落とし物
朝、蘭の家。蘭とアリスが朝食を食べていると、電話がなる。
蘭「なんだろ、こんな朝早く。」
と、電話をとると、
声「生まれた、先生。生まれました!」
と、男性の声。
蘭「あの、どちら様ですか?」
声「ああ、ごめんなさい。あんまりにもうれしすぎて、名前を言うのを忘れてしまいました。以前、先生に龍を彫ってもらった、花沢幸彦です!」
蘭「ああ、花沢さんだったんですね。生まれたとは、もしかして、、、。」
幸彦「はい。とうとう念願だった父親になることができました。こんな年だから、もう無理かと思ったんですが、、、。」
蘭「そうでしたね。僕が龍を彫ったのはもうかなり昔でしたものね。」
幸彦「ええ。彫っていただいたとき僕は三十五でした。」
蘭「はいはい、モーツァルトは三十五歳で死んだ、とつぶやいておいででしたからね。あの時は、自殺をしたいとさんざん言っていた人が、お父さんですか。」
幸彦「ええ、もう、43になってしまいました。やっと、神様は今までの悪事を水に流してくれたんですね。彫ってもらったときは時代があってないとか嘆いて、先生に散々迷惑をかけてしまいましたが、彫ってもらった後、優しい女房にも出会えて、そうして子供までくださったなんて、、、。」
蘭「僕は何かをしたわけではありません。全ては、花沢さんの力です。性別がどちらなのかわからないのですが、」
幸彦「はい、淳と付けました。」
蘭「じゃあ、息子さんか。」
幸彦「はい。学歴だなんだとか、そういうことは望みません。そんなことはどうでもいいから、丈夫な体と、健康な心に育ってくれればいいと思っています。変に期待もしないし、無理していい大学に行ってほしいなんて望みません。そうなったらどうなるか、僕が一番知っていますからね。一番の心構えは、待つことだと思うんです。好きな道に進んでほしいと願っています。」
蘭「偉いですね。一般的な家庭よりも優れていますよ。奥さんはどうなんですか?」
幸彦「はい。一から十まで立ち会いました。産むときの苦しみはわからないかもしれませんが、その美しさに驚いております。母親ってすごいんですね。そういうわけですから、母親だけにはしておけませんよね。息子にとってよいお手本になれるかわかりませんが、とにかく、頑張って育てようと思います。」
蘭「そうですか。」
幸彦「で、お願いなんですが。」
蘭「お願い?」
幸彦「一度こちらに来てくれませんか?女房も会いたがっているようです。産んだとき、妊娠中毒症がありましてね、普通の妊婦さんのように、すぐに退院とはいかないんですよ。まあ、自然分娩させてもらったのはよかったんですけどね、その分、入院が長引いてしまいました。」
蘭「そうですか。わかりました。奥様の退院予定は決まりましたか?」
幸彦「それが、まだ決まらないんですよ。だから不安になってるみたいで。来てくれませんかね?」
蘭「わかりました。すぐには決められないけど、近いうちにお返事を出し、ます。」
幸彦「ありがとうございます。じゃあ、決まったらまた電話ください。」
蘭「了解です。今日はこれで。」
幸彦「はい、長電話してすみませんでした。電話、お待ちしています。」
蘭「はい。」
と、受話器を置く。
アリス「どうしたの?」
蘭「ああ、僕のお客さんに赤ちゃんが生まれたんだって。」
アリス「まあ、おめでたいわね。」
と、インターフォンが五回なる。
蘭「ああ、杉ちゃんだ。」
と、同時にふすまが開く。
杉三「誰に電話したの?」
蘭「もう、なんですぐに人の話を聞くの、杉ちゃんは。」
杉三「だって聞こえるんだもの。」
蘭「まあ、関係ないけど、うちのお客さんに赤ちゃんが生まれたんだって。」
杉三「すばらしい!すぐお礼に行こう。」
蘭「お礼って何を?」
杉三「だから、新しい命をありがとうって。」
蘭「どうしてその発想になるんだ?」
杉三「僕、赤ちゃん生まれるの見たことあるんだ。目の前で。」
蘭「誰の赤ちゃん?」
杉三「うちの母ちゃんの職場で働いている人。急に破水したと大騒ぎしたら、そうじゃなくて血だった。母ちゃんが、急いで病院に運んだら、もう赤ちゃん半分死にかけていたよ。」
蘭「それでどうしたの?」
杉三「健康な子供を授かるのは、本当に難しい時代になったと、改めて知りました。それは私の責任でもあるわけです。ちゃんと育てます。」
蘭「本当に難しい時代か、、、。」
杉三「でしょ。だから、正常で生まれたのは素晴らしいの。そしてそれを完遂できたお母さんだってすごいの。だからみんなでほめていいじゃない?すぐいこう。」
蘭「その発想はどこから来るんだろう?」
杉三「馬鹿の一つ覚え。」
アリス「いいじゃないの、あたしたちだって子供はないんだから。見舞いに行ってあげたら。」
蘭「ごめん、怒らせた?」
アリス「怒ってなんかいないわよ。あたしたちは、子供なんて持てないでしょ。」
蘭「そうだね。」
杉三「じゃあ、電話して、蘭。」
蘭「そうか、電話をかけられないのか。」
杉三「はやくね。」
蘭「(電話機を取り)もしもし、ああ、花沢さん、聞き忘れたことがあるんだけど、見舞に行くのいつがいい?」
声「いつでも大丈夫ですよ。来てやってください。どうせ僕は盆栽の仕事で忙しいので、女房のもとには日中はいけないから。」
蘭「あの、失礼な話だけど、今日行ってもいい?」
声「はい、いつでも来てやって!」
蘭「わかったよ。じゃあ行く。どこの病院に?」
声「武田病院。」
