称号の家
川に面したある道路。昨日雨が降ったせいか、川の水が幾分多い気がする。
蘭「昨日はすごい雨だったね。夜のうちにやんでくれたからよかったようなものだ。てっきり、決壊するのではないかと思ったよ。」
杉三「なあ蘭。」
蘭「どうしたの?」
杉三「あれ、なにかな。」
蘭「車だ、、、。」
杉三「も、もしかしたら昨日の雨で流されてきたのかな。」
蘭「いや、それなら木が一緒に流れてきたりするはずだよ。それに、ここへは避難指示も何もでなかったはずだ。決壊するかと思って一晩中テレビをつけていたけれど、ここへは中継も何も来なかったし、、、。」
杉三「でも蘭、車ってことは、誰かが運転してるんじゃないの?」
蘭「もしかして、車だけ立ち位置を間違えて、流されたのかな。確かにここはそれほどではなかったかもしれないけれど、上流はひどかったのかもね。」
杉三「知らせよう。」
蘭「わかった。」
と、スマートフォンを出して富士警察署へ電話をする。
蘭「あ、今大川の近くにいるのですが、川の真ん中に車が放置されています。撤去してくれませんか?ええ、ああ、わかりました。お待ちしていますので。」
と、電話を切る。
蘭「すぐ来るってさ。念のため、僕らも待っていてくれって。」
杉三「わかったよ。」
蘭「どうしたの杉ちゃん。」
杉三「おかしいと思わない?」
蘭「おかしいって何が?」
杉三「うん、なんで川の真ん中にあるんだろう。」
蘭「川の真ん中?たまたま浅瀬に乗り上げただけじゃないの?」
杉三「でもさ、車止めるときってさ、窓を開けっぱなしにして止める人っていないでしょ。みんな窓を閉めるでしょ?それがあの車は、全部開いているんだよ。」
蘭「そういえば、、、。そうだよな、、、。てことはつまり、、、。」
声「おーい、蘭。来たぞ。」
振り向くと華岡だった。何人かの部下と一緒に、パトカーでやってきた。
華岡「どの車なんだ?」
蘭「あれ。白い軽自動車。」
華岡「わかった。今から引き上げる。よし、みんな、準備してくれ。」
それぞれの制服を着た技師たちが、道具をもって車を引き上げる作業を開始する。
杉三「ねえ、華岡さん。昨日、この川は氾濫した?」
華岡「いや、しなかったよ。テレビでさんざん脅かしていたけど、それほどひどくはならなかったみたいだ。全く、テレビも大げさだよな。」
杉三「それならなおさらおかしいな。氾濫しなかったのなら、なんで車がここにあるのだろう。」
部下「警視、大変です。車の中から、男性と女性の遺体が見つかりました!すぐに本部に知らせなければ!」
杉三「やっぱりそうだったんだ!」
部下「おーい、こっちに女の人が倒れているぞ!」
部下「まだ息があります。大丈夫ですか?歩けますか?」
華岡「わかった。彼女をすぐに病院に連れて行くように!」
杉三「女のひと、、、。」
部下たちが車の中から二人の遺体を外へ出した。二人とも、白い京帷子を身に着けていた。若い女性は、部下の一人が背負って連れてきたが、やはり京帷子を身に着けていた。
華岡「すぐに病院に行きましょう。」
女性「私が殺しました。」
華岡「殺した?」
女性「はい、父と母です。」
杉三「なんでまた!本当に恐ろしい!」
華岡「とりあえず、体を治していただいてから、署のほうでゆっくり聞かせてもらいますから。」
女性「はい、わかりました。いくらでもせめていただいて結構です。私は、斉藤あやといいます。」
華岡「斉藤あやさんね。わかりました。じゃあ、とりあえず、病院に行きましょうね。」
あやは、華岡の部下が運転する車に乗り込む。車は病院にむかって走っていった。
杉三「心中、だったのかな。」
蘭「あんまり首を突っ込むなよ。」
杉三「何かあったんだね。」
蘭「でも、親殺しはいけないことなんだから、ちゃんと法律で裁かなきゃいけないよね。」
杉三「そうかもしれないけど、なんか違うものがあったような気がするんだ。僕はそう思うよ。」
