切れない包丁

切れない包丁: ドラッグストア。夏がだんだん近づいてきているので、日焼け止めクリームを発売する広告が貼られている。汗をふきながら、杉三が店に入る。

杉三「僕は要らないんだけどな。日焼け止めなんて。」

蘭「欲しがってるのは杉ちゃんじゃなくて、君のお母さんなんだから。お使いくらい、できるようにしないと。」

杉三「大の男が女性用の化粧品を買うのは変だよ。」

蘭「大丈夫。いまは、営業マンが日焼け止めを買う時代になってるから。日焼け止め売り場はこっちだよ。

あれ?」

杉三「どうしたの?」

蘭「なんで?まだ開店したばかりなのに。一個しか残ってないじゃん。」

杉三「一個だけ?もうひとつは?」

蘭「仕方ないよ杉ちゃん。これ、ちょっと高いけどさ、お母さんに話して許してもらいな。えーと、お値段は、え、6500円もするのか。」

と、回りに置かれている値札と比べると、倍以上高い。

蘭「仕方ないな。これを買っていこう。ここで売ってる日焼け止めの中では、一番高いんだろうな。」

杉三「効き目もでるのかな?それなら損はないや。」

蘭「杉ちゃんは、何でもそんな風にとるんだね。幸せハンスみたい。」

と、商品をとる。

二人は、レジの方へ移動する。

杉三「ちょっと待って!」

蘭「なんだ、どうしたの?」

杉三「話し声がするんだ。」

声「だから、どうして在庫を全部買う必要があるんですか?こんなに大量に買われたら、他のお客様にも、迷惑がかかります。他に必要な方がでたらどうします?」

声「必要があるから言うんです!息子がXPと診断されたから!」

声「なんですかそれは。パソコンのOSならとっくに生産されませんよ!」

杉三は、黙って車いすを動かす。

蘭「どこにいく!」

レジに近づくと、若い女性と、店員が口論していた。

周囲の客も何事かと、二人を見ている。

女性「とにかくね、うちの子は、日の光にあたると、死んでしまうかもしれないんです!それを防ぐために、日焼け止めが、月に百個は必要になるんです!だからこそお願いしているんですよ!」

店員「うちは、あなたの専属の店ではありません!他に買いたいお客様もたくさんいるんです!中国人のばくがいと同じようなもんですよ!非常に迷惑です!よそへいってください!」

杉三「おじさん、僕もこれ譲るから、今日は売ってあげて。」

店員「じゃあ、たった一時間で日焼け止めが全部なくなるのを、どう思われますか?」

杉三「他のお客さんに説明したら?XPがパソコンのOSじゃないことを伝えたら、大丈夫。」

店員「は?」

杉三「そうしたら、あんな重病のひとを手助けしたことになって、この店の評判もあげられるよ。XPは、パソコンのOSじゃないってわかるから。これも追加して百一個。今日は仕方ないとしてもね、XPって、ものすごく大変だから、それを助けたとして、大評判になれたら、もっと儲かるから大丈夫。」

