世界で一番
蘭の家。
蘭「だから、僕はそうやって刺青を武器にしようと考える方には彫りません。もともとそうやって見せびらかすもんじゃないんです。」
客として来ているのは中年の女性である。
女性「でも、外国の有名人とか、こぞって見せているじゃありませんか。」
蘭「日本の刺青は見せる文化じゃないんですよ。隠しておいて、ここだと思ったときに見せるもの。だから、いつも見せびらかして、怒りを表すものでもないし、悪徳な団体の、帰属意識を見せるためのものでもないんです。そのような目的の方は、基本的に彫らないのです。」
女性「それなら、先生はなんだと思っているですか。」
蘭「多くの少数民族は、痛みに耐えることで大人のしるしだと、いいますよね。日本の刺青もそれと同じ感覚だとおもうんですよ。それが一番の目的だったんじゃないかな。もともとは。」
女性「だったら、大人のしるしとして、見せ歩いていればいいでしょ。」
蘭「違いますよ。海老原さん。例えば、桜は日本にあったものですが、チューリップは違うでしょ。桜を彫ることには意味がありますが、チューリップは日本のものではないんですから、何にも意味がありません。ただの、体に描いた絵のようなものです。それに、外国から来たものをまねしても、変な風にまねするひとが多いから、困るんですよね。」
海老原「なんだか、本当にドイツのコンペディションで一番を取ったとのかも、疑わしいわ。」
と、インターフォンが五回なる。
蘭「ああ、杉ちゃんだ。悪いけど、まだお客さんと一緒なんだ。そこで待っててくれ。」
声「蘭は、本当にコンペティションで一番を取ったよ。その体でわかるでしょ。その心労で、カラダも壊したんだし。」
蘭「杉ちゃん、余計なこと言うなよ。」
ふすまが開く音。
杉三「だって本当のことだもの。言ったほうがいいでしょ。」
蘭「だから、入るときは車輪を拭いて入ってきてよ。そのせいで床がいつも汚れて、掃除が大変なんだから。」
杉三「初めまして、蘭と友達の杉三です。」
海老原「誰ですかこの人は。」
杉三「だからいったでしょ、影山杉三。」
海老原「いくつなんですか?」
杉三「45。」
海老原「そうには見えませんわ。もっと、若いようにみえますが。」
杉三「あきめくらは馬鹿だから、そう見えるんだね。」
海老原「あきめくら。つまりディスレクシアの方ですか。」
杉三「そんなかっこいい名前じゃないよ。あきめくらはあきめくらと呼んでくれたほうが、こっちも楽だし。」
蘭「杉ちゃん、海老原さんとお話ししていたんだけどな。彫ることで。」
杉三「ああ、彫るんですか。どこに?」
海老原「それはその、、、。」
蘭「なんですか、彫りたいところも決まってなかったの?」
海老原「ええ。」
蘭「話が違う、、、。」
海老原「ただ、強くなりたいと思って、ここにきてしまっただけなんです。
ちょっと、家で事情がありまして。でも、私が来るべきところではないなと思いました。本当に申し訳ありません。」
蘭「そうだったんですか。そういうことならよしたほうがいいですよ。それに、ご家族だっているんでしょ、娘さんもいるんだし、お母さまがそんな、極道みたいになったら、娘さんも悲しみますよ。」
海老原の口元が少し震えた。
杉三「どうしたの?何かあったのですか?」
海老原「私、娘はいますけど、、、。でも、、、。」
杉三「何か事情があるのなら、今ここでお話しされてから帰ったらどうですか?」
海老原「でも、娘に知られてしまったら。」
杉三「安心してください。僕はあきめくらで、文字に書いて記録することはできません。それに、誰かに伝える電話番号も読めないし。だから、言いっぱなし、聞きっぱなし。ため込んでおかずに話してくださいな。」
海老原「いえ、もういいです。私、こんなところに来るべくきじゃないでしょ。だから、もう帰ります。先生、何円払えばいいですか?」
蘭「いいえ、単にお話をされただけで、実際彫ったわけではありませんので、お金はいりません。」
海老原「すみませんでした、本当に。もうきませんので、忘れてください
。それじゃあ。」
蘭「はい。」
と、軽く会釈して海老原は帰ってしまった。
杉三「なんだ今の人は。」
蘭「きっと、気持ちを打ち明ける場所がないんだろう。」
杉三「あのひと、どうなってしまうかな。自殺してしまうだろか。華厳の瀧にでも行って。」
蘭「杉ちゃん、めちゃくちゃなこと言うなよ。華厳の瀧なんてどこからその言葉が出たの?」
杉三「わからない。」
蘭「杉ちゃんは、偉いのか、馬鹿なのか。」
杉三「まあ、いいじゃないの。買い物行こう。」
蘭「わかったよ。」
その後、海老原美子という女性は、連絡をよこさなかった。
池本クリニック
待合室で、待っている杉三。
受付「もう、いつも言ってますが、診察時間はあと二時間も先なんです。本当になんでこんなに早くから来るんですか?」
杉三「だって、ほかの患者さんに迷惑かかったら困るでしょう。あきめくらで、何をするにものろのろしているから。」