蘭「杉ちゃん、犯罪を美化するな。悪い人は徹底的に悪いと思いなよ。だって生きている人の命を奪うってことは、その周りの人たちにも迷惑をかけることになるんだよ。その典型的なものは戦争だけど、」
杉三「だっていま戦争はしてないよ。」
蘭「人が亡くなるって、ただでさえ悲しいことなのに、その命を奪ったひとはまだこの世にいるってことを考えろ。それだけでも遺族の気持ちは計り知れないよ。残された家族とか、恋人とか、永遠の別れを突然告げられて、心も体もめちゃくちゃにされて、それをやった張本人はまだ生きているとなれば、たまったものではないでしょうが。」
杉三「蘭のほうが美化してる。だって、あの人は、その家族をやったんだよ。」
蘭「もう。ほかにも身内はいるじゃない。親戚とか、友人とかいろいろいるんじゃないの?」
華岡「そうだね、蘭。それもわかるが、もしかしたら杉ちゃんの言う通りかもしれないぞ。だって三人そろって死に装束を着ていたことは、彼女たちが、同意しあって着用したことになるかもしれない。」
蘭「でも、殺害したということは、、、。」
華岡「まあ、調べておけばわかるだろうよ。まあ、ここはお開きにして、帰ろうぜ。でも、今回は二人が第一発見者になったわけだから、捜査には協力してもらう。じゃあ、署に戻るから。」
蘭「いつも悪いね。迷惑かけちゃって。」
華岡「いいってことよ。またな。」
と、車に乗り込んで署へ戻っていく。
蘭「僕らも帰ろうか。」
杉三「そうだね。せめて僕たちだけでも、お祈りしてあげたいね。」
蘭「杉ちゃん、、、。」
杉三は、川に向かって合掌し、
杉三「なむ釈迦牟尼仏、、、。」
と唱える。
杉三「庵主様に教えてもらっておいてよかった。こういう時に使えるからなあ。」
蘭「本当に杉ちゃんは変わり者だ。行くよ。」
と、言いながら車いすを進める。杉三もついていく。
数日後。蘭の仕事場。今日のお客さんは、若い男性だった。
蘭「ああなるほど。つまり好きだった人の誕生花を彫りたいわけですね。その方は、もう亡くなってしまったのかな。」
客「いえ、亡くなったわけではないのですが、もうこの世には戻ってこれないと思います。」
蘭「どういうことですか?」
客「先生はテレビ、見ないんですか?」
蘭「あるにはあるんですが、ほとんど見ていないので、、、。」
客「あや先生の誕生花であった木瓜を彫ってくれませんか?」
蘭「あや?もしかして斉藤?」
客「その通りです!僕は高校時代、挫折したことがありましたが、あや先生に助けてもらいました。あや先生は、直接進学率に関わった人ではありませんので、本当に親身になって聞いてくれたんです。でも、あや先生があんな事件を起こしてしまったのは、信じられないくらいでした。だからあや先生を尊敬しているという意思を示すため、先生の誕生花を残しておきたいんです。もう、高校は出てから十年たちましたが、先生のことを忘れたことは一度もありません。」
蘭「わかりました。そういうことなら彫って差し上げます。ただ、僕は機械彫りは全くできないので、ものすごくお時間がかかってしまいますが。」
客「かまいません。機械は、みんなおんなじように見えてしまうから、嫌です。」
蘭「そうですか、今時珍しいですね。手彫りを好むなんて。じゃあ、図柄を考えていこう。」
その日、杉三の家。杉三たちが夕食を食べている。
杉三「へえ、学校の先生だったんだ。しかも高校とは。」
美千惠「進学率に関わらないと言ったら、体育か家庭科の先生かな。」
蘭「確かに軽視されている学問ではありますね。」
美千惠「そうね、体育は、やらない高校もあるけどね。例えば通信制の高校であれば、病気を持っている生徒さんとかいるから、やらないところもあるみたいよ。」
蘭「ああ、そうなんですか。通信制、今はふえてますよね。」
声「おーい蘭、いるか。」