店員「しかたない、販売いたしましょう。」

杉三「どうもありがとうございます。」

まわりの客は、このやり取りを、狐に包まれたかのように、拍手する。

女性「本当にいいんですか?」

杉三「大丈夫。だって必要なんだから。」

女性は、一センチちかくある、一万円札を店員に支払う。

店員「は、はい、毎度あり。」

と、急いでそれをレジスターに突っ込み、

店員「お釣りです。」

と、100円を手渡す。

女性はスポーツバックを出して、大量の日焼け止めを押し込み、

女性「またきます。」

と、頭をさげる。

杉三「頭なんか下げなくていいんです。色んな人があっていいんですから。それを、しらない店主がわるいんだから、良いんです。」

女性「本当にありがとうございました。買えないかもしれないと、焦ってしまいましたので。」

蘭「杉ちゃん、いいのかい?」

杉三「蘭、余計なこと言わないで。あれは、僕にはいらないよ。」

蘭「色素性乾皮症のお子さんをお持ちなんですか?」

女性「はい。そうなんです。」

蘭「皮膚がんになりやすいとか、いろいろありますよね。」

女性「先週、こちらに越してきたんです。できるだけ、病院の近くにすみたいし、静岡県は、癌についてとてもよい病院があると聞いたので。」

蘭「ああ、静岡ガンセンターのことですね。」

女性「この町は、冷たいようですね。でも、彼の説得は嬉しかったです。この際ですから、名前を名乗らせてください。三枝多鶴子ともうします。」

蘭「伊能蘭です。よろしく。」

杉三「影山杉三です。」

多鶴子「あの、よかったら、お茶でものみませんか?こちらに来てから、誰とも会話していなかったので。」

杉三「じゃあ、よらせてください。」

蘭「あんまり長くはいられないけどね、杉ちゃん。」

杉三「わかってる。」

多鶴子「ここからなら、すぐいけます。」

杉三「はい。ありがとうございます。」


あるマンション。杉三たちは、エレベーターで、二階にあがる。そこのかどべやの中に入らせてもらう。

鳴っているのはピアノの音。パッヘルベルのカノン。

多鶴子「もうそこまでにしなさいよ、お客さんがきたから、こっちにきなさい。お二人さん、どうぞあがってください。」

と、黒いジャージ上下を身に付けた男性が表れる。

男性「三枝光男です。」

その発音は、やや不明瞭でたどたどしかった。

杉三「僕は影山杉三。」

光男「かげ、や、ま?」

蘭「ああ、XPにかかると、耳が遠くなるんだよ。」

杉三「杉ちゃんでいいよ。」

蘭「(手話と台詞)この人は、杉ちゃんだ。」

光男「(手話)杉ちゃん?」

杉三「うん、僕、杉ちゃん。」

蘭「(手話と台詞)僕のことは、蘭で呼び捨てでいいです。」

光男「(手話)杉ちゃん、蘭さん、よろしく。」

蘭「(手話と台詞)よろしくね。」

光男「うん。」

蘭「ろう学校にいたんですか?」

多鶴子「ええ、もう中退してしまいました。こっちに来るために。」

蘭「通った方がいいんじゃありませんか?これからのためにも。手話だけじゃつながらないこともありますよ。口話術の仕方だって、教えてくれるんじゃないですか?そうすれば、もっと理解が広がるような。」

多鶴子「亡くなった主人が、そういうものに頼るなといいましたので、そうしてるんです。わからない人がほとんどだからって。」

杉三「ぼくは、読み書きができない、、、。」

蘭「筆談もできないよね、杉ちゃんは。」

杉三「でも、僕は彼と話してみたいですよ。きっと、色んな世界を見てきているでしょうから。何とかして、つながる道具があればいいんだけどなあ。そうだ、スカイプかなんかを使えば、、、。」

蘭「杉ちゃんはどうしてそういう、前向きな発想ができるんだろう。いくら介護職について、それでやり取りしていた人であっても、そんな発想ができる人はそうはいないよ。」

光男がにこにこして、杉三に右手をだす。

光男「と、も、だ、ち、に、な、って。よ、ろ、し、く、ね。」

杉三「うん、よろしくです。」

二人、互いの手を握る。

多鶴子「まあまあまあまあ、、、。どうしたんでしょ、光男がそんな発言するなんて、こっちに来てからは、初めてよ。」

蘭「ほんとだ。僕も信じられない。杉ちゃんの言葉がちゃんと伝わってるのかわからないのに。」

二人はしばらく黙ってしまう。杉三と光男は、いつまでも会話していた。好きな作曲家のこと、着物のこと、家族のこと、話題はつきないようだ。なぜか、光男の不明瞭な発音も、杉三には理解できるのだった。