蘭「へえ、あんなほうまで行ったの?」
声「どうせならいいところに行かせてやりたいから、奮発した。」
蘭「そうか。わかったよ。」
と、電話を切り、
蘭「行こう、杉ちゃん。」
と、箪笥を開けて羽織を着る。
アリス「気を付けていってきてね。」
蘭「わかったよ。」
杉三「行ってきます。」
二人、玄関から出ていく。
武田病院の正面玄関。産婦人科のみの病院とは思えないほど、規模の大きい病院であった。その前でタクシーが止まり、二人は運転手に手伝ってもらって、車を降り、自動ドアをくぐって、病院の中に入った。
待合室には、妊婦さんたちがたくさんいて、赤ちゃんのことをつぶやいている。
蘭「すごい大きな病院だな。診察室だけでも四つもあるじゃないか。お医者さんもたくさんいるんだろうな。」
杉三「ここだったら、安心して赤ちゃんも生まれてきてくれるね。」
蘭「そうだね。」
と、受付に移動し、
蘭「あの、花沢さんの病室はどこですか?僕たちは、面会にきたのですが。」
受付「花沢陽子さんのことですね。病室は五階になります。エレベーターでどうぞ。」
蘭「ありがとうございます。杉ちゃん、いこうか。」
杉三「待って!」
蘭「どうしたの?」
杉三「救急車が来てるんだ。」
と、同時にけたたましい音が鳴り、救急車が正面玄関の前でとまった。ドアが開いて、一人の妊婦さんが乗っているストレッチャーが走りこんできた。
妊婦さん「私の赤ちゃん死なないで!」
その横には、一人の男性がいた。妊婦さんより幾分若く見え、たぶんお父さんだろう。ただ涙を流すだけで何も言えないようであった。ストレッチャーは杉三たちの前を通り過ぎ、エレベーターに飲み込まれた。たぶん、二階以上に、分娩室があるのだろう。
蘭「杉ちゃん、僕らも行こう。」
杉三は顔を両手で覆って泣いていた。
杉三「あの赤ちゃん、無事に生まれるといいね。」
蘭「そうだな。」
周りの妊婦さんたちも、他人ごとではないという顔をしている。
杉三「赤ちゃんだけは、みんな同じだからね。」
蘭「いこうよ。」
二人は、障碍者用のエレベーターにのった。
三階から五階までは病室だった。
杉三「きっと、症状が重い人が三階に行くんだろうな。」
蘭「どうかわからないな。僕たちが利用する科ではないからね。」
二人は廊下を移動し、「花沢陽子」と書かれている部屋の前に来た。
杉三「こんにちは。」
と、ドアをたたく。
声「どなたですか?」
蘭「はい、ご主人の、幸彦さんの友人です。」
声「ああ、主人から聞かされました。どうぞいらしてください。奈美恵、お茶持ってきて。」
杉三「奈美恵?」
蘭「あ、もしかして、僕らのほかにお客さんがいるのなら、ご迷惑でしょうから出直しますよ。」
声「いいえ、妹です。私がいろいろ不自由だし、主人ではできないことも多いから、来てもらっているんですよ。どうぞお入りください。」
蘭「すみません。入らせていただきます。」
と、病室の戸を開け、中に入る。ベッドに寝ている陽子は、ごく普通の女性、という感じだった。その近くにあった、小さい箪笥の上で、若い女性が茶を入れていた。
陽子「ああ、うちの主人が話していた、先生なんですね。その節はお世話になったって、主人がさんざん話していましたから、どんな人物なんだろうなと、想像していました。」
蘭「想像とは、全然違いますか?」
陽子「いえいえ、職人だっていうから、もっと硬くて偏屈な名匠のような人かなと思っていたんですが、ずっと繊細で、線の細い方のように見えました。」
杉三「おからだのほうはどうなんですか?」
陽子「あら、この人は弟さん?」
杉三「いや、友達です。名前は影山杉三です。」
陽子「へえ、きれいな顔されてるじゃない。イケメンパパになりそう。」
杉三「まだ、動けないんですか?」
陽子「そうなのよ。自然分娩まではいったのに、まだ血圧のことがあって動けないの。だから奈美恵に手伝ってもらってるの。奈美恵、早くお茶出しなさいよ。」
奈美恵と呼ばれた女性は、確かに彼女の妹なのは疑いない。しかし、その表情はむっつりとしていて、何か不満を抱えているようである。
陽子「ほら、はやくしなさいよ。」
奈美恵は、乱暴に二人の前に茶を置く。
杉三「ああ、どうもいただきます。」
蘭「いただきます。」
杉三「何かあったんですか?」
奈美恵「別に。」
杉三「まあ、僕は女性ではないので、なんとも言えませんが、悩んだことはためることなく、誰かに話したほうがいいよ。」
奈美恵「あんたにはわからないわよ。」
杉三「ますます気になるな。どこか、相談できることはないんですか?」
陽子「奈美恵、そんなぶっきらぼうにいわないの。せっかくこの人たち、来てくれたんだから。」
奈美恵「ごめんなさい。」
蘭「すみません、すぐに手を突っ込む悪い癖があるんですよ。杉ちゃん、もう迷惑だから帰ろうか。」
陽子「あら、見て行かないんですか?」
杉三「へ、何を?」
陽子「せっかくだから、見て行ってくださいよ。私たちの、」
杉三「あ、赤ちゃんだ!」
蘭「いいんですか、僕みたいな部外者が見に行っても。」
陽子「全然OKよ。ムチムチしてかわいいわよ。もう、食べちゃいたいくらい。」
蘭「そうですか、、、。」
杉三「ぜひ見せてください!」
陽子「奈美恵、この二人、新生児室に連れてってあげて。」
奈美恵「わかったわ。」
蘭「ありがとうございます。突然押しかけて、ほんと、すみませんでした。」