美千惠「ああ、華岡さん。待って、今カギ開けるから。」
と、玄関にいって、鍵を開ける。と、同時に強引に入って食堂へいく華岡。
華岡「いま、蘭の家に行ったが、明かりがついてなかったから、こっちにきたんだよ。」
蘭「で、どうしたの、今日は。」
華岡「ああ、あの女についてだ。斉藤あや。」
杉三「あやさんがどうしたの?」
華岡「いくら取り調べをしても、何にも言わないから、困ってるんだ。父親のことも、母親のこともね。」
蘭「ああ、またそういうことか。お前がへたくそな取り調べをするからじゃないの。」
華岡「蘭は厳しいな。」
杉三「あやさんが、学校の先生であることは聞いた?」
華岡「本当か?そんなこと、一度も言わなかったぞ。」
蘭「今日お客さんが来たんだけどね、彼はあやさんにとてもよくしてもらったらしいよ。とても親身になって悩みを聞いてくれたって。まあ、もちろん、高校を出て、何年もたっているが、忘れたことはないそうだ。」
杉三「進学率には関わらなかったって。」
美千惠「貴重な教師だったのに。もったいないことしたのね。華岡さん、いつも通りお風呂はいる?涌いてるわよ。」
華岡「喜んでそうさせてもらいます。部下の者にも、汗臭いと毎日毎日言われているので。」
蘭「あんまり長風呂はだめだぞ。」
華岡「そんなこと言わないで、はいらしておくれよ。体を洗えるところがある風呂に入るのは何日ぶりか。お前みたいに、いい嫁さん、もらえなかったんだから。じゃ、入らせてもらいます。」
美千惠「熱いかもしれないから、適当に薄めて頂戴ね。」
華岡「わかりました。」
と、堂々と浴室に行ってしまう。
美千惠「学校の先生か。なんだか、学校の先生って、弱い人と強い人に二分化されてる気がするわ。」
蘭「まあね。うちのお客さんにも、学校でひどい目にあったのを忘れたいという人はたくさん見えますが、それだけ、先生の質が下がってきているんですかね。」
美千惠「それに、階級がどうのこうので、誰でもよい学問を学べるかっていうと、そうでもないわよね。確かに東大出た人は、偉い人かもしれないけれど、それだけしか見られないってのはやっぱり人種差別だわ。」
蘭「そうなんですよね。その怒りを吐き出す場がないってのも、困るんですよね。まあ、僕らは商売繁盛でいいんですが。せめて味方になってくれる人を、もうちょっと作ってもらいたいものです。僕も、彫るときは、日本人であればだれでも知ってるはずの美意識を、口に出していうようにしていますが、それが通用しなくなったなあって、本当に思いますよ。」
声「いい湯だな、、、。」
蘭「何分風呂に浸かってるんだと思っているんだか。」
美千惠「お湯加減は?」
声「丁度いいですよ!これに、酒があったら最高なんだけどなあ。」
蘭「全く、ああいう日本人もいるんだね。」
取調室
刑事「この場を借りて、白状したらどうです?どうして親御さんを殺害しようとおもったのか。」
あや「刑事さん、いくらあなたたちが取り調べをしても答えは同じです。私が殺害したことは確かですが、こうしたことで、私たちはよかったと思っているんです。私なんて生きていても仕方ない。だから、いちいち取り調べなんかしないで、死刑にでもすればいいでしょう。」
刑事「そうなんですけどね、取り調べはしなきゃいけません。ちゃんと、あなたがどうしてご両親を殺害に至ったか、それをしっかり把握していかないと、次の場所にはお送りできないんですよ。だから、ここで本当のことを話してください。」
あや「日本の法律って複雑すぎます。すぐに刑務所に送ることができないなんて。」
刑事「だったら、本当のことを言ってくださいよ。」
華岡が入ってくる。
華岡「あやさん、調べてみたのですが、あなた、高校の教師だったようですね。そんな職業についていたあなたが、どうして人殺しなんかをしたのですか?本来なら、その逆を伝えていくべきでしょう?」
刑事「警視、それは本当ですか?」