蘭「杉ちゃん、遅くなるから帰ろうよ。」

杉三「え、もうそんな時間?」

光男は、名残惜しそうに時計をみる。

光男「す、ぎ、ちゃんと、いつもお話、できたらいいのに。」

多鶴子「光男が、そんな言葉を口にするなんて。」

ポロリ、と、涙が落ちる。

光男「すぎ、ちゃんは、なんにも、怖いかおをしないから。」

杉三「怖いかお?僕のかおはいつもこうだよ。」

蘭「ああ、なるほどね。つまり、健康な人がよくやる、嫌そうな顔をしないからだ。偏見のないところが杉ちゃんだからね。」

多鶴子「(手話と台詞)でも、杉ちゃんの、事情も、しっかり、考えなさい。いつまでも、ここで、しゃべっていたら、杉ちゃんの、ようじも、あるのよ。」

光男は、しょんぼりしている。

蘭「提案なんですが、パソコンはありませんか?」

多鶴子「ないんですよ。主人が亡くなってからは、買いにいく余裕もなくて。私、シンママですから。そんな高いものは、」

蘭「いやいや、中古品という手もあります。それなら、一万で買えるのもありますよ。購入したら、スカイプのビデオ通話を使って、会話ができますよ。」

多鶴子「ほんとうですか?」

蘭「はい。ここからだと家電屋は遠いので、通販でどうですか?ちょっとみてみましょうか。」

と、スマートフォンを取り出し、通販サイトを表示する。

蘭「例えばこれはどうですか?一万円ちょっとですが。」

多鶴子「まあ、一万円で、、、。本当なんですね。それで、どのくらい使えるのですか?」

蘭「スペックもたくさんあるし、Wi-Fiも使えますよ。よくわからないところがあれば、僕も教えますし。」

杉三「いい時代になったなあ。」

多鶴子「ほんとね。息子がやっと他人と関われるようになったから、皆さんのアドバイスの通りにします。」


数日後、宅配便で、注文したノートパソコンは無事に届き、杉三と光男は、スカイプのビデオ通話で会話を始める。

美千恵「楽しそうにやってるわね。操作はあたしたちがしなきゃいけないけど。」

蘭「本当ですね。杉ちゃんは、耳が遠いゆえに、理解が悪い人に対して、いやがらないからいいんじゃないですか?」

美千恵「まあ、あきめくらとからかわれてきたから、それでなれているのかしら。」

蘭「いずれにしても楽しそうにやれるから、いいなあ。絶対に僕らには出来ない技だ。」

相手の光男の家では、多鶴子が小さな仏壇に線香をあげて、にこやかな男性の遺影にはなしかける。

多鶴子「あなた、光男が、やっと話ができる人物を見つけてくれました。本当は、お嫁さんを見つけてほしいのは、私のわがままかしら。」

再び涙がポロリ、と出た。


一方。

富士市内に、一軒の家がある。見た目は大きな家で、さぞかし裕福に見えるのだが、中庭は草ぼうぼうで、池は枯れていた。

玄関は広いが、中に入っているのは、ハイヒールと下駄が一足あるだけだった。

中に入ると、咳の音がする。かなり遠く離れたところからでも聞こえてきた。

まっすぐ行くと台所。誰かが皿を洗っている。一人の若い女性であるが、一生懸命というより、やけくそである。

隣の部屋から声がした。

女性「うるさい!黙ってて!」

しかし、そのおとは止まることはなく、さらに強くなっている。

女性「いい加減にして!さっさと死んでよ、このくそ兄貴!」

と、いいながら兄の部屋にいき、

女性「これだけ飲んでりゃいいんだろ!」

と、薬を放り投げ、自分は外へでていってしまう。そのまま、制限速度を越えて車をとばし、繁華街にいく。

あるレストラン。女性は、ある男性と話をしている。

男性「なあ、俺達、もうおわりにしないか、お前とは、感性があわないと思うんだ。」

女性「なんで、そんなこと言わないで!お願い、結婚して!」

男性「菜摘、お前は少しわがまますぎるよ。お兄さんがどんなにつらいか、考えてみたらどうだ?あんな重病で、家のなかにほったらかしにするわけには、いかないだろ。」

菜摘「心配しなくていいわ、兄はよい病院に入れるつもりだから。あとは、馬鹿医者にまかせておけばいいのよ。だから、栄治さんには、なんにも迷惑はかけないわ。」

栄治「それがいけないんだよ。菜摘、どんなに嫌な事だと思っても、やらなきゃいけない時ってのはあるんだよ。生きていれば誰だってね。」

菜摘「だって、栄治さんも、お父様を老人ホームに入れたんだから、おんなじなんじゃないかしら。」

栄治「それは、ちゃんと本人が納得してくれたからだ。老人ホームとか、病院は、ごみ捨て場じゃないし、お金もかかるんだよ。それを勘違いするから、犯罪の原因になったりするんだよ。それに、君のお兄さんは、36歳だろ?まだまだ収容してくれる施設なんてないと思うぞ。」

菜摘「だったら私はどうするの!私がやりたいことは、みんな禁止されるの?」

栄治「あるいみ仕方ない事はあるよ。そういうところは、他人に頼らず、自分で見つけていくものさ。それに、菜摘の家からこっちまでくるのに、40分はかかるじゃないか。お兄さんが何かあったときに、駆けつけてやるのが、家族だよ。それをやらないと、結婚して新しい家族は、作れないとおもうぞ。家族が出来るってのは、嬉しいことばっかりじゃないんだから。辛いことはいくらでもある。」

菜摘「栄治さんまで、、、。栄治さんだけが私の見方だと思っていたのに、、、。」

栄治「そんなことをいうんじゃ、まだまだだな。人間なんて、自分のことで、精一杯なんだから。もう、お前はとは、付き合えない。誰かよい人をみつけてくれ。」

菜摘「だったら教えて!どうしたら、よい人を見つけられるの!」

栄治「インターネットがあるじゃないか。顔を会わせない方が、うまくいく関係もあるぞ。」

と、立ち上がり、

栄治「君の分の勘定は君が出しておけ。」

と、喫茶店にお金を払い、出ていってしまう。

菜摘は、スマートフォンを取り出す。あるサイトにアクセスする。

菜摘「僕は、生まれつきの障害で、あまり日にあたることができません。耳も遠いですが、頑張って仕事を探しています。こんなダメ男ですが、どなたか、相手をしてください、よろしく。はあ、こんな人が登録するようになったんだ。送ってみるかな。」

と、メッセージを贈る、とかかれた画面をタップする。

数分後、スマートフォンが鳴る。

菜摘「数あるユーザーの中から選んでくれてありがとうございます、、、まあ、どこかの宣伝みたい。で?