陽子「いいのいいの。私も、主人から先生の話は聞いていたし、お会いできてよかったわ。なんとも、ドイツの刺青の大会で一番をとったことがあるそうじゃありませんか。」
蘭「いや、僕はその大会でこの体になってしまったので、大会に出たのは何も意味がありません。」
陽子「いいえ、結果があるんですから。オリンピックで金メダルをとったの
と、おんなじだと、主人は言ってますよ。」
杉三「蘭も、そういうところは人の話を聞かないんだね。もっと、自身を持ってもいいんじゃないの?」
蘭「そうだけど、、、。」
陽子「だからこそ、赤ちゃん、見てやってください。もしかしたら、遠い将来、先生に背中を預けに来るかもしれませんわ。」
蘭「いや、それだけはやめて、、、。」
杉三「もう、素直に喜べばいいじゃん!赤ちゃん、見させてもらおうよ。」
蘭「そうだね。じゃあ、お言葉に甘えます。そのまま帰りますので、ありがとうございました。」
杉三「また、手伝うことがあったら呼び出してください。」
蘭「何もないでしょうが。僕たちは。」
杉三「まあ、その時はその時だ。じゃあ、赤ちゃん見させてもらいます。」
陽子「奈美恵、連れてってあげてね。」
奈美恵「はい。」
陽子「兵隊みたいな返事はしなくていいのよ。」
奈美恵「はい。ごめんなさい。いらしてください。」
と、病室から外へ出ていく。
蘭「じゃあ、失礼します。」
杉三「また来ます。」
と、奈美恵の後をついていく。
廊下。
杉三「奈美恵さんは、おしゃべりが苦手なんですか?」
奈美恵「ごめんなさい。」
杉三「ごめんなさいなんて、馬鹿にはいりませんよ。」
奈美恵「ごめんなさい。」
杉三「で、赤ちゃんは?」
奈美恵「こちらです。」
と、新生児室と書かれた、部屋へ案内する。
奈美恵「中には入れませんので、このガラス張りから見てくださいね。」
杉三「どの赤ちゃんなんですか?」
奈美恵「一番端です。」
杉三は、新生児室の中をじっと見る。
蘭「どうしたの杉ちゃん。」
杉三「うん。」
なおもじっくりと見つめる。
奈美恵「私、姉のことがありますので部屋に戻ります。」
蘭「はい。すみません。帰ろうよ杉ちゃん。」
奈美恵が去って行っても、杉三は赤ちゃんたちを見つめ続ける。
杉三「なあ、蘭。」
蘭「どうしたの?」
杉三「おかしいと思わない?」
蘭「おかしいって何が?赤ちゃんは眠るのが商売みたいなものだよ。」
杉三「そうなんだけどね。なんか、一番端の赤ちゃんの動きが。」
蘭「まだ生まれたばかりだから、動きなんてできないよ。」
杉三「気になる、、、。」
蘭「気にしすぎだよ。杉ちゃん。」
杉三「だって、、、。ほかの赤ちゃんは、体を動かしているのに、彼だけは同じ一のまま、動かない、、、。」
蘭「たまたまじゃないの。長居してると悪いから、かえろうよ。」
杉三「気になるけど、、、。」
蘭「大丈夫だよ。ここは産婦人科でも権威のあるところだから、異常があったらすぐ治してくれるさ。」
杉三「そうかな、大きなところほど、肝心なこと忘れるのが常だよ。」
蘭「とにかく帰ろうよ。迷惑になっちゃうよ。」
杉三「でも、、、。」
蘭「帰ろう!」
と、廊下を移動し始める。
杉三「わかった、、、。」
と、何回も振り向きながら、廊下を移動する。
病室
陽子「奈美恵。」
奈美恵「なに?」
陽子「あんな態度をとっちゃだめよ。せっかく来てくれたんだから、あんなぶっきらぼうにならないで、しっかりして頂戴。」
奈美恵「だってお姉ちゃんは、」
陽子「お母さんだって、待ってると思うわよ。」
奈美恵「そう!お姉ちゃんはそういうことでしか私を見てくれないんだ!」
陽子「奈美恵!」
奈美恵「子供を産んだってことがそんなに偉いわけ!何をするにも子供を理由に、逃げることができるんだもんね!あんたは妊娠中毒症なんかやって、あの極限の状態で、子供を産んで、今は病院で、周りのことは看護師さんに全部やってもらって!どっかの華族のお嬢さんかしら。」
陽子「私だって、あの子を産むまで、本当に苦しんだのよ。」
奈美恵「ええそうよね!確かに苦しんでた!でも、結果としてお母さんの介護、私に押し付けたことを、ご存じないのかしら!」
陽子「だって、あの子が生まれなきゃ、このうちが終わりになってしまうのよ!」
奈美恵「悪いけど、私はもうこの家の使用人になりたくないの。だから、あんたが退院したら、私、出ていくから。」
陽子「出ていくってどこへ?」
奈美恵「もう、ここにはいたくないの。あたし、フェイスブックで知り合った人のところに行く。」
陽子「どんな人なの!」
奈美恵「お姉ちゃんはフェイスブックやったことなかったからね。私、フェイスブックで、素敵な人を見つけたの。もう結婚の約束も決まっているのよ。」
陽子「勝手にするもんじゃないわ。それにどこに、、、。」
奈美恵「博多。だから、頻繁にはこちらにはこれないから。待望の後継ぎと一緒に幸せになってね!」
と、いい、部屋を出て行ってしまう。
富士駅。杉三と蘭は電車を降りる。
蘭「あれ、雨がふってるな。」
杉三「浜松は晴れていたのに。」
蘭「浜松とここじゃ違うよ。仕方ない。タクシーに乗ろう。」
杉三「うん。」
タクシー乗り場。停車していたタクシーの運転手に、
蘭「乗せてくださいな。」
運転手「あ、先生。僕ですよ。」
蘭「幸彦さん!どうしたんですか、こんなところに!」
幸彦「いや、入院がまたのびちゃってさ。風邪みたいなものだっていうんだけど。」
