見るなの座敷
雨の日のバス停留所。杉三と蘭がバスを待っている。
蘭「バスが来たよ。」
と、バスに向かって手を上げる。バスは、二人の前に停車する。
運転手「いま、スロープ出しますから、おまちくださいね。」
と、バスをでると、一人の若い女性がバスの前に走ってくる。
女性「ああ、間に合った間に合った。あ、ここが空いているじゃない、座らせてもらうわ。」
と、勝手に乗り込み、座席に座る。と、いうより、バスが小さいので、そこしか空いていない。
運転手「ちょっとお客さん、そこへは座らないでくださいよ。このお二人が乗りますから、その椅子はどかしますので。」
バスは人がぎゅうぎゅう詰めであり、杉三たちがのったら、パンクしてしまいそうなほどである。
女性「何ででなきゃならないの?こういう人には、バスでなく介護タクシーがあるじゃない。それに、この人たちのせいで、発車時刻だって遅れるわ。そもそも、できないところへ飛び込むのは、おかしいと思ってもらわなきゃ。」
運転手「誰でも乗りたがるのがバスなんですがね。」
女性「だったら、急いでいるのも考えて。」
杉三「僕は、そんなに悪い存在だったかな。」
蘭「すみませんでした。僕らは、次のバスでいきますから、先にのせてあげてください。」
女性「当然のことよ。」
と、礼もなく、バスに乗り込んでしまう。
杉三「運転手さん、気にしないでいいよ!」
運転手「申し訳ありません。」
と、バスに乗り込み、バスは走ってしまう。
蘭「しかたない。あの人の言う通りに介護タクシーを使おう。そんなわけで、文房具屋さんにいくのは取り止めにしようか。介護タクシーはお金がかかるからさ。」
杉三「さっきのバス、収容車みたいだったね。あれ、あの女の人、またきたよ。」
蘭「え?バスにのったのに?」
杉三「でもおんなじ顔だよ。でも、服の色がちがう、どう言うことなんだろう?」
蘭「双子の女性だったのかな。」
女性は、どんどん近づいてきた。確かに、バスに乗り込んでいった、あの女性と顔つきは非常によくにていたから、やっぱり双子の姉妹なのだろう。
女性「お姉ちゃん!いっちゃったか。もう、なんで大切なものを忘れていったのかしら。」
杉三「あの、すみません。お姉ちゃんというのは、黄色い上着を着て、茶色い鞄を持っていた方ですか?」
女性「はい、その通りです。私は、双子の妹の、川口梶子、姉は、、、川口昭子です。」
杉三「どうしてお姉さんの名前をいったときに、口ごもったのですか?」
梶子「いえ、舌を噛んだだけで。なんでもないですよ。」
杉三「そうかなあ。」
蘭「お姉さんは、何を忘れていたのですか?」
梶子「はい、この財布を忘れていきました。」
と、いって財布をみせる。ルイヴィトンの超高級品である。
蘭「それでは、運賃が払えないで困るんじゃないですか?」
梶子「はい、まあ、姉はスイカを持っていますから、それがあればかろうじて払えます。でも、送り返さないとまずいですね。」
蘭「お宅はどこなんですか?」
梶子「鮫島です。」
蘭「偶然ですね。僕たちは新浜なんですよ。あ、介護タクシーに電話しなければ。」
梶子「もしよろしければ、うちにエスティマがありますから、二人とも、のっていきませんか?介護タクシーはお金がかかりすぎるし、待っている間に、どしゃ降りになる可能性もありますから。」
蘭「ありがとうございます。じゃあ、乗らせてもらいます。」
梶子「では、ちょっとこちらにいらしてください。」
二人は梶子の案内で、小さなアパートの駐車場にいく。
梶子はかなりの力持ちで、杉三と蘭を一人で持ち上げ、座席にのせてしまった。
梶子「じゃあ、いきますね。」
エスティマは走りだし、広い道路をつっきって、高層マンションの前でとまる。
杉三「ここですか?」
梶子「はい。あたしは独身なんですけど、姉は結婚して、このマンションに引っ越したんです。」
蘭「じゃあ、名字が変わっているはずでは?」
梶子「いえ、まあ、バツイチです。」
杉三「何か商売でもしてるんですか?」
梶子「まあ、そんな感じかな。」
蘭「じゃあ、僕らはお待ちしてますから。」
梶子「いや、一緒にきてください。」
蘭「そうですか?わかりました。」
杉三「ほんとにいっていいの?」
梶子「はい。来てほしいくらいです。姉には。」
梶子は、二人を軽々ともちあげて、車いすにのせてやる。
杉三「力持ちなんですね。」
梶子「こう見えても、私、女相撲に出ましたから。」
蘭「めずらしいですね。女性が相撲とは。」
梶子「はい、学生時代はおてんばでした。いまの仕事でもそうです。いきましょうか。」
と、二人に先だって一階の角部屋にいく。
梶子「お姉ちゃん、財布を忘れたでしょ?届けにきたわよ。」
部屋の中からごそごそと音がする。長襦袢を身に付けた、昭子がでてくる。確かに顔はそっくりだ。しかし、梶子がわりと簡素な服装であるのに、昭子はきわめて派手だった。
昭子「どうもごめんなさい。」
と、渡された財布をひったくる。しかし、てが滑って、財布が落ちる。なかには、大量のクレジットカード。
杉三「カードが一杯、、、。」
梶子「お姉ちゃんどうしたの?こんなにクレジット持って、大丈夫なの?」
昭子「関係ないでしょ。」
梶子「関係ないって、他人ならそういうでしょうけど、家族には、相談してもいいじゃない?」
昭子「あんたに言われたくないわね。あたしは、精一杯なのよ。勝手に口出しはしないでくれる?」
梶子「お姉ちゃん、道夫くんはどうしてる?」
昭子「今年から全寮制の大学にいかせているのよ。」
梶子「全寮制?道夫くんが?あの体で全寮制にいかせているの?」
昭子「うるさいわね!とにかく関係ないんだから、出てって!」
杉三「待ってください!」
と、言うが、昭子はピシャン!と、ドアを閉めてしまった。
杉三「梶子さん、大丈夫ですか?」
梶子は、べそをかいている。
杉三「ひどいお姉さんですね。道夫くん、というのは、彼女の息子さんのことですか?」
梶子「そうなんです。」
杉三「あの体ってのは?」
蘭「杉ちゃん、あんまり首を突っ込むなよ。」
