高鳴る

高鳴る


繁華街。うなり声を上げて走る電車。夜も街の明かりが消えることはな

い。真夜中になっても、照明が消えない看板が現れる。いわゆる、風俗

業である。看板には、ソープランドという文字。

その中の一人である、森本昭子は、今日も数人の男性を送り出した後、

大勢の男性からもれた液体を体からふき取り、そそくさと店を出た。

丁度、多くの者が、学校や仕事に行く時刻。それが彼女には逆の時間帯

になる。体は疲れ果てているが、家には帰りたくなかった。


杉三の家。

声「ああ、寒いなあ。本当に今年の冬はさむいよ。」

蘭「なんだ、さむいって、まだ十一月じゃないか。極端だよ、華岡は。」

まさしく華岡は、どさどさ入ってきて、勝手に座る。

蘭「おい、少しは礼儀も考えろ。」

杉三「いいよ、いいよ、華岡さんがこの家を気に入ってくれれば。何ぼ

でも、使って頂戴。」

蘭「それにしてはぜいたくすぎる。」

杉三「まあ、良いじゃないの、華岡さんにはうるさい奥さんもいないん

だし。」

華岡「お、杉ちゃん言いこという。」

蘭「で、今日は何があったんだ?必ず愚痴をもらしにくるよな。」

華岡「ああ、ある女を追っているんだが。」

杉三「どんなひと?」

華岡「うん、麻薬取締法違反で。所謂、ソープで働いているところまで

はつかめたんだけど。いわゆる 高級娼婦だな。 」

杉三「はあ、ヴィオレッタ見たいな人か。椿姫の。」

華岡「あんなオペラの主人公とは全然ちがうよ。」

蘭「そうだよね。今時、そんな綺麗な娼婦はいるわけがない。で、その女

がなにをしているんだ、麻薬か。」

華岡「うん、具体的になぜそうしたいのかはわからないが、大麻に手を出しているらしい。」

蘭「そうか。体を売っているのはそのためか。大麻を買うための。」

華岡「そうなんだよ。でも、しかし、おかしなことがある。その女は、

六歳年上の兄と、父親がいる。聞き込みによると、 善良この上ない家族だったそうだ。 なのに、なんでそんなものに走ったか、

が問題だ。その理由がわからないから、いつまでも逮捕に踏み切れな

いんだよ。」

蘭「テレビドラマみたいに、はいここですって、いえないもんな。現

実の警察官は。」

華岡「そうなんだよ。警視という仕事は、かっこよくなんかないよ、

ただ下の者を動かすどころか、その動きを全部監視して、上に報告ま

でしないといけないんだぞ。」

蘭「なるほどね。板ばさみって訳か。」

華岡「だから、お前がほんとうに羨ましいぞ、蘭。」

蘭「こっちはこっちだって、色んな事情があるんだから、むやみにい

わないでくれ。」

華岡「そうだよな。お前らしい、そういうとこ。学校にいたときから、

ずっと変わってない。」

蘭「ほめ言葉と受け取っておこう。」

杉三「それでも、その女性は不思議だなあ。なんで、大麻なんか買わ

ないといけないんだろう。だって、お父さんもいて、お兄さんもいる

のに。」

蘭「まあ、何か訳があるんだろうけど、そのうち、華岡がつかまえて

くれるさ。」

杉三「そうかなあ。」

蘭「杉ちゃん、加害者側に、肩を持たないようにね。」

杉三「うん、、、。」


数日後。蘭の仕事場。

蘭「はい、できましたよ。鯉の滝登り。」

客は中年の女性である。

女性「はあ、本当に痛かったわ。」

蘭「まあ、誰でもそう言いますよ。」

客である古川つや子は、滝登りを彫ったばかりの腕を見る。

つや子「さすがね。やっぱ、海外で評価された実績がある気がするわ。

手彫りなんて、本当に今は珍しいもの。みんな機械で彫るでしょう、

私、マシーンってあんまり好きじゃないのよね。」

蘭「そうですね。時代の流れかなあ。でも、僕は、守らなきゃいけな

いことは、しっかり、守らなきゃいけないなと思いますけどね。」

つや子「それが、素晴らしいところなんだから、しっかり続けて頂戴

よ。」

蘭「ありがとうございます。じゃあ、お疲れでしょうから、お茶でも

飲んで行って下さい。」

と、台所へ移動し、お茶を持ってきて、テーブルの上に置く。

つや子「いただきます。」

と、お茶を飲む。

つや子「本当においしいお茶ね。あ、先生、私、新しいバイトをみつ

けたの。」

蘭「何をするんですか?お仕事は。」

つや子「まあ、言われてみればメイドかな。家事の手伝いをしている

のよ。所謂メイド服は着ないけどね。」

蘭「ああ、家政婦さんですね。良いじゃないですか。お料理が得意な

つや子さんだし。で、どんなお宅に雇われたんです?」

つや子「なんだか、私よりずっと、悲惨な人生を送ってきた方だわ。

ご主人の話を聞いて、涙が出ちゃった。」

蘭「涙が出た?どんな家族構成なんです?」

つや子「お父さんと息子さん。息子さんが三十六にもなるのに、全く

働くことができないとか。で、お父さんが一生懸命仕事して。お金はないけど来てくれって。」

蘭「生活保護なんかはだめなんですか?」

つや子「どうなのかしらね。ただ、不思議なのはあと一人、娘がいる

見たいなんだけど、行方をくらましているみたいなのよ。」

蘭「娘のほうはいくつなのですか?」

つや子「うん、六年離れているから、三十かな。」

蘭「はあ、どこへいってるんですかね。」

つや子「まあ、そのうちふらりと、帰ってきますと、お父様は言って

いたわ。あ、もうこんな時間、私もう帰るわ。じゃあ、又、色があせ

てきたら、手直しに来るから。」

蘭「はい、どうもありがとうございます。又いらしてくださいね。」

つや子「こちらこそです。ありがとうございました。」

と、蘭に敬礼して帰っていく。


翌日、ある小さな家。つや子はインターフォンを押す。

つや子「おはようございます。私、この度、メイドとしてご奉仕させ

て頂きます、古川つや子です。」

しかし、返事はない。つや子はもう一度インターフォンを押す。

と、がたんと音がして、ドアが開く。ドアが開くと、つや子は腰が抜

けそうになった。若い男性が立っていたが、顔は紙のように白く、げ

っそりとやせ細っていた。表情は優しく、育ちの悪い男ではないよう

だが、その容姿をみると、誰もが怖がることだろう。

男性「お呼びになったのは、、、。」

つや子「あ、私です。こ、このたびメイドとして、こちらに伺わせて

いただくことになりました。どうぞ、よろしくお願いします。」

男性「そうですか。契約したのは父、森本義男ですね。僕は息子の、

森本博一です。」

つや子「私は、古川つや子です。」

博一「お入り下さい。さむいでしょうから。」

つや子「わかりました。これからは、若様とよびます。」

と、一礼して博一の後をついて中へ入っていく。多少汚れもあったが、

小奇麗に整理されていた。博一は、外国人がよくやるように、家の中

を全て見せ、丁寧に説明してくれた。博一の寝室である、畳の部屋は、

整理されてはいたものの、布団がしいてあった。

博一「ああ、僕は少しアレルギーがあるので、いつも干してあるんで

す。大した意味ではないですよ。」

つや子「そう、ですか。」

博一「ええ。そうです。」

その口調には何か意味があるなと、つや子は、突発的に気がついた。

つや子「で、若様、今日は何を手伝ったら良いのですか?」

博一「床、拭いてくれますか?」

つや子「わ、わかりました。お道具は、、、。」

博一「ああ、裏の勝手口にあります。」

つや子がそこへいってみると、確かにモップが一本置いてあった。い

そいでそれを水でぬらし、畳の部屋以外の部屋の床を全て拭いた。博

一は、自室で何か書いていた。作曲家なのだろうか、時々歌を口ずさ

んでいた。

狭い家なので、掃除はすぐに終了した。つや子は、モップをもとの場

所に戻し、博一の部屋に行って、障子を叩いた。

つや子「若様、掃除、終わりました。」

中からは、バイオリンのような不思議な音が聞こえてきた。何の音な

のか、彼女には見当がつかない。

つや子「若様。」

博一は後を振り向いた。その手には、三味線のような楽器と、一メ

ートルを超えそうな、巨大な弓が握られていた。その楽器からあんな

美しい音が出るものなのだろうか?

