ねむの木の子守歌

コンサートホール。演奏会が終わる。

蘭「面白かったね。また来年も盛大にやるのかな。」

杉三「そうかな。」

蘭「なんで?」

杉三「だってつまんないんだもの。」

蘭「何がつまらないの?」

杉三「曲もつまらないし、歌い方だって、みんな同じ。つまらない。」

蘭「そんなこと言っちゃだめだよ。一生懸命練習して、やってるんだから。」

杉三「みんな同じだから、おもしろくないんだ。」

隣に座っていた、女性が声をかける。

女性「何が面白くないって?」

杉三「面白くないんですよ。みんな似たような衣装で、似たような声で、似たような曲を歌うから面白くないんだ。毎年毎年、同じ曲。」

女性「そうよね。みんな同じ曲。日本って、みんな同じを重視するから。個性って、なんだろう。」

杉三「その社中の味ってのが、なくなってますよね。」

女性「そうそう。よく言うじゃない。本当はさ、曲だっていろんな曲を歌っていいと思うのよ。日本の古典だとか、流行歌を無理やりアレンジするよりも、ビクトリアの曲とか、ジョスカンデフレの曲とかさ、なんでもいいじゃない。」

杉三「僕は、どちらも大好きですよ。」

蘭「失礼ですが、キリスト教徒の方ですか?」

女性「違うわよ。勧誘とかではないから安心して。ただ、私も合唱をやっているから、偵察に来ただけよ。」

杉三「へえ、どちらの楽団なんですか?担当パートは?」

女性「私は、所属ではなく主催のほうなのよ。ここからずっと離れた大渕で、小さいけど、合唱団をやっているの。」

杉三「あんな辺鄙なところで、ですか?」

蘭「杉ちゃん、それは言わないほうが。」

女性「いいのよ。大渕なんて、昔は水なし村って言われたぐらいだったんだから。まあ、富士のお役所が、老人の孤独死を防ぐために作ったから、みんな年寄ばっかだし、大したこともないわよ。」

蘭「じゃあ、メンバーさんも楽しいでしょうね。」

女性「どうかしら、今出ている人たちより、もっと下手だだから。二人とも、練習見学してかない?実は今日、ここの練習室で、これから練習する世予定なの。指導として、この演奏会の感想を伝えたいのよね。」

蘭「いや、歌はちょっと、、、。」

杉三「僕は行ってみたいな。」

蘭「杉ちゃんよせよ。」

杉三「聞いてみたいですよ。」

蘭「だってあれだけつまらないと言っていたのに?」

杉三「でも行ってみたい。」

女性「決まりね。じゃあ、ここの第一練習室にきて。あ、私の名前教えておくわね、私は、竹島結衣。よろしくね。」

杉三「影山杉三です。杉ちゃんと呼んでください。こっちは、伊能蘭です。」

蘭は、軽く会釈する。

結衣「じゃあ、今から第一練習室へ行こうか。」

杉三「はい。」

と、車いすを動かしてどんどん練習室まで移動してしまう。蘭もついていく。

第一練習室。合唱団そらと、はりがみされたドアを開けると、年寄たちが20人待機している。数人で固まり、体のことやら家族のことやら、グチグチと語っている。その様子を見て、蘭は気分が悪くなる。

結衣「ほら、練習始めるわよ!今日はお客さんを連れてきたから、聞いてもらいましょう!」

と、軽く手をたたく。それに気が付いて年寄りたちが、集まってくる。

女性「なんですか、あなたたち。」

杉三「竹島先生と、さっきホールで友達になったものです。名前は、影山杉三です。」

結衣「自己紹介はいいから、早く集まって。曲は?」

男性「鷗でよかったんでしたっけ?」

杉三「ああ、木下牧子ですか?」

男性「その通り。よくわかるね。」

杉三「さっき、ホールで聞かせてもらったから。」

結衣「ほら、位置について。楽譜をもって!行くわよ!」

と、タクトを降り始める。

声「ついに自由は、彼らのものだ、彼ら空で恋をして、、、。」

歌は、音程も外れており、ハーモニニクスもまるでできていない。蘭が聞いても、ひどいものだった。

声「ついに自由は、われらのものだ、、、。」

しわがれ声で歌は終わる。

杉三「ひどいうたですね。」

蘭「杉ちゃん!」

杉三「だって事実、きれいな歌じゃないもの。ほかに感想なんてないですよ。事実を述べただけで。」

女性「まあ、そういわれても仕方ないじゃない。こんな難しい歌、歌わされてるんだから。どんぐりころころで十分なのに。」

男性「歌いたがる歌は、ほかの連中がみんなやるさ。ベルカントだとか言われても、わしらにはわからんし。」

杉三「そうだよね。手本がほしいよね。」

男性「この先生は、それをよく言うけどわしらにはさっぱりだ。」

結衣「まあ、あなたたち、その程度しか考えてなかったの?」

男性「だってそうじゃないか。」

杉三「事実にふたをすることはできなせんからね。」

結衣「じゃあ、あなたこの曲歌える?ほら、楽譜。」

と楽譜を杉三の前に突き出す。

蘭「先生、すみません、こんなに失礼なこと言ってしまって。それに、彼は、楽譜どころか文字すらまったく読めないので、、、。後で弁償はしますから、、、。」

女性「へえ、文盲?この人。今時珍しい。学校行ってないの?」

女性「それとも知恵遅れ?」

杉三「はい、どちらもそうです。もう歌詞わかるから、歌えるよ。」

蘭「は?」

杉三「ついに、自由は彼らのものだ、彼ら空で恋をして、雲を彼らの臥所とする、ついに自由はかれらのものだ、、、。」

と、ピアノなしで歌い始める。ピアノの前に座っていた中年の女性が、思わず鉛筆を床に落とす。

杉三「太陽東のカベにかけ、海が夜明けの食堂だ、ついに自由は彼らのものだ。ついに自由は彼らのものだ、彼ら自身が彼らの故郷、彼ら自身が彼らの墳墓、ついに自由は彼らのものだ、太陽西の窓にかけ、海が夜明けの舞踏室だ、ついに自由は彼らのものだ、、、。」

年寄りたちもあっけにとられて杉三を見ている。

杉三「ついに自由は彼らのものだ、一つの星をすみかとし、一つの言葉で事足りる、ついに自由は彼らのものだ、朝焼けを明日の歌とし、夕焼けを昨夜の歌とす、ついに自由は彼らのものだ、彼らのものだ。」