梶子「いえ、いいんです。見ての通り、双子ですから、私が母親と勘違いされて、民生委員さんなんかには、ほんとによくしかられました。」
蘭「そうですか。お姉さんは、買い物依存などでしょうか?」
梶子「まあ、そうだと思います。コーチとかシャネルとか、やたら買ってるくせに、気分が悪いとか、いってましたから。私、定期的に訪問しているけど、正直、つかれますよ。」
蘭「まあ、確かにこういう病気のご家族は、たまらないというのはわかります。それは、なかなか難しいですよね。孤独にもなってしまうし。」
梶子「ええ、私の方が被害者のような気がします。ほんとに、たまらないですよ。道夫くんのことだって、姉はなにもしないし。疲れてなりません。」
杉三「いまは、お一人様ですか?梶子さんは。」
梶子「ええ、一人暮らししています。」
杉三「じゃあ、僕のうちにきませんか?カレーでも、食べてくれれば。疲れるんなら食べ物がいります。もしよかったら、今日のお礼もかねて。」
蘭「杉ちゃんの十八番ですよ。カレー作りは。僕らのいえは、ここから五分もかからないので。」
梶子「じゃあ、食べさせてください。私、いつもコンビニ弁当ばかりだから、手料理なんてなん十年ぶりだわ。」
杉三「それならなおさらだ。ぜひ食べてくださいね。」
杉三の家
杉三「はい、できましたよ。女性の方向きのキーマカレー。」
と、車いすのトレーに皿を置いて移動し、テーブルにおく。
梶子「じゃあ、いたただきます。」
と、スプーンをもって、カレーを食べる。
梶子「おいしい!」
蘭「杉ちゃんはそこだけは、頼りになるんだよね。」
梶子「ホテルのカレーなみですよ。こんな、超高級なカレー、はじめて食べたわ。」
杉三「バカの一つ覚えですから、批評はいりませんよ。」
梶子「何をおっしゃいます、バカどころか、天才じゃありませんか。」
杉三「天才ねえ、それを言われるよりは、バカと言われていた方がらくですよ。ただでさえ、僕は目立つから、どうせこいつはバカだよ、くらいに思って、放置してもらう方が楽です。」
梶子「ま、まあ、、、。」
一瞬、ぽかんとしてしまう。
蘭「どうしたんですか?」
梶子「姉が幼い頃と、おんなじことを言うから。」
蘭「お姉さんが?」
梶子「ええ。姉は子供のころから優秀で、よく天才といわれていました。」
杉三「誰に?」
梶子「昔、姉は歌手をやっていたんです。クロスオーバーだとかで。まだ、15歳でしたけど。プロデューサーの方が、しょっちゅう、天才といっていました。まあ、それが、いつまでも忘れられないんでしょう。」
蘭「なるほど、確かに子供時代にもてはやされて大人になると、幸せをつかめる人は少ないですね。日本だけではなく、外国でも。」
杉三「大人の道具にされてしまったのか。だから、あんな風に粗っぽくなってしまったんですね。」
梶子「ええ。姉が結婚したときは、大スクープとかいって、みんながみんな祝福してくれたけど、道夫くんが、だんだん大変になってきて、姉は仕事をやめたんです。」
杉三「へえ、大変って?」
梶子「ええ、理由はわたしもわからないのですが、姉は道夫くんを邪険に扱うようになって。よく、彼のせいで仕事をなくした、と、よくいっていました。」
蘭「そうですか。ちなみに本名でやっていたんですか?」
梶子「いえ、違います。川口まゆこと名乗っていました。」
蘭「ああ、あの人ですか!僕も昔、聞いたことがあったな。子供のわりに、渋い声だなと思いましたよ。かなり、一世を風靡しましたよね。」
杉三「僕は見たことない。」
蘭「杉ちゃんは、TVがないからね。まあ、世間があれだけ騒いでいたら、確かに変に錯覚をするのかも知れないですね。急に引退を宣言して、姿を消してしまったけど、理由はそうだったからかな。」
梶子「ええ、道夫くんが生まれたあとも、離婚してしまいましたし。だから私も、たまに姉と食事したりするようにしていますけど、その効果はないですね。」
蘭「ないですか。人間が変わるってほんとに難しいですし。口では簡単だけど、そうはいかないでしょう。とくに、幼いときに傷つくと。あるいは、逆でも。」
杉三「傷つけるのも人間だけど、助けるのも人間ですからね。僕も、何かしてあげたいな。」
蘭「杉ちゃんは、すぐてを出したがる。文字の読み書きできないんだから、ちゃんと、自分の立場を考えてよ。」
梶子「いや、手伝ってください。そういう人であれば、一番大切なことを知っているはずです。私、仕事柄、利用者さんから、教えてもらうこともあるし。」
蘭「お仕事は何を?」
梶子「はい、介護職員です。だから、女相撲にでたのが、活かせるわけで。」
蘭「あ、なるほどね。杉ちゃん、あんまり暴走しないようにしてくれよ。」
返事はなかった。
蘭「やれやれ。」
翌日。
梶子が、迎えに来たので、杉三はエスティマに乗り込む。二人は、昭子のアパートに到着する。梶子が、呼び鈴をならす。
梶子「お姉ちゃん、体調はどう?何か変わったことは?」
杉三「お邪魔します。」
と、梶子に手伝ってもらいながら、部屋に入っていく。
昭子は机に座ってぼんやりしている。クラシック音楽が流れているが、そのタイトルはわからない、訳のわからない音楽といったところか。
杉三「へえ、プロコフィエフなんか聞くんですか。」
梶子「嫌だわ、お姉ちゃん。こんな曲、不気味すぎる。」
杉三「プロコフィエフの風刺ですね。女の人で、これを流すのは珍しい。」
梶子「お姉ちゃん、お部屋片付けるから。鞄の整理するからね。」
へやは、たくさんの物があった。鞄は机のよこに、無造作におかれていた。ルイヴィトンや、コーチのような、超高級品ばかりだ。その回りにはたいりょたいテーブルには、派手な原色を塗った、茶碗と湯飲みがおかれているが、なかみはほとんどない。そのかわりに、コンビニ弁当の容器が大量に置かれている。2LDKのマンションであり、居間と台所、食堂、ユニットバスのほかに、二つの部屋がある。一方は洋室で、昭子の寝室だ。そこにも、本やら洋服やらが、散乱しており、まるで瓦礫を積んだように見えた。その隣のドアは誰のものだろうか?