僕は、三枝光男といいます。ほんと、丁寧ね。」

続けて読んでみる。

菜摘「僕は、生まれつき、色素性乾皮症という病気にかかっています。幸い、あの有名な映画のような重症ではありませんが、神経症状が少しあり、耳が少しだけ遠いです。それでもいいですか?ああ、、、まあ、正直ね。」

彼女は、次のように返信する。

菜摘「大丈夫ですよ。私はなにも気にしませんから。あなたみたいに、障害があって、他人にしっかり伝えている人は、ちゃんとした人だと、私もわかります。

これから、リラックスして、いろいろ話をして、楽しみましょう。これから、どうぞよろしくお願いします。」

菜摘は一時間ほどスマートフォンに向かい、会話をしていた。

店主「お客さん、そろそろ閉店の時間なんですが。」

菜摘「ああ、ごめんなさい。すぐ帰りますから。」

と、料金を払って、店を出ていく。車にのると、回りはもう夜である。夜は鹿や熊がでるから、あまり出掛けるな、少なくとも五時には帰るようにと、幼い頃には言われていたが、菜摘は一切に気にしなかった。


杉三の家。多津子がきている。

美千恵「まあ、光男くんに、ガールフレンドが?」

多鶴子「ええ、ちょっと心配なのですが。」

美千恵「なんでですか?」

多鶴子「変な事件に巻き込まれないかと、、、。」

美千恵「大丈夫よ。恋愛なんて、一度や二度はするものよ、生きてれば。しない方がかえって心配になるわ。」

多鶴子「でも、インターネットから知り合って事件をおこす人はたくさんいるじゃないですか。」

美千恵「いやいや、インターネットから恋愛して結婚、ということだってあるわよ。あたしの職場でも若い子は、みんな平気でインターネットで知り合った人に会いにいっているわよ。親ってのは誰でも気にするけど、それが親の勤めでもあるわけだし。」

多鶴子「それならいいんですが、、、。」

美千恵「大丈夫、大丈夫。気にしてるときりがないわよ。」


一方、親たちの心配をよそに、光男と菜摘のやり取りは頻繁に行われた。

菜摘「光男さんはお仕事されているんですか?」

光男「耳が遠いから、働いてないんです。いやな男ですよね。」

菜摘「気にしないで大丈夫。どこにすんでいますか?」

光男「静岡の富士市です。まだ、引っ越したばかりだけど。」

菜摘「あら、私も富士なのよ。大渕にすんでいるの。」

光男「どこにあるんですか?」

菜摘「ずっと北の方よ。富士山に近い方。」

光男「へえ、いってみたいですね。」

菜摘「まあ、こんな辺鄙なところに来たら、不便で仕方ないと思うわ。なにしろ、食事を買いにいくときでさえ、片道40分はかかるのよ、嫌でしょう?」

光男「いやいや、東京にはそんな場所はありませんから。」

菜摘「あら、東京の方がいい病院あるんじゃないの?」

光男「いや、国立のガンセンターは評判がよくないし、こちらの静岡ガンセンターのほうが、お医者さんも看護師さんも、みんな親切なんですよ。最新式の治療もできるから、やっぱりこっちに越してきてよかったと、思います。」

菜摘「あら、ガンセンター?」

光男「はい、色素性乾皮症は、太陽の光で皮膚がんを患ってしまうんですよ。それも、普通の人の、なん十倍もの確率で。幸い、僕は耳は遠いですが、皮膚がんの手術をしたのは、一度しかないんです。」