華岡「はい、あなたに十年前に受けもたれていた生徒さんから聞きました。とてもいい先生だったそうですね。進学率には関係はなかったけど、その分親身に相談にのってくれたって、いってましたよ。」
あや「人間は十年たてば別人みたいになりますよ。確かに私は教師でした。でも、それのせいで、逆に苦しんだことだっていっぱいあります。」
華岡「何があったんです?生徒さんに尊敬される教師なんて、今時そうはいませんよ。なんの科目を教えていたのですか?」
あや「体育です。でも、何も役にたちません。ほかの教師から、進学率に関係ないとさんざん言われるし、受験シーズンではほとんど活動しなかったので、この暇人とか言われて、もう、教師という仕事は嫌でした。」
華岡「それでは、その生徒さんは本当にかわいそうなことになりますよ。それでいいんですか?」
あや「いいじゃないですか。生徒なんて。勝手に思ってくれたらそれでいいです。いずれにしろ、教師なんて、なんの役にも立ちませんもの。ましてや、受験に関わらないなんて。もう、体育なんて、作らないほうがいいんじゃないかしら。」
華岡「そうですか、本音ではそんな気持ちで教師をしているから、少年犯罪が後を絶たなくなるんですね。情報をありがとうございます。じゃあ、本日の取り調べはここまでに。」
と、部下と二人で取調室を出る。
富士駅。蘭と杉三が買い物を済ませ、タクシー乗り場に向かう。しかし、車いすエレベーターのところまで行ってみると、エレベーターは故障中と張り紙がしてある。
蘭「困ったな。また故障中だよ。仕方ない。北口からでよう。」
杉三「でもタクシー乗り場はこっちだよ。介護タクシーは、こっちしかないでしょ。」
蘭「バスで帰ろうか。」
と、車いすを方向転換させようとすると、
声「お手伝いしましょうか?」
と、体格のいい男性と女性が真っ黒な喪服に身を包んで立っている。
蘭「いや、僕らは何とかしますので。」
男性「どちらにしろ、北口も故障して言るようですよ。」
杉三「えっ、そっちも故障?」
男性「そうですよ。今見てきました。日本の福祉は相当遅れていますな。」
杉三「そうですよね。じゃあ、お願いしようかな。僕たちをタクシー乗り場に連れて行ってください。」
女性「あたしたち、柔道をやっているので、体力なら自身があるんです。二人とも師範で、彼が道場で柔道を教えて、私はその手伝いで。」
杉三「じゃあ、お言葉に甘えます。僕たちをタクシー乗り場まで連れて行ってください。」
男性「じゃあ、乗ってくださいね。」
と、まず蘭を片腕で背中に背負い、車いすをもって、階段を下り、再び乗せてやる。杉三も同じようにして女性に運んでもらう。
蘭「本当にありがとうございました。柔道の先生となると、やっぱり違いますね。杉ちゃん、君も礼を言わないと。」
女性「いえいえ、構いません。亡くなった教授が、柔道は弱い者を救うための競技だといってましたし。それより、私たちも聞かなくてはいけないのですが、セレモニーホールはどこにあるのでしょう?」
蘭「ああ、道は知ってますけど、ちょっと遠いですよ。」
女性「どのくらいかかりますか?」
杉三「一緒にのせてあげたら?お礼も兼ねて。」
蘭「そうだね。僕らも通り道だしね。じゃあ、乗ってください。」
と、停車しているタクシーのところへ移動し、
蘭「僕たちの自宅まで送ってほしいのですが、二人をセレモニーホールまで、乗せてあげてください。」
運転手「いいよ。乗りな。」
男性「どうもありがとうございます。」
二人にもてつだってもらって、杉三たちはタクシーにのりこむ。
杉三「お二人はどちらから見えられましたか?」
男性「東京です。」
蘭「よく、こんな遠いところへわざわざ、、、。」
杉三「どなたかのお葬式ですか?」
女性「ええ、私たちが学生時代からずっと尊敬していた教授のお弔いです。なんとも、悲惨な最期だったそうで、私たちも驚いています。どうしてあのような死に方をしなければならなかったかって。」