梶子と、昭子がおしゃべりしながら、掃除をしている。笑顔で話している梶子に対し、姉は非常によそよそしかった。姉が、ラジカセの音量を最大にしたため、会話はほとんど聞くことができなくなった。
杉三は、二つ目のドアを開けた。
部屋は、六畳ほどの小部屋で、絨毯がしかれていた。押し入れがあるから、和室に絨毯を被せたのだろう。
杉三「あれ、これって、もしかして?」
と、絨毯の上に落ちている、袋を拾い上げた。いくつか錠剤が入っていたが、見覚えがあった。
杉三「蘭が持ってるのと同じ薬、、、。」
部屋のなかには、小さな机と、ごみ箱しかなかった。ごみ箱の中を見ると、先程の錠剤と同じような薬が、ぎゅうぎゅう詰めに入っている。と、同時に押し入れの中から、細い細い声が聞こえてきた。杉三は何の迷いもなく、押し入れのドアを開けた。
声「どうして、」
杉三「もう少し待ってな。君の悲惨さをみたら、涙が出てきて止まらないよ。君は道夫くんだね。」
本来ならば、杉三よりかなり若いはずだ。しかし、ここにいる人物は、高齢者のようにみえる。
声「君に、わかるはずない。」
すこしばかり、言葉が不自由なのだろうか。
杉三「僕は、歩けないから、にたようなもんだと、思って。」
道夫は、戦時中とおなじようなくらい痩せ細り、足や手は、枝のようにすぐに落ちてしまうようであった。
道夫「き、君にはわからないよ。僕、もうすぐに死ぬ。その方が、安心できるのも、わかるから、それだけはさせてあげようとおもってる。」
杉三「それは間違いだよ!安心できるなんてひとは、どこにいる!」
道夫「す、少なくとも、お母さんはそうだと思う。だから、楽をさせてやるって。」
一方、昭子はまだぼんやりしていた。大音量で流れてくる音楽で、杉三たちの会話は消されていた。
梶子「お姉ちゃん、鞄の整理おわったわよ。」
昭子「用がすんだら、さっさとかえって。」
梶子「あれ、杉ちゃんは?」
昭子「外へでもいったんじゃないの?」
梶子「それなら私に手伝ってというはずよ。歩けないし、読み書きもできないから。」
と、昭子の寝室のドアを開ける。
梶子「杉ちゃん?」
そこにはいない。梶子は、トイレのドアを開けてみたが、そこにもいなかった。梶子は、もうひとつの部屋のドアを開けた。
梶子「杉ちゃん、どうしたの?用がすんだから、、、。」
と、部屋を覗きこむと、杉三がなにか前で呟いている。
杉三「もう少しだからね。」
押し入れの中から、白い、骨ばった腕が出てくる。
杉三「気づくの遅いよ!」
といい、泣き出す。
しかし、梶子は驚いた様子をみせない。
杉三「とにかく、病院につれていかなきゃ。僕は、電話番号がわからない。」
梶子「あたしが明日辺りつれていくわ。」
杉三「明日は、日曜でやってない。この際だから、救急車をおねがいして。僕は、ダイヤルができないから、かけて!」
梶子「そんなに、いそがなくとも、」
杉三「これじゃあ、かわいそうすぎる!つれていってあげようよ!」
しかたなく、梶子はスマートフォンをダイヤルする。
五分ほどして、救急車が到着し、昭子以外全員がのりこんで、池本クリニックに搬送する。
集中治療室。医師や看護師が、懸命に治療をしているのを、二人はただ見ているしかない。
杉三「もっと早く気がついていれば。このままだと、ほんとに、死んでしまいそうだったよ。」
梶子「どうして道夫くんのことがわかったの?私は、てっきり姉の言葉に騙されていたわ。」
杉三「バカの一つ覚えです、みんな勘でやりましたよ。」
梶子「勘で?」
杉三「押し入れの中に誰かいるなって。それに、蘭が、買い物依存であるのに、大学にいかせるのは、無理だといってたから。」
池本院長が頭をかきながらやってくる。
院長「いやあ、何とか一命はとりとめました。しかし、彼は、おいくつなのですか?」
梶子「21歳ときいています。」
院長「そうなんですか!とてもそうは思えませんね。体を観察しますと、ゾンビではないかと思いましたよ。戦時中だって、よほどでなければあそこまで飢餓が進むことはないでしょう。さらに、彼は、心臓に奇形がありますな。しかし、私自身もここまで酷い状態は、見たことがありません。」
杉三「そんな、ゾンビなんて、」
院長「いやいや、ゾンビとはたとえですよ。はて、問題はここからです。彼のご家族は、どうしていらっしゃるのでしょう?」
梶子「いま、生存しているのは、叔母の私と、実母の姉しかおりません。姉の夫はもう、離婚して、海外にいるみたいです。」
院長「では、彼の介護をしてくれるような方は、いないんですか?」
梶子「はい、残念ながら。」
院長「おそらくですが、彼は、一生、吃音やトラウマは残ります。誰かに介助してもらわなければだめでしょう。お手伝いさんや、メイドさんなんかを雇うなどしなければ、彼は、一人で生活することは難しいですね。」
梶子「そうですか、、、私は、介護職ですけれど、ご存じの通り、一人で生活していくことで、精一杯な立場です。姉は、、、もう、育児能力などないのではないかと思うので。」
杉三「だから死んだ方がいい、と、彼は、言ったんだね!」
院長「杉ちゃん、それは違うよ。」
杉三「ううん、貧しいところへ口が増えるから、本当は彼に生きていてほしくないんだ!それって、ほんとに、無責任だ。いくら制度を求めても、相手の人に生きていてほしいという気持ちがないから、医療とか、介護とかに、人が寄り付かなくなるんだよ!」
院長「うん、杉ちゃんの名文句だ。でも、杉ちゃん、彼をどこへ住まわせたらよいのか、考えてみてごらん?そのために何が必要なのかも。だから、殺してしまえではなく、別の方法を考えなければ。」
杉三「お母さんのところに、戻るのが一番なんじゃないのかな。」
院長「お母さんも、いま大変なんだよ。」
杉三「大変なのは、一番大事なことに気がついてないからだよ。」
院長「とりあえず叔母さんにひきとってもらう。」
杉三「そうですか、、、。」
梶子「私、何とかしますから。」
杉三「ほんとに?ちがうでしょ?顔を見るとわかるよ。」
梶子「まあ、、、。」
池本院長「杉ちゃん、ここはおばさんに任せよう。」
梶子「とにかく、やるしかないわ。」
数日後、道夫は意識が回復したため、一般病棟に移された。個室をとることはできなかった。病室は三人部屋である。
丁度、昼食時間で、看護師が流動食を持ってきた。
看護師「ほら道夫くん、食べようか。」
と、道夫の口へスプーンを入れる。しかし、飲み込もうとすると、咳き込んではいてしまう。
看護師「もう一口食べようか。」
と、改めてやっても、吐き出してしまった。
数分後、杉三と梶子が見舞いにやってくる。
梶子「こんにちは。あ、食事中?」
看護師「何度食べさせてもだめなんです。」
梶子「そうですか、、、。もう、体が受け付けなくなっているんですかね。」
看護師「ええ、先生の判断によりますが、多分そうだとおもいます。」
梶子「そうですか、もう仕方ないのでしょうか?」
看護師「私たちも努力いたします。諦めないでください。なげやりにならずに。」
杉三「こんにちは。」
と、道夫の肩を軽く叩いた。
道夫「また、小話、きかせてよ。」
杉三「昔々、あるところに、おさじさんという人がいました。おさじさんは、誰かが食べ物を食べるときに、口まで持っていくお手伝いを仕事にしていました。ある、小さな町に、ご飯を食べることができない少年がいました。彼は、ご飯を食べると、太ってしまうから、という理由で、ご飯を食べないのです。おさじさんは、大変悲しみました。彼になんとかして、ご飯を食べてもらいたい、そう思ったおさじさんは、予備校で講師をしている、彼のお母さんに、魔法をかけました。と、その日からお母さんは、自分がひどく太っていることに気がつきました。そして、職場では、うるさい女とあだ名されるようになり、だんだん気持ちが塞ぎこんできました。ある日、お母さんは、彼の授業参観にいきました。大勢の生徒が、彼のお母さんの授業は厳しくてしかたない、とばかりしゃべっていました。お母さんは、彼がご飯を食べられなくなったのは、自分のような大人になりたくないのだ、と、はっきりと悟りました。お母さんは彼に謝罪をし、おさじさんは魔法を解いたため、彼は、再度、ご飯を食べられるようになったのでした。」
道夫「杉ちゃんの小話は、とても面白いです。い、いつもありがとうございます。」
杉三「今回は、これしかできることはないから、仕方無いんだ。」
道夫「でも、すごいですよ。」
杉三「体がなおるといいね。」
道夫「おかあさん、どうしているのかな。」
杉三「どうなんだろ。」
院長「道夫くん、おさじさんの話を聞かせてもらったんだから、おさじさんの願いを叶えてあげたらいいのに。そのうち、自動的になにかが食べられるようになるよ。」
杉三「それができたらおさじさんは、大喜びするんだろうな。」
梶子は、悲しい表情で二人を見る。道夫は、体が動かないし、いつも来てくれている杉三も読み書きができないので、働くなんて到底できない。入院費は思った以上に高かった。
新しい病院だから、しかたないのかも知れないが。
道夫「また、面白い小話、きかせて。杉ちゃんの小話は、何となく聞いた記憶があるのもあるから。」
梶子「何となく聞いた記憶がある?」
院長「道夫くん、誰からきいたの?」
道夫「お母さんから。絵本とか読んでくれたから。」
梶子「絵本なんて、、、。」
杉三「幸せなことだと思うんだけどね。絵本をよんでもらえるなんて。どうしてそんな顔するの?」
確かに梶子の顔は、場違いなようだった。
梶子「杉ちゃん、もう帰ろうか。」
杉三「もう少しそばにいてやりたい。」
梶子「普通の人は、お医者さんに任せるんだけど、杉ちゃんは逆なのね。」
杉三「彼には人間ってこんなに優しいっていうところをたくさん見せてあげるのが、一番だから。」
院長「うん、杉ちゃんのいう通りだ。もし、可能であればもう一回、おさじさんの話を聞かせてあげてほしい。」
杉三「わかりました。」
と、道夫の手をにぎり、語り始める。道夫も、固かった表情が和らぐ。
杉三「よかった。」
梶子はため息をつく。というより、困惑した顔をしている。
道夫「またきてね、、、。」
杉三「わかったよ!」
と、微笑みかける。安心したのか、道夫はすやすや眠っていた。
院長「あとはまかせてください。彼が1日も早く、ご飯を口にしてくれるよう、努力します。」
杉三「ご飯と、点滴は違いますからね。おんなじ栄養であっても。」
院長「そうなんですよね。本当は。」
梶子「じゃあ、杉ちゃん、帰ろうか。」
二人、病院を出ていく。
梶子は、買い物をしたあと、姉のマンションにやってくる。と、姉の部屋のまわりには、たくさんのひとがいる。
梶子「すみません、姉は、」
と、同時に何かが割れるおと。
近所の人「早く止めてくれ!毎日毎日叫び声がして、こっちはたまらない!」
梶子は、部屋のなかに飛び込む。部屋は、たくさんの瓦礫が散乱している。
昭子「私は川口まゆこなのよ!あんたのせいで、それを全部だめにした!もう、殺してやるんだから!」
といい、茶碗や湯飲みを叩き割る。それは、全て道夫のもの。
梶子「お姉ちゃん!やめて!」
昭子「なんであの子を病院につれていったの!」
これには、梶子も答えられない。
大家「頼むが立ち退いてくれ。もう、家賃の滞納も3ヶ月以上ないし、こんなに、毎日毎日あばれられては、ほかの客にも困る!」
梶子「申し訳ありません。いま、つれていきますので。」