受付「杉様、この時間に来ることも十分な迷惑だと思うんですけどね。」
杉三「だって、患者さんとの応対を商売にしているんだからいいんじゃありませんか。この待合室では、今は僕だけしかいないけど、ほかのエリアにはたくさん患者さんがいるんだし、車もたくさん止めてあるし。」
受付「本当に変な理屈をこねまわして。今いるのは、入院の患者さんだけですよ。」
杉三「じゅあなんで、僕より先に車があるんですか。」
受付「ああ、それは医療相談のかたですね。外来の患者さんと鉢合わせをすると、いろいろ問題が起こる可能性もありますので、時間をずらしてきてもらっているのです。」
杉三「なんで問題があるんですか?」
受付「だから、ここは正常に考えられない患者さんもいるわけで。衝突したら、とんでもない大げんかになったことがあったから、こうしているのですよ!」
と、目の前にあったドアが開く。
声「お大事になさってください。」
声「はい、、、。」
と、一人の女性が出てくる。
受付「終了しましたか?」
女性「はい。」
受付「では、次の診察の日を確認させていただきたいのですが。」
女性「えーと、今月は25日に。」
受付「わかりました。」
女性「じゃあ、その時に来ます。」
しかし、彼女の表情は何かおかしな雰囲気があった。
杉三「あ、海老原さん!」
女性「えっ!」
杉三「僕ですよ、僕!杉三です!」
海老原「まあ、こ、こんなところでお会いするとは、、、。」
杉三「初めて笑顔になりましたね。」
海老原「そうですか?」
杉三「ええ。以前お会いした時には見れませんでした。いったいどうしたんです?この病院に来ているとなれば、よほど何かあったとき以外、来ませんよ。」
受付「知り合いだったのですか?」
杉三「知り合いというか、親友の蘭のもとへ、お客さんとして来ていたのです。」
受付「わかりました。ではですね、杉様、二人でカフェテリアに行って、お茶でもしてくれませんか。私どもは、まだ準備ができておりませんので、ここで待たれていても、何もなりません。」
杉三「そうですね。」
受付「わかってくれたのなら、すぐに行ってください。」
杉三「わかりました。」
と、入り口をいったん出て、カフェテリアに移動する。海老原も軽く頭をさげ、彼の後をついていく。
受付「あーあ、やれやれ、この病院にカフェテリアがあってよかったわ。」
カフェテリア。
海老原「杉三さんって言ってたわよね。昔風のお名前なのに、そんな容姿をされているから、合致しなかったのよ。」
杉三「ああ、よく言われますけど、名前は一つしかありませんから。海老原さんの名前はなんというですか?」
海老原「美子。正確に言うと、海老原美子。」
杉三「わかりました。でも、なんであの時、蘭のもとに来たのですか?僕は、そうとう追い詰められているような気がして、ならなかったんです。だからこそ、刺青を入れに来たのかなって。」
美子「ええ。私自身は心を病んだわけではないけれど、、、。もしかしたら私も病んでいるのかもしれないわね。」
杉三「つまり、病んでいるのはほかの方なんですね。」
美子「ええ。私ではなく、娘なんです。もう、三十なんですけれども。いつまでたって思春期の記憶から外れなくて。親としては、そろそろいい人を見つけて、と思う時期なのに。うちの家は、そういう姿を見せることはできないのかしらね。」
杉三「どこを病んでしまったんですか?」
美子「ええ、摂食障害なんです。食べては吐き、を繰り返して。あるときなんか、冷蔵庫に入っているものも全部食べられてしまいました。それで夜中になると、家をとびだしてジョギングしたりして。全く何を考えているのやら。私たちは何もわかりませんし、どうしたらいいのかもわからないんです。どこかで太ったなと言われたわけでもないのに。」
杉三「そうなんですか。お辛かったですね。でも、娘さんを放置したりせずに、こうして病院に来れるということは、素晴らしいんじゃないですか?僕はそれに感動しました。だって、今は、入院させるために口実を作らせる商売だってあるし、施設に任せっきりにして、何もしない親だっていますから。」
美子「私は、ほめられるような親ではありません。娘がああなったことが、唯一の答えです。私は、失敗したんですよ。」
杉三「でも、ほめてあげていいんじゃありませんか?僕なんて、あきめくらのせいで、本当に、いろんな人に迷惑かけてるし。謝罪だってできないんですよ。本当に。」
美子「でも、私、精神科の先生に言われたことがあるんです。娘にとって一番始めの大人のモデルは母親で、それがちゃんとしていないから、そんな大人になりたくないっていう思いから、摂食障害になったって。」
杉三「でも、それしかできなかったのなら、善でも悪でもないと思いますよ。僕は。他人の評価で全部が決まるわけでもないと思うので。」