杉三「と、申されますと?」
男性「ええ、奥さんと娘さんと一緒に川へ飛び込んだとか、、、。」
杉三「まさか、その人の娘さんって、斉藤あやさん、、、?」
女性「私は、娘さんの名前は知らなかったのですが、教授のお名前が、斉藤浩二で、奥様の名前が斉藤よしでした。」
杉三「失礼ですが、どこの大学ですか?」
男性「僕たちは、二人とも、日本体育大学でした。同級生だったんです。教授が導いてくれたんですよ。」
蘭「そうだったんですか、、、。」
運転手「お客さん、着きましたよ。セレモニーホール。」
男性「どうもありがとうございます。」
女性「本当にありがとうございました。」
と、タクシーを降りる。玄関前には「斉藤家」と毛筆で書かれた看板。
蘭「じゃあ、僕たちの自宅まで。」
杉三「待って!」
蘭「どうしたの杉ちゃん。」
杉三「聞こえてくるんだよ。」
蘭「聞こえるって何が?」
杉三「運転手さん、ちょっとしばらくここで止まっていてください。待ち賃は蘭に払ってもらうから。」
蘭「ちょっと!」
杉三「静かにして!」
と、しばらくセレモニーホールの玄関を見つめている。やがて出棺の時になったらしく、金色の霊柩車が走り出し、そこから大勢の、喪服に身を包んだ若い人たちがマイクロバスに乗り込んで出ていくのが見える。霊柩車は、ゆっくりと進行し、若者たちを乗せたバスが、迷子になった子供のように、のろのろと走っていき、ホールは静かになる。
杉三「もういいよ。行こう。」
蘭「待ち賃、、、。」
運転手「いいよいいよ、杉ちゃんはそういう人だから、気にしないよ。じゃあ、お宅まで送るから。料金は、走った分だけでいいからね。」
蘭「もう、すみません。本当にいろんなところに首を突っ込むから、、、。」
運転手「いいよいいよ。あの斉藤さんだって、あんな死に方をされたらたまんないよ。あんなにたくさんの門下生を育てたのに、全部取られたんだからなあ。」
蘭「そうですね。なんだか世の中はどこへ向かっていくのでしょうか。」
運転手「まあ、みんなわからないんだろうけどね。便利になったけど、人は救えないね。」
蘭「そうですね。きっと、さっき乗ったご夫婦にとっても、斉藤さんはえらい方だったのでしょう。でも、娘さんにとっては、それは非常に困ることだったのでしょうか。というより、困るとしか感じることができなかったのが、悔やまれてなりません。」
運転手「でもさ、君たちみたいな人もいるんだから。裏を返せば善にも悪にもなるんだけどね。ほい、着いたよ。」
蘭「あ、ありがとうございます。」
蘭の家の前でタクシーは止まる。蘭は運転手に手伝ってもらいながら、車を降りる。
蘭「杉ちゃん、なにを考えていたの?」
杉三「何もないよ。ただ、みんなの会話を聞いてただけ。」
蘭「そうか、なら早くおりよう。」
杉三「そうだね。」
と、運転手に礼を言い、タクシーを降りる。蘭はタクシーの支払いをし、タクシーは走り去っていく。
杉三の家
美千惠「へえ、立派な人だったのね。」
華岡「俺も調べさせたけど、門下生は何十人もいるらしい。柔道の師範をとって、道場を作った人もたくさんいるんだってな。」
蘭「門下生を育てる間は、自分の子にまで手が回らなかったのかなあ。」
華岡「そうだよな。そこまで立派なのなら、きっと、娘の斉藤あやも、道場を開くまで行ったんだろうな。世間のひとは、そう見るだろう。」
蘭「奥さんについては?」
華岡「確かに一緒に暮らしていたようだが、影の薄い人物だったらしい。」
杉三「影の薄い人?」
華岡「ああ。なんだか育児をしていたのは父親だったという証言があったぞ。」
杉三「仕事でもしたの?」
華岡「ああ、あやが子供のころは働いていたようだが、それ以降はずっと家にいたそうだ。父親の収入で家は十分やっていけたし、娘のあやは、教員になったから、生活には困っていなかったはずなんだけどなあ。」