歌い終わると、割れんばかりの大拍手。

女性「すごい!どっからそんな声が出る?」

杉三「わかりません。そんなこと。」

男性「こんな美しい歌だとは知らなかった。」

杉三「歌が美しいからそうなるんですよ。」

女性「ねえ、私たちにも教えてよ、その歌。あんたの声聞いたら、やる気が出て来たんだ。」

女性「ねえ、できれば、毎回きてほしいね。」

杉三「いいですよ、どうせ暇なので。」

蘭「杉ちゃん、大渕まで、どうやって来るんだよ。」

男性「もしよかったら、公民館ではなくて、ここで練習できるように、交渉してみましょうか?」

男性「そうだね。山の中よりこっちがいいよ。」

結衣「じゃあ、私が後で受付に申し出てきます。お二人は、テノール、バス、いずれかに入ってください。」

蘭「いや、僕は、」

男性「はいんなよ。怖い人はいないから。弟さんだけじゃ、バランス悪くなっちゃう。」

蘭「僕は彼の兄弟ではありませんよ。」

男性「それならなおさらだ。移動とかは、手伝いますから。」

女性「杉三さんの声に惚れたわ。」

杉三「杉ちゃんでいいです。」

結衣「じゃあ、杉ちゃん。ここで練習できるようになったら、連絡入れますから、お宅の電話番号を、、、。」

杉三「僕は、あきめくらなので、蘭の家に連絡してください。」

結衣「わかりました。こちらの名簿にお二人の名前を書いてください。」

蘭「はい、、、。」

と、ペンをとり、サインをする。

結衣「じゃあ、杉ちゃんはテノールで、蘭さんはバリトンに入ってもらおうかな。」

杉三「わかりました。」

周囲から大拍手が起こる。

男性「ほら、一恵先生も喜んでください。」

ピアノの前で立っていたピアニストの佐野一恵が杉三と握手する。

一恵「おめでとう。よかったね。」

杉三「はい。」

杉三の目に、一人の女性が映る。ほかのものが大喜びしているが、彼女だけが悲しそうな顔をしていた。


練習室。杉三と蘭は、合唱団そらの一員として、練習に加わるようになった。

結衣「そうそう!みんないい声になったじゃない!これなら、人前でも演奏はできるわよ!」

男性「いや、この二人が滅茶苦茶いい声だからさ、真似したくなるんだよね。」

男性「なんか、難しい曲も、この人がいれば歌えるさ。テレビテーマばっかりじゃ嫌になってきた。」

女性「この二人が見事なベルカントだもの。クラシックだって歌えるわ。先生、次は外国の曲をもってきてよ。」

結衣「いいわよ。じゃあ、メンデルスゾーンの三つのモテット、やってみる?」

男性「やりますよ!」

後ろのほうで一人の女性が泣きそうになっているのを杉三はみつける。

結衣「了解!次回に譜本をコピーしてくるわ。難しい曲だから、覚悟をして頂戴ね。じゃあ、今日の練習はここまで。解散!」

メンバーは帰り支度をはじめる。

と、さきほどの女性が、結衣に声をかける。

女性「先生。」

結衣「なんですか、堀内さん。」

堀内「今日で、脱退したいんですが、」

結衣「どうして?」

堀内「いろいろ歌ってきましたが、メンデルスゾーンは、私には難しいと思いまして。わたしは、どちらかと言えば、楽しんでいられる合唱団にいたいんです。」

結衣「なにバカなこといってるの?貴女、音大出身でしょ、それなら、三つのモテットなんて、朝飯前じゃないかしら。それとも今までのがつまらなかった?なら、これからもっとすごいのをたくさんやりましょうよ。そうすれば、貴女だって、本領発揮できるわよ。強い味方ができたんだし。」

堀内「でも、私にはこの合唱団は向かないとおもいます。」

結衣「私としてはここで脱退されたら非常に困るわ。もう少し考え直して。」

堀内「はい、、、。」

杉三「あの、すみません。」

堀内「なんですか?」

杉三「僕でよかったら話聞きますよ。ご覧の通り、読み書きもできませんので、本当に聞くしかできないけど、、、」

声「ありゃ、雨が降ってきた。」

声「すぐやむから濡れてかえるか。」

蘭「僕らも、タクシー、予約しなきゃ。」

と、ダイヤルする。

蘭「あ、一台お願いしたいのですが、え、一杯ですか?なら、待ちますよ。何分くらい待てばいいですか?はあ、二時間もまつの?」

杉三「どうしたの?」

蘭「タクシーをお願いしたんだけど、急に雨が降ってきたから、みんな出ちゃって二時間待つんだって、どうする、杉ちゃん?」

杉三「二時間も待つなんて、晩御飯も作れないよ。」

堀内「多分、すぐやむと思いますよ。小雨のようなので。二時間も待たなくても。」

結衣「この部屋はあと五分で撤収よ。」

堀内「じゃあ、私の家にきますか?狭い家ですが、ここからすぐなので。」

杉三「あれ、みんな大渕にすんでいるんじゃなかったの?」

結衣「彼女は事情があって、こちらに住んでいるのよ。息子さんは大丈夫?」

堀内「大丈夫です。いまは留守番できますし、あんまり人に言わないでほしいのですが。」

さ杉三「わかった、誰にもいわないから、待たせてください。」

堀内「わかりました。歩いていけるから、ついてきて。」

蘭「ありがとうございます。」

結衣「じゃあ、次回ね。」

全員、練習室を出る。


道路。

蘭「本当にいいんですか?わざわざお宅訪問なんて。」

堀内「ええ。もう、そこですよ。」

杉三「どの家?」

堀内「ここです。」

と、平屋建ての小さな家の前で止まる。

杉三「ここですか?音楽家の家らしくないんじゃ、、、。」

蘭「杉ちゃん!そんなこと言わないの!」

杉三「いや、立派な音楽が聞こえてくるのに?」

蘭「音楽って何か?」

杉三「聞こえてくるだろ?厳格なる変奏曲、、、。」

蘭「厳格なる変奏曲?誰の作品?」

堀内「あら、また!」

杉三「どうしたんです?」

堀内「またあの曲を、ちょ、ちょっとすみません、今やめさせますので、玄関で待っててください。」

杉三「いや、やめさせなくてもいいですよ。何にもうるさくないし、逆にすごく上手だから、聞いてみたいなあ。」

堀内「やめさせないといけないんですよ。」

と、玄関のカギをあけ、中へいってしまう。

蘭「何か事情があるんだよ。もし、迷惑をかけるようだったら、帰ろうね。別のタクシー会社に電話するから。」

部屋の中で、何かしゃべっている声がする。

蘭「あの、ご迷惑なら、僕たち帰りますから。今日は本当にすみません。じゃあ、次の練習のときにお会いしましょう。」

杉三「蘭、少し黙って!」

蘭「杉ちゃんどうしたの?」

杉三「何かわけがあるんだよ。」

声「いい加減によしなさい。そんな大曲弾いてるからいつまでたっても回復しないのよ。」

声「何もしないより楽だよ。」

声「いくぞう、あんたは今やることと、これからのことを考えなさいよ。あんたはまだ三十八なんだし、これからのことのほうがまだまだ多いんだから、今は我慢する時期なのよ!」

杉三「三十八、、、。メンデルスゾーンと同じ年、、、。」

蘭「つまり今さっき演奏されていた曲は、メンデルスゾーンの厳格なる変奏曲だったのか!」

杉三「そういうこと。ほら、スロープが置かれてる。歩けないんだね。いくぞうっていうんだから、息子さんだね。よし、わかった。」

と、そのスロープを利用してどんどん入ってしまう。

蘭「おい、杉ちゃん、車輪ぐらい拭かないと、、、。」

しかし杉三には聞こえないらしい。

奥の部屋。

堀内「これ以上、悪くならないように、ピアノはやめろって、お医者さんに何回もいわれてるのに、やめないどころか、さらにあんなに難しい曲を勝手に弾いたりして。お母さんにコーラスいけっていったのは、ああしてピアノをこっそり弾こうとおもったから?」

杉三「こんにちは。」

堀内はぎょっとした顔で後ろを見た。

杉三「スロープがあったから、使ってしまいました。ごめんなさい。演奏、すごく素敵でしたよ。ああ、綺麗な顔していますね。本当にメンデルスゾーンみたい。」

そういわれた男性は、杉三をじっと見た。

杉三「初めまして。僕は、お母さんの友達の影山杉三です。あだ名は杉ちゃんです。よろしく。」

男性「僕の名前は、堀内育蔵です。よろしく。」

と、右手を差し出す。げっそりと痩せている。

杉三「へえ、変わった名前ですね。おんなじぞうがつくなんて。その顔にしては固い名前。育蔵さんと呼ぶのはちょっと惜しいなあ。」

育蔵「でも、僕の名前は育蔵ですよ。それはしかたありません。それに、字が違うかもしれないし。杉三さんはどう書くんですか?僕は、育てるに蔵元の蔵と書いて、いくぞうと読みます。」

杉三「僕は、あきめくらで、読み書きはできないんです。だから自分の名前がどんな字で書かれているかなんて、まったくわからないんですよ。だから、杉ちゃんと呼んでください。」