美子「お優しいんですね。でも、私も、本音の部分では、娘と全く関係ないところへいって、のんびりしたいくらいです。頭の中では、ああ、私、なんていうことをやっているんだ、ってわかるんですが、どうしても、帰りたくないっていう気持ちが涌いてしまうんです。」
杉三「じゃあ、僕が半分だけ、かなえてあげる。」
美子「へ?」
杉三「僕のうちで、カレーを食べてください。」
美子「カレー、ですか?」
杉三「ええ。カレーです。僕、カレーが大好きなんです。診察終わったら、僕のうちに来てくれれば。」
美子「じゃあ、、、お言葉に甘えます。」
杉三「ええ、大歓迎です。」
杉三の家。
美千惠「どうぞゆっくりしてくださいね。あの子ったら、読み書きも計算もできないくせに、カレーを作ることだけは、料理人も顔負けで。」
美子「本当に、いいんでしょうか。いきなり、上がり込んで食事とは。」
美千惠「いいんです。まあ、ほかの家と比べると、ちょっと変わったことがあるかもしれないけど。障害のある子どもの家は。」
美子「いいえ、私たちの家より、健康そうに見えますわ。」
美千惠「まあ、そんなお世辞。うちは、便利なものは何一つないんですよ。テレビもないし。パソコンもないし。あの子が、それを徹底的に嫌うから。でも、それでいいやと思っているんです。杉三が、幸せに暮らせるのが親の務めですよ。そのためだったら、ある程度は、捨てることもありだなと、思っています。」
美子「そうですか。私は、そういう親にならなければいけないと思っているのですが、長年の愛着で、それができないのです。お医者様にも言われてますけど。仕事をやめろと。でも、長年務めた会社に、どうしても愛着があって。それで、決断ができなくて。」
美千惠「でも、私たちは、子供より長く生きることは絶対にできませんから、子供が生きていく指針を示さなければいけません。だから、そのためにも、捨てることも必要ですよ。うちは、杉三が幼少のころにすぐにわかったので、すぐにこうしようああしようと動けましたが。確かに、正常と誤認して生きてきた期間が長いほど、難しいですよね。でも、やらなきゃいけない時はあるんですよね。」
美子「そうですか、、、。」
美千惠「ええ。厳しいことを言うようですが、そういう例はたくさんありますよ。」
杉三「カレーができたよ、食べよう。」
と、トレーに、カレーの皿を置いて移動し、テーブルの上にカレーを置いてやる。
杉三「はいどうぞ。まあ、通常のビーフカレーですけど。」
美千惠「どうぞ、いただいてください。」
美子「は、はい。いただきます。」
と、スプーンをとって食べる。
美子「お、おいしい!この、肉の煮方も絶妙ですよ。相当いい牛肉を使ってますね。この牛肉はお母さまが用意されたのでしょうか?」
美千惠「いえいえ。勘よ、杉三の。どうせ、ブランドもなにもわからないんだもの。肉を見て判断するしかできないのよ。」
美子「そうなんですか!すごい審美眼ですよ。これ、絶対和牛ですよね。アメリカとか外国産の安い肉では、こんなに柔らかくならないはず。このカレー、どこかの高級レストランで食べているのと、同じくらいじゃないですか?」
美千惠「まあ、お世辞が上手ね。」
美子「ああ、ここまでですと、もう、隠し事はできません。私、料理学校出て、学校給食の仕事をしているんです。」
美千惠「調理員さんだったの。それで、食材に詳しかったのね。」
杉三「子供さんたちの成長に関わる仕事でいいな。」
美子「でも、私、そのせいで、自分の子供をないがしろにしてしまいました。それが摂食障害ですよ。」
美千惠「なるほど。それは大きな痛手ですね。学校に勤めると、昔はかっこいいなで終わりましたが、今はそうではありませんからね。」
美子「私、やっぱり、給食はやめたほうがいいのでしょうか?」
美千惠「そうですね。私も、すぐにこうしろと、結論を出せないのが残念です。でも、私たちも、せっかく出会えたわけですから、何かお力になりたいです。もし、またつらいことがあったら、カレーも作らせますし、精一杯おもてなしさせていただきますよ。杉三は、時々こうやっていい友達をもたらしてくれる、不思議な存在でもありますよ。」
美子「そうですか、、、。」
美千惠「障害は時に良いほうへ働くときもあります。それを信じましょう。」
美子「はい、、、。ありがとうございます。」
と、美子のスマートフォンが鳴る。
美子「はい、ああ、どうしたの?えっ、幸子が?わ、わかったわ、すぐに戻るから!」
美千惠「どうしたんですか?」
美子「あ、主人からです!」
美千惠「ご主人?」
美子「あ、あの、本当に気にしないでいいです!ありがとうございました!」
と、杉三の家を飛び出していってしまう。
杉三「僕、悪いことしたかな。」
美千惠「そんなことより、これ、届けてあげなきゃ。でないと、自宅に帰れないわ。」
杉三「帰れない?」
美千惠「ええ。ハンドバックを忘れて行ったのよ。スマートフォンだけもって。」
杉三「すぐ届けに行こう。」
美千惠「そうね。他人の持ち物に何か言ってはいけないけど、カバンのポケットに、往復切符が見えているのよ。電話してみようか。」