蘭「あれ、いつも、製紙会社で働いていたはずなのに?」
幸彦「いや、製紙会社もいつも通りいってますよ。」
蘭「じゃあ、二足の草鞋を?」
幸彦「そうなんですよ。とにかく、二人とも、乗ってください。」
介助してもらいながら、二人はタクシーに乗る。タクシーは動き始める。
蘭「どうしたの?製紙会社の収入で十分やっていけるはずなのに?」
幸彦「それがさ、入院費、思いのほか加算じゃって、、、。」
蘭「誰か、力を貸してくれる人を見つけられない?新しい命を生み出したのだから、その人を大事にするのは悪いことじゃないと思いますけど。」
幸彦「サラ金だけは避けようと思ったが、それにも頼らなければいけなくなってきたよ。」
蘭「それだけは絶対やめたほうがいいですよ!」
杉三「奈美恵さんは?」
蘭「へ?」
幸彦「いや、出て行ってしまった。何でも、博多に恋人がいるので、もう金は出してはくれない。」
蘭「出て行ったなんて、そんな非常時にですか?」
幸彦「ああ。なんだかよほどひどいことがあったのかなあ、あの二人。詳しくは聞いていないんだよね。」
杉三「ひどい人ですね。」
幸彦「まあ、そう思うんだけど、あの二人に聞いても、何も教えてはくれないんだよね。」
蘭「まあ、女同士の過去なんて、男には関与できないのかもね。」
幸彦「ほれ、着いたぜ。」
蘭「ありがとう。」
杉三「ありがとう。」
二人、手伝ってもらって、タクシーを降りる。
幸彦「また乗ってくれよな。」
と、車を方向転換させ、走り出していく。
蘭「ただいま。」
アリス「ああ、おかえり。ねえ、蘭。私、気になることがあって、ちょっと聞いてみたんだけど。」
蘭「何を。」
杉三「もしかして、奈美恵さんと、陽子さんのこと?」
蘭「杉ちゃん、帰ったんじゃなかったの?」
杉三「まだ終わってないんだなと思ったから。」
アリス「あのね、あの二人はしょっちゅう喧嘩ばかりしていたんですって。姉は、優秀な大学に合格したけど、受験の負担でうつ病になって、両親は彼女のほうに重点を置きすぎたせいか、妹は非行を繰り返して、、、。」
杉三「やっぱりそうだったんだ!」
蘭「そうだって何が?」
杉三「だから幸彦さんと結婚したんだよ。彼女をほかへやれば、親も妹のほうへ、目を向けることができるじゃない。ところが姉があの状態だから、妹は他に救いを求めたんだ。」
蘭「なるほどね。姉妹の軋轢ってわけか。」
杉三「何とかしなきゃいけないな。」
蘭「何を?」
杉三「助けよう。」
蘭「何馬鹿なことを言って!」
杉三「誰かが何とかしなきゃどうなるんだよ。」
蘭「どうにもならないよ。僕らは他人だし、何も通じてはいないんだから。」
杉三「通じているじゃないか。だって、旦那さんの背中を預かったんだから。」
蘭「それとは違うよ。」
杉三「だって一番の被害者は誰だと思う?」
蘭「は?」
杉三「淳君だよ。このいさかいがいつまでも続いていたら、淳君は、自殺するか、犯罪に走るしかできなくなるよ。」
蘭「極端すぎるよ。」
杉三「ううん、今の時代なら、そうなることだってあり得る。」
蘭「そうかなあ、、、。勝手に手を出していいものだろうか。」
アリス「いいんじゃない。だって、誰かが変化を起こしてくれるのを待ってるだけじゃ、解決しないわ。」
蘭「そうか、、、。」
杉三「こうなったら偉い人の力を借りたほうがいい。蘭、青柳教授に電話して、家族の問題に詳しい人を探してもらってよ。」
蘭「そんなこと、自分でや、、、そうか、ダイヤルできないのか、、、。」と、ダイヤルを回そうとすると、大きな車が猛スピードで走る音が聞こえてきて、急に激しいブレーキの音。
蘭「な、なんなんだ!」
杉三「怖いよ、、、。」
アリス「きっと、アクセルとブレーキを踏み間違えたのね。あたしが文句言ってくる。」
と、玄関に歩いていく。
アリス「ちょっと!踏み間違えはやめてくださいよ!この家には歩けない人が住んでいるですから!」
と、ドアを開けて車のほうを見る。
アリス「あれ?あなた先ほどの、運転手さんでは?」
幸彦「こら、動け!」
と、ハンドルをひっぱたいている。
アリス「どうしたのですか?」
幸彦「いや、急いで飛ばそうと思ったら、車が動かなくなってしまって。」
杉三と蘭も玄関に出てくる。
蘭「どうしたの?」
杉三「ただことではないですね。」
確かに、切迫した顔をしている。というより、パニック状態になっているのだ。
蘭「落ち着いてください。一体何があったんです?」
幸彦「あ、あの、淳が淳が、、、。」
杉三「わかった!車出して!」
アリス「わかったわ。」
アリスは、車のエンジンをかけ、
アリス「乗ってください!」
杉三「僕らも一緒に行きます。」
蘭「邪魔になるだけだろ。」
幸彦「いや、一緒に来てください。僕一人ではとてもできません。車がエンストしてくれてある意味よかった。」
と手早く二人を乗せてやる。
アリス「どこの病院だったっけ?」
杉三「武田病院!」
アリス「わかったわ。」
と、負けないくらいのスピードで車を飛ばし、武田病院に乗り上げる。
幸彦「あの、淳の容態が急変したって、聞いたものですから、急いできました。」
杉三「どこにいるんですか?」
受付「今、集中治療室に、、、。」
杉三「連れて行ってください。」
受付「不自由な方はちょっと、、、。」
幸彦「いえ、一緒に行きたいです!」
受付「わかりました。お父さんとその方だけにしてくださいね。こんな大人数では困りますからね。」