育蔵「でも、年上の人をあだ名で呼ぶのは、失礼ではありませんか?」

杉三「いえ、全然かまいません。だって、僕はあきめくらでただの馬鹿ですから。そんな、厳格なる変奏曲なんて、弾けるはずはないんですよ。じゃあ、提案なんですが、僕もニックネームで呼びますよ。いくぞうという名前と、メンデルスゾーンの曲を好むわけですから、いくぞーんなんてどうですか?」

育蔵「そんなことを提案されるのは、初めてですからお任せいたします。」

杉三「じゃあ、いくぞーんで。よろしくね。」

育蔵「よろしくお願いします。あ、母の名は、堀内けい子といいます。」

けい子「よろしくです。」

杉三「よかった!またこれからも遊びに来るからよろしくね!」

けい子「まあ。すっかりお友達ね。」

蘭「杉ちゃん、もう帰ろうよ。晴れてきたよ。」

杉三「はい。今日は長いすると悪いから帰るよ。次の練習の時も来るからね、だから、お会いできるように。厳格なる変奏曲の練習は控えてね、いくぞーん。」

育蔵「そうだね。僕も友達ができてうれしいや。体調を壊さないように、これ以上はひかないようにするよ。」

杉三「お母さんの練習のついでに来るから、週に一回は会えるよ。よろしくね、いくぞーん。」

育蔵「ありがと、杉ちゃん。こういう経験は初めだから、びっくりしたけど、嬉かった。」

杉三「うん。またよろしくね。」

育蔵「こちらこそ。」

けい子「ほら、早く横になりなさいよ。車いすとはいえ、横になったほうが楽よ。」

育蔵「はい。」

杉三「じゃあまたね!」

と、けい子に連れられて、玄関を出て行った。

けい子「本当にすごいわ。いつもあの曲をひいたら止まらなくなるのよ。」

杉三「なんであんなに厳格なる変奏曲がうまく弾けるんですか?」

けい子「まあね、ショパンとか、有名な作曲家の曲を弾いたら少しは楽なのかもしれないけれど、あの子はどういうわけかメンデルスゾーンの曲にこだわっていて。」

杉三「いや、逆に面白いと思う。それより、なんで厳格なる変奏曲を弾いて、あんなに怒っていたんですか?」

けい子「いや、時々うるさくて寝れないってクレームが来たりしたから。受験の時は一晩中弾いたりしてたのよ。」

蘭「受験?ああ、音大ですか?」

けい子「そうなのよ。」

杉三「どこの大学?」

けい子「ああ、武蔵野よ。」

杉三「すごい!」

けい子「いえいえ、すごくなんかないわ。」

杉三「それだもの、うまいわけだ。」

蘭「杉ちゃんさ、大学の名前を聞いただけで、うまいなんて言えないよ。大学は大学でもピンキリなんだから。」

杉三「そうかな?」

蘭「そういうところは気をつけな。今日は長居してすみません。ありがとうございました。」

杉三「いくぞーんにまた来るからって言っといて。」

けい子「わかりましたよ。」

杉三「じゃあ、失礼します。」

二人、軽く会釈して、帰り道につく。

蘭「あんなに長居していたら、いくらなんでも迷惑だ。次は長居をするなよ、杉ちゃん。」

杉三には聞こえなかったらしい。


練習室

杉三たちは、翌週も合奏団そらの練習に加わっていた。もう、抒情歌ではなく、メンデルスゾーンの三つのモテットを歌っていた。

男性「杉ちゃんがいてくれると安心するよ。思いっきり声を出せるように、誘導してくれるからな。」

女性「そうよね。なんか引っ張り役みたい。」

女性「きっと、堀内さんと合唱させたらうまいんじゃの?Time to say goodbyeとかさ、歌えるでしょ。」

女性「どう、堀内さん。今度の定期演奏会でやってみてよ。」

けい子「いえ、私、脱退しようと思っているんです。」

女性「脱退?」

男性「だって一番歌える人じゃないか。抜けたら根無し草の合唱団になってしまうぞ。」

けい子「ほかにうまい人は、たくさんいるでしょ?」

結衣「けい子さん、どういうことですか?この大事な時にどうして脱退なんかするんです?」

けい子「ええ。家庭の事情が変わったからです。」

結衣「せめて、本番には出場してくださらない?」

けい子「とてもできません、家族に問題があって。」

結衣「家族?だって息子さんと二人暮らしなんでしょ?それに、息子さんも音大を卒業しているんだったら、社会人としてやっておいででしょうに。息子さん、今いくつ?」

けい子「38ですけど、、、。」

結衣「だったら大丈夫、多少体が思わしくないとしても、その年では十分やり直しがきくわよ。」

けい子「そうなんですけど、家庭の事情が。」

結衣「そんな口実はいらないわ。やりたくないだけじゃないの?だったらいうけど、みんな必要としているんだから、それをよく考えてから脱退してね。」

けい子「はい、わかりました、、、。」

その日の練習は終了した。

杉三「じゃあ、いくぞーんに会いに行こう。」

けい子「いや、今日はどうしても話さなければいけないことがありまして。」

杉三「誰と?」

けい子「ある人と、です。」

杉三「いくぞーんはどうしてる?」

けい子「一人で寝ているんじゃないですか。」

杉三「だったら一緒に行きたいな、独りぼっちで寂しいだろうから。」

けい子「そういうわけには、、、。」

蘭「杉ちゃん、少し気づかいしたら?大事な話なのかもよ。」

杉三「どこで話し合うんです?」

けい子「ええ、どこかのレストランで、、、。」

杉三「だったらなおさら会いたいな。本当に寂しいだろうから。」

蘭「杉ちゃんはどうしてそういう発想になるんだろう。大事な話があるのなら、邪魔にならないように僕らは退席するのが当たり前なんだけど。」

杉三「でもさ、独りぼっちって、本当にかわいそうだもの。それに、一人で放置していたら、お母さんも気が散って、話し合いがうまく進まないかもよ。そうしたら、誰かがいてあげたほうがよっぽど安全だし、楽しいし。」

蘭「その発想、どこから来るんだか、わからないよ、杉ちゃん。」

杉三「まあいいさ。細かいことは気にしないの。さあ行こう。」


育蔵の家。

けい子がドアを開ける。

けい子「あれ、何かしらこのにおい。」

杉三「ケーキのようだけど?」

けい子はさっと顔を変え、部屋に飛び込んでいく。

けい子「何をしているの?」

ダイニングテーブルには、おいしそうな料理が並んでいて、オーブンの前に育蔵が車いすで待機していた。

玄関

杉三「いい匂いだね。いくぞーんは料理の才能もあるんだなあ。でも、お母さん、なんであんなに血相をかえて、、、。」

声「なにばかなことしてるの!」

声「いや、おもてなししようかと、、、。」

声「布団で寝ていろと、あれほどいったのに!」

声「いや、体調は悪くないよ。」

声「それでもだめなの!あんたがこんなことをするから、誰に迷惑がかかるのか、しっかり考えて過ごしなさい!」

蘭「帰ろうか。」

しかし杉三はどんどん中に入ってしまう。

杉三「おいしそうな匂いだねえ!僕らも食べさせてよ。すごい、ローストチキンまで作れるとは。僕たち、料理を食べますから、早く話し合いに行ったらどうですか?」

確かにローストチキンが置かれている。と、同時にオーブンがなった。

杉三「ほら、ケーキできたじゃん。早く出さないとまずくなるよ。」

育蔵は、オーブンのドアを開けケーキを取り出す。いわゆる、ガトーショコラと呼ばれるものである。

杉三「大人っぽいケーキだね。あ、もしかしてさ、今日は誰かの誕生日?」

育蔵「お母さんの、、、。」

杉三「お母さんだそうです。」

けい子「かえって有難迷惑だわ、、、。」

杉三「わかりました!大事な話に行ってきてください。ケーキとローストチキンは、僕らがいただいて、余ったら、たっぱで持って帰ります。」

けい子「そうさせてもらいます!」

と、そそくさと出て行った。

杉三「さあ、気にしないで食べようよ。蘭もこっち来なよ。まったく、世の中には、ああいう母親もいるんだな。まったく。これじゃあ、かわいそうだ。箸を貸して。」

育蔵「割りばしでいい?」

杉三「うん。全然かまわない。じゃあ、いただきまあす!」

と、勝手にパスタを食べ始める。

杉三「うまいなあ。どっかのレストランで食事してるみたいだよ。こんなパスタが作れるなんて、お母さんも幸せなのに気が付かないんだねえ。このお肉もすごくおいしい。なあ、蘭も食べなよ。おいしいよ。」