と、自分のスマートフォンを出して、
美千惠「もしもし、海老原さん。あなた、ハンドバックを忘れているわよ。」
と、言いかけたが、電話は切れてしまう。
美千惠「あら、どうしたのかしら。」
杉三「ああ、駅で半狂乱になったんじゃないかな。叫ぶような声と、身延線のアナウンスが入ってた。」
美千惠「じゃあ、富士駅にいってみようか。これを届けに。」
杉三「うん。行く!」
富士駅。
杉三「さっき、中年の女が、娘が自殺したと、きちがいみたいに叫んでいたけど、なんだったのかなあ。」
美千惠「ああ、やっぱり。そうだったのね。私もそんな予感がしたのよ。」
二人、駅の構内に入る。何人かの若い男女がいる程度で、混雑はしてない。
杉三「こんにちは。今言ってた、半狂乱の女の人はどこに?」
男性「駅長室に入っていったよ。」
杉三「ありがとう。」
美千惠「杉三、駅長室はこっちよ。」
と、駅長室の入り口の戸をたたく。
美千惠「あの、海老原美子さんは、いらっしゃいますか?」
駅長「ああ、ご家族の方ですか?」
美千惠「いや、そうではないのですが海老原さんのハンドバックを届けに来ました。」
駅長「ああ、そうだったんですか。ほら、ハンドバックが届いたそうですよ。これで、娘さんのところにいけますね。」
美子は、テーブルに座っていた。しかし、まだ。体の震えは止まらず、何も言葉が出てこない様子であった。
美千惠「今日は、静かにしていたほうがいいんじゃありませんか。」
美子「だって、、、幸子が、幸子が!私が行かないで何になります!」
駅長「でもですね、改札機の破損は、弁償してもらわなければ困ります。運賃も払わずに、改札機を突き破ろうとするなんて。娘さんが大変なのはわかりますけど、ルールはしっかり守っていかなければだめです!」
美千惠「わかりました、私たちが代理で弁償しますから、今日は彼女を引き取らせてください。」
美子「幸子!幸子!」
駅長「そうですね。そうしてください。こんなに言っても、言葉が通じないのでは、本当に困ります。精神科でもぶち込んでもらいたい!」
美千惠「わかりました。それもみんな私たちがやりますから。」
杉三「今日は、僕のうちにいたほうがいいよ。」
美子「いえ、幸子のもとへどうしても行かなければ、、、。」
駅長「はいはい、私たちも忙しいもんで、とにかく外へ出てください!」
杉三「はい、わかりましたよ。駅長さん。ありがとうございました。美子さん、立てますか?」
美千惠「私が肩かすから、杉三は外へ出て。」
杉三「わかったよ。」
駅長「二度とこないでくださいね。」
杉三「わかりました!」
頭を下げずに駅長室を出る。
美千惠「歩けますか?」
美子は嫌がって泣くばかり。
美千惠「じゃあ、のってください。」
と、彼女を背に背負う。
美千惠「駅長さん、どうもありがとうございました。」
と、そのまま出ていく。
駅長「怪力なおばさんだな。」
美千惠「失礼しました!」
杉三の家。空き部屋で美子が寝ている。一階の居間には、杉三と美千惠、さらに蘭もいる。
美千惠「池本先生に診察してもらったけど、病棟がパンクするって、断られちゃったわ。まあ、家族二人がそのお世話になると、お金もかかりすぎるわよね。とりあえず注射をしてもらって、連れてきたけど。」
蘭「そうですか。そういうわけだったんですね。あまりにも清楚な方だったので、刺青をいれるということは、適切ではないと思ったのですが、」
美千惠「蘭さん、それは間違ってないわ。」
蘭「そうですよね。でも、彼女はきっと、刺青をいれることではなく、その苦しみを誰かに聞いてほしいと思っていたんじゃないのでしょうか。そういう理由で彫ってほしいという方は、これまでもたくさんいました。彫るか彫らないかは別として。」
杉三「娘さんだけじゃないですよ、被害者は。」
蘭「それよりも、ゆっくりできる場所が必要なんだと思います。」
美千惠「そうね。ホテルでも手配してあげましょうか。少し、ホテル生活をすると、楽になるって、聞いたことがあるわ。」
蘭「そうですね。探してみますよ。全日空とか、いろいろいいホテルはあるでしょう。」
杉三「ちょっと待って。」
蘭「どうしたの杉ちゃん。」
杉三「青柳教授の家は?」
蘭「あんまり頼りすぎてもいけないし。」
杉三「いいんじゃない?都心部の気ぜわしいホテルで過ごすよりも、たたら製鉄やって、森の中で暮らしたほうが、よっぽど、楽になれると思うな。」
蘭「そうかもしれないね。でも、青柳教授のところもいっぱいなんじゃないの。」
杉三「かけてみないとわからないでしょ。」
蘭「わかったよ。」
と、スマートフォンをダイヤルする。
蘭「ああ、もしもし教授。突然お電話して申し訳ありません。あの、そちらで預かってほしい人がいるんですが。ああ、中年の女性で、娘さんが摂食障害だそうなんですが、本人も非常に疲労がたまっているらしいんですよ。なので杉ちゃんが、そちらに預けたらどうかというのですが、、、。」