菜摘「なるほど!でも、夜勤の仕事ならできるんじゃないかしら。病院の患者さんの見守りにいくとか。」

光男「もう、年だから、雇ってくれないんじゃ。」

菜摘「そんなこと、言わなくていいの!あたしより若いくせに、年だからなんて、理由にならないわ。あたし、警備会社、調べてあげる。働けば、お母さんだって、喜ぶわよ。」

光男「あ、ありがとうございます。」

菜摘「どういたしまして。明日には教えてあげられるようにするわね。」


数日後。蘭の家。

蘭「へえ、光男くんが、病院の警備員ですか。」

多鶴子「そうなんですよ。耳が遠いことを心配したのですが、あんまりコミュニケーションがうまくできなくても、雇ってくれたみたいで。」

蘭「まあ、確かに、彼にとっては日勤よりそちらの方が、いいのかもしれませんが、大変な進歩ですね。」

杉三「病院だと何かあっても、安心だよね。でも、それは誰が指示をしたんですか?お母様?」

多鶴子「インターネットでやり取りする女性からだそうなんです。」

蘭「恋愛にいく可能性もあるな。心配だ。」

杉三「いいじゃないか、若いときはひとつか二つ、恋愛をするもんですよ。僕みたいに、あきめくらじゃないんだし、思いっきり青春しているんだと、考えておけば。」

蘭「ワンテンポ以上遅れてか。」

杉三「それでもいいさ。」

蘭「それでもいいさなんて、杉ちゃんは偉いのかバカなのか、よくわからないよ。」

多鶴子「私は、心配でしかたないです。何か事件にでもならないかと。」


光男「仕事を教えてくれてありがとうございました。いま、精神科の病院で、二時間だけ警備員をしています。といっても、夜の10時には帰りますけど。これ以上働くのは、ガンセンターの先生がダメと言いますので、叶いませんでした。でも、社会の一員になれて、すごく嬉しかったです。」

菜摘「いえいえ、人助けができて、こっちもうれしいわ。いまは、夜の仕事もたくさんあるから、出来る限りは、働いていたいわよね。それは自然なことよ。」

光男「お金がたまったら、お礼したいです。必ず会いにいきます。」

菜摘「まあ、ありがとう!私もうれしいわ。ぜひ、お会いしましょ。」

菜摘が、そうスマートフォンに打ち込むと、いきなり激しい咳が聞こえてきた。

菜摘「うるせえんだよ!黙れ!」

しかし、とまる気配がなかった。

菜摘「現実はなんでこんなに!せっかくよい人をみつけたのに!」

それでも、兄は咳をし続けた。菜摘は、台所にいき、薬をとりだすと、兄の部屋に向かって放り投げた。

菜摘「これのんで、しっかりしな!そうすれば、血もとまるよ!」

再び、菜摘はドカンと机に座った。兄のご飯もつくっていなかった。兄のご飯は大量の鎮血の薬だけだ。それでも、まだ足りないほどであった。

菜摘「ああ、もう!ほんとにムカつきます。あたしは兄がいるけれど、あいつのせいで、どれだけ苦労したか。あたしは、あいつの看病で、仕事をやめなきゃいけなかった。それに、いつ危なくなるかわからないから、うちの中にいないといけないんです。もう、たってあるくなんて、全くできませんよ。こんなに辺鄙なところ、早く出ていきたいんですが、兄のせいでそれができないんです!ほんと、邪魔なんですよ!」

怒りに任せて打ち込むと、次のようなメールがくる。

「近いうちに、お宅にうかがいます。」

菜摘「え、、、。でも、あいつも考えられるかも。」

少し考えて、次のようにうつ。

菜摘「ぜひ、いらしてください。来週の日曜日はいかがですか?」


蘭の家。

蘭「よかったじゃないですか。ご招待してもらえたなんて。」

光男「み、みが、遠いから、心配なんですが。」

蘭「ああ、そうかそうか。確かにしんぱいだよね。」

杉三「僕らが付き添ってあげよう。」

蘭「余計に迷惑がかかるよ。歩けないんだから。」

光男「い、いや、指文字の通訳をしてほしいです。」

杉三「ほら、蘭しかいないじゃないか。うちの母ちゃんも通訳はできないっていってた。」

蘭「そうだね。しかたないか。行ってみよう。」


当日。

ガチガチに緊張している光男を支えるように、蘭たちは電車を降りる。

蘭「大丈夫ですからね、ちゃんと通訳しますから。」

杉三「だから、大丈夫。悪いことはしないから。」

蘭「確か、バスがないから、タクシーで来いと指示があったんですよね、」

杉三「あそこに、ジャンボタクシーがあるよ、乗せてもらおう。」

蘭「そうだね。」

三人、ジャンボタクシーに乗せてもらう。

運転手「どちらまで?」

蘭「はい、この住所に。」

杉三「あ、日が当たるところにいくのなら、窓ガラスをしっかり閉めて。出来ればカーテンも。」

蘭「杉ちゃん余計なこと、」

運転手「大丈夫ですよ。ガンセンターまでのせたとき、同じことを言った親御さんがいました。このまちでは、福祉制度に力をいれていますから。なんといっても、ガンセンターのお膝元ですからな。」