つや子「若様、掃除終わりました。」

博一「ありがとう。」

つや子「お三味線、、、ですか?それ、、、。」

博一「ええ、これは和胡弓といいまして、三曲合奏につかうのです。」

つや子「そうなんですか。音はバイオリンのような音でしたけど。」

博一「ええ、これは、日本で唯一の擦弦楽器ですよ。」

つや子「すごい!そんなのがあったなんて、何も知りませんでした。

あ、あの、、、もしよかったら、一曲何か弾いてくれませんか?」

博一「いいですよ。」

と、いって、埴生の宿を弾き始めた。美しい音だったが、優しさだけ

ではなく、どこか悲しみを抱えているような音だった。弾き終わると、

博一は、弓を置いた。

つや子「ありがとう、、、ございます。次は何をいたしましょう?」

博一「もうすぐ、父が戻ります。お茶でも飲みませんか?」

つや子「はい、では、用意いたします。」

と、急いで台所に行った。後から、一瞬だけうめく声がした。しかし、

直ぐに消えた。

博一がテーブルに着くと、つや子は湯飲みを彼の前に置いた。

博一「どうもありがとうございます。」

と、茶を飲む。

博一「苦いですね。」

つや子「ああ、御免なさい。私は濃いお茶ばかり飲んでいたものです

から。」

博一「構いませんよ。だれでも、最初はミスをするのが当たり前です

からね。」

つや子「どうも、すみません。なんだか、先ほどの和胡弓の音が、頭

から離れなくて。」

博一「ああ、あれですか。大したものじゃないですよ。」

つや子「でも、なんかすごい人と出会ったみたいです。誰かに習って

いたんですよね?」

博一「ええ。まあ、大学受験までの間でしたけどね。僕は、弾き手で

はなくて、曲の作り手ですから、あんまり、演奏技術はないですよ。

でも、和胡弓がもうちょっと、日本の音楽に復活してほしいなという

気持ちはありますけどね。」

つや子「ほんとうにすごいですね、、、。」

声「おい、そんなことばかり言ってないで、どこかへ曲を応募したり

してみろよ。」

つや子「えっ、どちら様?」

博一「ああ、父です。」

と、博一とはまるで雰囲気の違う、男性が入ってきた。

男性「ああ、新しいメイドさんがいらしてくれたんですね。どうぞ、

これから、この野良息子の面倒を見てやってください。博一の父の、

森本義男です。」

つや子「古川つや子です。どうぞよろしくお願いします。」

と、立ち上がり、義男に向かって、最敬礼する。

義男「いやいや、そんな礼儀正しくしなくても、結構ですよ。何し

ろ、いつも帰りは遅いんで、父親なのに、存在していないような、

だめな父親です。」

博一「お父様が働いているからこそ、僕は生きていけるので。」

義男「まあ。生活資金の足しですな。」

つや子「お二人はお仕事は、、、。」

博一「残念なことに僕は何も、、、。」

義男「まあ、まだ三十六だから、なんとかなるだろう。芸大を受験す

るほど、作曲の才能があったから。」

つや子「ええっ!すごい!いやいや、、、すごすぎます。私、もしか

したら、場違い、いや、役不足になるでしょうか?」

義男「いやいや、芸大まで進んだのはうちの息子だけです。ほかの親

戚にも、いませんから。確かに、もうちょっと、覇気を出してくれな

いかな、という思いはありますね。親としては。私なんて、仕事はた

だの旗振りですからなあ。」

つや子「まあ、それはそれは、、、。ああああ、こんな人間がメイドなんて。」

義男「今日、新しいメイドさんが来ると息子から伺っていましたので、

粗末ですけど、夕食を買ってきました。どうぞ食べていってください。

お願いします。」

つや子「いいんですか?」

義男「はい、お願いします。本当に下手な料理人でよろしければ。」

と、義男は台所に行く。暫く待っていると、なんだかとても良いにお

いがしてくる。

つや子「何を作っているんですかね。」

博一「ああ、茶碗蒸しですよ。父は茶碗蒸しが何よりも好きなんで。」

義男「はい、茶碗蒸し、三つ。上がりました。」

と、茶碗蒸しを持ってくるが、それは茶碗ではなく、どんぶり蒸しと

いったほうが正解だった。

つや子「まあ、おいしそう。頂きます!」

と、口にして

つや子「おいしい!」

博一「そうですか。もう、必ず何かあると、茶碗蒸しばかり作ってい

るから、僕は飽き飽きしてましたけどね。」

つや子「いえいえ、こんなおいしいものは初めてです。恥ずかしいことに、まだ、独身で

すから、うちはレトルトしか食べれないし。」

義男「うれしいです。どんどん食べてみてやって。」

つや子「ありがとうございます。」

三人はわらいながら、茶碗蒸しをほおばった。


杉三の家。華岡が又来ている。

華岡「あーあ、どうしたらあの女を逮捕できるもんだか。」

蘭「そんな愚痴、ここでもらすべきではないだろうが。 さっさと仕事をしろ。 」

華岡「誰もいないんだもの。愚痴らせてくれよ。」

美千恵「まあねえ、いつも仕事ばかりの刑事さんなら、奥さん貰って

も、寂しい思いさせるだけかもよ。それだったら独身って、賢明じゃ

ないかしらね。」

杉三「母ちゃん、それなら僕はどうなるの?」

美千恵「あんたにはわからないわよ。女の気持ちなんて。」

杉三「アリスさんは、一人で演奏旅行によくいくけど、寂しそうでは

ないのに。」

美千恵「まあ、外国人とは違うものよ。日本ってとこは。」

華岡「そうそう、それができれば、日本も、もうちょっと事件が減る

んじゃないかなあ。」

蘭「虐めで、子供が死んじゃう時代だからね。 ただ、寂しいだけなんだけどね。それが、、、ね。 」

華岡「そうそう。森本昭子も初めのうちはそうだったとおもうよ。そ

れが、膨らみすぎて、犯罪まで行ったんじゃないかなあ。」

蘭「つまり、大麻を入手したと?」

華岡「そういうこと。あの家は、兄の森本博一が、東京芸術大学を受

験するとかで、てんてこ舞いだったらしいから。博一か十八歳のとき、

昭子は十二歳。つまり思春期の入り口だ。少しばかり精神に不安定に

なる時期だよな。」

蘭「そうだなあ。日本の大学はドイツみたいに、たやすく入れるとこ

ろじゃないからな。それに、入ってみたら、本当にすなを噛むような

学問しか受けれなくて、自分を責めてしまう子も大勢いるし。」

杉三「そうだよ。寧ろ、受験する本人より、親の方がエネルギーを使

いすぎてるよね。」

華岡「杉ちゃん良い事言う。父親よりも、母親はそうなりやすい。」

杉三「そうそう。夜食まで作ってやったりしてね。それってさ、本人

が頑張るのではなく、親が期待をしすぎているだけだよね。そして、

本人が躓いたら、大人なんだからとか、奇麗事をいうけれど、それま

での、態度を記憶してれば、このやろう!って怒鳴りたくなるよ。」

華岡「そうそう、まさしくそれだよ、杉ちゃん!君は本当に天才だ。

もし、警察に勤めてくれたら、警視どころではないぞ。」

杉三「僕にはできないよ。だって、読み書きができないんだもの。」

華岡「そうだよなあ、、、。」


博一の家。

つや子「じゃあ、今日もありがとうございました。又明日来ますので、

よろしくお願いします。」

義男「ありがとうございます。明日もまた来て下さいね。」

つや子「はい、わかりました。明日の朝六時に伺いますので。」

と、敬礼して、家から出て行く。十一月なので、日が暮れるのは早い。

暫く行くと、道は真っ黒になってしまう。

と、突然、ハイヒールの靴の音。しかし、姿は見えない。そこでつや

子は、歩道で暫く止まる。ハイヒールの音はどんどん近くなり、彼女

の目の前を通っていく。何となくしかわからなかったが、黒いコート

を身につけ、強烈に香水を香らせていた。水商売だろうか。暫くして、

その音は聞こえてこなくなった。つや子は、気にしないで、自分の家

に、戻っていった。


博一の家

ガチャン、と、玄関のドアが開く。

義男「昭子か。今何時だと思っているんだ?」

昭子「うるさいわね。」

義男「お前は、そんな歳になっても、家のことは何一つしないのか。」

昭子「ええ。これからもするつもりはないわ。」

義男「兄さんも大変なのに、お前はなんの協力もしないのか?」

昭子「兄さんなんて、お父さんの頭には、兄さんしかないのね。それな

ら、勝手にそうすればいいわ。どうせ私なんてそんな存在でしかないん

でしょう?」

義男「今、自分が何をできるのか、しっかり考えろ。わがままをいうな。

もう少し、お前は家族を大事にしなさい。」

昭子「お断りよ。私は、私のしたい事があるの。だから、お母さんだっ

て、家を出て行ったでしょう?」

義男「お母さんのことは忘れなさい。あんな、ふしだらな女なんて、とっ

くに、別れていればよかったんだ。」

昭子「理屈でものを言わないで。だから男ってきらいなのよ。」

義男「昭子!」

しかし、彼女は自室に引き上げてしまう。

いつもどおりにつや子がやってくる。

博一「つや子さん、おはよう。」

つや子「若様、おはようございます。今朝ごはんのしたくしますから、

お待ち下さい。」

博一「はい、昨日、たくあんを頂いたので、それを切りましょうか。」

と、台所に行く。冷蔵庫に手を伸ばそうとすると、胸に強い痛みが走っ

て、うずくまってしまう。

つや子「だ、大丈夫ですか?」

博一「ええ、何でもありません。いつものことです。」

と、直ぐに立ち上がり、たくあんを取り出す。

義男「おはよう。なんだ博一、またやったのか。顔が白いぞ。」

博一「まあ、この間よりはよくなっていると思いますけど。」

義男「そうには見えないぞ。ちゃんと、自己管理位しろ。病院に行ってきなさい。」

つや子「わかりました。私が連れて行きます。」

博一「お父様、今日は休診日ですよ。」

つや子「じゃあ、病院の通信簿とかで調べます。何科を調べればい

いですか?」

義男「とりあえず循環器内科かな。」

博一「いいですよ、お父様。定期健診は明日あるんですから、その時に

ちゃんと言いますので。」

義男「しかし、、、。」

博一「構いません。それに僕、今日は譜本を書き上げてしまわないと。」

義男「楽譜は後でも良いんじゃないか。」

博一「いえ、そういうわけにはいきません。」

義男「なら良いが、お前は無理をしすぎているからな。倒れたりしない

ように気をつけろよ。」

つや子「味噌汁ができました。」

博一「頂きましょう。」

義男「そうだな。」

全員食卓につく。

博一「つや子さんの味噌汁は、赤出汁でおいしいです。」

つや子「ありがとうございます。あ、そうそう、、、ちょっと聞きたい

んですけど、玄関先にあった、あのハイヒールの靴は、お母様のですか

?」

義男「妻とは、随分昔に離婚しました。」

つや子「でも、女性用でしたけど、、、。」

博一「本当は言っておかないといけないんですが、本来は妹が一人いま

す。」

つや子「そうだったんですか。でも、お姿を一度も拝見したことはあり

ません。どこかに旅行でもされているのですか?」

博一「僕のせいです。」

義男「やめなさい。そんな風に自分を責めてはだめだ。」

博一「いえ、全ては自分が悪いんです。僕が芸大を受けるまでの間、妹

は本当に辛かったと思うので。母も、それが原因で家を出てしまったよ

うなものです。」

つや子「妹さんはそれで、今何をしているんですか?」

博一「はい、フリーターですよ。母は、よく叱ってましたけど、彼女は

ずっと、あの仕事を続けていくでしょうね。僕が生きていれば。」

義男「博一!それ以上言うものではない!」

博一「だって、紛れもない事実じゃありませんか。」

義男「お前は間違ったりなぞしていないんだぞ。」

つや子「ご、御免なさい。私が変な発言をしたばかりに。」

と、頭を下げる。

博一「いいんですよ、悪いのは僕です。こちらこそ、かくしておいて、

すみませんでした。あ、味噌汁、、、さめちゃいますよ。」

つや子「本当にごめんなさい。」

と、急いで味噌汁を口に運ぶ。

義男「終わったら、今日は布団を干してもらえませんか?なにしろうちの息子は、暇があれば寝てますから。」


博一「お父様、いつでもやすめるようにしないと。」


義男「たまには、布団からおきて、テレビでもみてみなさい。さて、そろそろ時間だ。いってきます。」


博一「そうですか。行ってらっしゃいませ。」


つや子「行ってらっしゃいませ、旦那様。」


と、食器を片付ける。博一は父に言われた通りテレビを見ている。


つや子「いい天気だし、布団干して差し上げます。」


と、お椀を流しに置き、博一の部屋にいく。質素な和室だが、確かに布団はかなり使っているらしく、独特のにおいがした。つや子が、布団を持ち上げると、博一が入ってきた。


つや子「あれ、若様、テレビみてたはずじゃ。」


博一「テレビなんて、面白くはありませんよ。曲を作った方がよほど楽です。」


といって、机に向かい、筆をとる。つや子は、音を立てないようにきをつけながら、布団を物干し竿に干す。


つや子「布団がほせました。」


博一「あ、ありがとうございます。」


つや子「ごめんなさい、お邪魔してしまいましたね。」


博一「いえ、もう書いてしまいましたから。」


つや子「もうですか!差し支えなければ弾いてみてくれませんか?」


博一「いいですよ。」


と、和胡弓をケースから出して弾き始める。


つや子「ショパンの曲みたいですね。」


演奏がおわり、つや子は拍手する。


博一「大した曲ではないですけどね。ずっと、音楽が頭のなかを鳴っているんですよ。幼い時からずっとそう。いじめられたこともあったけど、やっぱり音楽がすきですね。僕は。」