アリス「奥様はどうしていますか?」
受付「ええ。まだ動けないので、病室にいます。」
蘭「じゃあ、僕とアリスは彼女のそばにいましょう。きっと、心細いでしょうから。」
受付「お願いします。お二人は西側のエレベーターで病室へ、お父さんは東側のエレベーターで集中治療室に行ってください。」
杉三「わかりました!」
蘭「じゃあ、二手に分かれよう。」
全員、それぞれのエレベーターに行く。
病室。
陽子「私、本当に悪いことをしてしまったのでしょうか。」
アリス「悪いことって何を?」
陽子「ええ。妊娠中毒症が、思ったよりひどかったようでしたから。私、自分ではそんなに意識していなかったのです。ただ、頭が痛いと思って、ここに来たら、お医者様にすごくしかられたですが、その意味も何も分かりませんでした。」
アリス「お仕事が忙しかったとか?」
陽子「ええ。確かに仕事はしていましたが、、、。それも悪かったんですよね。私、長く勤めていたので、なかなか休めなかったんですよ。でも、今となったら、それも言い訳に過ぎないのでしょうか。仕事が、本当に生きがいだったから。でも、それはいけないことだったのですね。母親、失格です。」
アリス「大丈夫ですよ。これからまだまだ人生はあるじゃありませんか。初めの一歩でちょっと躓いただけのことですよ。これから、息子さんと、楽しい日々が待っているじゃありませんか。」
陽子「そうですね、そう願いたいですが、、、。おっかないのは感染だって、お医者様に言われました。それはどうしてもかなわないことだって。」
蘭「赤ちゃん、何グラムありました?」
陽子「2400。」
蘭「えっ?」
陽子「何か?」
蘭「それって完全に、、、。」
アリス「でも、杉ちゃんが、普通に新生児室にいたといっていたわよね。」
陽子「私、何かしたのでしょうか?」
蘭「これはことだぞ。」
陽子「私、、、。」
アリス「お母さんのことじゃなくて、赤ちゃんの問題です。本来なら、2500に到達していなかったわけですから、完全に未熟児ということになるんですよ。そうなれば、新生児室ではなくて、保育器の中にいれてもらわないと、、、。」
蘭「そうしないと、体に何か異常を持つようになりますよ。心臓がうまく使えないとか、脳出血になるとか、重大な病気を持つことになるんです。ある国会議員さんの息子さんがそうでしたよね。だったらなんで一般の新生児室に入れられていたんだろう。」
陽子「やっぱり私は、、、。」
蘭「生まれる前に、何も言われなかったんですか?体重が少なすぎるとか。」
陽子「いえ、何も言われませんでした。」
蘭「本当に?」
陽子「はい、、、。」
蘭「これはもしかしたら、お母さんだけの問題ではないのかもしれません。」
アリス「全部病院の仕業です。これは、警察に調べてもらわないと、いけないかもしれませんよ。」
陽子「私、、、。」
アリス「お母さんが自信を責める必要はありません。ええ。まったく。こんな病院、信用できませんね。私、知人の弁護士の先生に聞いてみましょうか?もしかしたら、賠償金とかとれるかもしれませんよ。」
蘭「弁護士の先生じゃなくて、お医者さんだろ。とにかく、淳君の容体が、どうなるか。それをまず考えなきゃ。」
アリス「あ、すすり泣きが聞こえてきた。」
ドアが開く。父親と、杉三が入ってくる。
蘭「杉ちゃん。」
杉三「人殺し!人殺し!人殺し!」
蘭「そうだったか、、、。」
杉三「体操選手みたいになって、旅立ったよ。」
蘭「体操選手?」
幸彦「破傷風だそうだ。」
蘭「破傷風って、こんなところでは感染しないはずですよね。だってあれは、よく農作業でかかるとかいいますけど、、、。」
幸彦「ああ、臍帯を切ったときに器具を正確に使わなかったのが原因だったらしい。それに、未熟児で生まれていたことも、経費節減のため、知らせていなかったそうだ。」
杉三「いくらごめんねと言ってもね、彼は二度と帰っては来ないよとさんざん言ったのに、悪かったとこれっぽっちもいわないんだ!ここが、一番権威のある病院だと聞いていたけど、大間違いだったね!」
アリス「わかったわ。じゃあ、弁護士の先生を探しましょう。この近くに住んでいらっしゃる方だと、だれになるかしら。これはひどすぎますから、損害賠償を出させてもいいんじゃないかしら。」
蘭「僕らも手伝います。二人だけでは本当に大変だと思うので、、、。」
杉三「それよりも、お母さんの気持ちを考えてあげて!」
母親「やっぱり私のせいだったんだ、、、。」
杉三「これはみんな、病院の仕業です。自分たちの財布のために、みんな病院が企てたことです!」
母親「でも、生んだのは私です。この病院を選んだのは私です。やっぱり、私は、母親失格だったんですね!」
蘭「もしかして、長期入院になったのも、病院の戦略なんじゃありませんか?」
幸彦「そうだな。さっさと出たほうがいいかもしれないな。」
杉三「待って、陽子さんを休ませてあげる必要はあると思う。」
幸彦「どっかのホテルで静養しようか?」
杉三「よかったら、僕のうちへ来ませんか?知ってる人は誰もいないし、いるとしたら、僕の母だけです。非難する人も誰もいませんから。ちょうどね、うちに空き部屋があるので、、、。」」
幸彦「そうだ、それがいい。いつも車が通ってばかりいる家より、静かなところがいいだろう。しばらく一週間くらいのんびりしろ。」
