしてくれるあなたも、何かあるのでしょうか?普通の人であったら、そんな言葉を口にする人はまずないでしょう。」
杉三「ええ、ただのバカだからそう見えるんです。お願いできませんか?」
あや子「おばとおじがなんていうかもわかりませんし。」
杉三「でも、おばさまは、いま精神障碍者手帳をお持ちです。それは、大なり小なり、お母さんを求めているようなきがしてならないんです。おばあさまは、何も連絡をよこさないことを、幸せに暮らしているんだと、むりやり勘違いして生きています。でも、本当はそうじゃないでしょ。そうなったら、家族の存在ってのは、本当にありがたいものですよ。」
あや子「単に繁盛しなかっただけでは?」
杉三「繁盛しなかったのは、お母さんを求めていたからじゃないですか?きっと、あや子さんだって、おんなじ気持ちなんじゃないでしょうか。」
あや子「私が?」
杉三「ええ、だっていじめにあったんでしょ。もし、本当に嫌なのなら、今の人なら自殺を図るか、何か事件を起こすかのどちらかです。そうなる前に、まとまっていかなきゃいけない。それを忘れているからみんな寂しくて事件が起こるんだ。」
あや子「でも、私、やっぱり、」
杉三「どうか、お父様に伝えてください。お願いします。」
と、いったところで、電話は切れる。
蘭「電池切れだよ。」
杉三「じゃあ、充電してまたかけよう。」
蘭「ダメ!杉ちゃん。杉ちゃんのお話は、ただの理想論で、全然現実味がない。だから、もうあきらめようよ。」
杉三「いやだ!ちゃんと遂行するまで電話する!」
蘭「いい加減にして!杉ちゃんは、自分のことをえらいと思っているようだけど、ひらがなもカタカナも、漢字も読めないんじゃ、何も一人ではできないんだよ!この電話だって、はじめは誰がしたのか、覚えてもいないでしょうよ!」
杉三「覚えてる。でも、そうしなきゃいけない!」
蘭「もう、しらないよ僕は!」
杉三「待って!」
声も聞かずに蘭は杉三の家から出て行ってしまう。
蘭の家。蘭は、スマートフォンを充電器の上に置く。
アリス「なるほどね。杉ちゃんらしいわ。でも、清水に魚棲まずって言葉もあるものね。」
蘭「はあ、本当に。やくざっぽい口調で怒鳴られたときは、死ぬかと思った。」
アリス「あたしたちとは、世界が違うのよ。アルプスの少女ハイジみたいにさ。」
蘭「まあ、確かに世界が違うよね。」
アリス「ねえ蘭、電話が鳴ってるわよ。」
蘭「あ、ほんとだ。」
と、スマートフォンを取る。
蘭「あ、お母さん、ああ、杉ちゃんが?そうですか、ご飯も何も食べないんですか。まあ、懲りてやめてくれればいいけど、そうならないのが杉ちゃんですからね。」
声「そうなのよ。でもね、さっき、坂野という人から電話があったの。柔道の教室をしているって。なんの用だったのかしらね。」
蘭「えっ、坂野?!」
声「そうなのよ。」
蘭は驚きを隠せない。
蘭「すぐにその要件を聞いてくれませんか?お願いします。」
美千恵「わかったわ。」
蘭「ああ、ヒョウタンからこまとはこのことだ、、、。」
美千惠「杉三は不思議な子だわ。」
蘭「お願いします。」
美千惠「はいはい。」
と、電話を切る。
アリス「どうしたの?」
蘭「杉ちゃんが説得した、坂野麻衣子の、息子が本当に見つかったんだって。」
アリス「杉ちゃんじゃなければできないことよ。」
蘭「そうだね、、、。」
と、ため息をつく。
翌日。
インターフォンが五回なる。
蘭「杉ちゃんだ。」
まさしく、障子を乱暴に開ける音がして、杉三が入ってくる。
杉三「蘭、すぐに駅へ向かって。来てくれるみたいだよ。」
蘭「いつくるって?」
杉三「九時の電車で来るって。富士駅へ。」
蘭「だってまだ六時半なのに、、、。」
杉三「いいから、迎えに行こう。」
蘭「早すぎるよ。」
アリス「いいんじゃない、迎えに行ってあげれば?」
蘭「もう仕方ないな、行ってみるか。くれぐれも、もう待てないなんて言わないでくれよ。」
と、身支度を始める。
アリス「タクシーの予約は私がとるわ。」
蘭「悪いね。」
数分後、タクシーが家の前で停車する。杉三たちは乗せてもらい、タクシーは走り出す。
蘭「本当に、失礼なことは言わないでね。わざわざ来てもらったんだから。頼むよ、杉ちゃん。」
杉三は黙ったままである。
富士駅。構内のカフェ。
杉三と蘭はジュースを飲んでいる。
蘭「いつもしゃべっている杉ちゃんなのに、なんで今はしゃべらないんだ?」
と、眠い目をこする。
アナウンス「間もなく、五番線に静岡行きの電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側でお待ちください、、、。」
杉三「今何時?」
蘭「九時五分。」
杉三「出よう。」