声「今は若い人ばかりだけど、それでよろしければ、受け入れできますよ。明日にでも来ていただければ。」
蘭「わかりました。じゃあ、明日、そちらに伺いますので。」
声「ええ、お待ちしております。」
蘭「ありがとうございます。では明日。」
と、電話を切る。
杉三「どうだって?」
蘭「若い人ばかりだけど、それで良ければいいってさ。明日連れて行ってあげよう。」
翌日。
美子「どこへつれていくのですか?」
杉三「はい、安心してください。全然怖いところじゃないです。心を休めるところなので、みんな優しいし、周りはきれいな森ですから、きっと楽になれますよ。」
美子「娘のことがあるので、あまり長期間は。」
杉三「娘さんは、病院に任せておけばいいんです。まずは、ご家族が元気にならなくちゃ。」
美子「まあ、そうですけど、、、。」
杉三「そのための施設なんですから、気にしないでください。」
運転手「つきましたよ。」
と、車を止める。
杉三「はい、僕らを降ろしてください。」
蘭「帰りもお願いしたいので、電話番号を。」
運転手「わかりました。じゃあ、こちらに電話をください。」
蘭「ありがとうございます。」
二人、運転手に手伝ってもらって降りる。
杉三「美子さんはやく。」
美子「はい、、、。」
杉三が玄関のドアを開けると、懍が待っていた。
懍「ようこそいらっしゃいました。お気楽に座ってください。」
美子「はい、、、。」
全員、テーブルを囲む。
懍「お名前をどうぞ。」
美子「海老原美子です。」
懍「この施設の主宰の青柳です。よろしく。」
雑用係の水穂が、四人にお茶だした。
美子「あの、ここは、、、。」
懍「日常生活に疲れた方々が、ここでリラックスしてもらうための施設です。使用資格は特にありませんので、誰でも泊まってくれて結構です。日数も、こちらは問いませんので、好きな時にきて、好きな時に帰ってくれればそれでいいんですよ。」
美子「私は娘のことがありますから、すぐに帰らなければ。」
懍「ああ、一泊だけでも全く構いません。それでいいのであれば。」
美子「ここは製鉄所と聞きましたが、それは誰でもしなければいけないのでしょうか?」
懍「その必要はありませんよ。やりたい人はやってもいいけど、男性が多いですからね。女性の方は森を散歩したり、山に登ったりする方が多いですよ。」
美子「そうですか。」
懍「強制はしませんが、一晩ここに泊まってみてはどうですか。それだけでも、リラックスになると思いますので。」
美子「でも、、、。」
杉三「いいじゃないの。誰でも泊まれるんだからさ。」
美子「じゃあ、一日だけ。」
懍「わかりました。」
杉三「よかった!じゃあ、僕たちはお邪魔虫だから消えるね。」
蘭「おかえりになるときは、電話をください。迎えに行きます。」
二人は、玄関から出て行ってしまう。
美子「あ、ちょっ、、、。」
懍「もうすぐお昼だから、皆さんと、お昼ご飯を食べたらどうです?」
美子「わかりました。
懍「じゃあ、こちらにいらしてください。」
と、彼女を食堂へ案内する。
食堂。すでに生徒たちが、昼食を食べている。
美子「なに、、、この人達。」
懍「まあね、訳アリの人達ですからね、でも、いい人ばっかりですよ。」
美子「だって、この子たち、まだ高校生でしょ?」
生徒「高校はもう中退してしまいましたよ。鉄づくりしたほうが楽しいから。できた鉄瓶をお客さんに渡すほうが、点数を取るよりよっぽどいいや。」
美子「え、ええっ!」
生徒「だって、高校で、いい点数とってもさ、全く自分のためにはならないでしょ。」
美子「だって、本業は勉強でしょうが、あなたたち。」
生徒「したくなったらするから大丈夫。」
美子「そんなことを言っていたら、将来がなくなるわよ。高校に行かないと、社会に出て、、、。」
生徒「高校はいってますよ。だから、あまり心配していません。」
生徒「私たちは、ここで泊まらせてもらいながら、普段は通信制の高校に通っているんです。」
美子「まあ、、、。」
美子は目を疑う。目の前にいるのは、若者ばかりだが、みな一見すると真面目そうな少年少女たちだ。髪を染めているわけでもなし、お化粧をしている子もいない。
美子「だってあなたたち、高校生でしょ?」
生徒「僕たちは、学校が嫌で、ここへ来たんです。おばさんはどうしてこちらに来たのですか?」
美子「ここで、力をぬいてなんて、何も意味はなかったわ。娘が言うことと、ほとんど変わらないじゃない。」
生徒「娘さんですか?」
美子「ええ。」
生徒「だったら、娘さんのそばにいてあげてください。あたしたちは、親の元にいると、大変なことになるから、ここにいさせてもらっているんです。私たちのようになるのは、実は、本当につらいことなんですよ。」
生徒「親御さんがここに来たことも何回もあったけど、みんな気が付いてくれます。」
美子「まあ、言われたくないわ。」
生徒「私は親が、私の気持ちに気が付くのをここで待っていなければならない立場なんです。もしかしたら、永久に待ち続けなればならない。」