と、119番をダイヤルする。しばらくすると、救急車がやってきて、姉に手錠をはめ、なにも言わずに二人をのせていき、走り去ってしまう。
一方、蘭の家。
アリス「ただいま。今日も1日疲れたわ。」
蘭「お帰り。思ったより早かったね。いま、彫り終わったばっかりで、ご飯のしたくなんてしてないよ。すこし待ってくれる?」
アリス「いいわよ、お互い様。なんか出前しようかな。」
蘭「ああ、丁度寿司屋のチラシが、今日ポストにはいってたから、注文するよ。なにたべる?」
と、チラシを手渡す。
アリス「鉄火丼でいいわ。」
蘭「僕もそうしよう。じゃあ、注文するね。」
と、チラシに書いてある、電話番号を回す。
蘭「あ、注文お願いします。鉄火丼二つ。住所は静岡県、、、。」
と、同時にアリスのスマートフォンがなる。
アリス「あ、メールだ。」
と、メールを読むが、
アリス「ちょっと、蘭!何これ!」
蘭「どうしたの?」
アリス「このメール、読んでみてよ。」
蘭「(スマートフォンを受け取って)道夫をお二人の芸養子にしてやってください。私では、経済的に、育てることができません、梶子。ああ、確かに介護職は、賃金が安いからなあ。」
アリス「信じられないわ!あたしの国では絶対にありえない文句よ。自分で育てられないから、容易く他人に預けるなんて、女として失格じゃない!もし、私なら、賃金の高い場所を探すとか、工夫をするわよ!介護なんて、色んな所で募集しているんだから、つまりたくさんあるってことは、選ぶことだってできるはずじゃないの?」
蘭「まあ、外国ではそうかもしれないけど、日本の介護現場は、地獄と同じくらい大変だという人もいるくらいだからね。でも、僕らも、そんな経済力は、」
アリス「そんなの関係ないわよ!これは、ほんとに、我が儘としか言いようがないってことをしっかりつたえるべきよ!甥であるってことは、血を分けあっているのに、こうしてごみみたいに捨てていくなんて、無責任にも程がある!だって、一番の被害者は誰なのかしら!」
蘭「もしかしたら、愛した人の子供じゃなかったのかも知れないね。うちにも、虐待をうけた若い女の子が 、背中に虎を描いてくれと言ってきたことがあったけど、彼女は、そうしなければお父さんに勝てないといっていたからね。」
アリス「これは、断固として断るべきよ。頑張ってあたしたちで説得しましょう。きっと、あの双子の姉妹は、おかしいわよ。」
蘭「でもさ、子供を持ってない人に、つべこべ言わずに従えと言われると思う。」
アリス「関係ないとおもうけど?私、思うんだけど、杉ちゃんの話で、何か裏があるような気がしたの。杉ちゃんに手伝ってもらえば?」
蘭「こういうときには確かに役に立つよ。よかろうが悪かろうが、杉ちゃんの勘は、よくあたるから。」
アリス「よし、決まればすぐ実行だ!明日、説得にいきましょう!」
翌日
道夫は相変わらず食べるものを吐き出してしまう。その青白い顔は、他の患者たちも寄り付かないほどである。
看護師「もう少ししたらおばさまもみえるわよ。」
道夫「うれしいな。」
看護師「それもそうだけど、おさじさんでご飯を食べてもらわないと。」
道夫「食べたくない。」
看護師「食べないと、いつまでも病院になるわよ。いやでしょう?学校だってあるんだし。」
道夫「だって、生きていたってしょうがないから。」
看護師「そんなこと、いっちゃだめよ。」
道夫「うん、でもわかるんだ。だから長くない方がいいんだ。おかあさんも、おばさんも、みんな僕のことが、邪魔なんだよ。だから僕は逃げなかった。お母さんってすごい人だったのは知ってるし、それを僕が潰したのだから、生きていない方がいいやって。」
看護師「そんなことないわ。女は、赤ちゃんを産むときの苦しみを体験しているんだから。あれは、絶対に忘れられないものよ。そして、その子を抱いたとき、これ以上のよろこびはないの。」
道夫「そうなんだ。お母さんは、忘れているだろうな。」
相談室、院長と、梶子が話している。
院長「まだまだですよ。長丁場でみてやってください。」
梶子「もう辛くてたまらないんです。だって毎回カップラーメンばかりなんですもの。」
院長「他の職場を探したらどうですか?」
梶子「そんなところ、どこにありますか!だってすぐ駆けつけられる職場にしろっていったのは、そちらでしょ!」
院長「お姉さんにも、相談してみてくださいよ。」
梶子「姉と、どうやって相談するんです?姉は、統合失調症といわれていて、ほとんど会話ができない有り様なんですよ!その姉の施設代だって私がやっているのに、さらに苦しめるんですか?大体ね、姉が罪に問われないって、日本の法律は本当に不公平でなりません!本人にはあれだけ保証があるのに、家族には何もないんですね!いっそ、死んでもらった方が、よっぽど楽なんですよ!」
声「やっぱりそうだ!はじめからそうするつもりだった!」
院長がドアをあけると、杉三と、蘭がいる。
院長「どうしたの二人とも。」
杉三「さっきの発言でよくわかったよ。僕をアパートにつれていったのは、道夫くんを病死したと、証拠つけるためだよね。本当は、搬送して死亡したというシナリオで、でも、回復してきているから逆に困っているんだ。もし、死んでくれたら、どんなに楽だろうって、食事を与えないで、殺害するつもりだったんでしょ?」
梶子「どうしてそんなことがわかるの。あきめくらなくせして。」
蘭「道夫くんが、重い病に倒れたからですよね。それは、二人では対処できず、お姉さんも、統合失調症にかかって。」
梶子「悪いけど、あたしは姉とは暮らしてないのよ。」
蘭「はじめはそうだけど、そのうち、お姉さんが相談してきて、あなたも、不安になったんでしょ。あなたが、もし、道夫くんを任されたら。道夫くんは、環境を変えるでもしないかぎり、回復しないのはわかっていたから。原因は、道夫くんの体をみて、はっきりわかりました。いわゆる根性焼きがたくさん。ペストにでもかかったのではないかと思うくらいありましたよ。」
杉三「そして、道夫くんはストレスから、体を悪くしてしまったんですね。だから、便乗して餓死させようとしたんでしょ。道夫くんは、それを一番よくしっています。だからご飯を食べないんです。自分が死ねば、二人とも助かるんだってね。」
梶子「そんなことないわ、だって一応。」
蘭「僕のうちへ、芸養子にしてくれと、なんでメールしてきたんです?まあ、これだけ深刻ですと、思わず口にしてしまうのかも知れませんが。でも、これは、まずいと思いますよ。」
梶子「どうしても、あたしはいい子でいなきゃいけないのね!患者さんの話は聞くけど、家族の話はきかないで、こうやってちょっと愚痴をこぼせば、すぐ文句を言われる!病んでいるのは、本人でなくてこっちなのよ!あたしの方が、よほど辛いわよ!それでも、支えてやれなんて、なんで私ばかり責められなきゃいけないの!そこからおかしいと思うわ。大体ね、いまの世の中、家族なんて、煩わしいだけ!いくら頑張ったって、成果は家族のポケットに消えていく!そして、衰えてきたら、当然のように優しくしてくれというわ!じゃあ何?自分のやりたいことはいつできるの?みんな自分勝手なのに、年をとったら面倒をみろ、なんて、若い人に全部おしつけて、のらりくらりと過ごすなんて、ほんとにみんな身勝手すぎるわ!何で私だけ?何で他の人はケアしてもらうの?何で私だけやりたいことを返上しなきゃいけないのよ!あんたたちは、歩けないからそういう気持ちがわからないんでしょうよ。日本の教育家さんも、パソコンをピコピコ動かすより、こういう、当たり前のルールを教え込んで貰いたいわね!」
杉三「そうかそうか。じゃあ、僕で実験してみてもいいよ、あきめくらは生きていたってしかたないのは、よくわかってるからね。」
蘭「杉ちゃん、そんなこというなよ。もう、この二人は、僕らがなんといってもきかないよ。いくら説得してもダメなものはあるって、心理学の先生が言ってた。超自我というんだって。院長、お代は僕らがなんとかしますから、もう少し彼を置いてやってください。」
院長「わかりました。ちょっと他の病院にも聞いてみます。入院が必要な方は、たくさんいますから。でないと、病院がパンクしてしまう。」
蘭「すみません、お願いします。」
と、蘭は深々と頭を下げる。
杉三「お願いしてよ!」
梶子は頭を下げなかった。
梶子「いくら倫理的に殺人をしかけたから悪いというかもしれないけれど、こちらのことは、偉い人は、なにも気がついてはくれないのね。」
杉三「道夫くんは、その事をいちばんよくわかっています。お姉さんのことも、おばさまのことも。」
梶子「ええ、あの子が酷いいじめにあって、学校にいけなくなって、姉ははじめて挫折しました。道夫くんにたいしては学校側も親切で、カウンセリングとか、いろいろ紹介してくれたけど、私たちはなにもない!だから、こうするしかなかったんですよ!」
蘭「かといって、人のいのちを奪うのは、いけないことです。」
梶子「わかりました。もう、私は人生間違えてしまったんですね。ごめんなさい。自首します。」
と、病院をとぼとぼ出ていく。
病室
蘭「杉ちゃん、そろそろ帰るよ。」
杉三「そばにいてあげたい。」
蘭「そうだけど、面会時間は五時までだよ。道夫くんの体にも悪いよ。」
杉三「わかった、じゃあ、また明日ね。また、小話を考えてくるね。」
道夫「ありがとう。」
蘭と杉三は、病院を出て、道路を移動する。
杉三「でも、日本人も変わったね。」
蘭「変わったって何が?」
杉三「大分、個人的になってきたなって。ヨーロッパでもみんなそうなのかな?」
蘭「ああ、それはね、致命的なミスだよね。ドイツでは、家族に何かあれば、別居していたとしても、何日か、仕事を休む人は多いよ。日本ってのは曖昧だから、個人主義が変な風に解釈されてるなあって、思うときもある。うちのお客さんにも、変な個人主義を押し付けられたから、その対抗の象徴として、背中を預ける人がいるよ。」
杉三「そうかあ。何となく、合致しないのは、僕だけだと思ってた。」
蘭「まあ、たまにいるかな。」
そのうち、互いの家が見えたので、二人は別れた。
蘭の家
アリス「どうだった?説得できた?」
蘭「できなかった。きっと、受け入れられない体質なんだよ。」
アリス「変な人たちね。」
と、呼び鈴が鳴る。
アリス「はい、いまいきます。」
と、急いでドアを開ける。
配達員「えーと、簡易書留です。伊能蘭さん宛ですね。ここに印鑑をお願いします。」
アリス「はい、わかりました。」
と、印鑑を言われたところに押す。
配達員「どうもありがとうございます。」
アリス「ご苦労様です。」
と、封筒を受けとる。配達員は一礼して出ていく。
アリス「蘭に、簡易書留ですって。」
蘭は、封筒を切ってみる。一枚のチラシと手紙。差出人を見ると、
蘭「東京都新宿区、、、えっ、彫菊先生じゃないか!なんで僕みたいなのに?」
アリス「あら、おんなじ刺青師さん?」
蘭「おんなじどころじゃなくて、天の上から僕らを眺めるような、すごい方だよ。もう、八十も後半なのに、元気だなあ。」
アリス「その先生がどうしたの?」
蘭「明日から、1週間個展をするんだって。よかったら、見に来てくれって。でも、何か裏があるよ。あんなに偉い先生が、こんな辺鄙な町で、個展なんかするんだから。」
アリス「じゃあ、顔を出してきなさいよ。そんな立派な方なら、師事してもいいじゃない。」