つや子「ショパンも喜ぶんじゃないですか?」


博一「いやいや、あんな偉いかたと、比べることは、できませんよ。」


つや子「謙虚なんですね。若様は。」


博一「お世辞がお上手なんですね。もう、十時になりますけど。」


つや子「まあ大変。お買い物いってこなくちゃ。」


博一「行ってらっしゃいませ。続きを書いて待ってますから。」


つや子「はい、急いでいってきます。」


と、買い物袋をもち、家を出ていく。途中の廊下で、誰かの呻き声が聞こえる。



夜の道。

とぼとぼと歩くつや子。不意に博一の顔が見えてくる。

つや子に手伝ってもらいながら、楽しそうに寿司を握ったり、何か口

ずさみながら、楽譜を書いたり、、、。そんな彼の笑顔が、頭から離

れない。

つや子「(夜空の月を見上げて)私、、、。」

満月だった。

つや子「あの人が、、、好き、、、。」

と口に出して言って見ると、それまでしまいこんでいた感情が、溶岩

のように流れてくる。彼女は、両手で顔を覆い、いつまでも泣きはら

した。


森本家。数日後。

「仕事」をしてきた昭子が戻ってくる。

玄関をあけると、父の義男がやってくる。

義男「お前、今何時だと思っているんだ?」

昭子「朝六時。」

義男「そんな時間に、帰ってくるようなアルバイトがどこにある?」

昭子「だから、コンビ二って言ってるでしょ?」

義男「どこのコンビ二だ?」

昭子「鮫島のミニストップ。」

義男「昨日、つや子さんに探してきてもらったが、ミニストップは、

三年前につぶれたそうで、代わりにコインランドリーがあったそう

だ。」

昭子「ああ、それなら知ってるわよ。鮫島は、広いから、もう一個

あるの。」

義男「それも、調べてもらった。今は学習塾になっていたそうだぞ。

いいか、いくら夜勤でも、そんなに厚化粧をして、派手な服を着て、

そんなもので、コンビニ店員は務まらないだろう。お前は、自分の

体を売っていたんだな。それは、もしかすると、将来子供ができた

ときに、大きな障害が出る事も考えられる。梅毒や淋病などの怖い

病気にかかる可能性もある。もっと自分の体に、リスクがかからな

い仕事を選びなさい。」

昭子「言わせて貰うわ!あんたも兄さんも、皆私の賃金でただで食

べさせてやってるのよ。その私に対して、文句つけるなんて、本当

に、頭にくるわ!あたしはあんたたちの奴隷なんかじゃない。正式

に私の職業を言えば、高級娼婦となるのかもしれないけど、高級娼

婦のおかげで、食べていけるんだってことを、知ってもらいたいも

のだわね!お母さんだって、そうやって出て行ったんじゃないかし

ら!」

と、どんどん自室に引き上げていってしまう。遠くで、またうめき

声かする。義男はため息をついて、居間に戻っていった。昭子も部

屋に入った。コートのポケットから、葉巻のようなものをだして、

机のうえにおいた。オウムを飼っているわけではないのに、オウム

のエサである、麻の実がパック入りでたくさん置かれている。窓辺

には、小さな鉢植えがいくつかおかれていた。女性の部屋であれば、

鉢植えを置くことは頻繁にあるかもしれないが、その鉢植えに植え

られた植物は、明らかに異様な雰囲気があって、不気味だった。



義男の部屋。机の上には写真がかざってある。元妻と、博一、昭子

の四人で、ピクニックに行ったときの写真だ。

回想

公園。博一と昭子、義男ともと妻。アンパンマンのビニールシートを敷き、さくらの木の下で、食事をしている。


昭子「美味しい、お母様のサンドイッチ。」


元妻「他も食べなきゃだめよ。博一も、こっちへ来て食べなさいよ。」


義男「お前、なんでそんなにしげしげと、桜の木を見ているんだ?」


博一「桜があまりにもきれいなので、僕自信の汚れもとれるかと。」


近くに座っていた女性たちが、変な顔をして彼を見る。


博一「もろともにあわれと思え、山桜、花より他に知る人もなし。」


歌会始めのような口調。


元妻「博一、やめなさい。」


博一「何でですか?」


元妻「それはあんたが悪いからよ!やめなさい!それに、何でお母さんに向かって、敬語を使うの?やめろと散々いったでしょ!」


博一は座り込んで泣いてしまう。


恨めしそうにみている昭子。


義男「お前、感情的になりすぎだぞ。お前こそ気を付けろ。」


元妻「結局私があやまるのね!」




回想。大晦日の日。

元妻「はい、夜食よ。」

義男「おい、たまには休ませてあげたらどうだ。」

元妻「だめよ。受験は一度しかないのよ。」

義男「正月くらいは。」

元妻「だめ。うちはお金がないんだから。音大なんて、お家が一軒

立てられるくらいお金がかかるんだから。二度とやり直すなんてで

きないのよ。」

昭子「お母さん、宿題でわからないところが。」

元妻「うるさいわね。お兄ちゃんの受験で今忙しいの。あんたもそ

のうちそうなるんだから。しっかりと勉強しなさい。」

昭子「はい、、、。」

すごすご引っ込むしかなかった。自室に引き上げたが、隣の部屋で

は、兄が必死に勉強をしている。親はその兄しか気に掛けていない。

自分なんて必要ないんだ。不意に彼女は、そんなことを思いついた。



回想。芸大の教授の家。音大を受験する場合、教授に実技を教えて

もらうことが、一般的なのである。

レッスンを受けている博一。

教授「よくやった。ここまでにしよう。」

博一は和胡弓をケースにしまう。

教授「君はどうしたんだね。」

博一「何がどうしたんですか?」

教授「随分苦しそうじゃないか。顔が真っ青だぞ。」

博一「ああ、これは何でもありません。生まれつきなんです。」

教授「いや、鏡で自分の顔を良く見てみろ。白人の白さとは、全く

違うから。本当に体に何もないのか?その顔ではそうとは絶対思え

ない。」

博一「そういえば、疲れると時々胸が苦しくなるときがあります。」

教授「それ以外にも何かあるだろう。」

博一「はい、横になって寝ようとすると、たまに心臓が飛び上がる

ような感触になることがあるんです。」

教授「それは本当か?」

博一「はい。毎日ではないですけど。」

教授「悪いことは言わないから、直ぐに病院にいきなさい。それは、

重大な病気なのかもしれないぞ。」

博一「ええ、入試が終わったら行くつもりです。」

教授「いや、それでは試験どころか、」

博一「大丈夫ですよ。すみません、次の授業があるので。」

さらに数日後。森本家に電話がかかってくる。

元妻「はい、森本でございます。え?博一なら、もうとっくに家を

出ましたけど?えっ!それで、着いていない!?」

義男「博一がどうしたんだ。」

元妻「試験場についていないのよ。もう、試験開始時間から、二時

間もたっているのに。」

義男「電車が人身事故でもあったのでは?」

と、テレビで鉄道の運行情報を調べるが、悪天候でもないし、人

身事故の、情報は一度もない。

元妻「もしかして、事件にでも巻き込まれたのかしら!やだ、どう

しよう!」

義男「落ち着きなさい。騒いでもしかたない、、、。」

と、言いながらも、義男も同様に、動転していた。昭子は部屋で、

友人と父のPCを勝手に借りて、メールをしていた。まだメールを打ち終わって

いないのに、べつの友人からメールがきた。なんだと思って、メー

ルを開くと、本文にはこう書いてあった。その内容に、昭子は、思

わず、声を出してしまった。

昭子「あんたのお兄さんが、駅で倒れているよ。」

それを読むと、昭子は直ぐに部屋を飛び出した。両親は警察に電話

をかけようとしていた。

昭子「お父さん、お母さん、お兄ちゃんが!」

元妻「どうしたの!?」

昭子「駅で倒れているって!」

父も母も血相を変えて家を飛び出した。昭子もこのときばかりは、

兄の事が心配になった。

三人は、富士駅に飛び込んだ。しかし、どこを探しても兄はいない。

義男「すみません、うちの息子が、ここで倒れていたと、、、。」

と、駅事務室に駆け込む。

駅長「やっと、見えたんですか!それでも親御さんなんですか?」

義男「えっ、どういうことですか?」

駅長「ええ、駅の非常階段近くに倒れていて、我々駅員が見つける

まで、何時間もそこに放置されたままだったそうです。」

元妻「で、博一はどこの病院へ?」

駅長「多分、中央病院でしょう。親御さんなのに、携帯電話とか持

たせないなんて、どういう神経をしているんですか?」

元妻「受験には必要ないからです。」

駅長「受験?どうにかしていますね。せめて連絡先あたりを教えて

置くのが親の勤めでしょう!救急隊の人が、相当重症だと言ってい

ましたよ!本当に今時の教育ママはどうかしていますね!少し自分

をみつめなおしたほうが良いですよ!」

そういって、駅長はドアをバタン、と、閉めてしまった。

義男「中央病院にいってみよう。」

元妻「と、言うことは、あの子、入試はできないと?」

義男「そうだな、でも来年があるじゃないか。一年休ませて、又、

チャレンジすれば良いさ。才能があるんだもの。多少のブランク

があったとしても、大丈夫だよ。」

元妻「そんな甘いこと言わないでよ。だって、一度失敗したら、ど

うなるか、良く貴方も知ってるでしょ?今は就職難だから、一度落

ちたら、二度と立ち直れないのよ!」

義男「お前、気にしすぎだよ。今は学歴社会とは言うが、少しづつ

改善されているさ。」

元妻「あんたの、そののんびりしすぎているところ、早く直してく

れないかしら!」

駅長室のドアが開く。

駅長「こんなところで夫婦喧嘩はしないでもらえますか!ここは駅

ですよ、公共の場です。」

バタン!とドアは閉まる。義男と元妻は廻りを見渡すと、通行人た

ちが、二人を軽蔑するように見ている。そして昭子は泣いていたが、

誰も彼女には目を向けなかったのだった。

とりあえず、博一は浪人という形で、予備校に通うことになった。

元妻「はい、今日もしっかり勉強してくるのよ。」

博一は何も言わないまま、出かけて行った。

予備校

講師「えー、これはセンター試験に必ず出るところだから、押さえ

ておくように!」

と、言って黒板をたたくと同時にどさっという音。

生徒「先生、博一が又倒れました。」

最後列にいた博一は、胸を押さえて苦しんでいた。

講師「森本。」

博一は、講師のほうへ目を向ける。

講師「二度と来るな。ここは受験生の場所だから、お前みたいな者

は受験の邪魔になるだけだ。むかついたら帰れ!」

授業が終って、事務室。

元妻「どうかお願いします。この子をどうしても、芸大に合格させた

いんです。そのために指導を、、、。」

事務長「そうなんですけどねえ、こんな風に二度も三度も倒れられて

は、こちらも困ります。ほかの生徒のことだってあるし、それに、体

が健康でなければ、大学受験なんてできませんよ。」

元妻「だからお願いしているんじゃないですか。そのためには効率の

よい勉強が必要でしょう?」

事務長「でも、迷惑なのはかわりありません。もう少し彼の体を考え

てから、いらしたほうが良いのではないですか?」

元妻「これだけ頼んでもダメなら私、ほかの手を考えます。今年中に、

この子を芸大に合格させます。でないと、私の立場もなくなりますか

ら。」

事務長「なんだか、それを見ていると、博一君より、お母さんが受験

するみたいですな。」

元妻「ええ。だって、私が産んだ子ですから。」

事務長は大きなため息をつく。

翌日、博一のもとには家庭教師がやってきた。

家庭教師「ほら、なんでこんな問題もできないのです!それでは合格

できませんよ!」

時々、うめき声も聞こえてきた。きっと、苦しいのだろう。

家庭教師「見事な名演ですな!それでは合格できませんよ!」

昭子は中学生になっていた。当然のことながら、彼女も高校受験をし

なければならない。しかし、自分のほうには、両親は一切声をかけて

はくれないのだった。

昭子「ねえ、私には家庭教師の先生もつけてくれないの?」

元妻「自分で考えなさい。お兄ちゃんとあんたはちがうのよ。」

母はそういうだけだった。昭子は寂しいと、確かに思った。

そんな中でも、楽しい時間はあった。部活でバレーボールをする時で

あった。放置されたままであっても、ボールさえあればできるこの競

技は、彼女にとって、唯一の娯楽であり、友人もそれを通して得るこ

とができた。いまでもそれを思い出すことによって、彼女は平穏を保

っていた。


回想終わり。再び、義男の部屋。気がつくと朝になっていた。

昭子は自室で寝ており、博一は朝早くから作曲に取り組んでいた。

義男は、部屋を出て、食欲のない体に無理やり味噌汁を詰め込もう

とした。ところが、味噌汁は口から流れ出てしまった。箸もうまく

つかめないで、テーブルの下に落ちた。時計をみたら遅刻寸前。あ

わてて制服を着込み、旗をもって、仕事に出かけた。

義男は指定された工事現場に着いた。ほかにも何人か旗振りはいた。

交代制なのだった。

声「森本さん。」

と、仕事仲間が声を掛けてきた。

義男「はい?」

発音がどこかおかしかった。そのとき、仕事仲間の顔が急に変わっ

た。

仕事仲間「おい、あんた!直ぐに病院へいきな!それは危ないぞ!」

義男「どこが、、、だ?」

仕事仲間「鏡を見てみろよ!うちの親父が死ぬ前に、そういう症状

を出したことがあった。手がしびれていないか?」

義男「痺れというか、、、な、、、ん、、、だ、、、ろ、、、。」

と、いいながら義男はわからなくなった。目は全く見えなくなり、

仲間が何を言ったかもわからなかった。


気がついたときは、義男は病院のベッドに寝ていた。

博一「お父様!」

振り向くと、博一とつや子がいた。

義男「仕事に戻らなければ、、、。」

と言い、立ち上がろうとしたが、下半身に力が入らない。どうした

ことか。

つや子「旦那様、大変でしたね。軽い脳梗塞だそうですよ。」

博一「しっかりとリハビリすれば、何とか戻れると仰っていました。

高次脳機能障害の心配はないって。足に麻痺が少し残りましたけど。」

義男「そうか、、、。」

つや子「私たち、一生懸命にお手伝いしますから、気を落とさない

でくださいね。」

義男「そうか、早く家に帰らなければ。」

つや子「むりですよ。暫くゆっくりすれば良いじゃないですか。」

義男「いや、自分がいなかったら誰がやる。」

つや子「そうかも知れないですけど、今は休む時期なんですよ、旦

那様。」

隣で、博一が涙を流したのを、つや子は見逃さなかった。

義男「必ず家に帰る又、仕事に行く。足だけならなんでもな

い。旗振りなんて、酷く足を使う仕事でもないんだし。」

と、無理やり立ち上がり、使えない足を引きずりながら、リハビリ室へ、歩いてい

った。

数日後、義男はいつもどおりに起き、無理やり足を引きずって、先

日と同じ現場に行った。右手で旗を持つのは苦手になったが、それ

でも、歩くことはできるようになっていた。ところが、顔なじみの

仕事仲間は一人もいない。代わりに作業をしていたのは、三十代位

の、若い男性だった。

義男「これはどういうことだ、ほかの者はどこへ行ったんだ?」

男性「はい、みんな移動していきました。」

義男「どこの現場へ?」

男性「沼津市です。森本さんが入院されている間、人手不足になっ

てしまって、会社のほうが、編成を変更いたしましてね。」

義男「それで、俺の仕事は?」

男性「ありません。だって、脳梗塞なんてやったんだから、仕事に

ならないとでも、思ったんじゃないですか?」

義男「それでも、こうやって、歩けるし、旗振りぐらいはできるん

だが。」

男性「いや、無理をしないほうが良いですよ。息子さんだって大変

なんでしょ?息子さんの側にいてあげたらどうです?」

義男「人の批判は簡単だが、、、。」

男性「教師の顔をしないでください。それ、むかつくんですよね。」

義男「何!」

ほかの従業員に声を掛けられ、男性は行ってしまった。義男は呆然

となった。実質的な解雇であった。

義男は仕方なく、家に戻って行った。丁度そのとき、昭子が帰って

きた。全身ひょう柄の服を身に纏い、真っ赤な口紅を塗った娘は、

もう、自分の子供ではないような気がした。

昭子「何みてるのよ。」

義男「昭子、頼むから、その職業から足を洗ってくれ。」

昭子「嫌よ!私を散々苦しめたくせに!都合のいいときに頼らない

で、自分でやれといったのは誰かしら。」

義男「もう、違うんだ。」

昭子「ああ、リストラされたのね!良いじゃない、それでやっと、

私の気持ちが受理されたことになったんだわ!それなら、私、この

家を出て、好きなようにさせてもらう。生きるしかばねと一緒に、

このうちでのんびり余生を送れば良いわ。あの、つや子という女も

いるんだし。お妾さんとして、彼女に食べさせてもらってよ。ああ

嬉しい!やっと、あたしを苦しめてきた二人が、同時に逝ってくれ

るなんて!」

義男「昭子、、、。」

昭子「ええ、私は昭子よ。でも、あたしはお母さんの中で作られた

だけでしょ。だから、お父さんの子供じゃない。お父さんなんて、

奇麗事ばっかりいって、私の気持ちなんて沿ってくれなかったわ!