陽子「いいんですか?私のようなよそ者がのこのこ入るなんて、、、。」
杉三「ええ、大丈夫ですよ。空き部屋の使い道がなくて、困ってましたから。」
幸彦「損害賠償のことは俺がこの人たちとやるよ。だから何も心配しないでいいから、ゆっくり休んできな。」
杉三「そうそう。これはもらい子殺人だ。しっかりと、損害賠償はとってもらわなくちゃ。」
陽子「じゃあ、お願いします。」
杉三「わかりましたよ。」
翌日、陽子は武田病院にわかれを告げ、杉三の家に泊めてもらうことになった。
博多。小さなアパート。奈美恵が帰ってくる。
と、テーブルにはごちそうとグラスが二つ。
奈美恵「ただいま。なにこれ。」
夫の牧夫は、料理人だったから、なんでも高級な食材を使いたがった。それを見て、奈美恵はまた気分が悪くなった。
牧夫「お帰り。できたんだろ。」
奈美恵「何が?」
牧夫「驚かそうとしてたのか。ごみ箱の中に、この写真が入っていた。」
と、一枚の写真を取り出す。胎児の超音波写真。
奈美恵「どこで見つけたの?」
牧夫「いや、机の下のごみ箱に入っていた。よかったな。これからは三人になるんだな。今日はお祝いだ。お前の大好物のグラタン作っといた。」
奈美恵「何を言っているの?」
牧夫「うれしくないのか?」
奈美恵「人の机を覗き込んだりしないでよ。」
牧夫「いいじゃないか、結果としていいことなんだから。」
奈美恵「働かないくせに、喜んでもらう必要はないわ。私たちの経済力では、育てられないってわかってるのに。」
牧夫「でもいいじゃないか。」
奈美恵「それとは違うわ!」
牧夫「何が違うんだ?」
奈美恵「何がって、、、。」
牧夫「こたえろよ、お前ばっかり逃げているわけにはいかないんだぞ。」
奈美恵「逃げてるのは誰よ、あたしの稼ぎじゃないとやっていけない人が、私に文句なんていう権利はないわ。」
牧夫「そうかもしれないが、子孫を残すってのはとっても嬉しいことなんだけどな。」
奈美恵「男のくせに言わないで。だったら金を稼いで、働きに行って!いつまでも先生に禁止させられているとか、言い訳をしないでよ!」
牧夫「好きでうつ病になったわけじゃない。ただでさえ悲しい気持ちになってしまうのに、それを打ち消してくれるような喜びを得てはいけないのかい?」
奈美恵「当たり前でしょ、この世の中、なにが一番だと思ってるの?」
牧夫「そんなに、だめか。」
奈美恵「当り前よ!それすらわからないあんたには、親になんかなってもらいたくない。それに、そういう環境で育った子供が、どんなに苦しむか、想像もつかないでしょ。それがわかるんだったら、今何をするのが適切なのか、ちゃんとわかってからお祝いをして!」
牧夫「わかったよ。」
と、ペンをとってくる。
牧夫「どこに書けばいいんだ?」
と、差し出された書類に署名する。
奈美恵「ありがとう。明日中絶するから。」
と、電話が鳴る。
牧夫「はい、、、ああ、お姉さん。ご無沙汰しています。ああ、ああ、まあ、僕も奈美恵も楽しくやってますよ。は?残念なお知らせ?えっ!本当ですか!それはそれはご愁傷さまで、、、。そうですか、、、。本当に僕はなんと言ったらいいのか正直わかりません。ああ、葬儀、ああ、わかりました。日付が取れたら、そちらに伺いますから、ああ、すみません、、、。」
と、電話を切る。
牧夫「お姉さんの赤ちゃん、破傷風でなくなったよ。」
奈美恵「ちょうどいいわ。じゃあ、この子もらってよ。私が生んだ後、養女にでもしてあげれば解決するでしょ。」
牧夫「奈美恵。俺は確かにダメな男なのかもしれないが、一つ言えることがある。お前は、命を軽視し過ぎだぞ。お姉さんが赤ちゃんを産んだ時のことを、考えろ。」
奈美恵「ええ、わかってるわ。少なくとも、この子は私より姉にあげたほうが、絶対に成功する。」
牧夫「そうかもしれないが、誰かをなくすってのは、本当につらいもんだぜ。俺の母ちゃんも、俺が生まれる前に流産で子供を亡くしたそうだが、その時は、医者にさんざん叱られて、もう、やるせなかったそうだ。それと、お姉さんは同じ経験をしたんだ。そこを考え直したほうがいいぞ。」
奈美恵「うるさいわね。もう、白紙撤回よ。だってもう、中絶の書類書いちゃったでしょ。」
牧夫「でも、考えてほしいな。」
奈美恵「うるさい!」
杉三の家。食事をしている杉三達。
美千惠「どうですか。少しは食べれるようになりましたか?」
陽子「ええ、杉ちゃん、いや、杉三さんのお料理はなんでもおいしいので、食べたくなります。」
杉三「杉ちゃんでいいんですよ。」
蘭「アリスが、カウンセラーの先生を探してますから。もう少し待ってくださいね。」
陽子「本当に、ありがとうございます。皆さんのおかげで、たすかりました。」
蘭「いえいえ、昔は誰でもこういうことがあれば、助け合うのが常だったと思うので。気にしないでください。」
陽子「ありがとうございます。」
杉三「いいんですよ。こうして、お手伝いができるのも、バカの一つ覚えですから。僕みたいな人が役に立つなんてなったら、世の中相当、おかしくなってますから。」
蘭「また桁外れなこと言って。」
杉三「いいってことよ。」
陽子「あの、お願いがあるんですけど。」
杉三「はい?」
陽子「私に、料理を教えてくれませんか?このカレー、本当においしいんです。私は、もう子供は作れないかもしれません。でも、何か子供のためにしてやりたいっていう気持ちだけは、私は持っていたいんです。だから、お料理のおばさんになりたいなと、思うようになりました。」