と、ジャンボタクシーは、動き始める。

杉三「ガンセンターのお膝元なんて、かっこいいですね。」

運転手「いやいや、ガンセンターが来てくれなかったら、このまちはつぶれていたでしょうな。ガンセンターのお陰で、たくさんの若者が、働き口を見つけてくれました。」

杉三「なるほど、病気が傑作を生むなら、それはよい病気であると、偉い方が仰っていましたね。」

運転手「ははははは。難しい言葉を知ってますね。確かに、病気の人たちのお陰で、このまちはやっと、繁盛にたどり着きましたよ。」


一方、菜摘は時計の回りをいったり来たりしながら、今か今かと客人を待っていた。客が来るからと、兄の部屋も掃除して、庭中の草も抜いた。兄は、いつもだらしない菜摘が、熱でもあるのかと、心配した。

車の音がした。菜摘は、玄関に走ろうとしたら、水が入っていたバケツをひっくり返してしまった。菜摘は不満も言わず、床を拭いた。

と、インターフォンが鳴った。床ふきをし終わった菜摘は、玄関に直行した。

声「はい、ここですよ。」

しばらく無言

声「あ、ありがとうございますといっております。」

声「そうかそうか。わかったよ。」

声「じゃあ、帰りものせてくれるかな?」

声「はい、領収書に電話番号があるから、そこへよこしてください。」

声「はい、わかりました。」

再び、車の走る音がした。

もう一度インターフォンがなる。

菜摘「お、お入りください。今開けますから。」

と、引き戸をがらり、と開けると、そこにいたのは杉三であった。

菜摘「あなたが、光男さん?」

杉三「違いますよ。僕は影山杉三。」

菜摘「だって私は、光男さんに、」

杉三「おりますけど、いま蘭と一緒です。耳が遠い人ですから、複雑な会話は指文字なんですよ。」

菜摘「ゆ、指文字ですか!」

杉三「はい。僕たちは、付き添いなんです。付き添いがないと、彼は困るでしょうからね。」

菜摘「光男という人は誰なんですか?」

杉三「蘭、説明はおわった?」

蘭「おわりました。僕は伊能蘭、彼が、三枝光男君です。」

と、光男を連れて玄関に現れる。光男は指文字で何かいう。

菜摘「いまの動きは、」

蘭「はい、三枝光男です。どうぞよろしく、と申しております。」

杉三「どうもすみませんね、僕たちまで同行して。まあ、ご覧の通り、光男くんは聾だし、指文字か筆談を使うことになるから、一般的なひとには、蘭が通訳しますから。ご了承くださいませね。」

菜摘「メールではそんなこと、かかれてなかったのに。」

蘭「誰だって書くもんじゃないですよ。耳が遠いから追い出される人はざらにいますからね。」

再び光男が何かいう。

蘭「今日は、呼んでくださってありがとうございます。」

菜摘は、唖然として何もいえなかった。と、そこへ咳き込む音と一緒に、ある男性が、やって来た。

男性「菜摘、客がくる前に、バケツを片付けなければ、ダメじゃないか。」

杉三「あ!」

蘭「どうしたの?」

杉三「海さん!」

兄は、杉三の顔、続いて蘭の顔を見る。げっそりと痩せてはいるものの、その顔は、蘭も見覚えがあった。

蘭「もしかしたら、藤井海先生!」

海「はい、まさしくそうです。よく覚えていてくれましたね。もう舞台を退いてから、10年近くたつのに。」

光男「う、み、せ、ん、せ、い、」

海「(手話を交えて)いらしてくれてありがとう。耳が不自由なのに、大変だったね。今日は、妹のことで来たのかな?」

光男「(手話)はい、海先生の舞台は、すごく素敵でした。耳が遠い僕ですが、それでも美しいのが、日本舞踊というものなんですね。」

海「いやいや、もう舞台は、退いてしまいました。(手話を交えて)もう、終わったんですよ。体も壊してしまいましたし。どうぞあがってください。久しぶりにお客さんが来てくれて、僕も、妹も喜んでいます。」