蘭「いいんですか?」

育蔵「いいですよ。食べてくれたほうが料理も喜ぶでしょうから。」

蘭「いただきます。」

と、育蔵に割りばしをもらって、パスタを口にする。

蘭「これは、確かにおいしいです。びっくりしてしまいました。正直、もったいないような気もしますね、、、。」

育蔵「若いころは、男のくせに料理なんかって、よく怒られていましたけれどね。」

蘭「いやいや、杉ちゃんのいうように、レストランで食べる料理のようです。料理学校に行ったら、もっと変わったかもしれないのに。お母さまがああして怒った理由がわかりません。」

育蔵「ほんとは、あるんですよ。別れた父が、料理の仕事をしていたので、母はそれがいやなんですよね。」

蘭「なくなってしまったのですか?」

育蔵「いえ、そんなことはありません。まだ生存ですよ。でも、養育費の支払いをしなかったから、母は徹底的に馬鹿にしろと僕に言いました。でも、僕は父から習った料理がたくさんあって、父と一緒に料理をしているときの記憶はしっかりと残っています。この、ローストチキンだってそうです。父が、レシピを教えてくれて、、、。」

杉三「お母さま、いま誰と話しているんですかね。」

育蔵「さあ、、、。なんとも言えませんね。」


喫茶店。けい子が、ある男性と話している。

けい子「お願い、明之さん。」

男性「なれなれしく呼ばないでくれ。せめて、佐藤さんにしろ。」

けい子「どうか、お願いします。本当にお金がないの。」

明之「悪いけど、お前には金は出せないよ。俺は、お前の家の不純物ではないんだからね。お前は自分でそう言ったじゃないか。」

けい子「そんなのは、もう大昔のことじゃないの。私の父も母も他界したのは知っているでしょ?だから、もう関係ないのよ。お願い、でないと私たちの生活がなくなるわ。」

明之「だって、育蔵が働けるようになったのではないか?」

けい子「それができたら、呼び出しはしないわ。」

明之「じゃあ、あの時、俺が意見を出したのに、なんで取りやめにしたんだ。お父さんもお母さんも強すぎて、返事さえもできなかったじゃないか。」

けい子「それは、しかたなかったじゃない。でも、もう二人ともいないのよ。」

明之「俺は、音楽を否定したわけじゃない。ただ、かわいそうに思っただけだよ。育蔵は生まれつき病弱で、ピアノだって少ししか弾けないのに、お前は偉い先生につかせて、絶対に一流のピアニストになるからって、聞かなかったじゃないか。」

けい子「でも、音楽の道に進みたいといったのは、あの子なのよ。」

明之「そういったかも知れないが、音大に行った代わりに、一生介護が必要な体にさせたのは誰だ!それをよく考えろ。まったくお前も身勝手だな。お父さんとお母さんに勝ちたいだけで、自分の息子を利用するなんて、大人として失格だ。もし、お父さんとお母さんに勝つのなら、お前が何か大きな事業を作るとかしろ。育蔵はお前の白昼夢の道具ではなく、ちゃんとした人間なんだぞ!」

けい子「わかったわ。もう何も言わないから、お金だけ貸して!」

明之「そんなわがままは通るはずはない。協力はしないぞ。育蔵の治療費はお前が出せ。」

と、喫茶店を出て行ってしまう。


一方

杉三「ああ、おいしかった。ごちそうさま。」

蘭「でも、全部食べちゃっていいんですか?お母さまの誕生日なんでしょ?」

育蔵「いえ、いいんです。母の誕生日を祝うほど、余裕がないってよくわかりましたから。」

蘭「何かわけがあるんですか?まあ、僕らが聞いても何もないか。」

育蔵「ええ、悪いのは僕なんです。」

杉三「なんでいくぞーんが悪いの?」

育蔵「話せば長くなりますけど、、、。」

杉三「聞かせて。」

育蔵「ええ、僕はご存知の通り、音楽大学へ行きましたが、その結果として、このように体を壊してしまいました。音大で、母が期待していた賞金の試験に落ちたんです。その賞金を受け取ると、返還義務はないし、学費として与えられるんですけれども、、、。それを僕は取り逃がしてしまって。そこから、母はあのようなセリフを言うようになりました。」

杉三「つまり、期待外れだからだったんだね。」

育蔵「僕の力不足もあるんです。」

蘭「ほかのご家族は、どんな反応だったのですか?」

育蔵「ええ、大学に進むとき、父は唯一反対しました。音楽は、役に立たないとは言わないが、病弱だった僕に、もっと生きるのを楽にしていくのを学べる大学へ行けと。具体的に何学部とは言いませんでしたけど。一番期待していたのは母でした。」

蘭「おじいさまや、おばあさまは?」

育蔵「ええ、もう時代が変わったから、好きな勉強をすればいい、という態度でした。母はそれをチャンスだと受け取って、僕にピアノを弾かせました。母は子供のころ、祖父と祖母に大変厳しく育てられて、その祖父母が、僕にたいしてそういったものですから、一気に怒りがわいたんでしょう。」

蘭「つまり、お母様は、」

育蔵「大学に行かないで働かされたから、きっと憎かったんだと思いますよ。」

蘭「それでお母様は期待していたんですね。じゃあその賞金に落ちたとなれば、」

育蔵「ええ。すごく落ち込んで、しばらく何も言わないで寝込んでいたほどです。それから、何かするにも投げやりになって、ご飯も何も作れなくなって、父は、そのせいで家を出ていきました。」

蘭「じゃあ、今の収入は、、、。」

育蔵「父の仕送りです。そんな中ですから、ローストチキンなんて作らないほうがよかった。」

杉三「いくぞーんのせいじゃないよ。」

育蔵「いえ、悪いのは僕です。すべては僕のしでかしたことです。」

杉三「そんなことないよ。だって君が、奨学金を取りたかったわけじゃない。それは、お母さんの野望だからね。そういう人に限って、自分は美しいことをしていると、思い込むものなんだよね。あたりも砕けもしていないひとがそうやって威張るから、だんだんおかしくなっていくんじゃないかな。そうじゃなくて、あたって砕ける人がもうちょっと高く評価されてくれればそれでいいのに。そのトリックがわかったら、いままでのことは何だと思うかもしれないけれどね、新しい自分を探すための出発点になるんだよ。」

育蔵「でも、大学に行ったのは僕だし、」

杉三「いいのいいの、大学へ行って喜ぶ人なんてね、たいしたことないの。

どこ大?なんて聞く人は、ある意味人種差別をしてるよ。」

育蔵「そうなんですか?」

蘭「こればかりは、杉ちゃんのほうが正しいと思います。僕の所へ刺青の依頼をする人には、さっき杉ちゃんが言ったトリックに引っかかって、苦しんでいるゆえに、申し込みをする人も多いですよ。僕もそういう人たちに彫りながら、一生懸命日本の美意識を語っていますけど、、、。でも、通用しないのが現代だから、刺青はなくならないんですよね。」