お母さんが出て行くときも、私はお母さんの方に行きたかった!そ

れがやっと、かなうわけね!ああ嬉しい!さっさと、したくしよ!」

遠くでまた、うめく声が聞こえてきた。

昭子「ほら、一番の思い人がそこにいるわ。もう、お父さんは仕事

しないから、これからは上質な介護が受けられるから安心してね、

じゃあ、お妾さんと、幸せにね!」

昭子は、そう言って、スポーツバッグに適当に衣類を詰め込むと、

さっさと出て行ってしまった。


数日後。蘭の仕事場。つや子が手直しに来ている。

蘭「ご主人の様子が変?」

つや子「はい、少し前に軽い脳梗塞になったんです。」

杉三「脳梗塞!それは又大変だなあ。」

蘭「片麻痺なんかはありますか?」

つや子「幸いなことに、そんなに重症な脳梗塞ではなかったので、

高次脳機能障害とかではないです。まあ、障害といったら足が少し

不自由になった程度です。言葉の発音もしっかりしています。な

にしろ、無理をしすぎではないかといわれるくらい、リハビリに

励んでいましたので。」

蘭「それだけ、ご家族の下に帰りたかったんですね。なんか、想い

が感じられますよ。」

杉三「高次脳機能障害があったほうが、幸せだったのではないでし

ょうか。」

蘭「又変なこといって。障害を持つことに喜びを感じる人がどこに

いる。」

杉三「僕はそう思ってしまうな。」

蘭「理由を言ってみろよ。どうして幸せなんだ、今までできていた

事ができなくなるってすごい悲しいよ。例えばALSの人とか見れ

ばよくわかるだろ?」

杉三「できなくなったほうが、諦めがつくよ。新しいことへ一歩ふ

みだすきっかけにもなる。でも、できるから苦しいことだってある

じゃない。できるということは、以前の自分の記憶がまだ残ってい

るから、どうしても、未練が出てしまうんだ。それで、自殺する人

が本当に後を絶たないじゃないか。蘭はALSの人を参考にしろと

いったけど、僕が知り合ったALSのひとは、自殺をしようと思っ

たことは一度もないそうだよ。」

つや子「この勝負は杉三さんの方が勝ちだと思うわ。もし諦めがつ

いたら、次の手段を求めていくってのは、自然なことだし。過去に

縛り付けられていたら、前に進めないじゃない。」

蘭「そうかな、、、。」

つや子「そう思うわ。私。」

杉三「何か、困ったことがおこらないと良いね。つや子さん、大変

だけど、支えてあげてね。」

つや子「ええ、そうするわ。」

杉三「そうしてあげてね。」

蘭は大きなため息をつく。


次の日。富士川の河川敷。数人の老人が、魚釣りにやってくる。

老人「今日は良い天気だな。きっと、大物がかかるぞ。」

老人「お前のつりはいつも下手じゃないか。」

老人「おい、あれを見ろよ!なんだか布のような者が見えるぞ。」

と、指差した先には、白い着物を着た男性が、浮いていた。

老人「大変だ!助けなければ!水におぼれたんだよ!」

老人「しかし、川で泳ぐ季節ではないぞ。こんなさむいときに、

泳ぐやつなんかいるか。しかも、白い着物を着ている。川岸を

散歩でもしていて落ちたのか?もしかして、あの白い着物は、

経帷子では?だって、下前が上に着ているぞ!」

老人「もたもたしないで、早く警察をよべ!そんな馬鹿な話しを

していたら、助からなくなるぞ!」

老人の一人が、スマートフォンで、電話を掛ける。

直ぐに華岡が率いる警察官と救急車が到着した。白い着物を着て

いたのは若い男性で、まだ息があり、直ちに救急病院に搬送され

た。

警察官「警視、下流のほうからもう一人男性の遺体が見つかりま

した。六十代だと思われます。」

華岡「身元を示すものはないか?」

警察官「わかりません。しかし、その遺体は、ある紙切れを大事

そうに握っております。」

華岡「何が書いてあるんだ?」

警察官「いや、わかりません。油性ペンで書いているみたいで、

にじんではいないのですが、何かの暗号文ではないかと。」

華岡「ちょっと、見せてみろ。」

遺体を調べていた検死官が、遺体がもっている紙切れをそっとは

なし、華岡に見せる。漢数字を縦書きに配置したもので、確かに

素人にはわからないだろう。華岡はそれをしげしげと見て、

華岡「これは、邦楽の楽譜だ。」

警察官「はあ、具体的に何の楽譜なんですか?ただの数字の羅列

しか見えないですよ。」

すると、通報した老人が、声を掛ける。

老人「ちょっと、拝見してもいいですか?」

華岡それを手渡す。

華岡「ご存知ありますか?」

老人「警視、これは三味線じゃありません。和胡弓の楽譜です。

証拠に、打ち手の奏法を示す記号がありますね。三味線にはそ

れはありません。」

華岡「その楽譜に、身分証明に役に立つようなものはありませ

んか?」

老人「ああ、ここに、昨日の日付が書かれていて、貴方の息子、

森本博一、と、書いてあります。はあ、素敵なメロディーです

ね。作曲者の感性でしょう。」

華岡「ご協力ありがとうございます。和胡弓の知識はなにもな

かったので感謝します。おい、この楽譜は捜査の重要な資料だ

から、必ず厳重に保管して置くように。」

警察官「わかりました。警視。」

老人「和胡弓はわりとやっている人が少ないので、直ぐに身元

がわかると思います。捜査を期待します。」

華岡「ありがとうございます。では、捜査会議をしよう。」

と、スマートフォンが鳴る。

華岡「はい、華岡です。あ、そうですか、よかったです。でも

?ああ、そうなんですか、、、。」

と、電話を切る。

老人「どうしたんですかな?」

華岡「息子さんの意識が戻ったそうです。」

老人「そうですか、、、。若い方だけでも、助かってくれれば、

どんなにいいでしょう。」

と、半分涙を浮かべる。


蘭の家。アリスが血相を変えて飛び込んでくる。

蘭「どうしたんだ?演奏先で何かあったか?」

アリス「演奏先ではなくてたった今よ!大変なことになったのよ!」

蘭「落ち着け。大変なことだけじゃわからないだろ。ちゃんと何があった

のか、説明しろ。」

アリス「森本さん、なくなったの!何とも、無理心中を図ったんですっ

て!」

蘭「無理心中?どこで、、、?」

アリス「直ぐそこの富士川よ!車で富士川橋を渡ろうとおもったら、通行

止めになっていて、なんだと思ってそこにいたおまわりさんに、聞いたの

よ。そうしたら、森本さんがなくなったって。」

蘭「本当に森本さんだったの?」

アリス「ええ、間違いないわ。だって、ご遺体が、和胡弓の楽譜を握りし

めてなくなっていたそうだから。」

蘭「つまり、なくなったのは、息子さん?」

アリス「違うわ。お父様のほうよ。遺体の年齢からすると、そうしか考え

られないって。」

蘭「じゃあ、息子さんのほうは、、、。」

アリス「すぐに救急搬送されて、助かったって。」

蘭「それはよかった、、、。それだけは、、、。」

と、がたんと音がして、杉三が飛びこんでくる。

杉三「今の話し、本当?」

蘭「なんだ、聞こえていたのか。」

杉三「聞こえていたのかじゃなくて、本当?」

アリス「そうよ、杉ちゃん。」

蘭「あんまり言うなよ。ショックを与えては、ますますおかしくなるし。」

杉三「博一君は?」

蘭「彼は助かったと。」

杉三「すぐに彼の家に行こうよ!一人でかわいそうだから!」

蘭「よせ、報道陣とかきっと、いっぱいいるだろうから。」

杉三「それでもいい。いく!」

アリス「こういうときは、杉ちゃんの望みを叶えたほうが良いわよ。」

蘭「わかった、そうしよう。慶事ではないから、柄ありではなく、黒一色

の大島に変えて来い。本当はいけないんだけどね、大島は。」

杉三「それだけは余計だよ。じゃあ、着替えるから、連れて行ってくださ

い。」

蘭「わかったよ。」

数分後。杉三と蘭は、博一の家にいった。正面玄関には報道陣が沢山いて

入れそうにもない。

蘭「これでは僕らは入れないな。」

杉三は、勝手に裏口へ向かっていく。そこなら、報道陣はいなかった。

杉三「杉三です。聞こえる?」

と、いい、鍵のかかった勝手口のドアノブを何度も上下させ、けたたまし

い音を立てる。

声「つや子さんいる?」

博一「報道関係ですか?」

つや子「いえ、私の親友です。悪い人ではありません。彼は文字を読めな

いので、本気で心配してくれたのでしょう。」

博一「お通ししてください。」

つや子は勝手口を開ける。幸い段差はないので、杉三はそのまま飛び込む

蘭「せめて、車輪ぐらい綺麗にしておけよな。杉ちゃん!」

博一が、二人の方を見る。

蘭「君が、、、博一君なのか。」

博一「はい、、、。森本博一です。」

蘭「僕より状態が悪いんですね。ほんとに。それでは、音楽大学なんて、

とても無理でしょう。少し入院させてもらうとか、できなかったんです

か?」

博一「とても、できないです。経済力がないので、、、。それより、お

二人は、、、。」

蘭「ああ、すっかり忘れていました。僕は伊能蘭です。へんな職業かも

知れないけれど、入れ墨師です。つや子さんの、滝登りを彫った者です。

きっと、こういう人間に、偏見をお持ちだとおもいますが。おい、杉ち

ゃん、君も名乗れ。」

杉三「僕は、、、僕は影山杉三です。」

博一「森本博一です。」

と、二人に握手する。

杉三「おお、冷たい!」

蘭「杉ちゃんそれはね、血の巡りが悪いからだ。」

博一「父に、川に飛び込めといわれても、できなかったんです。だめな

息子ですね。」

杉三「ちょっと待ってよ!何で富士川に飛び込もうとしたの!少なくと

も、よほどの事がなければ、飛び込んだりはしないでしょ。」

博一「自分の責任です。」

杉三「責任って、、、。亡くなる方が無責任だと思いますけどね。」

蘭「杉ちゃん、あんまりせめては。」

博一「いえ、いいんです。」

つや子「杉三さんは悪い人ではありません。どんな話でも聞いてくれる、

優しい方です。」

杉三「僕、読み書きができないので、記録しておく事も、記入すること

もできないです。」

つや子「ある意味、報道陣さんよりも、親身になって聞いてくれますよ。

話してください。」

博一「そうですか、、、。では要点だけ申しましょう。僕は現在就労で

きずに暮らしていて、父が十年前に教師を定年退職したあとも、旗振り

の仕事をしたりして、家を成り立たせていました。でも、父は脳梗塞に

なって、足がうまく使えなくなったんです。六年離れた妹がいるのです

が、妹は体を売っていて、父が働けなくなったのと引き換えに、行方を

くらまし、まだ消息はわかりません。父は再就職を試みましたが、どう

してもできなかったのです。」

蘭「生活保護とか、受けることはしなかったんですか?」

博一「申請にはいったんですけど、審査には通らなかったのです。

だから、家にはお金が入ってこなくなってしまって。つや子さ

んは賃金はいらないから、ここで働くと仰っていましたが、本当にもう

しわけなく思ってしまいまして、家に帰ってもらいました。そして、そ

の翌日に、二人で話し合って、心中しようと決めたんです。父が、お前

の曲を聴きながら死にたいと言い出したので、僕は即興で一曲書いて、

父に渡しました。」

蘭「何とかして、止めることはできなかったんですか?」

博一「父は、それしかないと言っていました。生まれて初めて、僕は父

に頭を下げられました。そして、夜間に富士川橋に行って、二人で手を

つなぎ、川に飛び込んだのです。父は下流まで流されていったのですが、

僕はあろうとしたことか、着物の裾を、川に生えていたよしにひっかけ

てしまって、振りほどくことができなかったから、流されさせてもらえ

なかったのです。」

蘭「そうだったんですか、、、。」

博一「ええ、それに、僕はなんの間違いを犯したのか、普通の紙ではな

く、間違えて耐水紙に曲を書いてしまいました。本来、ポスターなどを

野外に貼り付けるものです。あんまり急だったので、紙の区別もできな

かったのです。」

蘭「そうか。うちの妻が、ご遺体が和胡弓の楽譜を握り締めてなくなっ

ていたと言っていたのですが、そういうことだったんですね。それなら

つじつまがあいます。」

と、涙を流す音。

蘭「どうしたの杉ちゃん。」

杉三「誰も助けてはくれないんだなって思って、、、。」

蘭「なんだ、そんなの当たり前じゃないか。」

つや子「私の責任でもあるんです。旦那様をもっと詰問すべきでした。

私が止めることができたら。」

杉三「もう、肉親はいないんですか?誰も、、、。」

博一「ええ、妹はいますけど、僕のせいでかわいそうな思いをさせて

しまいましたから、もう、言わないでおきます。」

杉三「じゃあ、これからどうするんです?」

博一「どこかの、施設にでもいって、静かに死のうかと。」

杉三「それではだめですよ!なんでよしがお着物のすそに引っかかっ

たのかわかりませんか?」

博一「なんでしょう。」

杉三「それはね、生きるという、神様からのメッセージのように見える

んです。」

蘭「宗教の話はやめろ。」

杉三「ええ、そんなことじゃありません。でも、命を絶つことは、ゆる

されることじゃないんです。だから、僕たちは生きなきゃいけない。僕

も、皆にあきめくらとからかわれても、平気で生活していますよ。それ

をまず、続けることが、大切なんではないでしょうか?」

蘭「杉ちゃん。君は利口なのか、間抜けなのか、、、。」

つや子「生きていてください、私のためにも。」

博一「でも、僕は貴方に賃金は払えませんよ。」

つや子「ただ働きで、構いませんよ。私は、若様と一緒で十分なんです

から。どうか、ここでお世話をさせてください。」

杉三「生活保護とか、法的な手続きは、僕らも手伝います。」

蘭「杉ちゃんはなにも、できないくせに。」

つや子「だったら、私が代理で手続きします。掃除も洗濯も、みんなや

ります。」

杉三「料理だったら僕もできるよ。それだけが、とりえのようなもんだ

から。よし、皆で手伝ってあげよう!」

博一「初対面なのに、、、。ありがとうございます。では、お願いさせ

てください。」

杉三「やったあ!」

蘭「よかったな。杉ちゃんにとってはただの自己満足なんだろうけど。」

と、いうわけで、杉三たちは、定期的に博一の家を訪れて、料理を作った

り、洗濯を手伝ったりした。最も、杉三は、料理するしかできなかった

が。

ある日、杉三が博一の家を訪れると、深刻な空気が流れていた。

杉三「今日もおいしいもの、たくさん食べてください。」

返事はない。

杉三「ど、どうしたの!」

と、車いすのまま飛び込む。

博一「ああ、杉三さん。」

杉三「何かあったの?」

博一「ちょっと、杉三さんには、難しいかもしれませんが、、、。」

杉三「何が難しいの?」

博一「いや、金勘定の話なので、、、。」

杉三「何でも僕は聞くよ。聞くしかできないけど。」

博一「生活保護が、受理されているはずなんですが、、、。」

杉三「生活保護がどうしたの?」

博一「着いてないんですよ。こちらに。」

杉三「じゃあ、役所へいって、直してもらってくださいよ。」

つや子「審査が、かなわなくて。」

杉三「えっ、困っている人にお金を出すのが生活保護ですよね?」

つや子「なかなかそうはいきませんね、、、。」