蘭「でも、この人は、分量とかなんだとか、何もわからない人なので、、、。」
陽子「いえ、それはこちらで工夫しますから大丈夫です。例えば動画で撮るとか。」
美千恵「いいアイデアじゃない。うちの杉三が何かに使えるんなら、何にで
も、使ってやって。」
陽子「ええ、ありがとうございます。じゃあ、お願いします。」
同じころ。着替えをしている奈美恵。パジャマからジーンズに履き替えようとしたが、どうしても入らない。首をひねって考えていると、
奈美恵「まさか、、、。」
と、腹に手をやる。と、本当にかすかであるが、腹をけられた感触がした。
奈美恵「どうしてこんなに!」
と、無理やりジーンズしめると、ジーンズのボタンは外れてしまった。しかたなく、季節外れのワンピースを引っ張り出して、彼女は病院に向かった。
ところが、病院に行き、検査を受け、医師の前に座ると、医師は困った顔をした。
医師「奈美恵さん、これは本当に落ち着いて聞いてほしいんだけどね、昨日であれば、まだ望みは叶ったのよ。だけど、もう、今日から22週目に突入しているでしょ、それではもう、違法になるの。だから、考え直してくれないかな。」
奈美恵「じゃあ、どうしたらいいんです?」
医師「うーん、特別養子縁組に出すか、里親さんに出すか、、、。」
奈美恵「じゃあ、そうしてください、うちは夫が精神疾患ですから、育てることは多分できません。」
医師「でも、これはご家族に相談していただいたほうが。」
奈美恵「なんでそんな必要があるんです?私が働けなければ、やっていけないんです。そのさらに口が増えるなんてもってのほか。早く生んでしまって、ほしい人にくれてやろうと思いますから。」
医師「本当は、生んでくれた人に育ててもらうのが赤ちゃんも一番喜ぶんだけどな。」
奈美恵「そんなことは、絶対にありませんから!」
医師「どうかしらね。これから、変わってくることだってあるわよ。そういうお母さん、何人も見てるから。」
奈美恵「連外のないルールはありません。」
と、怒りに任せて立ち上がり、産婦人科を出て行ってしまう。
奈美恵は、家に帰ろうとする気が起こらず、喫茶店に入る。ウエイトレスの案内で一番奥の席に座る。隣のテーブルを見ると、
女性「ほらりょうちゃん食べよう。」
りょうちゃんと呼ばれている少年は、ストレッチャーの上に乗っている。女性は、グラタンをスプーンでとり、彼の口に運んでやる。
女性「おいしい?」
少年「うん。」
女性「よかった。」
奈美恵「あ、、、。」
女性「ああ、気にしないでください。この子、こうしてあげないと、食べられないんです。」
しかし彼女は、奈美恵よりもはるかに若い母親だった。
奈美恵「ちょっと、聞いてもいいですか?」
母親「なんでしょう?」
奈美恵「今、おいくつなんですか?」
母親「私ですか?まだ23です。18歳で生んだので、、、。」
奈美恵「と、いうことはつまり、、、。」
母親「ええ、まあ、大学にいたんですけどね。中退してこの子と生活しています。ふしだらな私が悪かったんですよ。こんな重たい障害で生まれてきたんだもの。私もまだ未熟で、大学に行くために女郎をしていたことだってあったから。それより、母親になったことで、女郎なんかだめだと気が付きました。」
奈美恵「それでは、堕胎したほうが、あなたもよい生活ができたと、考えなかったのですか?」
母親「いいえ、実際に生んでしまうと、この子のいない生活なんて考えられなくなりますよ。それでいいんです。だって、客を相手にしているよりも、この子を世話していたほうが、強くなれる気がしますから。」
奈美恵「そうですか、、、。」
奈美恵は二人のやり取りをじっと見ていた。りょうちゃんと呼ばれているその少年は、きっと一生寝たきりであることは奈美恵もすぐにわかった。それでも母親は、彼を育てていく。
奈美恵「聞いてもいいですか?」
母親「なんでしょう?」
奈美恵「今、幸せですか?」
母親「もちろんです。女郎をしていた時よりもずっと幸せです。それはりょうちゃんのおかげであって、間違いはありません。」
奈美恵「お金がなくてもですか?」
母親「ええ。それよりも、ずっと大事なものをもらったからです。」
奈美恵「そうなんですか、、、。」
と、奈美恵のスマートフォンがなった。
奈美恵「はいはい、もしもし牧夫?今、、、。」
声「いいからすぐ来てくれないか。君のお姉さんが大変なんだって。」
奈美恵「姉がどうしたの?関係ないわよ。」
声「そうなんだけど、自殺未遂したんだってよ!一生懸命立ち直ろうとするが、何かあるとすごく暴れて、手が付けられない状態だからだ!」
奈美恵「幸彦さんは?」
声「ああ、しばらく出張があるそうだ。彼女の治療費のためだよ!」
奈美恵「病院なら、医者や看護師がいるでしょ?」
声「お前も鈍いな。そういう人に助けてもらえないから、こうして家族にい願いしているんだろうが。いずれにしても、すぐ帰ってこい。そして、博多駅から、静岡に向かおう。」
奈美恵「私これから、、、。」
母親「ちょっといいですか?」
奈美恵「は?」
母親「行ったほうがいいですよ!私も、この子が生まれたとき、同じことをして、実母に来てもらったことがありました!それは、家族でなければできないことです!」
奈美恵「でも、、、。」
声「早くかえってこい!君のお姉さんは、一人しかいないんだぞ!」