杉三「蘭、久しぶりにいいこと言う。」

蘭「だってほんとだよ。話を聞くと、ああ、かわいそうだなあって思う人はすごく多いから、、、。まあ、言ってみれば、若い人は誰のために生きているか、わからなくなっているのでしょうね。きっと、杉ちゃんが言ったそのトリックは、今でも多くの偉い人たちが口にしますが、その通りに行かないってことを、生徒とか学生のほうが先に知ってますよね。」

杉三「だから、僕も、蘭も、仲間だよ。」

育蔵「ありがとうございます、、、。」

と、目をタオルで拭う。

杉三「今度はさ、観光地巡りでもしよう。きっと楽しいよ。」

蘭「近場であれば、タクシーを貸し切りにしてもいいですね。」

育蔵「ぜひ、連れて行ってください。」

と、また涙をふく。

杉三「泣かないでよ。僕みたいな人が、何の役にもたたないの、よく知っているでしょ。」

育蔵「そんなこと、言わないでください。だって、そんな発言してくれた人は、今まで一度もなかったんですから。」

蘭「一度もないんですか?学生時代にはあったでしょう?」

育蔵「学生時代は友達が一人もいないんです。」

蘭「いないんですか?」

育蔵「ええ。きっと、僕の声を覚えている人はいないんじゃないかな。同級生に。」

蘭「そんなに?」

育蔵「ええ、大学に行けば友達はたくさんできる、だから、今は一生懸命ピアノを練習していればいいって、母が言っていました。僕自身もそれを期待していたけれど、全然ダメでしたね。唯一、思い出に残っているのが厳格なる変奏曲なんですよ。」

杉三「どんな思いでなんですか?」

育蔵「とても尊敬していた教授がいたんです。もうなくなってしまいましたけど、、、。僕がもう少し出会うのが早かったら、救われたかもしれませんが、僕が習いだして、一年もしないうちに亡くなってしまいました。ついたとき、もう、お体悪かったから。」

杉三「そのときに、厳格なる変奏曲を習ったの?」

育蔵「はい。そうですよ。母はとても頼りない人だといい、厳格なる変奏曲をあんなに綺麗にひいてはいけないと、よく言いましたけどね、僕はあの曲を、よく言われるように怒りの塊のように弾くのは好きじゃないんです。だけど、みんなそういう演奏をするもんだと言ってました。でも、その教授だけが、僕の解釈、と、いうより勘違いかもしれませんが、受け入れてくれたんです。」

杉三「なるほど。だから厳格なる変奏曲があんなにきれいだったのか。理由がはっきりわかったよ。僕も、あの曲はあんなにうるさく弾くべきなのかなって、疑問だったから。」

蘭「特に、女の人はそうなりやすいからなあ。」

杉三「今度、コンサート聞きに行こうよ。観光地巡りもかねて。」

蘭「杉ちゃん、読み書きできないのにどうやってコンサートの情報を得るんだ?」

杉三「ポスターだ。ポスターにピアノの写真でもあれば、ピアニストさんだなって大体わかる。」

蘭「でも、厳格なる変奏曲をやってくれるとは限らないけど。」

杉三「読んでもらえばいいよ。いくぞーんが外へ出るきっかけになればいいんだ。」

蘭「杉ちゃんは、そういうところにはなんで無頓着なんだろう、、、。」

杉三「どうでもいいことはどうでもいいの。竹島先生に電話してよ。お知り合いのピアニストさんで、近々コンサートをされる方はいませんかって。」

蘭「じゃあ、番号だけ回すよ。きっと今頃はレッスンとかで出れないと思うぞ。」

と、スマートフォンをダイヤルする。

声「はい、竹島です。」

蘭「ああ、いまおけいこ中ですか?」

結衣「いえいえ、ちょうど終わったところよ。」

蘭「じゃあ、杉ちゃん、杉三さんが、ききたいことがあるみたいなんで、変わってもいいですか?」

結衣「いいわよ。時間あるし。」

蘭は杉三にスマートフォンを渡す。

杉三「あ、突然かけてすみませんでした。あのですね、いくぞーんと一緒に、ピアノのコンサートに行きたいんです。それで、先生のお知り合いの方で、だれか近々コンサートされるピアニストさんはいませんか。え、いるんですか!」

結衣「すごくおじいさんだから、あんまりおもしろくないかもしれないけど、一人いらっしゃるわよ。今度の日曜日よ。時間は、一時から。場所は、宮島公民館。どう?」

杉三「おじいさんって何歳くらい?」

結衣「もう、八十は越しているはずよ。」

杉三「じゃあ、円熟してるよね。なんていう方ですか?」

結衣「中村辰夫先生。」

育蔵「え、中村辰夫先生が来るんですか?」

杉三「知ってるの?」

育蔵「なくなった教授の弟さんです。教授の名前が、中村郁夫だから。」

杉三「わかりました。じゃあ、三枚チケットをお願いします。ああ、一枚四千円、勘定ができないので、安いのか高いのか、わかりませんけど、このあと蘭にかわるから、彼に支払ってもらうことになります。じゃあ、蘭と変わりますね。」

蘭は、スマートフォンを受け取り、

蘭「ああ、お電話変わりました。すみません先生、勝手なこと言ってばかりで。で、支払いはどうしましょうか。ああ、二千円でいいんですか。申訳ありません。振り込みかなんかでいたしましょうか?」

結衣「いいえ、当日取り置きでいいと思うわ。私が、中村先生にはなしておきます。」

蘭「はい、わかりました。」

杉三「あ、演目を聞いて。」

蘭「すみません、演目は何かと、」

結衣「えーと、厳格なる変奏曲と、交響的練習曲だと思ったわ。それも聞いてくるから。」

蘭「ええっ!テレビドラマじゃあるまいし、なんで、、、。」

結衣「なんでテレビドラマなの?」

蘭「今、その曲の話をしていて、、、。」

結衣「まあ、偶然というものは、勝手にやってくるもんよ。楽しんで聴いてきなさいよ。」

蘭「そうですね、、、。」

結衣「じゃあ、先生に伝えておくわ。今から私、でかけるから、それではね。」

と、電話を切る。

蘭「あ、あの、、、。切れちゃったよ。」

杉三「いいじゃないか。彼の、師匠の弟さんだもの。敬愛していた師匠のね。」

蘭「ほんとに偶然というものは、恐ろしい。」

杉三「まあ、音楽やってると、世界が狭くなると、青柳教授が言っていたからなあ。本当だったんだ。」

蘭「どうします?行ってみますか?」

育蔵「ええ、よろしくです。」

蘭「わかりました。」

と大きなため息をつく。

杉三「蘭、心配することないよ。いくぞーんはこんなにうれしそうじゃん。」

蘭「そうなんだけどねえ、、、。」

杉三「お母さんのことは、何とかなるさ。」

育蔵「今度の日曜は、母は、また相談に行くみたいですから。」

杉三「それならなおさらいいな。絶対に行こうね!」


当日の朝。

けい子「今日は顔色がいいじゃない。」

育蔵「うん、いい夢を見させてもらったの。」

けい子「じゃあ、お母さん、出かけるから、あんたは待機しててね。くれぐれも厳格なる変奏曲はひかないでね。」

育蔵「わかったよ。」

けい子「じゃあね。」

と、部屋を出る。車の音がして、けい子は出かけていった。育蔵は、スマートフォンをダイヤルした。

育蔵「今母が出かけていきました。夜まで帰ってこないので、迎えに来てください。」

蘭「了解です。いくよ杉ちゃん。」

数分後、タクシーがやってくる。育蔵は運転手に介助してもらいながら、タクシーに乗り込む。

運転手「三人そろってコンサートですか。いいですね。」

育蔵「それにしても、こういう人間を、相手にしてくれる商売もあるんですね。」

運転手「うちは、起業してもう十年以上になりますよ。」

育蔵「十年前から、こんな商売が?」

運転手「はい。好評をいただいておりますよ。お客さんは初めて?」

育蔵「ええ、まったく初めてです。存在すら知りませんでした。こうして、誰かと一緒にコンサートなんて、何年ぶりでしょう。このような重病人ですから、近所に買い物さえ行ったこともなかったのです。」