博一「生きていて良かったのかな、、、。」

杉三「当たり前じゃないですか!そんなの自答しているひまがあったら、

市役所にいって、抗議するべきです。ここまで、体調のわるいひとが、

働けるわけがないでしょ。それも、役所ってのはわからないものなら、

何の意味もありませんよ。」

博一「でも、役所は遠すぎます。」

杉三「そんなこといったら、生きているのが遠のいてしまう。タクシー

かなんかを捕まえましょう。そうすればいけるじゃないですか。」

博一「もうすこし、体調が、、、。」

つや子「いえ、若様、行くべきです。」

杉三「つや子さんもそういっています。行きましょう!」

つや子「じゃあ、タクシーを呼んできます。」

タクシーに乗って、三人は役所へ行く。受付に案内してもらい、福祉

課にやってくる。

杉三「あの、生活保護の申請はできますか?」

係員「あなた、何者ですか?」

杉三「僕は影山杉三です。」

係員「名前だけではつうようしませんよ。どんな用件で、生活保護に

至ったのかをちゃんと、話してください。」

杉三「どんな用件って、見ればわかるでしょ。この人が大変なの。だ

から、お願いしに来たんでしょうが。」

係員「先日も言いましたよね、森本さん。」

杉三「なんだ、名前を知っているなら、早くはなしを進めてください。

簡単なことじゃないですか。」

係員「森本さん、先日も言いましたよね。あなた、そんな素晴らしい

仕事をお持ちなら、何かの生活手段はあるはずだ。それなのにたやす

く、こちらに来ないでもらえませんか。だって、所謂派遣切りとか、

そういうものでもないんでしょう?」

杉三「何を言うの!彼は、体に重い病気を抱えていて、毎日生活する

のだって、できないんです!僕はご飯の支度ならできますが、彼はそ

れさえもできないんです!そういうの、水際作戦って、いうんでしょ、

僕の友人から聞きました。それでは、日本の福祉が役に立たないわけ

だ!」

博一「杉三さん、もういいです。何とかしなきゃいけないって自分で

もわかりました。帰りましょう。」

杉三「いえ、ここで、結論を出したほうが早い。」

博一「いいんです。国の費用に頼ろうとしたほうが馬鹿なんだ。それ

がよくわかりました。」

杉三「どうして、ここで諦めるの?だって、結果はまだでていないん

だよ!」

博一「正直者が馬鹿を見るって、本当なんですね。」

杉三「ばかはそこにいる人のこと。君じゃないよ。」

係員「影山さん、あなた、ご住所はどこですか?」

杉三「知りませんよそんなこと。僕は文字の読み書きができないので

す。」

係員「読み書きができない?学校に行かなかったのですか?」

杉三「勿論です。だって、学校なんて何の意味もありませんからね。」

係員「だったら、もう少し、他人に喜ばれる努力をしてみたらいかが

ですか?そんなに怒鳴り散らしたって、何もないってこと。我慢する

ことを学んでからこっちへ来て下さい。」

杉三「そうですか。でも、馬鹿は馬鹿なりに、困ったことを持っては

いけませんか?だって、偉い人たちだけが良い生活をして、馬鹿な人

は、何も持ってはいけないのですか?」

係員「それはですね。」

杉三「四民平等の法律ができたのに、それだけで、差別するんですか。

日本って。嘘ばっかり!」

と、自分の使えない両足を平手打ちする。

つや子「杉三さん、、、。私が、もう少し日本の法律について知って

いれば、こんなことにはならなかったのかもしれませんね。申し訳あ

りません、若様。」

博一「つや子さんが自分を責めることはありません。悪いのは全て自

分です。帰りましょう。」

と、自分から部屋を出て行ってしまう。

つや子「待ってください!」

杉三「でも!」

係員「ほら、出ていけ!」

と、彼を部屋から追い出しバタン!と、扉を閉める。


蘭の家。

アリス「全く、日本も全然だめね。そういうところ。少なくても、あ

たしたちの国では、そういう人がいたら、即効で承認されると思うん

だけどなあ、、、。で、杉ちゃんどうしてるの?」

蘭「お母さんに迎えに来てもらって、家にいるよ。何にも食べないん

だって。」

アリス「ある意味、杉ちゃんもかわいそうよね。」

蘭「清水に魚住まずかあ、、、。」

アリス「そうね、、、。本人より、もっと辛いのかも知れないな。感

じることだけは、優れているのも、よくわかるし。」

蘭「学習できないのが一番悲しいよ。」

アリス「そうね、、、。」


数日後。公園の掃除をしている博一。その顔はもはや蒼白になってい

る。

声「ほら、しっかりしなさい。いつまでも失敗したことをくよくよし

てはだめよ。」

聞き覚えのある声。

と、杉三と、美千恵が現れる。

博一「(思わず)こんにちは。」

美千恵「あら、、、。」

杉三「博一君!元気ですか!働いて大丈夫なの?」

博一「ええ、二時間だけ。」

杉三「二時間ってどれくらい?」

美千恵「いまから二時間?」

博一「そうです。」

美千恵「お昼ご飯のときまでか。」

杉三「長いね、、、。」

博一「だいぶなれてきましたけどね。親戚には、お前やっと、働ける

ようになれたのかって言われました。」

杉三「そればっかりじゃないと思いますけどね。」

博一「でも、それが、一番幸せなのかもです。」

杉三「それ、無理やり言ってない?」

博一「そんなこと、ないですよ。」

杉三「いや、ちがう。本当は新しい曲書きたくてうずうずしているは

ずです。」

美千恵「ちょっと休みませんか?管理人さんには黙っておいて。」

博一「ええ。ありがとうございます。」

と近くのベンチに腰を掛ける。美千恵も座る。

美千恵「本当に、なれない仕事するより、つや子さんと、ゆっくりす

ごしたほうが良いのでは?」

博一「でも、家で何をすれば良いのか。」

杉三「だから、新しい曲を書くの!」

アマチュアのバンドが演奏している。

博一「ああやって、、、簡単に音楽が作れる時代に、生まれなければ

良かったのかもしれません。」

美千恵「そうね。それは確かにいえているかもしれない。この間、ゴ

ーストライター事件なんかもあったし。」

杉三「そんなことにめげちゃだめだよ。必ず、美しい音楽をほしがる

ひとはいるさ。」

美千恵「あんたには悪人なんて通用しないからね。作曲家になりたい

のね。博一さんは。それだけは確かね、、、。」

と、言いかけたそのとき、重いものが落ちる、どさっと言う音。

杉三「だ、大丈夫!」

博一は地面に横たわったままである。

美千恵「あんたはここで見ていて。いま救急車呼ぶから。」

と、スマートフォンを取り出し、ダイヤルする。

杉三「博一君、しっかり!大丈夫だよ。大丈夫だからね。いま、病院

に連れて行ってあげるからね!」

と、いいながら、見る見るうちに涙が溢れ出し、

美千恵「泣かないの!五分くらいしたら来てくれるから、静かに待っ

ていなさい。」

と、彼をベンチに横たえてやり、

美千恵「水飲むか?」

博一は力なく首を振る。

美千恵「ほら。」

と、ペットボトルを彼の口につける。

杉三「まだ来ないの?」

美千恵「もうすぐよ。」

杉三「いつ来るの?」

美千恵「それより、彼の方が心配よ。水を飲んではくれたけど。」

杉三「だから、いつくるの?」

と、けたたましい音がして、救急車がやってきた。隊員は博一をス

トレッチャーに乗せた。

隊員「あの、ご家族は、、、。」

杉三「僕が行く!」

隊員「ご家族の方はどなたかいらっしゃいませんか?」

美千恵「ちょっと、事情がありまして。代わりに私たちに同乗させて

ください。」

隊員「わかりました。では、のってください。ここからだと、芦川

病院が近いかな。」

杉三「どこでも良いから、彼を助けてあげてください!」

隊員「では芦川病院に向かいましょう。」

と、三人を乗せて、さらにけたたましい音を立てながら、病院へ向か

っていく。


芦川病院

美千恵「不整脈による、心室細動ですか。」

医師「はい、ここまで重症な例は、私も久しぶりに見ました。医学が

発達していない、江戸時代まであたりなら、よくあったのかもしれま

せんが、こんなところまで、酷い例は殆ど見たことがありません。あ

きれてしまうくらいですよ。」

美千恵「何とかなりませんか。」

医師「いや、先ず無理でしょう。手術に耐えられるかもわかりません

から。」

美千恵「仕方ないのでしょうか。」

医師「ええ、、、。ご家族の顔が見てみたいですよ。ここまで、なぜ

放置できたのか。きっと、いろいろサインを出していたんじゃないか

なあ。」

美千恵「私も、そうおもうんですが、、、。人って、単純じゃないで

すね、、、。」


蘭の家

蘭「全く、いつまでも泣いてないでよ。」

杉三「だって、、、。」

アリス「蘭、少しきついこと言いすぎよ。」

蘭「そうだけどさ、、、。僕より重篤な症状のようだし、何かいらだ

ってくるんだよなあ。」

杉三「蘭も、本当は助けてあげたいんでしょ。」

蘭「それは、、、。」

杉三「蘭は辛さを知っているから、そうやって妬むことができるんだ。

だから、おんなじことなんだよね。」

アリス「杉ちゃんには、建前は通じないから。でも、彼の家もへんな

ところね。生活保護がどうして通らなかったのか、私にはわからない

わ。」

蘭「うん、、、辛さはわかるけどさ。」

アリス「そうなったら、妹を呼び戻すしかないじゃない?」

蘭「しかし、妹は、行方不明になっているんだよ。しかも、薬物を使

用している疑いもある。」

杉三「じゃあ、お父さんやお母さんの兄弟や親戚は?」

蘭「どうなんだか。」

杉三「それはいるでしょう。だって彼は、木の股から生まれてきた訳

じゃないじゃない。」

蘭「そうなんだけどね、、、。」

杉三「華岡さんにきいてよ。誰かいないの?そういう人。」

蘭「そうだなあ、、、。」

アリス「もったいぶってないで、電話しなさいよ。」

蘭「わかったよ。」

と、スマートフォンをダイヤルする。

蘭「あ、華岡?あの、森本博一は、妹のほかに、肉親はいないのか?」

声「ああ、部下の者に調べさせたところ、父親の親類は、東日本大震災

で、全滅しているらしい。」

蘭「はあ、東北のひとだったのか?」

華岡「まあ、そういうことになるな。で、母親のほうはまだ若干いるら

しいぞ。」

蘭「誰が?叔父、叔母か?」

華岡「いや、母親は兄弟がいないそうだ。」

蘭「じゃあ、誰がいるんだよ。」

華岡「母親の父親の兄だ。子供がなくて、今は隠遁生活をしているらし

いぞ。」

蘭「どこに住んでる?」

華岡「ああ、富士の大渕だ。若い頃は二人とも高校教師だったそうだが

、定年退職して以来、隠遁生活をしている。」

と、杉三がスマートフォンをひったくる。

杉三「大渕じゃ、すぐちかくだね!」

華岡「まあ、富士市内にいるということだ。」

杉三「すぐいくよ、華岡さん。情報を教えてくれてありがとう!」

と、電話を切ってしまう。

蘭「馬鹿だなあお前。これから住所を聞こうとおもったのに。」

杉三「聞いていたってしょうがない。すぐに大渕に行こう。」

蘭「住所を知らなかったら、なにもできないでしょ。」

杉三「それより、近所の人に聞くのが一番だよ。さあ、早くしたくして

でかけよう。」

蘭「全く。しょうがないなあ。」

杉三「早く行こう。」


大渕の精神科。そこで二人はバスを降りる。

蘭「ここで降りてどうするの?」

杉三「だから、調べるの。病院の職員さんとか、看護師さんに聞くの。」

蘭「そんなことして何になるの、杉ちゃん。」

杉三「つまりこういうこと。妹さんが麻薬に走っていたことを知ってる

ひとがいるかもしれないでしょ。この病院だったら。」

蘭「知っている人?」

杉三「本人はいなくても、薬物で捕まって、ここに入っているひとが、

いるかもしれない。そうしたら、彼女の足取りを知っている人物がい

るかもしれないよね。その人たちの方が、警察の情報より、もっと詳

しいんじゃないかな。とりあえずいってみよう。」

と、正面玄関からどんどん入ってしまう。

蘭「待ってよ、杉ちゃん、精神科というのはね、気軽に面会ができる

わけじゃないんだよ。」

聞こえていないらしい。どんどん受付の方まで行ってしまい、

杉三「すみません、」

受付「あの、失礼ですが、面会時間は午後からですが、、、。」

杉三「じゃあ、待たせてもらいます。」

と、一人でカフェスペースに行ってしまう。

蘭「どうだって?」

杉三「午後まで待てって。」

蘭「全く。お昼ごはんまであと、二時間もあるよ。それまで何をして

いればいいのか。本当に、杉ちゃんは、、、。」

すると、看護師と一緒にある女性が近づいてきて、蘭の肩を叩く。

女性「先生、こんにちは。」

蘭「先生?あっ、前島さん。お久しぶりだね。随分顔をあわせないと

おもったら、こんなところにいたのか。」

前島「ええ。気がついたらここに寝かされていて、もう三ヶ月もたつ

のよ。でも、私、もうすぐ帰れるって。だから、もう二度と、覚醒剤

には手を出さないわ。また、手直しにもいかせてもらうわね。もう、

かなり色あせているから。」

そういって彼女は左腕を見せた。うっすらと、桜吹雪があった。

杉三「ちょっとすみません。」

前島「このひとは?」

蘭「僕の友人の影山杉三だ。杉ちゃん、自己紹介位しろ。」

前島「へえ、こんなに綺麗な人なのに男性なんだ!先生に恋人でも

できたのかとおもったわ。」

蘭「僕は既婚です。」

杉三「ねえ、前島さん。君は、覚醒剤で捕まったの?」

前島「ええ、受験勉強に耐えられなかったのよ。」

杉三「だれから、取引をしていたの?」

前島「外国の人だったかしら。」

杉三「そのときに、森本昭子というひとはいなかった?」

前島「えーと、ああ、そういえば聞いたことあるわ。打っていた人

から。何か有名な作曲家の妹だって言ってた。でも、皮肉なものね。

そんな偉い人の妹が、そうなるんだから。あたしみたいに父も母も

そろって機械屋っていう下品な人だけが、薬物に走ってしまうのは

よくわかるけど。」

杉三「で、彼女は今どこに?」

前島「どこだか知らないわ。私じゃ。もう、三ヶ月ここにいるし。

ここでは、メールのやり取りもできないのよ。」

杉三「じゃあ、彼女が最後に働いていた場所はどこ?」

前島「聞いた話では、東京の吉原とか。あ、でも、もう変わってい

るかもしれない。」

杉三「東京の吉原か、、、。」

前島「もともとが身分の高い人だから、そういうところでも、すぐ

稼げるんじゃないかな。」

蘭「身分なんて、あんまり言うなよ。今は、身分制度なんてないん

だよ。」

前島「だってあたし、それのせいで薬物にいったんだし。」

蘭「まあ、それも早くさようならして、一番大事な人の下に帰りな

さい。」

前島「わかったわ。」

看護師「そろそろ、病棟に戻るじかんですよ。」

前島「わかりました。」

杉三「どうもありがとう!」

と、手の甲を向けてバイバイする。

蘭「杉ちゃん、君は得なのか損なのかよくわからないなあ。」

杉三「まあ、いいってことさ。」

蘭「これからどうする?東京の吉原に行くの?まさか。」

杉三「僕は遊郭は行けないよ。」

蘭「まあ、そうだろうね。それに何で昭子ちゃんの素性を聞くの?