食堂。菜摘は、いそいで作った、ざるそばをテーブルに置く。

光男「(手話)海先生は、あのとき、どうして引退を?まだ引退する年ではありませんよね?」

海「(手話と台詞)よく言われますけど、続けられなくなっただけです。」

光男「(手話)どうしてですか?鐘が岬を踊ったときは、涙を流す程綺麗でした。耳が遠くてもわかりますよ。」

海「(手話と台詞)あんまり口には、、、。」

と、咳をする。

蘭「(手話と台詞)あんまり詰問しない方がいいですよ。確かに立派な舞踊家だけど、お体が悪いんだから。」

杉三「でもいいんじゃない?声にだしてやるわけではないんだから、外部に漏れることはないよ。この青年に、もっとアドバイスしてやってください。」

蘭「杉ちゃんらしい。」

海「面白いですね、この人は。確かに外部には洩れませんよ。でもこの家も、妹と僕と、二人だけだし。僕自身もあと何年かな。」

蘭「お体、悪いんですか?」

海「ええ。腫瘍とトラブルがあって。」

蘭「え、いったいどこに?」

海「まあ、あんまり口にだしては言いたくないんですが、」

といって、寝巻きから、背中に手をいれ、指をだした。指は真っ赤に染まっていた。

杉三「わあ!これは酷い、、、。」

光男「(手話)なんとか、ならないんですか?」

海「日にあたる以上、何にもならないですよ。」

杉三「日にあたる以上って、、、。」

蘭「(手話)だからね、君とほぼおなじなんだよ。この人も。」

海「(手話)パソコンのOSではないんだよ。僕も。」

光男「(手話)ちょっと待ってください、この近くには静岡ガンセンターもあり、最新式の医療だってあるはずです。なぜ、受信しなかったんですか?」

海「(手話)忙しすぎたからね。舞踊家として、地方をまわって、海外にも行って、体のことなんかみんな忘れて、しまいにはこうなったわけ。」

光男「(手話)でも、まだお年が、」

海「(手話)いやいや、君も知っていると思うけど、この障害は余命は短いよ。背中だけではなく、肺にも転移して、もうての施しようがないと医者が言っていたから。もう、いつ死んでもいいように、葬儀屋なんかも手配しなければ。」

光男は、がっくりと肩を落とす。

声「二人とも!」

海「どうしたの菜摘。」

菜摘「私に隠れて、訳のわからないことをしゃべらないでよ!」

光男「あ、す、みません。」

菜摘「この人は、お兄ちゃんに会いに来た訳じゃないわ!」

海「そうだったね。ごめん。」

光男はきょろきょろと回りをみる。

海「確かに、ろうのひとは、空気を読むのは苦手だよね。じゃあ、菜摘も手話を覚えるといい。そうすれば、この人と話せる。」

菜摘「何で私が!」

海「だって仕方ないでしょうが。好きになったのなら、どうやって通じるか、考えるのが当たり前だよ。それが、多少むずかしくても、やっていけるかが、本当に好きなんだとおもうよ。」

菜摘「お兄ちゃんはそういうところが、」

海「お客様の前で喧嘩はしてはいけないよ。」

菜摘「はい、、、。」

蘭「あ、もうこんな時間か、帰らなくちゃ。」

杉三「長居してすみませんでした、僕らもかえります。」

海「また来てくださいね。どうせ、暇ですから。電話でもくだされば、こちらも用意しておきますから。」

杉三「はい、ぜひいかせていただきます。」

光男「ま、た、き、ま、す。」

海「ぜひ、いらしてください。」

蘭「すみません、ちょっと時間を超過してしまったんですが、いまからいきますので、よろしくです。料金は出しますのでね。」

と、スマートフォンを鞄にしまう。数分後にやってきた、ジャンボタクシーで、三人は自宅へ帰っていった。


菜摘「どういうつもりよ!」

海「どうって、お客様がきたんだから、ねている訳にはいかないだろ。」

菜摘「お兄ちゃんは、頭もよいし、何でも知っているし、名前でだれだか、すぐわかるでしょ。そのせいで、妹の私が、どれだけ傷ついたか、わかんないんじゃないかしら。」

海「菜摘は菜摘の世界をつくればそれでいいんだよ。」

菜摘「いつも言うけど、それを邪魔しているのはだれなんだよ!くそ兄貴!」

海「それより、今何をしたいかを考えるのが先決では?」

菜摘「だから、あたしだって作りたいよ!あんたが動けないんだから、あんたはその邪魔なの!あんたが、日に当たれないせいで、どれだけ辛い思いしてきたか、わかるはずがないでしょ、みんなあんたのことばかり同情してさ!私が同じことをしても当たり前だよとしか言われないことが、あんたは、なん十倍になって帰ってくるじゃない。それが私、子供心にもいやだったわ!あたしは、単に、あんたの看護人になるしか、それだけしか人生を用意されてないのね!あたしは、あたしなりにすることは、何一つないわけ!それはみんなね!あんたのせいなのよ!あんたが、このよに存在しているせいなのよ!そんなことも判らないで、いい子ぶらないで頂戴!あんたなんか、あんたなんか、早く逝っちゃえばいい!」