運転手「いやいや、そういう人にも、楽しむ権利はありますよ。そのためにこのタクシーを起業したんですからね。障碍者が友達とコンサートに行ってはいけないなんて言う法律はどこにもございません。それさえ頭にいれれば、今は便利な道具がいろいろありますから、どうぞ使ってください。」

育蔵「時代も、かわったんですね。こんな便利なサービスがあるなんて。」

杉三「手配するなら、蘭に聞くといいよ。いろいろ教えてくれるから。きっと、一人で買い物に行くこともできるよ。できますよね、運転手さん。」

運転手「はい。どんなことでもお申し付けください。お電話くださればお迎えにあがります。」

杉三「よかったね。新しいお客さんがみつかった。」

運転手「はい、もう着きますよ。」

杉三「ありがとうございます。」

蘭「じゃあ、お代払って出よう。」

タクシーはコンサートホールの前に停車する。運転手の介添えで、三人はホールに入れてもらう。

蘭「じゃあ、お帰りも電話しますので、迎えに来てください。お願いします。」

運転手「わかりました。」

三人、ホールの中に入る。


コンサートは大盛況。まず交響的練習曲から始まり、最後の曲として厳格なる変奏曲が演奏される。終わると、とてつもない拍手が鳴り響き、ピアニストは最敬礼をする。


ロビー。

三人がホールを出ると、一角に、すごい行列ができている。

杉三「サイン会でもしているのかなあ。」

会は終わったらしく、行列は離れる。

声「堀内さん。」

育蔵「僕のことですか?」

と言って後ろを振り向くと、そこには出演したピアニストが立っている。

育蔵「中村教授の、、、。」

中村「ええ。中村郁夫の弟の辰夫です。」

育蔵「どうして僕だとわかっていらっしゃるのですか?」

中村「ええ。兄がなくなる前に話していました。堀内育蔵という人がいて、彼を一人にさせたくないって。彼は、今まで教えてきた中で、一番印象に残る生徒だった、だから一人にさせたくないんだって。結局兄はなくなりましたが、僕は、兄がなくなる前に一度でいいから来てほしいと願っていたのです。」

育蔵「申訳ありません。そこまで見ていてくださるのなら、もっと勇気を出して、教授に正式に入門すればよかったですね。それなのに、僕はなぜ、悪いほうへ行ってしまったのでしょう。きっと、教授に入門していれば、この体にはならなかったって、心理士の先生が言っていたことがあります。本当に、僕は、とんだ間違いを、、、。」

中村「いやいや、これで兄にうれしい報告ができますよ。若いうちは、叱られるほうにどうしても重きを置いてしまうものですよ。兄もそういっていました。だから気にしなくていいと。それよりも、前を向いて一生懸命生きていくことが、一番なのです。お体がよくなってきたら、また厳格なる変奏曲を、いくらでも弾いてください。兄のことだから嘘は申しません。きっと、兄は、もう一度厳格なる変奏曲を弾いてくれることを、ずっと待っていると思いますよ。今は、お体がお辛いと思いますが、まだお若いのだから、いくらでもやり直しはできます。あなたは、間違ってはいません。あんな鬼のような教師につき続けていたらあなたは、この演奏会にきてくれることさえできないはずです。だから、体がこわれることによって、神様が鬼教師から引き離してくれたのだと思いなさい。そして、厳格なる変奏曲をいくらでも引けばいい。きっとやり直しできますよ。お若いのだから。」

育蔵「ありがとうございます。ずっと僕は、あぶはち取らずのような結果になってしまって、申し訳ないと思っていたのです。でも、先生の言葉を聞いて、もう一度やってみようという気になりました。これでもう、」

中村「罪の疑いは晴れたのです。あなたは何も罪はありません。自身の音楽を、精一杯やっていけばいいのです。もし、音楽をやめてしまったら、私も悲しいし、兄も悲しむでしょう。また、ここでリサイタルが予定されていますので、いらしてください。そして、いつしか一緒にやれるのを楽しみにしています。」

杉三が大拍手をする。

杉三「おめでとう!交渉成立だね!」

中村が、育蔵に右手を差し出す。

杉三「おめでとう!」

育蔵が右手を差し出すと、中村は強く握りしめる。

杉三「よかった、、、。」

と、涙を流す。

蘭「杉ちゃん、君がないてどうするの。もうすぐタクシーが来るよ。帰らなきゃ。」

杉三「いや、いくぞーんが前向きになってくれたから、うれしくてさ。」

蘭「なんで他人の喜びを見て泣くんだ?」

杉三「いや、わからない。」

中村「面白い方ですな、こちらの方は。長居させてしまいすみません。また、ここでリサイタルをやる予定もありますので、近くなったらお伝えしますよ。兄が、残してくれた住所録がまだあるのですが、それに住所と電話番号が、しっかり書かれておりました。では、またお会いしましょうね。」

育蔵「はい、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。失礼いたします。」

と、涙を流しながら、最敬礼し、三人は中村に見送られながら、ホールを後にした。


一方、けい子は、粗末なカフェに座っていた。向かい合って明之がいた。

明之「いい加減にしてくれ。なんでそんな大金を払わなきゃいけないんだ。そんなものは、君が調達すればいいじゃないか。育蔵を病気にさせたのは、君の責任でもあるんだぞ。」

けい子「あなただって、育蔵の父親でしょうが!」

明之「それなら言わせてもらうが、なんでいつもお父さんのいうことに従って、俺の意見はぶち壊しにしていたんだ。父親らしくしろと言われて、育蔵に良い病院を探したりしたが、お父さんが別の病院を提案して、僕の意見はみんな白紙にされてしまった。お父さんが提案しているからしょうがないと、君はそういったが、せめて対等に話し合う時間があってもよさそうなものだ。あの家で暮らしてみて、俺はただの金の製造マシーンにすぎないと、いやというほど知らされたから、ことごとく愛想が尽きてしまった。俺はもっと、俺の意見も聞いてくれる家なら入ってもいいが、単に金の製造さえしていればよく、家族のことはすべて年寄りが決めるような家は、一緒になりたくない。お前は、それを知らなかっただろう。まあ、実の娘だからしかたないとも考えたが、それにしても度が過ぎている。お父さんとお母さんがなくなって、お前は社会勉強するよい機会だっただろう。その教訓をしっかりと学んだら、俺のもとへこい。それまでは一切手は出さないからな!俺が手を出さなくても、お前には、お父さんやお母さんから学んだことがたくさんあるだろう!その手をすべて尽くしてから、俺のところへ来い!もう、二度と連絡してくるな!」

と、伝票を放り投げて、喫茶店を出て行ってしまう。あまりの大声に、喫茶店のマスターが、いやそうな顔をしている。けい子は無言で金を払い、喫茶店を出て行った。


帰り道。もう暗くなっていた。簡単な買い物を済ませると、けい子は家の近くに来た。

また厳格なる変奏曲が聞こえてきた。けい子は、怒りに任せて玄関のドアを開けた。

けい子「何をしているの!」

育蔵「お母さん、僕、もう一度やり直そうと思うんだ。」

けい子「やり直すって何を?」

育蔵「もう一度、音楽学校に行く。もちろん、お母さんに負担になってほしくないから、体もちゃんと直して、ある程度は自分で稼ぐよ。それに今の大学は、テレビを通して授業を受けたりできるから、そうすればまた勉強できるし。」

けい子「いい加減にしなさい!うちにはお金がないのよ!あんたの治療費でお母さん、どれだけかかってるかわからないでしょ!それなのに、またやり直せるって、子供みたいなことを言って!体力もないし、歳もとしなんだから!」