蘭「師事はできないと思うけど、招待券をくれたから、いこうかな。」
病院。
杉三と、道夫が病院の中庭を散歩しているが、道夫はまだ固い表情をしている。
杉三「まだ、怖い思いをする?」
道夫「はい、、、。母に殺されそうになったのは、まだ思い出すよ。」
杉三「どんな理由だった?」
道夫「僕が学校でいじめをうけていて、学校にいけなくなってから、行かなきゃだめといわれて、物差しで叩くようになった。」
杉三「物差しだけだった?」
道夫「それが、まな板になって、さらには鉄アレイに。鉄アレイを振り上げられたときの顔はわかるんですが、、、う、、、。」
杉三「無理して話さなくてもいいよ。ゆっくりやすみな。」
道夫「蘭さん、体に絵を描いていたね。なんか、僕のアザも消してくれるかな。」
杉三「うーん、本人に聞かないとわからない。」
道夫「できれば、消せたらいいんだけどな。」
杉三「そのためには、ご飯をしっかり食べること。」
と、道夫の肩をたたく。
一方、精神科では、カウンセリングがおこなれている。
昭子「あの子が、学校で、問題ばかりおこしているのは、よく知っていました。他の生徒より、遥かに行動が遅いから。」
カウンセラー「それについて、道夫くんに、話はしましたか?」
昭子「一生懸命叱責しました。私は、当時実家暮らしでしたので。夫も、婿とりでしたから、あんまり口をだすなと言われていて、最終的には、何も関わらなくなりました。だから、高齢の父が、自分がなんとかしようと思ったんでしょう。道夫の学校のこと、進路のこと、なんでも自分で勝手に決めて、私はそれを実現させるだけの、ただの道具箱でした。それを繰り返しているうちに、道夫がいるから、自分は何もできない、という、憎しみの気持ちがわいてきて、道夫に当たり散らすようになりました。」
カウンセラー「道夫くんと会うことができたら、また一緒に暮らしたいと思いますか?」
昭子「思いません。子捨てになってしまいますが、また辛い思い出がよみがえってしまうような。私は、もう、病院で静かに死にたいんです。もう十分いきたし、たくさん苦しんできましたから、あとは、家族から離れて暮らしたい。ここの方が、同じ境遇の仲間もいますし。それでもう、いいです。」
カウンセラー「そうかもしれませんね。」
美術館。
彫菊開軒七十年記念展、と張り紙された展示室。
多数の、刺青の写真が置かれている。
蘭「やっぱり僕にはできないや。こんな綺麗には。」
杉三「いやいや、蘭だって上手だよ。」
と、二人の前に、紋付きを着た、老紳士がやってくる。
老紳士「こんにちは、蘭さん。」
蘭「あ、先生!今日はほんとに、ご招待ありがとうございます。いつみても、素敵です。頭がさがりますよ。」
菊「いやいや、日本の伝統刺青も、なかなか後継者がなくて。まあ、どこの芸も同じなんだと思うんだけど。僕は、アメリカンとか、トライバルなんかは
全くできない。手彫りのほうがね、よい色が入るっていうけれど、若いひとはどうしても速くしてほしいってのもあるんだろうね。日本の美術は日本の物で作る、この定義がいまは、なくなろうとしているな。」
蘭「よくわかりますよ。僕のところにも、そういうのを描いてくれといってくる人がいますけど、正直、彫っていても頭のなかで嫌だなって浮き上がってきますから。以前、先生は本のなかで、日本の刺青と、アメリカンタトゥーとは、全然違うとおっしゃってましたよね。そこが印象に残ってます。」
菊「細かいことによく気がつくね。まさしくそうだと思うよ。アメリカンタトゥーは、日本の刺青は違うもの。いまでこそ、やくざの象徴みたいになっているけど、彼らはいつの時代にも心が傷ついていて、仲間を求めているんだから。まあ、アメリカンでも、仲間になりたい意味で刺青をする人はよくいる。他の民族なら、例えばアイヌとか、沖縄とかでは、彫るときの痛みに耐えることで、大人になった印とする習慣があった。インディアンのひとも似たような経験があるよね。だから、刺青をすると、必ず悪人と言わないでもらいたいよね。」
蘭「それは僕も思います。いつもは隠しておくけどいざというときにさらけ出して、心の奥底を表すのが日本の刺青だと思います。」
菊「それをなんで海外から来たもので彫れる?」
蘭「はい、絶対無理ですね。」
菊「僕ももう、年をとってしまったから、これからも、よいものを彫ってあげてくれ。ついにこの年になるまで、弟子入りはきたことがあったが、この一門を継ぎたいものは、現れなかった。みんな、マシーンで効率よく彫りたいからって、さっさと辞めてしまった。そんなに、マシーンというものがいいのかと詰問してみて、答えを出せるものは少なかったのにね。」
そういいながら、菊はハンカチで涙をふいた。
そのとき、杉三の近くに、 一枚の写真が落ちた。杉三が拾うと、若い男性が微笑んでいた。
杉三「息子さんですか?」
菊「もう、二十年以上前に、さっさと逝ってしまったよ。」
杉三「え、どうしてですか?」
菊「うん、学校でやっぱりいじめがあったらしくて、高層ビルから飛び降りてね。あのときは、つらかった。」
杉三「じゃあ、もし、その子の代わりに、新しいお弟子さんをつれてきたら、かわいがってくれますか?」
蘭「ちょっと、杉ちゃん、そんなこと。」
菊「いやいや、蘭さん、僕は九十になったけど、彫り続けるつもりだよ。本当に手彫りのよさをわかってくれる人が現れてくれるまでね。そういう人がいたら、自分の全てを伝えてやりたい。」
杉三「実はですね、誰からも愛されてもらっていない人がいるんです。こういう、伝統の世界なら、いつも人が足りない状態だろうし、後継者もないときいて、ひらめきました。きっと、彼のようなひとなら、わかってくれると思うんですが、彼にあってあげてくれませんか?」