杉三「教員って公立の?」
華岡「うん。県立の高校だ。」
蘭「それなら、なおさら不思議だよね。経済的には約束されていたのに、どうして心中をはかったのだろう?」
杉三「つまり、隠しておきたかったんじゃないかな。」
蘭「でも、仮にあやさんが問題を起こしたとしても、経済的に不自由していないのなら、あやさんをカウンセリングに通わせるとかして、解決できると思うんだけどなあ、、、。」
杉三「そここそ、心中を図ったきっかけなんじゃないのかな。」
蘭「杉ちゃん何を言っているの?偉い人なんだから、すぐに何か良い知恵が浮かんでくるはずだよ。」
杉三「ううん、偉いってさ、確かにいいことだと思うよ。でもさ、その言葉って、一部に妬みも入ってるよ。」
蘭「また、あやさんのかた持つの?葬儀屋さんで見てきたじゃない。門下生の人たち、みんな悲しんでたじゃない。それでも、あやさんのほうを擁護するの?」
杉三「擁護してくれる人がなかったから、あやさんはご両親を殺害しようと思ったんじゃないかな。」
蘭「杉ちゃん、でもさ。」
杉三「なんか、そんな気がするんだよね。周りの人だって、あの家族を助けようとしなかったのが、いい証拠のような気がする。」
蘭「周りの人って、門下生?」
杉三「無人島で一人で住んでるわけじゃないでしょ。」
華岡「なるほど。つまり近所の人で、誰か助けてあげようと思った人はなかったといいたいわけね、杉ちゃんは。」
蘭「なかなか他人の家を訪れて、どうのこうのというなんてできないと思うけどね。ましてや、大学の教授の家なんて。」
杉三「そうそう。蘭、いいとこ突いた。」
蘭「殺害する前に、あやさんの家族に、何か問題があったと証言する人はいた?」
華岡「それが誰もいないといっていた。部下たちに調べさせたけれど、娘が騒いだとか、そのようなことは全くないって。」
杉三「そんなことは絶対ない。必ず何かあったはずだよ。」
蘭「杉ちゃん、もうちょっと客観的に物を見ろよ。」
華岡「いや、杉ちゃんの勘は、高い確率で当たる。それは俺もしってるよ。これからも捜査に協力してくれ。」
杉三「ああ、なんぼでもする。」
蘭はため息をつく。
と、華岡の携帯電話が鳴る。
華岡「はいはい、どうしたの?重大な目撃者が現れた?」
杉三「やっぱり!」
華岡「うんうん、わかった。すぐ行くよ。」
と、電話を切り、
華岡「悪いがすぐ署に戻る。斉藤あやの家庭の事情を知っている者が現れたのだそうだ。昨日まで入院していて、証言できなかったので、今日したいといっている。」
杉三「僕も会いたい!」
蘭「杉ちゃん、邪魔しちゃいけないよ!」
華岡「いや、むしろ来てほしい。蘭、お前も一緒に来てくれ。通訳のためにもね。」
蘭「わかったよ。」
華岡の用意させたパトカーで杉三たちは警察署に向かう。
刑事課
華岡「おい、誰だって、重要な目撃者って!」
刑事「こちらの方です。尾上龍治さんというそうなんですが、、、。」
華岡「わかった、すぐに会わせてくれ。あと、記録も頼む!」
全員、応接間に移動する。待っていたのは、中年の男性で、杉三たちと同じように歩行不能であった。
龍治「初めまして。尾上龍治です。」
華岡「えーと、斉藤あやさんとはどのようなご関係で?」
龍治「関係といっても、単に相談相手のようなものですが、あやさんはお父さんが僕と同じ病気で悩んでいるとして、僕らが主催していたサークルに来ていたことがあるんです。それ以外のことは何もしりません。そのあとすぐに入院してしまったので、、、。」
華岡「つかぬことをお聞きしますが、病名はなんですか?」