育蔵「でも、中村先生が、習いたくなったらいつでもきていいって、、、。」

けい子「中村先生はもうなくなったし、あんな高い月謝、うちでは払えないわ。」

育蔵「それ、おじいちゃんと一緒だね。おじいちゃんはいつもうちにはお金がないって言っておきながら、本当は自分のものにしてる。」

けい子「現実を見なさいよ!現実を!」

育蔵「おんなじセリフだ。いつの間にか、おじいちゃんそっくりになったんだね。」

けい子「働いていると、そうなってくるものよ!」

育蔵「お母さんは、どう考えてるの?」

けい子「その通りよ!」

育蔵「でもさ、お母さんはおじいちゃんに、僕を一流のピアニストにさせるといったよね。僕、それは覚えてるよ。そしてお父さんは、別れる前にあいつはお父さんに何とか勝ちたいんだって、僕に言ってたよ。その約束、忘れたの?一流になるのなら、何でもしていいってお母さん言ってたよね?それも忘れてるの?」

けい子「状況は変わってるわ。」

育蔵「お母さんは、僕が中村先生に褒めていただいたと報告しても、そういうの?」

けい子「あんたは誰のおかげで今日まで生きてきたのかを考えなさい。そうして、自由と自分勝手の違いを確認しなさい。」

育蔵「お母さんは、自分の道を自分で決めなさいと言ってたよね。でも、こうして考えたら、そんなのはだめって、跳ね返すの?自分の道が決まったのに?」

けい子「いい加減にしなさいよ!本当のことを言うとね、あんたのせいで、うちの経済がどうなっているか、見せてあげようか!」

と、預金通帳を投げつける。

けい子「あんたが、大学へ行って、卒業して働いてくれるから、お母さんは、その通りだと思っていたけど、あんたは病気になって、一度も働いたことがないわよね!ほかの人はね、お母さんぐらいの年になると、もうお孫さんがいる家庭のほうが多いのよ!それなのにうちはまだまだ働き続けることを強いられるなんて、例外どころか、身分が低いことにもつながるの!いい、働いていない人間が家にいることによって、私がどんな差別を受けてきたのかを考えなさい。そして、なぜ私を人種差別に追いやったのか、追いやったのは誰なのかを考えなさい!そうして、罪を自覚して、普通の人たちより、謙虚に生活しなさい!いい、あんたは、私が想定した、生活をすべて奪ったの!そんなこともわからないで、また厳格なる変奏曲をひいて、やり直したいなんて、罪は罪でも程がある!まだ反抗する気があったなら、私の前から消えなさい!」

育蔵「わかりました。」

けい子「わかったって何が?」

育蔵「お母さんが望むなら、そうします。ただ、僕はごらんのとおり、一人で移動できない体なので、手伝ってください。それが、お母さんの望みなら。僕はお母さんが好きですから、、、。」

けい子「育蔵、、、。」

初めて見る、壮絶な美しさであった。

育蔵「お母さんにとって、それが一番の望みなのなら、、、。」

けい子「わかったわ。」

育蔵「こんなことになっていたなんて全く気づけず、申し訳ありませんでした。お母さんの望みをかなえますから。お母さんはいい人を見つけて幸せになって。」

と、丁寧に母親に通帳を手渡した。


翌日。

日が昇った。さわやかな秋晴れであった。しかし、昨日雨が降ったらしく、

大川の水位は高かった。釣り人が何人かやってきて、いつも通りに竿を下ろそうとすると、

釣り人「おい、人が浮いてるぞ!」

そこには、白い経帷子を着た、男性の遺体。目は閉じ、合掌するように両手を合わせていた。そして近くに一台の車が水につかっていた。

ちょうどそこへ、杉三と美千恵が、買い物に向かうためにやってきた。

杉三「なんだか、人が多いな。昨日、あんなに雨が降ったから、土砂崩れでもしたのかな。」

美千恵「そんなことないわ。雨はふったけど、警報が出たわけじゃないし、土砂崩れがあるのなら、避難指示とかでるはずなのに、それも、全然なかったわよ。」

杉三は、その人垣に行ってみた。釣り人たちは、その男性の遺体を川辺に引き上げていた。

釣り人「こりゃ、もう息をしてないな。身元が分かるものは何もないのか。」

杉三「いくぞーんだ、いくぞーんだよ、間違いなく!あの、メンデルスゾーンの厳格なる変奏曲が大好きないくぞーんだ!」

釣り人「厳格なる変奏曲?あれは相当うまくなければ弾けないと、うちの子は言ったぞ。」

釣り人「そんなマニアックな曲を、、、?も、もしかして、堀内さんの息子さんか?このあたりで音大いったのは彼だけじゃないか?」

杉三「はい、間違いなく、彼はいくぞーんです。いくぞーん、どうしたの、どうして経帷子なんかきて、、、。だって昨日のリサイタルであんなにうれしそうな顔をしていたのに、どうして死んじゃったんだ、やり直そうと思ったんじゃなかったの!嘘だったのか!」

釣り人「ああ、やっぱり、堀内さんの子だ。」

釣り人「おーい!こっちに女の人が倒れているぞ!」

美千恵も彼女のもとへ駆け寄る。

美千恵「彼女はまだ息があります。早く救急車を。」

声「その必要はありません!」

弱弱しかったが、けい子の声だった。

けい子「私が、殺害しました。そして、私も一緒に死ぬつもりでした。」

杉三「つまり、お母さんのほうが生き残ったのか。いいきみだ、思い知れ!」

と、けい子に殴り掛かる。

美千恵「あんたの気持ちもわかるわ。華岡さんに叱ってもらいましょう。」

釣り人「そうだよ。そのほうがいい。息子を殺すなんて、母親として失格だ。」

けい子「申訳ありませんでした、、、。」

美千恵は、静かにスマートフォンを取り出して、警察に電話する。


警察署、取調室

華岡「本当のことを話してください。でないと、精神鑑定に回されることになります。」

黙ったままのけい子。

マジックミラーで、ほかの刑事たちが、取り調べを観察しているが、一向に進展はないので、イライラしている。

ドアが開き、署長が入ってくる。

署長「これ以上、拘留を続けると、裁判所からお咎めが来てしまうぞ。」

華岡「一言でもしゃべってくれたらうれしいのですが、、、。」

けい子「わかりました。本当のことを話します。そのためには、影山杉三という人を連れてきてください。」

華岡「よし、わかった。杉ちゃんを連れてくる。」

と、スマートフォンを取り出し、杉三の家へ電話する。

華岡「ああ、美千恵さん、あのですね、けい子が杉ちゃんに会いたいといっているのですが、、、。」

声「わかりました。杉三もふさぎ込んではいますが、何か役に立つのなら、行かせます。」

華岡「念のため、お母様も同席をお願いできませんか?」

声「ええ、わかりました。すぐに連れていきますので。」

華岡「すみません。今迎えに行きます。」


杉三の家、一台のワゴン車がやってくる。ワゴン車がやってくると、刑事たちが、警察署の前で、杉三と美千惠を降ろす。


取調室

華岡「失礼します。杉三さんを連れてきました。」

杉三「いくぞーんのお母さん。」

けい子「杉三さん、、、。」

杉三「どうして、いくぞーんがなくなってお母さんだけが、助かったんだと思いますか?」

けい子「どうしてって、、、。単なる偶然にしか見えませんけど。運が悪かったとういうか、、、。」

杉三「そうかな。」

けい子「ええ。」

杉三「本当は、お母さんに生きていてもらいたかったからじゃないですか?」

けい子「本当は、二人そろって死ぬつもりでしたから。」

華岡「それは本当なんですか?今までそんなこと、一回も話してくれませんでしたね。」

けい子「ええ。浅瀬に乗り上げて、ずっと子守唄をうたっていたんです。」

華岡「子守歌、ですか?ちょっと待ってください。事件の初めから終わりまで、しっかり話してくれませんか?今まで何回も同じ質問をしましたが、答えを出してくれませんでしたね。」