彼女のおじさんを探しに来たんでしょ?僕たち。」

杉三「なんで、そんなに、昭子さんは寂しかったのだろうか。」

蘭「なんでって、」

杉三「だって、機械屋の娘さんじゃないんだから。きっと、うんと

愛情を持って育てられたのだと思うけど。」

蘭「まあ、高尚な家庭の子供が犯罪に走る事件も多いからねえ。そ

の一人と考えれば。」

杉三「じゃあ、調べに行こう。引き続き彼女のおじさんを探そう。」

蘭「えっ、、、。本当に杉ちゃんは文字さえ読めれば警視以上にな

れると思うよ。」

杉三は、いそいで正面玄関から出てしまった。

杉三「ちょうど、この病院の隣に、交番があるよ。」

その通り、交番はあった。

蘭「そうだな。病院で暴れる人が出たときに、止めるために作った

と言っていた。」

杉三は、眠そうな顔をしている、おまわりさんに声を掛ける。

杉三「こんにちは。」

警官「ど、どうしたんですか?」

杉三「あの、森本昭子という人の、おじさんを探しているのですが。」

警官「住所とか、連絡先は?」

杉三「そんなもの知りません。僕は文字の読み書きはできないので。」

警官「でも、学校には行ったでしょう?あなたいくつなんですか?」

杉三「四十五です。そんなこと聞いてるんじゃありません、聞いてい

るのは、森本昭子の伯父さんです。どこに住んでいるのか知りたいん

です。そして、お兄さんの博一君が大変だから、何とかしてくれるよ

うに、頼みたいのです。」

警官「ああ、森本博一ですか、、、。」

杉三「だから、教えてくださいよ。なんで渋っているんです?彼は、

何とかしてあげないと、死んじゃうかもしれないのに。」

警官「いや、、、こちらといたしても、できないことはありますし。」

杉三「じゃあ、華岡さんに聞けばわかりますか?同じ警官なんだから、

電話してもらえますか?」

蘭「杉ちゃん、、もうよしな。帰ろうよ。」

警官「えっ、華岡警視?」

杉三「うん、僕と友達なんだ。」

警官「じゃあ、教えておきましょう。えーと、森本昭子と博一の伯父、

正確には大伯父ですが、この交番の前の道を、二キロ先に歩いた所に

住んでます。赤い屋根の家です。今の時代、赤い屋根は珍しいから、

すぐわかります。」

杉三「お名前は?」

警官「母親の、父親の兄だから、母親の姓を名乗っています。菊川正

美とい名前です。菊川市の菊川に、正しく美しくです。」

蘭「応答してくれますかね。何しろ、博一の父と母は、かなり昔に離

婚しているからな。」

杉三「とにかく、行って見なきゃわからないよ。二キロなら、何とか

なる。すぐ行こう。」

蘭「覚悟していけよ。門前払いになっても泣かないでね。」

杉三「うん、今回は泣かないよ。」

蘭「じゃあ、おまわりさん、ありがとうございました。」

杉三はまたしてもどこかへ行ってしまう。

警官「華岡警視によろしくね。新田が道を教えてくれたって。」

杉三「僕は出世の手助けをしたくて聞いたわけじゃありませんよ。」

蘭「もう!そんなこと言って!失礼じゃないか!すみません。あとで

謝罪します。」

と、杉三のあとを着いていく。

暫く道なりに移動し、

杉三「赤い屋根って、これかな。」

と、ある、ちいさな家を指差す。ほかに見渡しても、赤い屋根はない。

杉三「表札を読んで。いの。」

蘭「ああ、菊川だね。ローマ字で。」

杉三「わかった。じゃあ中にはいろ。」

と、インターフォンを押す。しかし、反応はない。

蘭「留守かな?」

杉三「いや、そんなことないよ。家にいるよ。だって、洗濯物を干し

てあるよ。」

蘭「でも、洗濯物を干して、出かける人はいっぱいいるよ。」

杉三「ううん、最近の柔軟剤や洗剤は、とても香りが強いんだ。今干

したばっかりなんじゃないかな。」

確かに、洗剤の香りは漂っていた。

蘭「杉ちゃんってある意味天才かもね。」

杉三は、もう一度インターフォンを押す。今度は受話器を上げた音が

聞こえてきて、高齢の男性の声がする。

声「はい、どちらさまでしょうか?」

杉三「僕は影山杉三です。森本博一君の、大伯父さまですね。」

声「どうして、わかったんですか?」

杉三「華岡警視にききました。ちょっとおはなしを聞かせてください。」

声「華岡さんなら先ほど、話を聞いてお帰りになりましたよ。」

杉三「僕にも、教えてくれませんか?」

声「又同じ事を言うんですか。あなた、何者ですか?」

杉三「博一君の友達です。彼が今大変なので、何とかしてあげてほし

いのです。だから、協力してもらいたくてこちらに来ました。」

声「友達、、、ですか?」

杉三「まちがいありません。僕は少なくとも彼の友達だと思っていま

す。」

と、重い扉がぎいっと音を立ててなる。ひげをはやした老人が出てく

る。

老人「私が、菊川正美です。そちらの方は、、、。」

蘭「伊能蘭と申します。杉三の付き添いできました。」

老人「お入り下さい。お二人の車輪を拭くために、このタオルをお貸

しします。」

と、タオルを二つ出してくる。二人はそれで車輪を拭き、正美の案内

で居間に行く。

正美「どうぞ。」

と、茶を差し出す。

蘭「ありがとうございます。」

杉三「で、お願いなんですが。」

蘭「いきなり本題を出しちゃだめだよ。まず、ご挨拶とか、いろいろ

あるでしょうが。」

杉三「はい、わかりました。博一君が、重い病気であることは知って

いますか?」

正美は、驚いた顔をする。

杉三「彼のお父さんは脳梗塞で倒れてしまって、働けなくなってしま

い、博一君と二人で川に飛び込んで心中を図りました。でも、本当に

皮肉なことですが、博一君の方が助かったのです。しかし、彼も、掃

除の仕事を始めた直後に倒れ、救急車で運んでもらって、今病院にい

ます。」

蘭「こういうときはすらすらいえるんだなあ、杉ちゃんは。」

杉三「で、もうお父様もいないし、妹さんは遊郭に体を売ってしまい

ました。だから、博一君の、入院費もまかなえないのです。妹さんは、

遊郭にいっているけれど、体を売った料金は、彼の家には届いていな

いので、無一文に近い状態なんですよ。だから、少しだけで構わない

から、彼の生活費を援助していただけないでしょうか?」

正美「杉三さん、、、。貴方は、素晴らしい人だ。博一にそういう友

達がもっと早くいれば、あいつは死ぬような病にはかからなかったか

もしれません。妹さんだって養っていけるくらいの音楽家になれるは

ずだったんですよ。それなのに、今の日本の社会と来たら、、、。」

蘭「どういうことですか?万引きでもしてしまったとか?」

正美「いや、万引き程度なら、まだ許されますよ。悪事ではないけれ

ど、彼は存在していること自体が、罪な人間だったのかもしれない。」

杉三「存在していること自体が罪。つまり、人に迷惑をかけるという

ことですか?」

正美「よくわかったね。」

杉三「でも、存在しているものは存在しているんですから、それは、

ある程度はしかたないと、諦めるときもあるでしょうね。彼は、それ

がはやくから強かったというのなら、、、。」

蘭「つまり、障害を持って生まれてきたのですね。」

正美「そうなんですよ、、、。本当にかわいそうだと思いました。い

わゆる、発達障害とよばれるものでしょう。」

杉三「つまり、僕みたいなの?」

蘭「あ、この人は自閉症といわれていますので。」

正美「ああ、そういうことなんですね。変わった人だなあとは、思っ

ていたのです。」

杉三「でも、博一君は、僕みたいに読み書きができないとか、そんな

ことはありませんでしたよ。」

正美「いやいや。人によって違います。姪とご主人は、彼を巡って、

本当に数々の喧嘩をしていました。隣近所の三軒から苦情が来たほど

でしたよ。」

蘭「ご家族は、自閉症の検査を受けさせることはしなかったのですか?」

正美「まあ、お二人も、車いすにのっていらっしゃるので、大体の事

はわかると思いますが、どうしても日本の家族は障害がある子供がで

きると、その子を隠してしまう傾向がありますよね。だから、自閉症

に検査にも行かなかったそうなんです。」

蘭「そうですか。そういう家庭も確かに今はありますよね。その前か

ら、中絶しちゃう親のほうが多い。」

正美「問題は、学校に行き始めてからだったんですよ。彼は授業では

よく発言するのに、試験になると点数が取れなかったそうなんです。

姪も、よく相談に来ました。何でこの子はこんなに成績が悪いのかっ

て。いくら私たちがこうしろああしろと言っても、博一君の成績は一

向に上がらなくて。中学校に入ったら、ますます悪くなりまして、体

罰を受けた事もあったそうなんです。」

蘭「そうですか。確かに蓋を開けなきゃわからないことはありますよ

ね。学校って役に立ちそうで役に立たないからなあ。」

正美「で、そんなときにですね、彼を救ってくれた教師がいたんです

よ。」

蘭「きょ、教師?」

正美「はい、そうです。音楽を担当していました。もう、定年間近で

おばさんというより、おばあさんでしたけどね。」

蘭「非常勤かなんかですか。」

正美「ええ、そういうことになります。で、彼が授業で、リコーダー

を非常に上手に吹いていて、音楽の才能があると見抜いたんですよ。

そこで、彼女は博一君に、ピアノを教えたり、コンサートにつれてい

ったりしたそうです。そして、偶然、和楽器のコンサートに連れて行

ったら、彼は目を、これ以上ないほど輝かせて。」

蘭「そうですか。それで、和楽器に行くようになったんですね。」

正美「はい、彼のお母さんは有頂天のようだったそうですよ。彼に

自信をつけさせるため、高価な楽器まで買って、有名な先生にも習わ

せて。」

蘭「誰でも、そうなりますよ。僕は親になったことないけど、お客

さんの中には、期待されすぎて辛いという人が沢山きますから。」

正美「はい。だから、姪は、博一君に、友達を作ることや、体を休

めることを禁止しました。大学へいけば、沢山友達ができるから、

今は勉強に集中しろと、うるさいぐらいに言っていたそうです。

何しろ、その音楽の先生が、その発言をしてから、姪はなんだか頭

がおかしくなったようです。きっと、博一君が自分の思うものにな

らないからいらだっているのでしょう。何しろ、彼が生まれてくる

時からそうだったんですから。」

蘭「具体的になんて?」

正美「はい。姪が、博一君を妊娠中に買った服とかを、博一君は一

切着ないで、おじいさんやおばあさんの作った、渋い色あいの服を

好んできていたそうです。だから、そのときから歯車は狂っていた

のですね。」

蘭「そうだったんですか、、、。」

杉三「で、妹の昭子さんは?」

正美「いい子でしたよ。我侭な兄よりよほど偉い。姪はそう自慢し

ておりました。」

杉三「なるほど、、、。本当は、ちゃんと検査を受けるべきでした

ね。」

正美「そうですなあ。でも、今の時代は受け入れるってのは本当に

難しい。少しでも楽なほうに皆逃げようとする。だから、現実と向

き合いたくなかったのかもしれないですよね。」

杉三「一番の被害者は、博一君と、昭子さん。両方でしょう。きっ

と、昭子さんはこっちを向いてほしくて、いい子にしていたんだと

思います。そうじゃなきゃ、ご両親が博一君から逃れられないです

もの。そして、それが、お母様の心の支えにもなっていたんでしょ

う。」

蘭「心の支え?」

杉三「もし、博一君でだめなら、昭子さんがいるって。甘えてたん

だろうね。」

蘭「なるほど。そういうことか。杉ちゃんは、どうしてそういうこ

とがよめるんだ?」

杉三「あきめくらだから。」

蘭「そういうことか、、、。」

杉三「どうかお願いです。博一君が立ち直るために、何とかしたい

です。」

正美「いや、それはないほうがいいだろう。」

杉三「へ?」

正美「あの人たちが引っ越していくまで、ここで大喧嘩ばかりして

いた光景を何度も見てきているが、彼は今、チャンスなのかも知れ

ない気がするんだ。」

杉三「何を仰います!だれだって、生きていたいと思うのが人間で

しょう?」

正美「いや、そうでもない人間もいるんだよ。こんなことを、本人

の前で言ってはいけないが、彼は聞き分けの良い男だったから、妹

さんに、自分が生きているから、妹が辛い生活を送っていると、

思ったんだろう。今がその集大成だ。妹さんも、これでやっと本気

で、やれる事もやれるだろうしね。」

杉三「それでも、家族は家族ではないんですか!」

正美「杉三さん、、、だっけ。家族の全てが平穏というわけには行

かないんだよ。事実、妹さんが、遊郭から戻ってこないのは、お兄

さんと、関わりたくないからだ。まあ、死ぬのが人助けなんておか

しなことだけど、事実事例は沢山増えていくとおもう。若い人では

なく、歳よりも。」

蘭「そう、、、ですか。じゃあ、、、これで、失礼していいですか?