美子「でも、私は、私だから。」
懍「もしよろしければ、一緒にご飯を作ってみませんか?彼女たちと。」
美子「はいはい、わかりました。じゃあ、何か作ってみます。」
台所
手際よく、野菜を切ったり肉を切ったりする生徒たち。
美子「よく、手作りできるわね。そんなめんどくさいやり方で。私なんて、スーパーに売っている、なになにのもとで済ませるのに。」
生徒「ええ。体の弱い人もいるから、化学調味料はつかってはいけないって、青柳教授に言われているんですよ。」
生徒「それなら多少大変でも、料理をする喜びもありますよ。」
美子「まあ、勉強するのが仕事だといわれてこなかったの?」
生徒「いえいえ、だって、食べ物を作るほうが、勉強するより、よほど大切ではありませんか。それに責任感も大きいから、怠けることもなくなるし。」
美子「そういうのは、机に向かってからいうセリフよ。」
生徒「教授は、勉強など必要最小限にやればいいって言ってますし、無理に進学する必要もないといっていますよ。」
美子「まあ、なんてこと、そんなに甘やかしてどうするのかしら。」
生徒「あ、やだ、学校の宿題するの忘れちゃった。でも、また後でやればいいか。今はご飯の支度だものね。」
美子「さっさと済ませなさい!私が代理でやっておくから、勉強したほうがいいわよ!」
生徒「でも、てんぷら作らなきゃ。」
美子「天ぷらなんて私がやるわ。そんなくだらないことばばっかりやってるなら、勉強して、甘ったれた精神を早く鍛えなおしなさい。」
生徒「でも、私たちは、」
美子「いいから早くいきなさい、その聖人君子みたいなものの言い方といい、私は嫌でたまらないの!」
生徒「じゃあ、おばさんにまかせます。」
と、台所から出ていく。
食堂。
不格好な天ぷらを大量に乗せた皿を、中央に置き、懍や水穂を交えた、生徒全員が集まって、
全員「いただきます!」
と、食事を始める。
生徒「あれ、いつもと味が違うぞ。てんぷらはもっと味が薄かったはずじゃ。」
生徒「私たち、台所を追い出されちゃったのよ。あのおばさんが作ったの。そのあとは退屈でしょうがなかったわ。そのほうが勉強もしたくなくなるくらい。何もしないで勉強しなさいなんて、嘘っぱちなのにね。」
美子「全く!」
と、テーブルをたたこうとしたその時、咳の音。
生徒「あ、水穂さん!」
美子「えっ!」
ダダン!と椅子から落ちる音。
美子「きゃああっ!」
生徒「水穂さん、しっかりして!」
彼の指はみるみる赤く染まる。
生徒「あ、もう病院やってないよ!」
生徒「とにかく、寝かせてあげよう。立てますか?」
生徒「いや、俺が背負っていく。」
と、体格のいい男子生徒が、水穂を背負って彼の部屋へ連れて行った。そして、畳まれない彼の布団に寝かせてやる。
生徒「水穂さん、大丈夫ですか?」
別の生徒は、座布団を持ってきて、水穂の体をそれに寄りかかるように寝かせてあげる。
生徒「とにかく、止まるまで出してしまおう。そのほうがいいって、お医者さんもいっていたじゃないか。」
と、彼の背をたたいてやったり、撫でてやったり。女子生徒の一人は、彼の枕元にある、小さなタンスから薬を出して、
生徒「鎮血の薬、ここにあるよ。」
と、薬の袋を開く。同じところにあった吸い飲みを出して、水穂の口に無理やり押し込んで薬を飲ませる。それは大成功し、数分後に喀血は止まる。
水穂「ご迷惑かけてすみません。」
と、生徒たちに一礼する。
生徒「いいってことよ。俺達には大事な人だからな。」
生徒「しかし、なにが原因だったんだろうね。何か悪いものがあったのかなあ。」
生徒「まあいいや。とにかく今日は、もうお休みになってくださいよ。明日の掃除なんかは俺たちがやりますから。」
水穂「どうもありがとうございます。」
生徒「気にしないでいいですよ。あたしたちは、まだまだ、水穂さんに教えてもらわなければならないんですから。」
生徒たちが、こんな話をしている間、あっけにとられた美子は、懍と一緒に食堂に残っていた。
懍「何を使ったのですか?」
美子「何をって、」
懍「天ぷらです。」
美子「普通の油ですけど。」
懍「油といっても色々種類があるでしょ。」
美子「そんなこと、油なんてみんな同じですよ。」
懍「いや、違います。油はベニバナからオリーブ油まであるでしょ。」
美子「そんな高価なものをつかって何になるんです?」
懍「使わなきゃいけない人もいるんですよ。よく思い出してください。あなた、先ほど、天ぷらにごま油を使いましたね。それが磯野さんの喀血を引き起こしたのです。人によっては、どうしてもできない人だっているんですよ。」
美子「だって、そんなお金どこにあるんです?まあ、ここは施設ですから、いろいろあるんでしょうけど。私たちの家庭には、そんなもの、使うほどのお金はありません!」
懍「そうですか。でも、世界で一番好きな人がそうだったらどうします?」