湯呑みを兄になげつけて、

菜摘「あんたは、偉い人を演じているけど、だれのお陰で持っているのか、そのくらい理解しろ!しんじまえ、このくそやろう!」

と、家をでていってしまう。彼女の頭は怒りでいっぱいであった。数時間後、彼女はあるものを持って、戻ってきた。そのときは、すでに暗く、彼女が何を買ったのかはわからなかった。そして、彼女は自分のパソコンに向かい、ある文句を打った。


翌日。日が沈む頃、菜摘は、いつも通り鼻歌をうたいながら車で家を出た。車を、駅前の駐車場にとめ、駅前交番にいき、三枝光男のすんでいる家の位置を教えてもらった。

そこへ近づいていくと、足取りは軽くなっていき、とうとう三枝とかかれた家を発見し、チャイムを押した。

声「はい、どちら様ですか?」

菜摘「はい、読売新聞です、集金にきました。」

声「すぐ参ります。」

菜摘は鞄をあけた。昨日買った刺身包丁を取り出した。その包丁は、汚れをふせぐために、鞘がついていた。菜摘は鞘にてをかけた。振り上げるつもりだった。しかし、包丁はなかなか抜けない。くらい夜であり、懐中電灯もないので、あれやこれやと、鞄をいじっていると、

音「パキン!」

菜摘は包丁を出してみた。みると、刃がついていない。包丁は錆びたボロボロの包丁である。鞘から取り出そうとして、根本の部分から、おれてしまったのだ。

菜摘「な、なにこれ!」

と、ドアを開ける音がした。灯りのなかから、多鶴子が現れた。菜摘が右手にもっていものをみて、多鶴子はことのすべてを知ってしまった。

多鶴子「あなたが、光男となかがいいというかた?」

菜摘は答えがでなかった。

多鶴子「光男は、友達ができて本当に嬉しいといっていたのに!親として、なさけないわ!」

そこに、車いすの音がして、

杉三「ごめん、今日カレーを作ったんだ。作りすぎたから、持ってきたよ。たっぱは、明日返してくれればいいからね。」

蘭「あれ、菜摘さんじゃありませんか?」

菜摘は、使えない凶器を地面に落とす。

杉三「菜摘さん、お寿司でも握りにきたの?」

菜摘「あたしはどうして、望みが一つも叶わないんだろう!」

蘭「ひとをあやめるのは、何があってもいけませんよ。それだけは確かですよ!」

杉三「僕らが、傷つけてしまったなら謝ります。ごめんなさい。」

蘭「杉ちゃんが謝る必要はないよ。だって彼女は、光男くんを殺害するつもりだったんだから。それは、何があってもいけないことだもの。」

光男「も、う、」

杉三「光男くん!」

光男「い、い、よ。許してあげて。菜摘さんが好きだから。菜、摘さんに犯罪者になってほしくないから。」

蘭「(手話を交えて)光男くん、君はやさしいんだね。でも、悪いことは、悪いことでも、あるんだし。」

光男「もう、よい人にしてあげてほしい。」

杉三「僕からもおねがいします。」

蘭「杉ちゃんまで、、、。」

菜摘「申し訳ありません。」

と、号泣する。

杉三「しかし、殺害を試みるときに、こんなにボロボロの凶器を持ってくるとは、、、。神様が助けてくれたんだ。そういうことだよ。」

菜摘「本当は、別のものだったんです、そんなものじゃなくて。」

杉三は、凶器を拾い上げ、全員にみせる。確かに、この包丁では、殺害どころか、鞘から出すことさえできない。それほど、錆び付いていた。

蘭「鉄でできている以上、錆びますよ。でもこれはすごいなあ。」

杉三「刺身を作る包丁だから、魚の体液で錆びるのかも。」

菜摘「申し訳ありません。」

杉三「そうじゃなくてさ、これを持たせて殺人を止めてくれた神様に感謝するべきだよ。」

菜摘「そうですね。どこかで入れ替わったんですね。」

杉三「あ、もしかして、すり替えたのは、、、。」


再びジャンボタクシーで、杉三たちは菜摘の家にやってくる。

菜摘「あ、明かりがついてない。」

杉三「やっぱりそうだ!」

杉三は玄関を乱暴に開ける。中は真っ暗である。菜摘が明かりをつけ、中にはいっていく。

菜摘「お兄ちゃん、出掛けたの?」

何も反応がない。菜摘は台所にいってみる。杉三たちも、運転手の手助けで、中にはいる。

菜摘「お兄ちゃん!」

おびただしく血で汚れた床の上に、海が倒れ、もう息も切れていた。テーブルの上に、一枚の紙切れ。

蘭「菜摘には申し訳ないことをしましたが、菜摘には犯罪者にはならないでほしい。そう願って、凶器をすり替えました。犯罪には走らず、幸せになってください。そして、生きていて申し訳ございません。ありがとう、海。」

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