杉三「僕にも、話してください。このままだと、いくぞーんも浮かばれない。」

けい子「でも、、、。」

美千恵「話せないなら、女として失格よ!」

けい子「わかりました。じゃあ、話します。あの日、育蔵が杉三さんたちとコンサートに行ってきて、とても楽しそうに話していたので、私は、このままだと、本当に家が破産してしまうのではないかと恐れて、、、。」

美千恵「どうしてそんなにお金がいります?」

けい子「だから、育蔵が音大に行ったとき、膨大な奨学金が必要だったのです。卒業してしっかり働いて、自分で働いて稼ぐことを約束させて、私はあの子を音大に行かせました。でも、それどころか、わずか半年で、育蔵の音大生活は終わってしまって、膨大な借金だけが残ってしまって。あの子の体を維持するにも、お金がどんどん必要になって、もう、私はあの子の、下僕なのではないかと、、、。そんな生活はもう嫌で仕方なくて、、、。」

美千恵「不満なのもわかりますけれど、彼はあなたの息子さんなんです。それを何とか、しようとするのが親ってものなんじゃないですかね。」

けい子「みんなそういいますよ!そうやって、きれいごとを言って、逃げるんです!私たちは何度もお役所にも足を運びました。でも、結局のことは、そういうきれいな言葉を使って逃げる!わからないと素直に口に出せば、もう子供じゃないんだからっていってまた逃げる!みんな、本当に困っている人を助けようなんて、これっぽっちもいわないですよ!みんな自分のことだけで、他人の厄介にかかわる気なんてまるでない!そんな状態で、命なんて必要だとは思いますか?そんな状態で、生きていてもいいなんて信じることはできるはずがないんです!金より愛のほうが大事だとか、他人が自分の道を作ることはできないとか、真剣に真剣に真剣に話せば話せば話すほど、みんなみんなみんな、逃げていくんです!馬鹿にするんです!だったら、生きる必要なんてないでしょう!殺害したっていいでしょう!そうさせてくれませんか!私だって、死刑にしてくれたってまったくかまいません。むしろ、そうして暮らすほうがありがたい。二人で、あなたたちが暮らしているのを、呪いながら見つめていますから。包丁さえ持ってきてくれれば、私はすぐに死ねますよ!邪魔者がなくなって、あんたたちもすっきりするでしょうし!さすがに、テロを起こすとか、そんなことはしませんから。自分だけ死ねればそれでいいですから、そうさせてください!そうすれば、私たちもあなたたちも、さぞかし気が楽になると思いますよ!」

杉三「確かに楽になることはできますが、少なくとも僕は、楽にはなりません。それだけは、忘れないでください。いくぞーんのことは、ずっと忘れませんし、きっと彼と一緒にコンサートに行ったことも忘れないでしょう。彼の奏でてくれた厳格なる変奏曲だって、忘れることはありません。その思い出だけは、持っていてはいけませんか?」

けい子「そんなこと、誰も覚えていないと思いますよ。」

杉三「じゃあ、僕はやっぱり、バカだったんだ。でも、馬鹿だからこそ、忘れることなんてできません。」

けい子「でもたった一人でしょ。」

美千恵「そうかな。杉三から、彼の話はうるさいくらい聞かされましたよ。彼はとてもピアノが上手で、一流のピアニストよりも、厳格なる変奏曲をうまく弾きこなすと。杉三の親友である、蘭さんも、上手だとほめていましたよ。彼の奥さんは、ピアニストなんです。彼をうちへ呼んで、演奏を聴きたい、なんて言っていました。それでもあなたは、覚えていないというのですか?」

けい子「でも、現実は、、、。」

杉三「彼の厳格なる変奏曲だって現実なんです!僕らは、いつまでもそれを弾き続けてほしかったですよ!」

美千恵「ごらんのとおり、私たちは、普通の人間ではございません。この杉三も明らかにそうです。確かに、誰かに聞いて、お返事がもらえなかったのはお気の毒でした。でも、私たちはそうじゃないってことに、もっとはやく感ずいてくれれば、きっと育蔵さんもあのような死に方をする必要はなかったのではありませんか?」

けい子「私は、、、。」

華岡「あなたの負けですよ。けい子さん。」

けい子「わかりました、、、。」

華岡「話してくれますね。」

けい子「ええ、育蔵が、リサイタルを聞きに行って、帰って来たとき、私は夫と口論した現場から戻ってきたばかりでした。育蔵があんなに明るい顔をしていて、私は、おそれの気持ちがわいてきて、、、。」

華岡「で、どういうわけで大川に飛び込んだんです?あとで調査したところ、大川の水位は80センチほどしかありませんでした。つまり、成人男性であれば、逃げることもできたのです。私たちはこれで確信をつかんだので

す。つまり、あなたが、育蔵さんを殺害したと。」

けい子「ええ、、、。私が育蔵に死にたいというと、育蔵もわかってくれたみたいで、わかったと返事をしました。私たちは、経帷子に着替えて、最後の万斉のつもりで、夕食をとり、そのまま車に乗って川に向かいました。そして、一気に飛び込んだつもりだったんですが、あろうことか、、、私はひどく浅いことに気が付かなかったのです。そのとき、育蔵が、こう言いました。」

けい子の声にかぶって育蔵の声が重なる。

声「お母さん、もういいよ。これだけ迷惑をかけたんだ。こんな重病で、もうダメって、はっきりわかってるんだから、もう、好きにしてくれ。」

けい子「私ははっとして、育蔵の頭を水の中につけました。苦しいとも、何も言いませんでした。三十分くらいして、あの子は私から離れていきました。私も、死のうと思って、水に顔を付けましたが、風が吹いてきて、中州に打ち上げられてしまいました。朝がくるまで、何時間立ったかわかりませんが、私はずっと、あの子が大好きだった、ねむの木の子守唄をうたっていました。あの子が、安らかに眠れるように。」

杉三「ああ、あの歌か。」

美千恵「そんな時に使わないでもらいたいものですわ。」

華岡「今回は、あなたのはやすぎた決断と、周りに目を向けなかったことが原因だったんでしょう。それを忘れないでもらいたいと、ほかの人にも教えてやりたい。なんせ、似たような事件が続出していますから、、、。あのね、みんな、うちだけが不幸だと、口をそろえて言いますが、本当はそうじゃないんですよ。それを忘れないでいてほしいものです。」

杉三「いくぞーんは僕たちで送ってあげます。だからもう一度、考え直してください。」

けい子「わかりました。ありがとう、杉三さん。」

華岡「検察庁から、迎えが来ています。早くしないと。」

けい子「わかりました、、、。」

と、静かに立ち上がり、顔を手で拭いて、刑事たちと一緒に取調室を出ていく。


数日後、尼寺

堀内家の墓と書かれている石塔に、花を手向ける杉三。

杉三「いくぞーん、元気かい?こっちは、だいぶあったかくなったよ。春はもうそこまで来ているね。」

蘭「杉ちゃん、亡くなった人に元気かいはないよ。」

杉三「わかってるよ。でも、なんか元気か言ってよびたいの。」

蘭「ほんとに杉ちゃんは、変わってるな。」

杉三「うん。僕馬鹿だから。でもさあ、蘭。」

蘭「なに?」

杉三「人ってさ、こうしてさ、なくなってからも、ずっとね、いつまでも名前を覚えていてもらえるひとが、一番幸せな人生だったんじゃないのかなあ。」

蘭「まあ、そうとも言い切れない部分もあると思うけどね。」

石塔の周りには、竹島を含め、多くの人が塔婆を設置していた。

杉三「馬鹿な僕にはそう見えちゃうんだ。いくぞーん、これからもずっとずっと友達だよ!」

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