美子「何を言っているんですか?」
懍「娘さんです。彼女がなぜ、摂食障害に陥ったのか、よく考えてください。お母さんなんですから。」
美子「私ばかりが悪人なんですか。」
懍「多くの人はそういいますけどね、気づくのが早くければ早いほどいいんです。じゃあ、考えておくように。」
と、食堂を出て行ってしまう。
水穂の部屋から声がする。
声「全く、困ったもんだよな。水穂さんのことを知らなかったなんて。」
声「でも、僕も伝えておかなかったので、反省しています。」
声「いいんですよ。あのくらいのおばさんで、しかも食べ物に関わる職業だったのに、なんでごま油を使ったんですかね。例えば、それこそ、生徒のなかでアレルギーの子がいるから、油は使用しないでくれと保護者から連絡があったとか、いなかったのでしょうか。」
声「あったと思いますよ。でも、長く務めると、変わってくるものですよ。結婚して、子供が生まれて、そうなると、仕事をとるのか家をとるのか、その間で動けない女性は多いですからね。」
声「水穂さんは、本当に感慨深いんですね。」
声「でも、今回助かってくれてよかった。俺たちまだ、水穂さんが必要だから。」
美子「私は、、、。必要ないんだ、、、。」
と、みるみる涙があふれてくる。
回想
幸子「あんたなんか、お母さんじゃない。他人の食べ物は作れる癖に、なんで残り物なの!」
美子「時間がないから仕方ないの!わがままを言うんじゃありません!」
幸子「だったらさ、私にも食べさせてよ。そして学校にも来てよ!授業参観だって、一度も来てくれたことないでしょ!」
美子「だから、仕事があるから、仕方ないでしょ!」
幸子「そうよね。私が生まれたことが、本当に邪魔なのね、もういいわ、お母さんの作ってくれたご飯なんて、食べないから!」
美子「勝手にしなさい!」
その日から、幸子は食卓に着かなくなり、口にするのは、コーヒー程度になった。急激に体重は減っていき、彼女は棒のようになってしまった。
声「私の親も気が付いてくれるかな。」
声「きっと、気が付いてくれますよ。」
と、いい、咳の音。
声「大丈夫?薬、切れた?」
声「大丈夫ですよ。血は出てないから。誰が悪いわけでもないです。あなたはあなたで、本当につらい思いをしたんだし。時がたてば忘れることもできます。だから、ここでずっと待ってればいいんです。」
声「そうですか。私が、こんなに苦しんだこと、あの二人はわかってくれるでしょうか?」
声「きっとね、わかってくれますよ。心の病気の治療の一つは、年を取ることだと思うんです。」
声「年を?」
声「ええ。何年かかるかはわかりません。年をとると、余分なものが時の流れに洗われて風化していきますから、一番言いたいこと、一番の願い事がわかってくるんです。」
声「そうなんですか、、、。」
声「だから、あなたが、一番の願い事が決まったら、お母さんのもとへ帰ってもいいと思うんですよね。」
声「ありがとうございます。そうなる時を待ちます。」
声「ええ。それが一番ですよ。」
美子の目に涙があふれてくる。
回想
自室で、ファストフードをむさぼるように食べる幸子。そして、化粧室にすぐに飛び込み、怪物のように嘔吐する。
美子「ただいま。」
と、冷蔵庫を開けるが、何もはいっていない。
美子「幸子!」
と、二階に行き、化粧室を覗く。
美子「何をやっているの、冷蔵庫に何も入ってないじゃないの!夕ご飯だって入っているのよ!」
幸子「殺してください!」
美子「馬鹿なこと言うもんじゃありません!だったら、自分でどうしたらいいか、考えなさい!いい、あんたは大人なのよ。自分の行動に責任を持てるのよ!それなのに、毎日毎日冷蔵庫の中を空っぽにして、食べ物に逃げるんじゃありません!」
幸子「もう、できないのよ!」
美子「いい、他人が自分の道を作ることはできないのよ。自分で頑張って、自分の居場所を見つけていくの!そのためには、」
幸子「できないわよ、そんなこと!」
これまでにない、恐ろしい顔であった。
幸子「できないわよ、そんなこと!」
まるで、全てを否定したような顔だった。
美子「いい加減にしなさい!」
と、娘のほほを平手打ちする。
幸子「私、死ぬから。」
美子「勝手にすればいいじゃない!」
と言って、家を出て行ってしまったのであった。
知らないうちにあたりは夜になっていた。周りには大通りがないので、車の音も何もなく、商店街もないので、読んで字のごとく、漆黒の夜であった。
咳の音がした。もう、鎮血の薬は切れたのだろうか。美子は、リモコンで操作されたように、部屋を出て行った。
美子「磯野さん。」
と、ふすまに手をかけた。隣の部屋からは生徒たちの気持ちよさそうな寝息も聞こえてきた。ソリストが歌うように、咳の音が混じっていた。
美子「大丈夫ですか?」
と、電気のスイッチを入れた。水穂は、起き上がり、布団の上に座った。また少し血が、指を汚していた。
水穂「どうしたんです?こんな時間に。」
時計を見ると、朝の四時だった。