龍治「ええ、脊髄空洞症です。たぶんきっと、お父様は柔道をしていらっしゃったから、それが祟ったのではないかと、彼女は言っていました。お父様が、僕みたいな体になったとき、私はどうしたらいいのかとか、彼女はよくメールで聞いてくれましたけど、僕は入院していて何一つ、返信もできなかったので。家族から、あやさんがご両親を殺害したと聞かされましたが、それは、ある意味僕にも責任があると思うので、今日やってきました。」
蘭「つまり、あやさんとあなたが、もう少し親密になれたら、事件は防げたかもしれませんよね、、、。人間って、本当に弱い者なんだなって、思いましたよ。」
龍治「そうですよね。柔道家として名高い方が、脊髄を損傷したとなれば、お父さんのショックも大変だったでしょう。それに、あれだけ大勢の門下生を抱えて、称号だけが独り歩きしているような人物ですから、きっと、僕よりもショックは大きかったと思います。」
華岡「で、お母さまに対しては何か知りませんか?」
龍治「僕は、詳しくは知りませんが、お母さまはお父様の介護に疲れて鬱になってたとか。」
蘭「ああ、なるほど、、、。それでは彼女は二人を抱えて、、、。それで殺人に行ってしまったんだ。」
龍治「ええ。そういうことだと思います。彼女自身も学校で体育教師をしていましたから、ものすごく大変な仕事だと思うし。」
杉三「で、龍治さんは、今、何をしているのですか?」
龍治「ええ、通信制に通っています。発症した時、高校を中退してしまったので、今、入りなおさせてもらって、結構楽しくやっていますよ。」
華岡「ご不自由な体で来てくれて、本当にありがとう。また、貴重な情報をありがとうございました。」
杉三「ちょっとまって!」
蘭「待つって何を?」
杉三「ちょっとまってよ!」
蘭「どうしたの杉ちゃん。」
杉三「どうして、その先がない?それだけ事情を知っているのに、なぜ何も動かなかったの?自分は幸せになれたから、もう関係ないとでも?それとも面倒だった?」
蘭「杉ちゃん、この人はこの人で事情があるんだから。」
杉三「あやさんに頼りにされていたなら、自分だけ幸せをつかむのはまずいと思う。」
龍治「そうかもしれないですね。」
杉三「今回の事件はそれだと思います。あやさんのことは知っていましたし、斉藤先生のことも知ってはいましたが、誰か手をだしてやろう、までは到達していない。それだと思うんです。」
華岡「僕からもお願いします。あやさんに、あってやってくれませんか。龍治さん。」
龍治「わかりました。」
華岡「取調室のカギを、、、。」
取調室。
声「失礼します。」
あや「何回も同じこと言わせないでくださいよ。」
龍治「あやさん。」
あや「あの時の!」
龍治「ええ。本当にごめんなさい。あのあと、急きょ入院してしまっていて。」
あや「もう、何も来ないと思っていたわ。父が、脊髄が悪くなって、母が一生懸命介護していたけど、鬱になって。私は、教師をしなければならなかったし。」
杉三「あやさん、もっと苦しいというべきだったんです。それでよかったのです。もうちょっと、誰かに打ち明けられたら、きっと楽になれたと思う。蘭のところへ来たお客さんに、あやさんにたすけてもらった生徒さんがきたし、お父さんが出棺の時、門下生さんが尊敬の念をたくさんつぶやいてた。」
あや「人ってうわさはするけれど、いざとなると何もないものよね。」
杉三「そうかな、、、だったら、出棺のとき、あんなにたくさんの人は来なかったと思うな。」
あや「だからやだったの。お父さんって偉すぎて。そんなひとが脊髄やって、柔道ができなくなることをさんざん悩んで、仕舞いの果てには、もう死にたいなんてさんざん出して子供みたいになって!それを周りの人は偉い人だから自分で何とかするだろうとか言ってさ、何も教えてくれないし!この人を抱えていたら私はどうなるか。この人に私の人生をみんなとられてしまうんじゃないかとまえまえから思ってた。お母さんは、はじめは一生懸命介護していたけれど、お父さんがわがままばかりいうから、精神科のお世話になっちゃってさ!そして、私だって、体育なんか教えているから、だんだん受験には必要ない科目になって、いつ首になるかわからなかったわ。だからもう死のうと思ったの!それをあんたたちが邪魔するのね!」