あんまり長居はできないし。」

正美「ああ、どうぞ。」

蘭「じゃあ、杉ちゃん、行こうか。」

杉三は返事をしなかった。


深夜の病院。博一が入院している。急に苦しくなり、彼は目を覚ます。

その視野にぼんやりと義男の顔が映る。

博一「お、お父様、、、。」

義男は、この上なく嬉しそうに、こういった。

義男「博一。」

博一「はい。」

義男「帰ろう。」

博一は、自分に何があったのかすぐにわかった。

博一「い、嫌です!」

義男「帰ろう。」

博一「いやですよ、僕は、、、まだやりたいことが。」

義男「お母さんもまってるよ。」

博一「昭子は、、、。」

義男「あいつのことは気にしなくていい。」

博一「でも、昭子を一人にはしたくないです。お父様、もう少し待って

ください!」

と、廻りを見渡すと、看護師が心配そうに見ている。

看護師「だ、大丈夫ですか、、、?」

博一「え、ええ、何でもありません。本当に。」

看護師「あんまり、この病院に宗教的なことは、持ち込まないでくださ

いね。」

といって、部屋を出て行ってしまう。


蘭の家。つや子が来ている。

蘭「そうですか、、、。」

つや子「このままでは、入院さえさせてもらえなくなります。もう、貯

金もないし、生活保護は当てにならないし、、、。伯父様のお話が真実

であれば、、、。」

蘭「そうですね。障害のある人間って、、、僕も経験あるけれど、存在

しているって、迷惑でもあるし、美しくもあるんですが、、、。」

つや子「何とか、福祉制度は使えないでしょうか?」

蘭「うーん、国を変えるしかないんじゃないですか?福祉が発達した、

スウェーデンとか。」

つや子「そんなこと、できません。そんなお金はありませんもの。」

蘭「そうですよね、、、。」


吉原のソープランド街。今日も、昭子は夜の仕事を終えて、朝帰り。

仕事場を出て、電車に乗り、食品を購入しようと、コンビニに入る。

弁当を一つ手に取る。最も安いもので、昭子はこれしか食したこと

はない。と、突然、吐き気を覚え、弁当を放り投げて、化粧室に飛び

こむ。

店員「お客さん、こんなところに、放り投げないでください。こんな

ふうにめちゃくちゃにされたら、弁償していただきますよ。」

昭子は、化粧室からでて、

昭子「御免なさい、、、今払いますので、、、」

と、財布を出そうとするが、また弁当を突きつけられて、再び吐き気

に襲われる、、、。

店員「だ、大丈夫ですか?」

昭子「ええ、いまだしますから、、、。」

店員「あの、つかぬ事をお聞きしますが、お客さんはおいくつで?」

昭子「三十ですが、、、。」

店員「ああ、私が、上の子を産んだときと同じだわ。じゃあ、産婦人

科で、検査してもらいなさいよ。とても嬉しいことが待っているかも

しれないわよ。今日はお弁当代だけ、出してくれればいいわ。」

昭子はしぶしぶ弁当代を払う。

店員「じゃあ、良い知らせが、できるようにね。」

昭子「いえ、そんなことはありませんから。」

と、ぷいっとして店を出てしまう。

昭子「(道路を歩きながら)絶対そんなことはないわ。」

豹柄の上着を脱ぎながら、彼女はマンションの部屋に入った。冷蔵庫

を開けたとたん、また吐き気がした。何かたべれないかと冷蔵庫の物

を全て出してみたが、吐き気のおこらないものは全くない。遂に冷蔵

庫を、バタンと閉めて、食べ物をぶちまけたまま、昭子は動けなくな

ってしまったのだった。それは一日中続き、その日口にできたものは、

お茶をいっぱい飲んだだけであった。やがて、日が落ちてきて出勤時

間になっても、寝込んだまま。立ち上がるなんて、毛頭できるはずも

ない。

と、インターフォンがなった。

声「昭子さん、何をやっているんですか。お客さん、待ってますよ。」

昭子「はい、、、今行きます、、、。」

と、よろよろと立ち上がって、玄関ドアを開ける。所謂フロントを担

当する、中年女性だった。

昭子「すみません、いまいきますから。」

フロントは、昭子の顔をまじまじとみる。

フロント「残念だけど、、、。」

昭子「何でもありません。ただの食中毒です。」

フロント「あのね、昭子さん。食中毒なんかじゃないわよ。そうなっ

てしまったら、もうこの業界には居られない。」

昭子「なによ、それ。」

フロント「病院へいって聞いてみれば良いわ。」

と、静かに立ち去ってしまう。


翌日。産婦人科。何人かの妊婦さんに混じって、昭子が居る。妊婦さ

んたちは、彼女の風貌に対して、こそこそといやみをもろしている。

看護師「森本昭子さん、どうぞ。」

診察室に入っていく。

一通り検査を受けて、、、

医師「おめでとうございます。七週目ですね。」

昭子は落胆の表情を見せる。

医師「私はね、そういう方でも、おめでとうというようにしているん

です。だって、新しい命を宿すということはね、本当に素晴らしい事

なのですから。」

昭子「こまります。ソープやめたら、あたし、行き場がなくなるし。」

医師「私は、できる限りなら、堕胎をやめてもらいたいわ。」

昭子「あら、私のお陰でお金がもらえているの、わからないのかしら。

病院だって、中絶すれば儲かるんじゃないの?文句言ってるんじゃな

くて、早く中絶の手続きして。」

医師「そうですね。お母さんになるってことは、本当に素晴らしいも

のだけど。嫌がる人はいないわけじゃないから。じゃあ、来週にもう

いちど来てくれる?そのときに手術しましょう。」

昭子「ほんとは、明日にでもしておきたいところだけど、来週必ずや

ってくださいね。お願いしますよ。」

医師「わかりました。ではですね、手術は保険が利きません。この病

院では、検査と、カウンセリングも併用するシステムがありますので、

合計二十万ほど、かかります。それでよろしいですか?」

昭子「二十万!そんな大金どこにもないわ!」

医師「でも、ここではそうすることになっています。だって、私たち

は、殺人者にならなきゃいけませんから。」

昭子「殺人者なんて。困っている人を助けるんですから、何も気にし

ないでください。はやくやってすっきりしたいわ。」

医師「わかりました、、、。」

と、少しだけ悲しげな表情を見せる。


産婦人科からもどった昭子は、銀行にいって、自分の口座を調べてみ

た。通帳をみると17万しかない。いろいろなものを買い込むために、

使いはたしてしまったのだった。診察券の、次回の診察日は、来週の

金曜になっていたが、それまではソープランドを休まなければならな

い。悩みに悩んで、彼女はスマートフォンを取り出した。

ベルが三回なった。そして、取ったのは、、、。

昭子「あの、すみません、森本義男のお宅ですよね?」

杉三「杉三です。」

昭子「えっどういうことですか?ここは森本義男と博一のお宅では?」

杉三「義男さんなら、先日亡くなられましたよ。」

昭子「ええっ、父が?でも、電話番号が繋がるはずなら、、、。」

杉三「あのね、あのお屋敷は、とっくに壊されてしまいました。そう

しないと、博一君、入院できませんもの。きっと、間違った番号をま

わしたんですよ。」

昭子「入院って、、、。」

杉三「ええ、そういうことです。生活保護にも通らなくて。」

昭子「え、、、。」

声が聞こえてくる。

声「杉ちゃん、一体どうしたの?間違い電話なら早くきりな。」

昭子「ちょっとすみません、兄、、、いや、森本博一は今、、、。」

杉三「ああ、お兄さんなら、きっと、二度と帰ってこれないだろうな。

もう少し、早く気がつくべきだったね。」

昭子「そんな、、、。」

声「誰と電話しているの?も、もしかして、、、あの女か。」

昭子「ちょっと、私が何を!」

声「ああ、すぐに署へ戻らなければ!」

昭子は思わずスマートフォンを落とし、がっくりと崩れ落ちる。

一方、電話を受けていた杉三は、

杉三「いくら呼んでも出ないよ。」

蘭「ああ、きっと、嫌がらせだよ。早く電話を切りな。」

杉三「本当に、生き別れの妹さんだったら、すぐに知らせてあげたほ

うが。」

蘭「いいよいいよ、きっと、あの彼女には彼の気持ちなんてわかりは

しない。そのほうが彼も気楽に逝ける筈だ。早く電話を切りな。」

つや子「本当に、最後までひどいひとですね。」

杉三「じゃあ、それ、伝えておくよ。」

蘭「いいよ、いいよ、切りな。本当にこんな人間が居ると聞くだけで

吐き気がするよ。」

と、受話器をつかんでズシン!と、置く。

杉三「どうして切るの?」

蘭「だって、許せないよ。彼の顔をみればわかる。あわさないほうが、

あの女には、いい教育になるだろう。」

杉三「見せたほうが、らくだと思うんだけどなあ。」

蘭「いや、見せるよりも、こっちの方が辛くなる。彼はもはや、おき

上がることさえできないんだ。いつ事切れたっておかしくないって、

先生が言っていたじゃないか。あの女には、そんなこと教えたって、

通じるはずがないんだから。」

杉三「じゃあ、何でああして電話なんかよこすの!それは困ったこと

があるからじゃないの!」

蘭「杉ちゃん、加害者側に肩を持つのはやめろ。いままで何もしなか

った人が、こうして電話をよこすなんてね、所詮お金を貸してくれと

か、住むところをかしてとか、そういうずるい要求をするときだけな

んだよ!」

杉三「それがわかってからでは、おそいよ。」

蘭「杉ちゃん、、、。」

と、大きなため息をつく。

蘭「障害のある人は、視点が違うから、困るんだよなあ、、、。」


一方、病院では、何も知らない博一が、苦しんでいる。

声「あの、、、。」

その声のする方へ向くと、

博一「つや子さん、、、。」

つや子「すみません、面会はできないといわれてしまったのですが、

どうしてもお会いしたくて、きてしまいました。」

博一「どうしてですか?だってもうとっくに、専属契約は切れた筈

ですよ。次のお宅だって待ってるでしょうに、、、。早く出てくだ

さい、、、。」

と、起き上がろうとするが、胸を押さえて布団に倒れこんでしまう。

つや子「若様、だめですよ、ちゃんと横になっていないと。」

博一「もう良いのです。どうせ自分は、ここで終わりなんだろうな

って予測はついてますもの。」

つや子「そんなこと言わないで。私は、どうすればいいんですか。」

博一「だからさっきも言ったでしょ、新しい家族をさがして、又メ

イドとして働けば、幸せになれますよ。」

つや子「そういうことじゃないんです。若様。」

博一「だってそうじゃないですか。」

つや子「私は若様が好きです。側にいたいんです。それはいけませ

んか?」

博一「ど、どうしてそんなこと、、、。」

つや子「だって、まぎれない事実ですから。私の気持ちは変わりま

せん。」

そういって、彼の右手を握る。

つや子「生きてください。ここを出て、新しい生活を始めましょう。

生活保護が通らなかったら、私が働きます。まあ、メイドとか、庭

はきとか、そういう仕事しか私はできないけど、精一杯、支えます

から。若様は、一生懸命和胡弓の曲を書けば良いんです。だから、

お願いします、ここを終の住処にしないで下さい。」

博一「そんなこと、、、。気付くのが遅すぎました。僕は、一生懸

命にやったつもりなんですけど、そんなことを言ってくれる人が、

こんな近くに居るなんて本当に何も気がつかなかったので、、、。」

つや子「今気がついたんだから、いいんじゃありませんか。明日か

ら全てが変わるんです。生きてください。きっと、いい治療が見つ

かるかもしれませんし、時間が解決してくれる事もあるでしょう。

だから、、、お願いします。若様は、まだ三十六。私より、二十年

もお若いんですから。どうか、こんなことで命を落とさずに、、、。」

博一「そうですか、、、。そんなこと、全然気がつきませんでした。

申し訳ないです。なんだか、ずっと苦しい気持ちばかり感じて生き

てきましたけど、そんな風に思ってくれる人がいるなんて、もっと

早くわかってくれば、こんな風にはならないかもしれないですね。」

つや子「過去を見たって仕方ないです。これからは前向きに生きま

しょう。」

博一「昭子はどうしているんだろう、、、。」

つや子「ああ、妹さんのことなら、とっとと忘れたほうがいいです。

自分の体を売って、お金をもうけようとする人間は、絶対ずるがし

こいものですから。」

博一「昭子には、、、本当に迷惑掛けました。父も母も僕につきっ

きりで、昭子には、何にもしていませんでしたから。それが子供心

にも嫌でした。僕は、生きていても意味が何にもありません。昭子

は、僕さへいなかったら、何の変哲もなく過ごせて、体を売る必要

なんて、なかったはずなのに。」

つや子「でも、若様には何にもつみはないのです。だって、それは、

若様をそんな風に扱うしかできなかった、ご両親が悪いのですよ。」

博一「そうですね、、、。僕が生まれてきてから、皆悪い人になっ

てしまいましたね、、、。」

つや子「私、どこまでも一緒に行きますから。ずっと、一緒にいま

すから。だから生きてください。御願いします。」

と、言って、博一に抱きつく。

博一「つや子さん、、、。」

つや子の肩が涙でぬれる。

博一「ありがとう、、、。」


一方。昭子は、いくつかの電車を乗り継いで、富士駅に降りた。特

急に乗ったせいで、所持金は大幅に減っていた。タクシーを利用し

ようにも金がなかった。そこで彼女は残りわずかな電池の、スマー

トフォンを頼りに足を棒にして、住んでいたあたりに行った。

そこは、昔とかなり変わっていた。住んでいた家はどこにもなく、

高層マンションの建設現場になっていた。

作業員「こんなところに来ちゃ困るよ。邪魔じゃないか。」

昭子「あの、ここに住んでいた、森本義男と、博一はどこに?」

作業員「なんだ、この前のニュースを見なかったの?あの二人は、

先日富士川に飛び込んで死んだんだってよ。」

作業員「いや、それは違うぜ。息子のほうはまだ生きてるよ。でも、

あと少しでおしめえじゃないのか。心臓が相当悪かったようだから

なあ。」

昭子「心臓、、、?」

作業員「ああ、そういうことだってきいたよ。何でも生き別れの妹

がいるそうだが、吉原の遊郭にいっちまったようだからな。」

作業員「全く、非情な女だよ。家族を皆捨てて、遊郭にみを売るっ

て。俺にはとてもできないよ。俺、こんな仕事してるけど、息子を

捨てることはできないから。」

作業員「あーあ、俺も、幸せになりたいよな。お前みたいに。」

作業員「お前には無理だよなあ。」

それを聞きながら、昭子はその場を離れる。そして、スマートフォ

ンをダイヤルする。

昭子「あの、すみません、、、そちらのお宅は、、、?」

声「杉三です。」

昭子「そちらに、兄はいませんか?兄のことをご存知ないかと思い

まして、、、。」

杉三の家。

蘭「華岡、起きろ!」

ソファーから飛び起きた華岡は、急いでスマートフォンの画面を見

る。

華岡「よし!女の居場所を突き止めろ!そうして今度こそ逮捕する。

絶対に逃すものか!」

杉三「まって、華岡さん!」

蘭「どうしたの杉ちゃん!」

杉三「きっと、彼女は又来る。」

蘭「は?どういうこと?」

杉三「逮捕にいかなくても彼女は来るよ。」

華岡「うん、そうか。ここへ来るのを待っていれば、確実に逮捕で

きる!」

杉三「そうじゃないよ!もうしばらく逮捕を待ってくれ!」

蘭「よせ、彼女が又、なにかしでかしたらどうするの!君も危うく

なるんだよ!」

杉三「そんなことは絶対無い。彼女は、悪人ではないと思う。」

昭子は、スマートフォンを通して、このやり取りを聞き、自分がど

ういう立場になったのか、改めて気がついた。

昭子「ありがとう、杉三さん。こんな穢い私を、庇ってくれるなん

て。」

杉三「すぐに来てくれませんか?華岡さんには、待っててもらいま

すから。お兄さんにお別れの言葉を、言ってあげて下さい。もう、

時間が、、、。時間がないんです。」

昭子「わかりました、、、。私がやったことは、もう、悪事だって

知ってますから。」

杉三「ええ、お待ちしています。」

昭子「道順は、スマホで調べます。だから、待っていてください。」

杉三「ええ。」

と、電話を切り、数パーセントしかない電池のスマートフォンで、

杉三の家を検索し、とうとう探しあてる。そしてインターフォンを

おしたと同時に、スマートフォンは電池が切れる。

杉三「来た。」

静かにドアが開く。

杉三「昭子さんですね。お待ちしていました。」

昭子「貴方が、あの時電話した杉三さん?」

杉三「ええ、そうです。」

昭子「綺麗な人、、、。いや、そんなことではなく、兄は、、、。」

蘭「君にはつくづく呆れた。お父さんとお兄さんを見捨てておきな

がら、そうやって自分に何かがあると、すごすご戻ってくるなんて。

僕たちはお兄さんの事を何度心配したかわからない。そんな人間に、

痛む人を会わせたくはないね!」

昭子「御免なさい、、、。」

華岡「森本昭子さんだね。」

昭子「警察のかた、、、。」

華岡「ああ、そうだ。本当ならすぐに逮捕したいところだが、ここに

いる杉三さんの計らいにより、一日だけ猶予をやる。お兄さんの所に

いって来なさい。ただし、護送車には乗ってもらう。」

昭子「わかりました、、、。」

杉三「行こう。」

昭子「はい。」

華岡「じゃあ、乗って。」

と、護送車のドアを開ける。

杉三「僕も行きます!」

蘭「杉ちゃん、君は部外者なんだから。」

華岡「いや、君も一緒に来てほしい。そのためにワンボックスを用意

したんだ。」

杉三「ありがとう。」

と、華岡の手伝いで、護送車に乗り込む。昭子も彼が乗るのに手を貸

す。

華岡「では、行って来ます。」

と言って、護送車は走っていく。

護送車の中は、フィルムが貼られていて、外の様子など全くわからず、

ただ、暗い闇に居るような感じだった。どこを走っているかわからな

いまま、数分後して、護送車は止まった。

華岡「杉ちゃんを下ろすの、手伝ってくれ。」

昭子「はい。」

と、護送車のドアが開いた。外は晴れてはいたが、季節外れの晴天で、

太陽は目が痛くなるほど、光を放っていた。

華岡と昭子に手伝ってもらい、杉三が護送車を降りた。

杉三「行こう。」

昭子「兄はどこに?」

華岡「緩和ケア病棟に移ったとか。」