美子「いえ、お手洗いに起きて、、、。」
水穂「お手洗いなら、方向が違いますけど。」
美子「ああ、すみません。おからだ、大丈夫なのですか?」
水穂「ええ。この程度なら、よくあることですよ。」
美子「すみませんでした。」
水穂「何がです?」
美子「私、天ぷらに、間違えてごま油を入れてしまったんです。」
水穂「そうだったんですか。」
美子「すみません、本当に。水穂さんみたいな病気の人を、私、知らなかったから。」
水穂「まあ、そう考えるのが通常でしょうからね。」
美子「でも、命にかかわることですから。」
水穂「いいんですよ。僕も、いくところのない根無し草ですからね。それよりも、僕みたいにならないようにするのが一番だと思います。」
美子「だって、水穂さんは、ほかの生徒さんからも人気者だし、、、。」
水穂「ええ、そうするしか、ここにいさせてもらう理由がないのです。僕が外の世界に出ていたら、明らかに、病院で死ぬのを待つくらいしかできることはないでしょう。幸いここの生徒さんや、青柳教授は、そういうことを踏まえたうえで、ああして親切にしてくれるんですよ。だから、僕も何かお手伝いして、恩返ししなければなと、思うんです。決して、僕のことを美しいとは思わないでくださいね。」
美子「そうですか、、、。」
水穂「僕は、男としても、大人としてもだめな人間です。思ったほど、立派な人間ではありません。僕を悪い見本として、娘さんに知らせてあげてくださいね。」
美子「でも私、もう何を言ったらいいのかもわからないんです。」
水穂「娘さんは、なにか言ってほしいと思っているんじゃないですか?気が付いたらすぐに実行するのが一番です。」
美子「どうしたらいいんでしょう。」
水穂「簡単なことです。そのままでいればいいってことです。」
美子「え、、、?」
水穂「お母さんは、こういう人物だと。僕は、こんなに恥ずかしいことをしましたが、料理というのは生活に直結しているものだから。」
美子「水穂さん、、、。」
水穂「まあ、僕の勝手な解釈ですけど。」
美子「な、なんとなくわかりました。」
水穂「食べるってのは、一番大切なことですから。」
美子「そうなんですね!」
水穂「応援していますよ。」
と、遠くで鶏が鳴く声。
水穂「もう夜明けですね。夜明け前って一番寒いんですよね。それをのりきったら、朝が訪れるのですが、なかなか、この寒さは堪えますね。」
美子「ありがとうございます。私、戻りますね。教授にはこのことは知らせないでください。」
水穂「ええ。誰にも言いません。」
美子「ありがとうございます。」
と、急いで立ち上がり、ふすまを閉めて戻っていった。
部屋へ戻ると、真っ赤な朝焼けだ。
美子「朝焼けって、雨が近づいているのよね。」
その朝焼けは、美しい朱の色。どこかの国の物語では、朱は忠実な愛の色。
しかし、朝焼けは、畢竟していえば、凶である。
美子「私が、何とかしなきゃ。」
と、右手を握りしめた。
数分後、生徒が美子の部屋の戸をたたいた。
生徒「美子さん、ご飯です。」
美子「わかりました。」
食堂。生徒たちに混ざって、美子がいる。
生徒「よく食べるんですね。」
美子「ええ。女は強いのよ。そのためには頑張って食べなきゃ。」
生徒「ほんとうに、おばちゃんパワーはすごいんだな。」
美子「まあ、おばちゃんなんて、失礼ね。」
そこへ、懍がやってくる。
懍「今日はずいぶんお元気になられましたね。」
美子「ええ、ありがとうございました。ご飯を頂いたら、娘のところへ行ってやろうと思っております。」
懍「ええ、そういってくださるのを楽しみに待っていました。」
このセリフに反発した生徒は誰もおらず、全員祝福の目で彼女を見ていた。
美子「一晩だけでしたけど、お世話になりました。」
と、生徒たちに深々と頭を下げる。
水穂の部屋では、給仕係の生徒と一緒に、水穂が朝食をとっていた。昨日の喀血のせいで、まだ安静が必要だったのだ。
声「一晩だけだけど、お世話になりました。ありがとうございます。」
水穂「よかった。」
生徒「水穂さんどうしたんですか?なんだか感慨深い顔しているけど。」
水穂「いいえ、なんでもないですよ。」
その顔は、優しかった。
やがて、キャリーバックの音と一緒に、人間が歩いていく足音が聞こえた。
水穂はほっと胸をなでおろし再び五線紙に向かって何か書き始めるのだった。
蘭の家。
蘭「杉ちゃん、水穂から手紙だよ。」
杉三「誰から?」
蘭「美子さんだ。」
杉三「読んでくれ。」
蘭「ええーと、このたびは本当にありがとうございました。おかげで娘に向き合える気がします。水穂さんだけでなく、お二人にも、心から感謝しています。これからも、おからだを大切に、頑張ってください。」
杉三「よかった。」
蘭「ほんとだな。本当は、こんな施設に頼らずに、本人が考えるのが一番なんだけどねえ。」
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