蘭「まだ早くない?」
杉三「だって九時に来るって。」
蘭「でも、こんな早くはないと思うよ、、、おい、待ってよ杉ちゃん!」
杉三はどんどんカフェの外へ出て行ってしまう。蘭は、レジへいき、
蘭「スイカではらいます。」
と、支払いを済ませ、急いでカフェを出る。
改札口。
電車が走り去る音と同時に、多くの人が改札を通っていく。
蘭「えーと、確か、黒い背広を身に着けているといっていたんだけどなあ。」
しかし、黒い背広を着た人物は現れない。最後に改札に来た人は、茶色のジャージを羽織っていた。
蘭「次の電車なのかなあ。やっぱり出るのが早すぎなんだよ。ほかの喫茶店で待っていようか。」
杉三「いた!」
蘭「どこに?馬鹿なこと言わないで。」
杉三「今、駅員さんと一緒に改札してる人だよ。黒い背広を着ているよ。」
蘭「だって、あの人は車いすにのっているから、違うよ。」
杉三「でも、黒い背広を着ている人だよ。」
蘭「違うと思うけどね。」
杉三「一応、確認しよう。」
すると、車いすにのった男性もこちらに気がつき、
男性「あの、影山杉三さんという方は、、、。」
杉三「僕ですよ。」
男性「初めまして。坂野麻衣子の次男の光男です。あなたのことは、娘から聞きました。」
蘭「本当に、そうなんですか?だって柔道の師範をもっているはずなら、歩けないなんて、、、。」
光男「ええ。持っていますよ。今も道場をやっています。」
蘭「ではなぜ、」
光男「ええ、ちょっと厄介な病気になってしまって。それで、この体になりました。」
杉三「そのことを、お母さまには伝えてあるのですか?」
光男「いえ、さすがに母には。」
杉三「どうして、伝えなかったのです?」
光男「だって、、、ここまでさせてくれた母ですから、さらに不幸な気持ちにさせたくなかったからです。」
蘭「杉ちゃん、タクシーが待ってるよ。今度は、看護師さんも頼んでおいたよ。」
光男「どうもすみません。介護タクシーは、とても高いのに。」
蘭「富士では、普通のタクシーとあまり変わらないので大丈夫です。」
光男「そうですか。都内では一万二万はざらにかかりますな。看護師をよんだらもっとかかる。」
蘭「それでは、お金を取りすぎですよ。とにかくのってください。」
光男「わかりました。少しの距離なら立って歩けますので。」
杉三「無理はなさらずに。みんな、優しい方ですから。」
蘭「こちらです。」
と、タクシー乗り場へ案内する。
走るタクシーの中。
看護師「ご気分はいかがですか?すぐに言ってくださいね。膝なんかは特に痛むでしょうから。」
光男「いやいや、痛み止めを大量に飲んだから、大丈夫ですよ。」
看護師「いたくなくても、体に負担はかけないでくださいね。」
光男「もともとは柔道の師範です。柔道のけいこで痛い思いはたくさんしました。まあ、そればかりしていたので、このように脳出血で歩けなくなりましたが、あたまはまだまだ元気ですよ。」
看護師「でも、脳浮腫って怖いですよ。打ち所が悪かったら、歩けなくなっただけでは済みませんからね。」
光男「でも、それだけでいいじゃないですか。」
看護師「明るい方ですね。ほかの患者さんにも見習ってもらいたいわ。」
運転手「お客さん、つきましたよ。」
富士警察署、取調室
麻衣子「今日、検察庁に送る予定だったのに、何で一日先延ばしにしたんですか?」
華岡「いやあ、それはわかりません。だっていきなり電話がかかってきてそうしろと言われたので。」
麻衣子「違うんじゃありませんか?」
華岡「いや、俺たちはそう言われただけですよ。」
麻衣子「何かでっち上げたのでは?」
華岡「素直に納得してくれればいいのに。何もでっち上げていませんよ。大切なことはありますけど。」
麻衣子「大切なことって何よ!」
声「華岡さん、連れて来たよ!」
麻衣子「連れてきた?」
ぎいっと取調室のドアが開く。
麻衣子「光男!ど、どうしたの、その体!」
光男「はい、柔道の指導で背負い投げを教授したときに、誤って頭を強く打ってしまい、いわゆる脳出血になってしまって、歩けなくなってしまいました。」
麻衣子「いつ!」
光男「十年位前です。お母さん。」
麻衣子「どうして何も言わなかったの?武男と聖子には?」
光男「そうですね、初めのころは手伝ってくれましたが、そのうち子供の受験なんだって、だれも来なくなりました。」
麻衣子「だって、そうなったら、兄弟で助けてもらうのは、当たり前じゃないの。私が、呼び出してもよかったのに。」
光男「でも、兄さんも聖子も来ませんよ。兄さんは料理の関係で海外へ行ってしまいましたし、聖子は、お姑さんの介護が忙しいらしくて。」
麻衣子「どうしてここがわかったの?」