三人は、正面玄関から入って、エレベーターに乗った。緩和ケア病棟

は、最上階にあった。

杉三「最上階か。天国に一番近いところだね。一番近い人たちがいる

から、そういうところにあるのか。」

華岡「そうかもしれないな。」

昭子はだんだんに不安が押し寄せてきた。

三人はエレベーターを出た。病棟は、掃除が行き届いていて、綺麗に

整理されていた。

杉三「一般病棟とは全然違うにおいがする。もしかしたら、天国のに

おいなのか。昔、母がよく、白い象というインドの昔話を聞かせてく

れました。天国の食べ物に飽きて、人間界に降りてきた白い象の話し

です。主人公は、白い象の尻尾をつかんで、天国の美しい花を盗んで

来ましたけど、、、。近所の人に知られてしまって、その人たちを皆

つれて、天国へ行くことになるのですが、でも、誤って尻尾を離して

しまい、全員まっさかさまに落ちていきました。穢い人間にはできな

いということなのかな。ここは、そこへ行くための準備をしている所

ですね。きっと、天国の風が吹いているんでしょう。」

華岡「ここだ。君のお兄さんがいる部屋だ。」

杉三「あけますよ。今日は妹の、昭子さんがおいでだよ。」

と、がらがらと戸を開ける。そこには点滴をしながら、薬で眠ってい

る博一がいる。そして、隣のちいさな茶箪笥で、つや子が、鉢植えの

ちいさなジャスミンの木に水をやっていた。

昭子「お、お兄ちゃん、、、。」

つや子は大またで昭子に近づいた。そして、右頬を平手打ちした。そ

して、彼女の体を、全身で怒りを込めて叩きまくった。

華岡「やめてください、お気持ちはわかりますが、このようなことが

あっては、、、。」

杉三「止めるな止めるな、こんなときくらい、つや子さんにやらせろ

やらせろ!」

つや子は、なおも彼女を叩き続けた。その音は、空気を引き裂くよう

な大きさだった。

声「昭子。」

今にも消えそうな声だった。

昭子「お兄ちゃん!」

杉三「起きちゃだめ!厳重注意だと言われていたのに!」

しかし、博一は何とかして布団の上に座った。

華岡「お背中、お支えしましょうか?」

と、彼の背中の後ろに手をまわして、支えてやる。

博一「ごめんね、、、。」

昭子「え、、、。」

博一「お前にいえなくて、、、。僕、わかってたから。自分がほかの

子と違うって。それのせいで、お前がお父様とお母様に声を掛けても

らえなくて、寂しがっていた事も。」

昭子「わかってたって、、、。あたしは、、、。」

杉三「いい子にしていなきゃいけなかったんだ。お兄さんに、みんな

気を掛けすぎて、君が何かいいたがると、大人って嫌な顔をするから。

本当は寂しかっただけなんだよね。」

昭子「ええ、、、。麻薬を吸っていれば、それでわすれることもでき

ましたから、、、。もう、私は完全にだめな人間です。あたしは、生

まれるべきじゃなかったかも。中学生の時から、私は麻薬に走りまし

た。大麻を吸っていれば、寂しさも忘れられた。大麻で繋がった子た

ちは、皆寂しさを持っていて、それを共有することだってできました。

でも、売人さんたちがだんだん高い値段をつけてきて。それで、小遣

いでは足りなくなってきて。私は、風俗に走りました。初めにピンサ

ロから。その世界では、能力が高いとか言ってほめてもらう事もでき

たから。そしてヘルスにうつって、そこでも優秀といわれて、風俗の

王様といわれる、吉原のソープランドで、働かされて。友達もいたし、

夢のような生活でした。色んな男とも寝て、本当に私は生かされてい

ると、思ってしまったんです、、、。」

杉三「本当は、そういうところで花を咲かせちゃだめなんですよ。誰

でも、日のあるところでなければ生きていくことなんてできないんで

すから。」

昭子「本当にわたしは、何のために生きてきたんだろう。もう、警察

に捕まって、獄中で死ぬのが、一番の幸せなんだと思いますよ。」

つや子「それは違います。」

杉三「違うって何が?」

つや子「これ、貴方のでしょう?すぐわかったわよ。」

と、一枚のモノクロ写真を見せる。

杉三「なんですかその物体は。」

つや子「物体じゃないわ。命よ。足元に落ちてたの。緩和ケア病棟に、

こんな物を、持っている人はいないでしょ。」

博一「赤ちゃん、、、。」

と、言って両手で涙を流した顔を覆った。

つや子「体を売るって、簡単なことじゃないわ。それだけは、忘れな

いでほしかった。」

杉三「つまり、彼女は、、、。」

博一「そういうことなんですね。僕は、その子には、、、会えないか

な。」

杉三「和解しよう。もう、二人とも、このままではいられないところ

まで到達したんだ。今までの生活を続けることは多分、できないだろ

う。だから、ここでお互い謝って、新しくやり直せばいい。」

昭子「杉三さん私、、、。そんな資格なんか。」

杉三「いいんだよ、又何ぼでもやり直せるさ。そして、新しい赤ちゃ

んと、一緒に暮らせばいいんだ。」

昭子は、博一の下へ駆け寄った。

昭子「お兄ちゃん!」

博一も、昭子の体を力いっぱい抱きしめた。

博一「ごめんね、、、。」

華岡「かなわないっすね。杉三さんには。」

つや子「ええ。もう少し、早かったら、、、。」

二人は、いつまでも泣きはらしていた。

華岡「昭子さん、時間がないから今日はここまでで。」

昭子「あ、ありがとうございました!」

と、兄の側を離れる。と、体がふらついてしまう。

杉三「どうしたんですか?」

華岡「ああ、大麻のせいだよ。こうなった人を沢山みたから、医者で

なくとも少しわかる。」

杉三「何とかならないものですか?」

華岡「そうだなあ、大麻精神病をちゃんと治してもらわないと。まず、

そこからはじめような。で、大麻をどこで入手した?」

事実、昭子の顔は、おそろしくむくんでいた。

華岡「あまり長くはいさせないよ。テレビじゃないんだからね。すぐ

に、医療機関に身柄を渡して、取調をしなければ。とりあえずもう、

署に戻ってもらおう。」

博一「又来てね、、、。」

と、軽く手を振る。その目つきは真剣である。

博一「又来てね、、、又来て、、、。」

杉三「そんなに泣くと、涙がなくなるよ。」

博一「でも、妹が大麻を吸ったのに遠い責任があるわけですから。」

つや子「そんなことありませんよ。若様には何もありません、周りの

人たちが悪いのです。そんなことで、めげていてはだめですよ。又、

新しい人生として生きてください。お願いします。」

体を乗り出そうとしたが、限界で、華岡の介助もあっけなく、布団に

倒れこんだ。

つや子「だ、大丈夫ですか、」

博一「自分でわかりますよ。多分父が迎えに来るでしょう。間もなく。」

つや子「そんなことないですよ!弱音を吐いちゃだめです。」

博一「どうしてそういうんですか?つや子さん。」

つや子「若様が好きだから。若様も旦那様も好きだから。」

博一「だって僕は、、、つや子さんの一回り以上年が違うんですよ。」

つや子「そういうことじゃありません。でも、好きなんです。守りた

いなって思うんです。恋愛とかとは又違うのかも知れません。でも、

側にいたいんです。」

博一「僕は、、、全然だめな人間だから、、、。そんなこととても、

許される存在ではないのです。父も母もそういいました。手を掛け

てくれたけど、僕がこうだから、二人ともよくしてくれているよう

に見えるけど、内部では、すごく辛かったんです。早く消えたいっ

て、何度も思いました。」

杉三「妹さんと、それを分かち合うことができたら、又違ったでし

ょうね。」

博一「そうですね、、、。」

つや子「だから、前向きに生きましょうよ。それだけが願いです。」

博一「ええ、、、。本当に、、、。」

看護師が入ってきて、

看護師「さて、お熱測りましょうか。皆さん面会時間はもうすぐ終わ

りですよ。」

杉三「えっ、もう?短いねここは。」

看護師「ええ、患者さんがお疲れになったら、いけませんから。」

杉三「そういうことか。じゃあ、僕らは帰ります。明日も来るよ。少

しづつよくなってくれると良いな。」

つや子「私も、又来るようにしますので。」

博一「ありがとうございます。又明日。」

つや子は杉三の車いすに手を掛ける。

つや子「又明日です。」

杉三「又明日ね!お休み!」

と、言いながら、つや子に、方向転換してもらい、病室を出て行く。

その日、病院食を食べてから、博一は早めに眠った。気がつくと、

朝だった。この上のない青空だった。

博一「あれ、、、。」

と、口にしてしまうほど、体の調子がよかった。するりと立ち上が

ることもできた。あれほど苦しかった心臓の痛みもどこかへ消えて

いた。彼は浴衣の紐を結びなおし、ほかの患者に知られないよう、

ゆっくりと、病室のドアに手をかけた。ドアはするりと開き、彼は

病院の中庭へ行くことができた。中庭は、たくさんのバラがうえら

れていて、その中間に、一本の道があった。彼はその道を歩き出し

た。歩けば歩くほど、体は軽くなっていく。それが嬉しくてしかた

なかった。博一は、いつまでも続いているその道を、軽やかに歩い

ていくのだった、、、。

朝、看護師たちが出勤してきた。

看護師「今日はすごい雨ね。」

看護師「ほんと、どこかでは道路が冠水したんですって。十二月と

は思えないわね。」

看護師たちは、朝のカンファレンスを終え、患者たちの見回りをは

じめた。

看護師「森本さん、具合は?」

返事はない。

看護師「森本さん、開けますよ。」

と、無理やりドアを開けると、博一は意識がなく、うつぶせにねそ

べっている。看護師は血相を変えて、院内電話を回した。

看護師「先生、来て下さい!あの、森本さんの容態が、、、。」

数分後、医師もやってきて、博一は集中治療室に移された。全身の

ありとあらゆるところにチューブが張り巡らされ、心拍数を測定し

ながら、顔は酸素吸入し、なんとも無残な姿だった。

医師「知らせる人には知らせたほうがいい。」

その顔は厳しかった。

看護師から連絡を受けた蘭は、何も条件をつけずに、杉三をつれて

病院に飛び込んだ。タクシーの運転手に二度とこんな危ないことは

するなといわれても、気にしなかった。

蘭「博一君!」

博一の頭が少し動いた。

蘭「聞こえているのだろうか、、、。」

博一の片目に涙が光った。

杉三「博一君、僕だよ!わかる?聞こえてる?」

医師「あの、皆さんおそろいですか?」

蘭「あ、、、。」

杉三「あと一人、妹さんがいます。」

蘭「馬鹿!こんなところに犯罪者を連れてきてどうするの!」

杉三「そんなの関係ないよ!悪い人であったとしても、家族は家族

じゃない!」

蘭「犯罪者は、家族と会う資格なんかないよ!」

看護師「先生、彼の手伝い人とされる方が、お見えですが、、、。」

医師「通してやれ。」

顔中汗だらけになってつや子が飛び込んできた。

つや子「若様、昨日約束したばかりなのに、ご自分で破らないでく

ださい!」

杉三「華岡さんに電話してよ!ねえ、電話してよ!」

蘭「僕だってそうしたいよ。でも、犯罪者は、、、。」

つや子「私が電話します。」

蘭「つや子さん、、、。」

つや子「華岡警視の電話番号をお願いできませんか?」

蘭「(覚悟を決めて)ええ、わかりました。」

と、一枚のメモを差し出す。

つや子「華岡警視。」

華岡「ああ、今取り調べをしていますので、御用はまたあとで。」

つや子「昭子さんの取調べですか?なら、こう伝えてください。お

兄さんは、もう長くないと。」

昭子「兄が、もう長くないって本当なんですか!」

部下「警視、だめじゃないですか。そんなに大きな声で喋ったら、

丸きこえですよ!」

昭子「兄にもう一度謝罪させてください!お願いします!」

華岡「だったら、君が大麻にはまった理由を、もう一度お願いして

もいいかなあ。」

昭子「それは、兄の最後を見届けてからしっかり話します。たった

一人の兄ですし、いくら恨みがあると言っても、憎めない存在です

から。」

華岡「本当に、それ、守ってくれるんだね。」

部下「警視、警視は人が良すぎます。すこし、厳しくなったほうが。

警察が泣きますよ。もし逃げ出したりしたらどうするんです!」

華岡「いや、被疑者をなかせたらいかん。取調べを正確にするには、

要求にこたえてやったほうが良いんだ。よし、今から行って見よう。

すぐに護送車の用意!」

部下「わかりました。」

署の正面玄関から、護送車が一台出ていく。


病院

杉三「足音が、、、。」

声「おにいちゃん!お兄ちゃん!」

蘭「昭子さんだ。」

つや子「ああ、どうか急いでくださいな!」

杉三「音がだんだん小さくなってる。」

昭子「お兄ちゃん!」

と、部屋に飛び込むと同時に、大きな長音が聞こえてきた。

医師「ご臨終です、、、。」

杉三「わあああ!」

昭子「お兄ちゃん!」

つや子がモーツアルトのレクイエムの一部を口ずさむ。全員、大粒

の涙を流した。

昭子「私、、、。本当のことを話します。子供の頃から、兄のこと

が嫌だったのは、もうお気づきでしょうが、、、。」

華岡「外に出ましょうか?」

昭子「ここが良いんです。私の父も母も、兄のほうに視線がいって

しまいやすいのは確かでした。兄は、ものすごい曲を書くけど、発

達障害があったから、他人と会話するのが難しくで、失礼なことを

平気で言って、叱られたりして結構な問題児でした。」

蘭「今となったら、すぐにサポートセンターなんかに問い合わせた

ら、お手伝いさんなんかも雇えるはずだったのにね。」

昭子「だから、私は、良い成績を取って、家の名誉を回復する立場

になりました。」

蘭「ああ、世間体ってやつか。」

昭子「ええ。兄が、本当に良くいじめられて、両親も同級生の父兄

から、馬鹿にされていた事も結構あったんです。お宅の息子さんは

うちの子供の体育の成績をぶち壊しにした、これから受験なのにど

うしてくれるとか、、、。」

蘭「運動、苦手だったんですか?」

昭子「ええ、大縄跳びが飛べないとか、ドッジボールで、ボールが

とれないとか。」

蘭「ああ、テレビドラマでもありましたね。そういう子供。」

昭子「だから、やりたい事もみんな返上して、他人に喜ばれるいい

子になるように演技していました。でも、高校受験の時に、兄には

両親とも厳しかったけど、私には何も言ってくれなくて。で、結局、

バレーボールのやれるところに、適当に受験して、、、。」

蘭「ああ、何を選んだら良いのかわからなくなったんだね。得意分

野もなかったとか。」

昭子「そうなのです。結局、中堅の何にもないところに進学しまし

た。でも、授業はつまらないし、先生には叱られるしで、そのとき

初めて怒りというものが沸きました。自分で消そうと思ったけど、

何もできませんでした。ほんとに、掛け金が外れたように、私は母

に暴力をふるいました。そして、母に遊園地につれていってやると

言われて、到着したところは遊園地ではなく、精神科だったんです。

私は、要らなくなったんだと確信して、そこで三ヶ月入院しました。

そして、そのまま好き勝手にやっていたんです。」

華岡「どこへいっていたんです?」

昭子「バレーボールをしていた時に、仲の良かったひとがいて、私

が、母にどうしても暴力をしてしまうと相談したら、彼女が、

怒りが治まるからと言って、麻の実をくれたんです。」

杉三「それで、大麻を吸うようになってしまったんですね。」

昭子「ええ、タバコより害はないって聞いたから。」

華岡「その、大麻の栽培の情報は、どこで手に入れたのです?」

昭子「彼女に直接聞くか、退院して暫くは、ネットカフェに要り浸

っていたんです。そこで、オウムの餌の麻の実から、大麻が育てら

れるって、サイトに書いてあったから。入手するために、体を売っ

て、麻の実を大量にかって、ひたすらに大麻を育てました。加工の

仕方もみんな載っていましたから、すぐにできて。暇さえあれば大

麻を吸ってました。本当にお兄ちゃんには迷惑をかけました。もう

、後は望みません。皆さんにも、申しわけないです。」

つや子「いいえ、まだ、続きはあるわ。」

と、彼女の腹部を指差し、

つや子「終わりなんかじゃないのよ。」

杉三「終わりじゃないんだね。もしかしたら、お兄さんの、メッセ

ージだと思うよ。しっかり生きろってさ。」

昭子「本当に、、、。」

つや子「赤ちゃん、私が見てるから。しっかり罪を償って。戻った

らかわいい子に育ててね。」

華岡「そうか、、、。輪廻とはこういうことを言うのかなあ、、、。」

蘭「お前が泣いたらだめだろう。」

華岡「そうだけど、泣けてくるよ。悪人もこうして救われるように

なっているんだ。親鸞聖人はえらいなあ。それでは、さきほどの話、

署のほうでゆっくりはなしてください。赤ちゃんのことは、こちら

で何とかしますから。じゃあ、取調室にもどろうか。」

昭子「兄に、最後のお別れをさせてくれませんか?」

つや子「だめ。それよりも、次を考えたほうが、若様も喜びます。」

華岡「じゃあ、行きましょう。先生、お世話になりました。」

昭子は華岡に両手を預ける。華岡は、手錠をはめた彼女の手を握り、

静かに病院をさって行く。

正面玄関。

昭子「ああ、いいお天気になりましたね。」

華岡「朝はすごい雨が降ってましたけど、なんだか祝福の祈りのよ

うです。」

昭子「ええ、兄が、無事に極楽へいけるために、神様が助けてくだ

さったのでしょう。」

華岡「意味深なことを言いますね。それほどの感性を大麻に使わな

いでもらいたかった。」

昭子「私、大麻から立ち直れたら、この子には、うんとわがままを

言わせてあげようとおもいます。私みたいにならないように。」

華岡「そうですね。愛情が一番です。」

昭子「いろいろありがとうございました。罪をしっかり償います。」


一方、杉三と蘭、そしてつや子は、博一の体をお清めしていた。

つや子「雲が流れてるわ。」

蘭「ああ、そうですね。光が差し込んできたみたいですね。」

数分後には、太陽が現れ、大雨が嘘のように、素晴らしい青空であ

った。

杉三「償いは希望ですよ。償ったあとは、これまで以上に楽しい生

活がまっているでしょうから。」

つや子「そうね。」

全員、顔を見合わせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る