龍治「あやさん、でも、生徒さんからはよい先生だったといわれていたそうじゃないですか?」
あや「ええ、そうしなきゃ雇ってもらえないから。でも、みんな進学率しかあたまにないのよ。」
龍治「僕に、話してくれた時は、まだお父さんを助けてあげたいって言っていたけど、もうそれもないんですか?」
あや「どこかへ捨ててしまったわ。私は、そんな強い人間じゃないから。」
蘭「じゃあ、殺害を計画したのはあやさんだったんですか?」
あや「ええ。父が、歩くのが難しくなったとき、死にたい、と一言口に漏らしたから、それを口実にしようと思ったの。学校には、今年でやめることを伝えて、父を病院まで連れていく口実に、母と三人で車に乗った。道を間違えたふりをして、私は川に車ごと飛び込んだわ。」
蘭「お父さんもお母さんも、驚いたり、怒ったりしなかったんですか?」
あや「ええ。私、ごめんねさえも言わなかった。川は思ったより浅くて、全部浸かるのかと思ったらそうではなかった。私は、父と母を思いっきり水に沈めてやった。何も抵抗することなく、父と母は動かなくなった。そのとき、怖いとか、死んじゃうとか、何も言わなかった。」
杉三「きっとそれが、お父さんとお母さんの、愛情なんじゃありませんか?
蘭「で、あやさんだけがどうして死なずに済んだのです?」
あや「私も流れに乗れば死ねるかなと思ったんだけど、そうじゃなかった。私は、急に流れてきた流れに乗りすぎて、浅瀬に打ち上げられてしまったの。」きっと、二人ともあやさんが自分を殺めようとしているって、感じていたんだと思います。だから、沈むとき何も言わなかったし、浅瀬に打ち上げてくれたのでしょう。だって最愛の娘さんだったのですから。」
あや「そんなことないわ。あれだけ文句ばかり言っていた人物よ。それが、私に対して愛情を持つことは。」
杉三「いえ、娘さんを愛さない親なんていませんよ。それに、僕もあきめくらだからよくわかるけど、どうしてもできるところより、できないところが目立っちゃうのが人間というものだと思うんです。深入りは嫌だとか、めんどくさいという前に、何とかしてくれと、懇願するのは悪ではないと思うんです。事実、あきめくらではそうしなければいられませんから。それが表に現れるか、現れないかだけの違い。それだけだと思います。」
あや「そうかしら、、、。」
杉三「僕は、そう思いますね。」
華岡「この勝負は杉三さんの勝ちです。まず素直に苦しいといえば、あなたはこの事件を犯さずに済んだでしょう。大学教授だとか、称号に惑わされないことです。」
杉三「馬鹿の一つ覚えですが、人間って悩んでいる時だけは平等なんだと思うんです。それを称号で変な風にするからまずいんだ。称号なんて捨てちゃえば、もっと楽に生きることができたと思います。」
華岡「そうそう。杉ちゃんの馬鹿の一つ覚えは、こういう時に本当に使えるんですよね。」
あや「そうですね、、、。」
杉三「本当に、事件なんて起こす必要はなかったのに。僕も、そうならないよう、勉強しなきゃな。」
あや「ありがとうございました!」
華岡「じゃあ、次へ行きましょうか。」
あや「はい!」
道路
蘭「杉ちゃんって、吉と出るか凶と出るか、不思議な人だね。」
杉三「そう。覚えていることはみんな、馬鹿の一つ覚えだからね。」
と、川を見つめる。
杉三「川も怒りを止めてくれたのかな。殺人なんかにつかってほしくないだろうから。」
蘭「まあ、本来のところじゃないからね。」
杉三「さて、帰ろか。」
蘭「そうだね。」
と、川を少しづつ離れて、自宅に戻っていった。
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