光男「ええ、昨日、僕の娘のあや子が、杉三さんから電話をもらったというのです。あや子はほかの子よりも感性が強すぎて授業中に迷惑をかけるのと言われて、高校を退学して、今は精神科で治療中なのですよ。そのあや子が、ぜひ行ってやってくれと涙を流していうものですから、僕はいてもたってもいられなくて、杉三さんのお宅へ電話したら、ここにいると聞いたものですから、急いでやってきました。」
麻衣子「私はここで最期を迎えようと思っていたのに。」
光男「お母さん、それではだめです。僕もいるんですから、必ず帰ってきてください。お母さんは、僕たちがもうお母さんのことを必要ないと思っているのではないですか?それは間違いですよ。少なくとも僕は、他人の力を借りなければ生きていけない身になりました。でも、こうして明るく生活できるのは、お母さんがいてくれたからだと、確信をもって言えますよ。」
麻衣子「あんたたちは、みんな、私のことをいらないと思ってるとばかり、、、。」
光男「お母さん、それは間違いです!連絡をしなかった僕も悪かったのは認めます。でも、完全に絶縁ということはできません!お母さんは、汚い職業についているから、もう僕が寄り付かなくなったのだと、供述しているようですが、逆を言えば汚い仕事で、ここまでさせてくれたんです。」
麻衣子「でも、ほかの二人は、もう来ないんでしょ。」
杉三「麻衣子さん、確かにほかの二人は来なくても、この人はだれであるのか、もう一度、考え直してくれませんか。」
麻衣子「私、、、。」
みるみる、涙を流し始める。
華岡「ほらほら、泣いちゃだめですよ。」
蘭「こんな立派な息子さんを持てるのなら、汚い仕事なんて、関係ないんじゃありませんか?」
杉三「答えなんて、目の前にあるのに。気が付かなかったんですね。今はそういう人、多すぎるくらい多いよね。僕も、蘭も、光男さんも、みんな一人では生きていけないから、そういうことにわりと、気が付きやすいんだけどさ、歩ける人は、もっと後のようだね。でもね、僕たちは、あ、光男さんの娘さんもきっとそうだと思うけど、些細なことにものすごく感謝しているから、気持ちも態度で示せるというわけで、、、。」
麻衣子「光男。」
光男「はい!」
麻衣子「私を、ゆるしておくれ。」
光男「許すどころか。お母さんが、罪を償って来たら、必ず迎えに行きます。」
麻衣子「ありがとう、、、。」
と、婦人警官が入ってきて
婦人警官「警視、そろそろ検察庁に彼女を、」
華岡「わかったよ。じゃあ、息子さんからのメッセージを忘れずに、罪を償いに行きましょう。くれぐれも、大事な人の存在を忘れてしまわないようにしてください。」
麻衣子「はい、わかりました。」
婦人警官が麻衣子の両手に手錠をかけ、麻衣子は取調室を出ていく。迎えに来た護送車に乗り込み、検察庁に送られていく。
光男「お母さん!待っているから!」
光男は、正面玄関から大きく手を振る。麻衣子がそれに気が付いたのかは疑問だが、護送車が見えなくなるまで、手を振り続ける。
夜、屋台のラーメン屋。杉三と蘭、そして華岡がラーメンを食べている。
華岡「それにしても、今回の事件は不思議だったなあ。」
蘭「何が?」
華岡「母親が、自分の体を売って一生懸命育てても、それを恥として、二人の子供は手の届かないところに行ってしまった。そして、障害のある子供だけが、母親のことを愛している。こんな家庭、一昔前ならなかったぞ。ハーメルンの笛吹か?」
蘭「馬鹿なこと言うなよ。まあ、確かに障害のある人は、感性がいいのは昔からそうかもしれないけれど。」
杉三「家族だけでなく、他人もそうだったよね。みんな、不満ばかりで。あの、運転手の結子さんも、みき子さんも。」
蘭「ああ、確かそんな人と話したっけね。もう、昔のことみたいだよ。」
杉三「忘れてたの?」
蘭「当り前だよ。忘れられなかったら、世の中やっていけないから。」
杉三「僕はいつまでも覚えてるよ。」
華岡「杉ちゃんはいつまでも覚えていられていいね。」
杉三「うん、きっとね、あの人たちも、そして麻衣子さんのご家族もね、
素直に助けてくれと言えたら、あんな事件は起きなかったと思うな。」
蘭「確かにそうかもしれないけどさ、」
杉三「みんな忙しいとしても、自分を作ってくれた人たちだもの。まあ、僕の頭が馬鹿だから、そう言えるのかもしれないけど。」
蘭「まあ、無理だろうけどね。杉ちゃんのいう通りの世の中になるのは。」
華岡「いや、なってほしいぞ。俺たちの仕事も、少しは楽になるだろう。」
蘭「それじゃ、職務怠慢じゃないか。」
華岡「まあ、気づかせてくれた杉ちゃんに乾杯だ!おやじ、替え玉!」
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