蘭「杉ちゃん、、、。どうしてそんなに?」
杉三「愛されてない人が、世の中に出るのは、絶対一人ではできないと思うよ。カッコつけた法律が、そうさせるのかもしれないけど。」
菊「わかりました。うかがいましょう。富士駅にいきますので、迎えに来てくだされば。」
蘭「じゃあ、妻を迎えによこしますので、富士駅の北口にいらしてください。僕たちは、近所のカフェなどで、お待ちしております。日取りはいつにします?」
菊「今週の日曜までこちらにいる予定なので、土曜日あたりどうですか?」
蘭「そうですね。僕らも場所を考えておきますよ。」
菊「わかりました。じゃあ、決まりましたらこちらに書いてあります、電話番号に。」
と、名刺を一枚渡す。
蘭「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします。」
二人は、菊にむかって最敬礼した。
当日は、あっという間にやってきた。杉三と道夫は、駅の近所にオープンしたばかりの、カフェで待っていた。
道夫「いいんですか?僕みたいなのが、そんなにお偉い彫り師の先生とお会いするなんて、身分が、、、。」
杉三「あのね、道夫くん、君は、普通の人とは関われないと思うんだ。確かに道のりは険しいかもしれないけどさ、その方が幸せになれるよ。だから学校という場所は合致しないの。やりたいことがある人は、それと学校の勉強との、リンクができるようになるから。」
道夫「そういうのを、いまの言葉で言えば、発達障害とか、アスペルガーとかいうんでしょう?つまり立場は低いと。」
杉三「学校は競争社会だからね。あんまり宛にしないほうがいいよ。もとを言えば、美術の変な教師より、刺青師のほうがね、よほどよい絵を描くときもあるよ。」
と、車の音が聞こえてくる。
杉三「もうきたのか。」
車は店の前でとまり、蘭と、菊、最後にアリスが降りてくる。
蘭「杉ちゃん、来たよ、初代彫菊先生だよ。」
菊「展示会でみたよりも、きれいな人だなあ。」
杉三「バカの一つ覚え、と、よんでください。」
菊「いや、そうじゃないことは目をみればわかる。道夫くんという方はどこに。」
道夫「僕です。川口道夫です。」
菊「相当、傷ついているんだね。大変だったろう。」
道夫「はい、母にも、おばにも必要ないんだなと、よくわかりました。母は精神科にいき、おばは警察に逮捕され、みんな僕が悪いんだとおもいます。」
菊「その理由はやっぱり、」
道夫「母と、叔母が好きだから。それだけです。憎んでなんかいません。」
菊「でも、前向きに進まなきゃならない。命があるんだから。逆をいえば、君は虐待されたひとと、共感することだって、できるさ。僕らはそういう子達の味方でありたいと思ってる。」
道夫「実は、僕も、彫ってみたいですよ。いじめられて、こんなにアザだらけなのは、恥ずかしいです。」
菊「そうか。もちろん、希望すれば彫ってあげるよ。そういうお願いをされるお客さんは多いから。」
道夫は、洋服の袖をめくる。右腕に、くろいアザがある。
道夫「これ、物差しで叩かれた痕なんです。これを消すことはできますか?」
菊「どれどれ、ああ、このくらいなら消せると思うよ。蘭さん、」
蘭「はい。」
菊「道具を貸してくれる?」
蘭「わかりました。」
アリス「じゃあ、みんな、蘭のうちにいこうか。」
全員、車へ向かう。
蘭の仕事場。道夫と菊が向き合って座る。菊は、右腕のアザに、針を刺していく。道夫は、痛いとも何もいわない。
菊「できた。見てごらん。クレマチスの花だ。細いつるに立派な花を咲かせるから、精神の美という、花言葉がある。君もそうして生きてほしいな。」
道夫「これでやっと、結論が出た気がします。いや、決着がついたというか。ありがとうございます。」
蘭「やっぱり、菊先生は彫りかたが全然違いますね。僕も見習わなければ。」
道夫「僕にも、こうしてやることは、できませんか?」
菊「彫ってみたいの?」
道夫「すぐにはできないのは、わかりますけど、こんなきれいな花で、過去のアザが消えるのなら。」
菊「それなら、やりながら覚えていけばいい。芸事っていうのは、そういうものだから、常にアンテナを高くね。あ、目のアンテナじゃない。心の方だよ。」
道夫「僕にもできますか?」
菊「もちろん。ただ、年寄りにはいいかげんさはすぐばれる。日本伝統にあう、着物を用意してね。まずは、外見を変えてごらん。」
道夫「へ?」
杉三「師匠からはじめての贈り物だよ。道夫くん。」
菊は、道夫に一万円札を一枚くれた。
杉三「いよいよ、デビューか。」
蘭「ほんとだ。やっと、彼も回復していくだろう。所属できない、ほど悲しいことはない。」
杉三「少しでも、誰かがいいよといってくれれば、若い人は変われるよね。」
道夫「ありがとうございます。これから、やっと、新しい世界にいけます。こうしてくれなかったら、絶対に立ち直れなかった。いま、僕は僕なんだと、やっとわかりました。」
蘭「がんばれ、一人前になれたら、また会いに来てね。」
道夫「はい、ありがとうございます。」
杉三「よかった!」
蘭「杉ちゃんまで泣かないで。」
杉三「いや、ほんとによかったよ。」
と、道夫の肩をたたく。
菊の仕事場で、真新しい着物を着た道夫はきょうも彫る練習をやっている。
蘭の家では、杉三と蘭が、定期的に送られてきた写真をみたり、がんばりますと書かれた手紙を読んだりしていた。
蘭「やっと、筋彫りができるようになったって。」
杉三「人生、まだまだこれからだな!」
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