奈美恵「わかったわ。」
と、電話を切り、喫茶店にお金を払うと、重たい腹を抱えながら、家に向かっていく。
富士川橋をわたっていく新幹線。空は黒雲が多く、今にも雨が降りそうであった。
池本クリニック
集中治療室で、治療を受けている陽子。
幸彦「本当に、助かるんでしょうか。」
蘭「今夜が山だといわれました。」
幸彦「給食の仕事について、僕は大喜びしていたのですが、こんな結果になってしまうとは、、、。」
蘭「まあ、女の職場はいじめがあるっていうのは聞きましたけどね。確かに小学校は、難しかったのかな。」
杉三「僕のせいだ。」
蘭「杉ちゃんのせいじゃないよ。だって、彼女が学校給食の仕事がしたいっていったんだから。」
杉三「だからそれは僕が悪いの。僕が、カレーを作って作り方教えろって言ったからだ。」
蘭「まあ、そうだけど、自分を責めてもしょうがないよ。」
杉三「みんな、いい時にはいいことを言うけど、悪いことのほうが真実には近いからね。」
蘭「なんだそれ。」
杉三「うん、すぐわかるよ。だって、彼女は自信をもって学校給食にいった。確かにみんな歓迎してくれてはいたけれど、本当は自分たちのテリトリーが壊されるかと思って、彼女を自殺に追い込んだ。それは、僕がカレーの作り方を教えたのが悪い。だから僕が責任を取らなくちゃ!」
蘭「まあ、確かに杉ちゃんのカレーは、みんなが普段食べているカレーと違うよね。でも、それはよくあることだし、それを直接の原因に決めつけてしまうのはよくないよ。」
杉三「うん。でも、僕だけでも、味方だと思ってもらいたかった。だって妹さんたちは、完全に彼女のほうを向いていないからだ。せめて僕のうちに来てている間の時間を頼りにして、生きてほしかった。」
幸彦「奈美恵さんもこまりますな。お姉さんのことほっぽらかしで。」
蘭「そうですね。なんだか、煩わしいような態度をとってましたよね。」
声「お待たせしてしまって、申し訳ございません!あの、お姉さんは大丈夫なのでしょうか!」
と、荷物をもって牧夫がやってくる。
杉三「ああ、やっと来てくれた。」
幸彦「はい、今日が山だそうです。」
牧夫「遅くなり、失礼しました!なんとも、農薬を飲んでしまったとか!」
幸彦「はい。草殺しをね、、、。僕は、妻に何にもしてあげられなかったんですね。」
牧夫「ええ、男は仕事を持たなければならないけど、それをしてやれないってのは、本当につらいものです。」
蘭「お互いのことを責めないでください。どちらが悪いなんて、誰にも決められません。」
と、ドアが開き、院長が出てくる。
院長「最善の手はつくしました。しかしながら、もう見込みはありませんので、、、。」
幸彦「先生、仮に蘇生できたとしても、障害が残るといいましたよね、それはもうないのですか?」
院長「ええ、努力はしたのですが、、、。」
幸彦「障害が残ってもいいから、彼女を何とかしてやってくれませんか。」
院長「いえ、もう無理です。あと五分ほどしたら、もうお清めを行うことになります。」
幸彦は、座り込んで何も言えなくなってしまう。
蘭「幸彦さん、」
と、彼の肩に手をのせる。
蘭「一緒に行きますから、奥さんの最期、見てやってくれませんか。」
幸彦「はい、、、。」
二人、院長に連れられて、治療室に入っていく。
杉三「奈美恵さん。」
奈美恵「なに。」
杉三「生んでやってくれませんか。」
奈美恵「なにを?」
杉三「その子を、です。きっと、お姉さんの残してくれた、最期のプレゼントだとおもいます。」
奈美恵「え、、、。」
杉三「だって、もう、姿形もなくなってしまうんですもの。でも、人間って、完全に独りぼっちということは絶対にできないんですよね。なくなった人ってね、必ず何か落とし物をしていくんです。誰も縁がないとしてもね、無縁仏とかして、何らかの形で残りますよ。だから、その赤ちゃん、お姉さんが仏さまと面接して作ってくれたんじゃないかあな、、、。」
奈美恵「宗教じみたこと言って、何ですか。だって私たちはお金がないんです。だから、子どもなんか育てられないんですよ!」
牧夫「いや、この人の言う通りだと思うぞ。俺も、生命は輪廻するという言葉を聞かされたことがあった。命というものは、消えていくものでもあるけれど、新しくできるものでもあるからな、人の手ではそういうことはできないぞ。」
杉三「どうか、生んでやってくれませんか。赤ちゃんには何も罪もありません。お姉さんが、天の世界で少しでも幸せになれるよう願いも込めて。きっと、自ら命を絶つ人ってね、いいところへ行かれないいって、庵主様がおっしゃっておられました。」
奈美恵「私、、、。」
と、ドアが開く。ストレッチャーが出てきて、両隣に蘭と、幸彦が控えている。
幸彦「奈美恵さん、短い間だったけど、ありがとう。血縁のない僕がいうのも難ですが、きっと来てくれて、陽子は喜んだでしょう。」
看護師「じゃあ、ご遺体を霊安室に、、、。」
ストレッチャーは静かに消えていく。
数か月後。杉三の家。
配達員「杉三さーん、郵便でーす。」
と、ポストにはがきを入れる。
杉三は急いで玄関を出てはがきをとる。
杉三「やったぞー!」
蘭「どうしたの杉ちゃん。」
杉三「ほら!」
と、はがきを差し出す。そこには、赤ちゃんの元気そうな写真。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます