Don't Look Back

蘭の家

配達員「伊能さん、郵便です。」

蘭「はい、いま開けますので。」

と、玄関の戸をあける。

配達員「はい、こちらですね。えーと、佐藤智子さまからです。こちらにサインをお願いします。」

蘭「わかりました。」

と、ペンをとり、サインする。

配達員「はい、ありがとうございます。失礼します。」

と、バイクに乗って、家を出ていく。

アリス「どうしたの?」

蘭「五年二組同窓会のお知らせだって。いらないから、捨てよう。」

アリス「あら、いいじゃない。昔のお友だちと会えたら、思出話に花が咲くわよ。」

蘭「そうなんだけどねえ、小学校は、いじめられたからなあ。」

アリス「まだそんなこと言って。時間がたてば忘れられるわよ。もしかしたら、和解ができるかも。」

蘭「どうかなあ。」

アリス「いってきなさいよ。嫌ならなんか口実をつくって、帰ればいいから。」

蘭「そうだね。じゃあ、申込むか。」

と、ペンをとり、申込書に出席と書き込む。


当日。富士で有数の超高級ホテル。蘭は、指定された宴会場に車いすで到着する。

蘭「伊能ですが。」

と、主催者の佐藤智子が、彼を迎える。

智子「いのちゃん!久しぶりね。三十年以上も前なのに、まったく変わっていないじゃないの!」

と、同時に何人かの女性たちが、彼を取り囲む。

女性「うらやましいわ。こんな年になっても綺麗なんて。」

女性「結婚したんでしょ!奥さんは、外人さんだったよね。なんだか、似たもの夫婦だわ。」

女性「あたしなんて、かつては乙女でいま太め。旦那はハゲ頭だし。きっと、お嫁さんはしあわせね。」

蘭「と、いうより。何で僕が結婚したこととか、知っているんですか?」

女性「もう!ネット配信があるわよ。2ちゃんねるとか。」

蘭「そうでしたか。」

女性「いま何をしているの!確か、ドイツに留学したんだったよね。」

蘭「刺青師です。」

女性「えーっ!信じられない。そんな綺麗で、優等生だった蘭が、やくざに刺青をいれる人になったなんて!」

女性「ちょっとこわいわよ。もしかしたら、暴力団とかを相手にしてるの?」

女性「確かに、、、。ちょっと、、、あんまり関わらない方がいいかもしれないわよ。この人と。」

女性たちはぱっと散ってしまった。

蘭「だからやだったんだよな。同窓会いくの。」

と、近くにたっていた男性が、蘭に声をかける。

男性「すみません、ちょっと体調がよくないので、隣に座らせてもらえませんか?」

蘭は、男性の顔を見る。げっそりとやせ、顔は真っ白。しかし、見覚えのある顔である。

蘭「う、右城くん!」

男性「旧姓は右城ですが、いまは、磯野です。磯野水穂ですよ。」

蘭は、複雑な気持ちになる。


回想、小学生時代の運動会。からだの弱い蘭が、走っている。すぐに離されて最下位となる。

蘭は水穂にバトンを渡すが、すぐに倒れこんでしまい、バトンを落としてしまう。リレーでは、バトンを落とすと失格になってしまうのだ。結局、蘭のクラスは順位がつかなかった。

水穂「お前のせいだぞ!お前がいるから、運動会は台無しだ!」

教師「ほら、右城くん、いじめちゃだめよ。」

水穂「あとで覚えとけ。」

その翌日から、蘭の靴が燃やされたり、鞄を池に投げ込まれたり、、、。ひどいいじめが始まったのだった。


再びホテル。余興で、男性たちが歌う、下手くそな歌に拍手をしているひとたち。

水穂「あのときは、すみませんでした。三十年以上たって謝罪をされても、許してはくれないよね。」

蘭「いえ、もう等の昔にわすれてますから。」

水穂「そと、出ましょうか。」

と、立ち上がり、蘭の車いすを押して、ロビーにいく。

ロビーに着くと、水穂は、近くにある自動販売機で、お茶を二つ買って、テーブルに置く。

水穂「いやはや、いじめの被害者と加害者がテーブルを囲むとは、驚きを隠せないでしょう。」

蘭「僕も、信じられませんね。」

水穂「確かにそうですね。僕はあなたが、ご不自由な体になられたのに、遠い責任があるわけですから。本当は、すぐにあやまるべきでしたね。なんだか、刺青師になられたのも、僕は、責任があって、謝罪をしなければいけないようなきがします。」

蘭「いや、もう三十年たってますから。」

水穂「そうですか、、、。ありがとうございます。一度だけでよいから、お会いしたかったですよ。これでやっと、心置きなく。あ、ちょっと失礼。」

とうしろを向いて、咳をした。口をぬぐったそのちり紙は、みるみる朱に染まった。

蘭「お体、お悪いのですか?もしかして、それ、労咳?」

水穂「いえ、大したものではありません。妻に知られたら大変なことになります。」

蘭「結婚されたんですか。それで、改姓を?」

水穂「はい。婿養子になりました。妻の家でいまは暮らしています。妻が一人っ子であり、改姓できなかったのです。」

蘭「そうですか。確かに男性が改姓するとは、珍しいことですからね。」

水穂「でも、深刻な問題がありましてね。どうしたらよいのか、こちらも困っています。」

蘭「そうですか。それは大変でしょう。それに、水穂さんも、どうして労咳を放置したままなんですか?いまの医療だったら、労咳もなおせるはずですが。」

水穂「いいんですよ。もう、そのほうが。僕は大変なミスをしてしまいました。だから、しっかり受け止めるつもりです。」

蘭「一体何があったんです?その当時は、気が付かなかったのですが、水穂さんはすごい音楽の才能があるんだって、あとで、知りました。だって、新聞にのっていたじゃないですか。ピアノのコンクールに出て、一番を取ったでしょ。その時はまだ、右城さんと名乗っていましたね。僕は応援していたんです。」

水穂「そうですか、二十年以上前ですな。でも、僕は海外の音楽大学を受験して、合格したのはいいものの、卒業はできなかったんですよ。」

蘭「どうして、、、。あ、もしかしたら、その時に労咳を患ったとか、、、。」

水穂「まあ、そうなのかもしれませんね。病名をどうのこうのなんて、もう、どうでもいいですよ。いずれにしても、よい行いをしてこなかった、と、いうことでしょう。」

蘭「僕も似たような経験してるんです。僕は大学院には行きましたけど、望んだ絵の仕事は見つからなくて、結局入れ墨師にしかなれなかったんですから。なんだか不思議ですね。で、入れ墨の世界大会にも挑戦したけど、心臓を悪くしてしまったので。」

水穂「そうですか。善玉と悪玉でありながら、同じような人生をたどってきたって、確かに不思議ですね。人間の運命なんてわからないものですね。本当に。」

智子「いのちゃんも、磯野君もこんなところにいたの?はやく戻ってきなさいよ。記念写真よ。」

蘭「はい、今行きます。」

二人、宴会場に戻る。



翌日。池本クリニックに、杉三がきている。いつも通りに処方箋をもらい、薬局へ向かおうとすると、

声「お願いします。どうか強い薬をください。」

医師「だから、強くしたって、なんにも変わりませんよ。あなたの場合は、薬をどうのこうのというより、環境を変えるとか、習い事をするとかで、何とかなるもんなんすから!」

声「そんなことできないから、お願いしているんですよ!」

患者「あーあ、また、やってるよあのおばさん。」

患者「鬱の薬なんて、たいしたことないのになあ。」

医師「とにかく今日はお帰りください!このままですと、病院がパンクしてしまいますから!」

と、無理矢理診察室のドアを開け、彼女を追い出してしまう。しぶしぶ彼女は待合室に座る。かわいそうにおもった杉三は、彼女の近くに車いすで移動する。

杉三「あの、どうしてそんなに、強い薬を欲しがるんですか?」

女性「だって、こんなにも辛いんだもの。」

杉三「いったい何があったんですか?」

女性「きいてくれるの?新宗教なんかの勧誘でもなく?」

杉三「僕はあきめくらなので、どこかへ漏らすなんてことは、できませんから。」

女性「あきめくら、つまり文字の読み書きができないのね。その体ではなにかと不自由でしょう。」

杉三「不自由とは、おもいませんね。読み書きはできなくとも、聞くことはできますから。」

と、杉三のところに、受付がやってきて、

受付「杉様、お電話がありました。蘭さん、お迎えができないから、タクシーで帰ってくださいということです。」

杉三「困ったな、、、。僕、帰れない。お金の勘定ができないし。」

受付「じゃあ、あなたのお母さんに連絡をいれます。」

杉三「そうしてください。」

受付「わかりました。お母様の仕事が終わるまでは、あと二時間くらいあるから、カフェでおまちください。」

杉三「わかりました。」

患者「磯野さん、この人にきいてもらいな。そうすれば、先生の負担も楽になるだろうからな。」

杉三「あ、いそのさん、というのですか。」

女性「磯野真理子です。」

杉三「僕は、影山杉三です。よろしくです。」

と、彼女の右手を握る。

真理子「ほんとうに、構わないですか?」

杉三「はい。どうせ、暇人ですから。」

真理子「じゃあ、カフェにいきますか。」

二人、カフェスペースにいく。


カフェスペース

杉三「で、何が一番辛いんですか。」

真理子「わたし、この二年で怪我ばっかりしているんです。自転車で転んで足を骨折したのを皮切りに、犬の散歩で転んで腕も骨折して、今年の正月には、背骨を圧迫骨折までしたんです。」

杉三「圧迫骨折?なんですかそれは。」

真理子「ちょうど、お手洗いから出ようとしたときに、敷居につまづいて、転んでしまいまして。背中をすごく打ってしまいました。」

杉三「で、それでどうしたんです?それとうつ病とは、関連があるんですか?」

真理子「仕事をやめてから、急に立て続けにこうなってしまいまして。でも、もう戻ることもできないでしょ。それに、いままで自分がどんな食生活をしてきたのか、頭を殴られたような気分だったわ。」

杉三「食生活?ちゃんと食べてなかったの?」

真理子「はい。確かに。」

杉三「何をされていたんですか?お仕事は。」

真理子「食べ物の業界よ。」

杉三「すごいですね。じゃあ、やめたのはなぜ?」

真理子「急にやめろといわれて。」

杉三「食べ物をつくるのを?」

真理子「そうよ。パン職人は、寿命が短いの。」

杉三「はあ、ベーカリーか。確かに、ずっと立って仕事していますものね。ああいう人は。」

真理子「まあ、そんなところかな。」

杉三「そうなんですか。でも、他で仕事できるんじゃ。」

真理子「まあね。でも、なかなかそうはいかない。いまは家でパンとか教えてるけど。」

と、そこへ美千恵があらわれて

美千恵「おそくなってごめんなさい。あら、どこかで見たことがある人。」

杉三「磯野真理子さんだって。」

美千恵「あんたって人は、どういうところから、そうやっていろんな人と仲良くなるのかしらね。」

杉三「どうして?たいしてかわらないじゃないか。」

美千恵「読み書きができないと、そう見えるのかしらね。この人は、二年前に不祥事で引退したのよ。」

杉三「不祥事!い、一体何をやらかしたの!」

美千恵「ここでいうと、失礼だから、うちに帰ったら聞かせてあげる。」

真理子「あなたはごまかしはきかないのね。あたしは、二年前に、ベーカリーの世界大会に応募したんだけど、失敗したのよ。完敗だった。」

杉三「失敗したとしても、出れたんだからいいんじゃないですか?」

真理子「いえいえ、修行していたところのシェフから、うちの店の顔にドロを塗って、と、しかられたわ。」

美千恵「まあね。あたしたちからみたら、幸せの形もちがうから、しかたないわよ。杉三。とりあえず、お宅へ送ってあげるだけにしておきましょ。」

真理子「お宅って、、、。」

杉三「本当は寂しいんですね。だれも、愚痴を漏らせる人はいないんですもんね。それだけは、よくわかりますよ。一緒に乗っていってください。方角だけおしえてくれればね、いけますから。」

真理子「あなたたちって、、、。どうして私のことが読めるの?」

美千恵「障害を持っている子供を抱えると、そういうところに、敏感になるものよ。乗っていきなさいよ。」

真理子「ありがとうございます。うちは、吉原駅の近くですね。」

杉三たちは、あっけにとられた顔をしている受付に、丁寧に挨拶をして、病院を出ていく。

車のなか、後部座席に杉三と真理子が座り、美千恵は運転している。

美千恵「いつもこんな早くに家に帰ることないでしょ。」

真理子「そうですね。まだ日が出てる。」

美千恵「ご主人は、家にいるの?」

真理子「ええ。ずっと。」

美千恵「家で仕事してるの?」

真理子「臥せてるんです。」

杉三「臥せてる?なんですかそれは。」

美千恵「根掘り葉掘りきくのはよくないわよ。もうこの道をいけば、吉原駅につくけど。」

真理子「ああ、あの家です。」

と、すごく大きな屋敷を指差す。

家の前に、美千恵が車をとめる。

真理子「ありがとうございました。また、頼むことは、二度とないわ。」

と、家のなかに入っていく。

美千恵「いつでもまた、ご一緒しましょうね。」

真理子「遠い将来にね。」

と、玄関のとをしめる。

美千恵「さあ、帰ろうか。」

杉三「うん。」

車は、方向転換して、もときた道を帰っていく。杉三は、その家の一番奥にある、小さい明かりをじっと見つめる。

美千恵「どうしたの?」

杉三「何でもない。」

そのあと、杉三は家につくまでなにも言わなかった。


翌日。美千恵が帰ってくる。杉三は、長襦袢を縫っている。

杉三「お帰り。」

美千恵「女の子の噂ってすごいわね。あたしたちが昨日、磯野真理子をのせたことを、職場の子達がみんな知ってて、まったく、大騒ぎだったわ。」

杉三「どうしてみんな知ってるの?」

美千恵「ブログを見たんですって。」

杉三「なに、それ、」

美千恵「ああ、あんたは知らないわよね。インターネットの日記みたいなものよ。」

杉三「蘭のうちなら見れるかな?」

美千恵「そうかもね。」

杉三「みてくる!」

と、家をでていく。

美千恵「ご飯までには帰ってくるのよ。長居しちゃだめよ。」

杉三には、聞こえなかったらしい。


蘭の家。蘭がテレビをみている。インターフォンが五回鳴る。

蘭「このならしかたは杉ちゃんだな。」

玄関の戸をあけると

杉三「いの、すぐにパソコンで、磯野真理子のブログを開いて!」

蘭「ブログって、URLもよめないのに、わからないじゃないか。」

杉三「そんなの関係ない。はやく!」

蘭「わかったよ。すこしまって。」

と、居間に置いてある、パソコンのスイッチをいれ、インターネットのブラウザをひらき、

杉三「たのむよ、はやく!」

蘭「そんなにじらすなよ。えーと、磯野真理子のブログね。」

蘭は、検索に磯野真理子のブログ、と打ち込む。そして、検索をクリックすると、

蘭「なにこれ!」

と、おどろいてしまう。

蘭「どういうことだ?」

杉三「どうしたの?何を書いているの?」

蘭「こうかいてある。今日は文字の読み書きができない人に送ってもらった。文字が読めないのに旦那のことを知られてしまうような人だった。逆に怖かった。」

杉三「僕のこと?」

蘭「僕、彼女、つまり磯野真理子の旦那ならしっているんだよ。同級生だ。」

そこへまたインターフォンがなり、

声「おーい、蘭。いる?」

蘭「あ、華岡か。どうぞ、あがりなよ。」

言わなくても華岡は、居間に上がり込んでいる。

華岡「何をみてるんだ。」

と、どさどさ入ってきて、パソコンを見る。

蘭「磯野真理子のブログだ。」

華岡「ああ、見たのか。実は彼女、何人かの人物から、保険金を得ているんだ。それが、あまりに不自然なんで、いま、極秘で調べているんだよ。」

蘭「やっぱりそうか。」

華岡「と、いうところまできたんだけど、捜査がとまっていて。」

蘭「え、どういうことだ?」

華岡「たぶん。真理子は、夫を保険金目的で殺害していると思われるが、、、。」

蘭「それでどうしたの。」

華岡「凶器になりそうなものがない。刃物も、毒物も。そんなわけで、いつまでも、捕まえられないんだよ。真理子は結婚しているが、夫は、」

蘭「ああ、僕が小学校時代の同級生だ。よく覚えているよ。確かに、あの二人はよく結婚したなと思う。水穂の側だと、逆玉の輿だ。」

華岡「そうだよな、蘭。ちょっとお願いしてもいいか?杉ちゃんにも協力してもらいたい。」

蘭「す、杉ちゃんが?」

華岡「そうだよ。杉ちゃん、君は誰よりも嘘やごまかしが聞かない人だ。だから、磯野真理子の屋敷にいって、彼女の生活を、さりげなく観察してきてくれ。」

杉三「僕にできるかな。」

華岡「いざとなったら、かけつけるから。なに、簡単なことさ。」

杉三「僕はあきめくらだよ。華岡さん。それでいいの?」

華岡「それがいいんだよ、君ほど、不正が聞かない人はいないから。文字のない人のほうが、役に立つ場合もあるのさ。彼女のやっているパン教室に潜り込んでくれれば、それでいいから。」

杉三「わかったよ、やれるだけやってみるよ。」

華岡「どうもありがとう!」

と、杉三の両手を掴む。

蘭「華岡も、昔とすこしもかわらないな。そうやって、すぐに無茶をする。本当に大丈夫?杉ちゃんを生徒として送り出して。」

華岡「いやいや、こういう障害のある人はね、より早く、真実をつかんでくれるものだよ。はははは。」

蘭は、杉三を困った顔で見る。


翌日。杉三は、介護タクシーで、真理子の屋敷にやって来る。運転手に下ろしてもらい、インターフォンをならす。

声「はい、どなた?」

杉三「杉三です。」

声「今開けるわ、新しいお弟子さん。」

ぎい、と玄関のドアをあけて、真理子がドアをあける。

杉三「こんにちは。」

真理子「ようこそいらっしゃいました。」

杉三「うつ、大丈夫ですか?」

真理子「ええ。新しいお弟子さんが来たのは、何年ぶりかしら。」

杉三「つまり、僕一人ですか?」

真理子「いえ、もう一人来てるわよ。上がってちょうだい。」

杉三「お邪魔します。」

と、真理子に案内されて、台所にいく。中年の女性が一人いる。

杉三「はじめまして、影山杉三です。よろしくお願いします。」

女性「新垣咲です。よろしく。」

二人、右手を握る。

真理子「じゃあ、材料のおさらいからいきましょうか。今日は、ライ麦パンの基本となる、ペーパーバルトブロート。」

と、いい、はかりを出してくる。

真理子「じゃあ、小麦粉の量を量って。」

と、二人にはかりと小麦粉をわたす。

杉三「僕、読み書きできないんです。だから、量れない。」

咲「いいですよ、私がお教えしますから。まず、小麦粉は、この数字とこの針が重なるまでのせてみてくれる?」

杉三は、その通りにする。

咲「そう、それが、100グラム。つぎに、ライ麦粉を、、、。」

咲は、説明しながら、一つ一つ丁寧に量っていき、パンこね機のなかに入れていく。

真理子「じゃあ、パンこね機に全部はいったから、15分ほどこねて。」

杉三「てごねじゃないんですか。」

真理子「そうよ。そんなことしてたら、誰もパン作りなんか、しなくなるわよ。」

咲「今日のパンは、サワータイクの比率が多いタイプですね。」

杉三「サワータイクはどうやって作るんです?」

真理子「なれるまでは、こちらにあるサワータイクを使ってください。もう少しなれたら教えるから。」

杉三「それじゃあ、僕が作れるようになるのは、いつなんですか?」

真理子「もっと、ずっとさきよ。これから、いろんなパンが焼けるようになってからよ。まずは、週一回いらっしゃる予定ですよね。それをずっとつづけてね。」

杉三「僕、母に食べさせたいんです。」

真理子「わかってるわよ。いつかできるようになるわよ。」

そのうちに、パンこね機から、パタパタという音。

真理子「生地はご機嫌ね。じゃあ、パンこね機をとめて、発酵させようか。」

咲は、パンこね機のスイッチを切る。

真理子「発酵は時間がかかるから、お茶でも。」

咲「はい、先生。」

数分後、テーブルに座っている杉三と、咲。

杉三「いつも機械でパンをこねるんですか?」

咲「そうよ、あれは、一流メーカーのパンこね機だから、初心者でも、しっかりしたパンができるのよ。」

杉三「ここは、小麦粉よりライ麦が多いんですか?」

咲「先生は東欧で修行していたから、黒パンが多いわね。白パンはあんまりしないで、ミルクブロートくらいかな。指導方針は、ブログに書いてあるはずだけど。」

杉三「そうなんですか。僕はあきめくらですから、ブログを読んだことがないんです。」

咲「まあ、驚いたわ。学校にいかなかったの?」

杉三「はい、ありません。」

咲「歩けないようだし、仕方なかったのかもしれないけど、自立することをめざした方がいいわよ。」

杉三「そうかもね。で、サワータイクを自分で作られたことは、ありませんか?」

咲「よした方がいいわよ、ものすごく手間がかかるし。日本では、材料がなかなかてに入らないらしいから、ものすごくお金がかかるみたいよ。」

杉三「じゃあ、先生はサワータイクを作ってはいないんですか?」

咲「どうなのかしら。なんか、聞いたところでは、個人輸入してくださっているらしいわよ。いま円高だから、安く売っているみたいだけど。」

杉三「ああ、なるほど。」

真理子「発酵できたから、授業を再開するわ。」

杉三「わかりました。」


数時間後。作ったパンを入れた紙袋をもって、杉三が介護タクシーに乗っている。

杉三「なんにも、面白くなかったなあ。」


杉三の家。

美千恵「お帰り、どうだった?いま、蘭さんも、華岡さんもいるわよ。」

杉三「うん、ありがとう。」

と、食堂にいく。

蘭「お帰り杉ちゃん。どうだった?パン作り。」

杉三「なんにも。ただ、材料を量って、機械にいれて、機械のスイッチを押したり、消したりした。」

蘭「で、どんなパンを焼いた?」

杉三「これ。」

と、紙袋をテーブルに置く。

美千恵「あら、美味しそうな黒パンじゃない、みんなで切ってたべようか。よく作ったわね。」

蘭「懐かしいパンですね、ドイツにいたころ、日常的に食べていたよ。いわゆる、田舎パンだね。」

杉三「僕は、パンこね機のスイッチを押したり消したりしただけで、なんにも関与してないよ。サワータイクだって、既製品だったよ。」

華岡「いやいや、はじめてなんだから、既製品でも十分だよ。」

杉三「僕は、スイッチを押しただけ!」

華岡「怒るな怒るな。杉ちゃんのような人は、物事への視点が違うのはよくわかる。杉ちゃん、もう少し頑張ってくれ。」

蘭「警察としての捜査は進んでる?」

華岡「いや、全然だめだよ。磯野真理子は、隠すことの名人だからね。ベーカリーをやめて、パン教室をはじめたのは、確かなんだけど。」

蘭「うつ病になったということは、事実なのか?」

華岡「ああ、それは確かだ。部下のききこみで、病院に通ったことは確かだとわかっているし。しかし、看護師の話によると、薬も飲んでいたが、病院以外の場所にもかよっていた時期があったという、証言が得られた。」

蘭「それ以外のところ?」

美千恵「カウンセリングとかかしらね。あるいは、セラピーとか。」

蘭「ああ、催眠療法みたいなものかな。」

華岡「うーん、どんな場所にいたのかは、よくわからないが、杉ちゃん、もう一度頑張ってくれ。」

杉三「はいよ。」


数日後、蘭の家

パソコンに向かって蘭はメールを打っている。

蘭「(メールを打つ音と一緒にナレーション)右城くん、いや、磯野くん、お体はいかがですか?本当に心配しているので、できるときで構わないから、連絡をください。」

と、送信をクリック。

一方、水穂は、四畳半の粗末な部屋に、煎餅布団で横になっている。スマートフォンをとってメールを打とうとするが、再び咳き込み、スマートフォンをおとしてしまう。


そのころ、真理子はある女性のもとを訪れていた。

真理子「やっぱり、離婚した方がいいと思うんです。どうでしょう?」

彼女の話を黙って聞いている、枝野という女性は、真っ黒に日焼けして、季節外れの半袖を着ている。

枝野「だから、私いったでしょ、うちらを頼ってはいけないんです。自分で決めなきゃ。」

真理子「わからないから、通っているんですが。」

枝野「それじゃあ、だめですよ。なにも変わろうとする気がなくて、ベーカリーに逃げているんじゃ、お話になりません。」

真理子「私は、ベーカリーという仕事に、誇りをもってきたんです。それではいけないんですか、」

枝野「だって、旦那さんだってもうすぐ亡くなるわけですから、ベーカリーに戻れるのを、いつまでも、まっていたら、あなたは仕事がなく、自殺か、犯罪に陥るでしょう。あなたは、社会に甘えているから、うつがなおらないんです。はやく、旦那さんのことは忘れて、新しい人生を切り開くべきです。だって、あなたは残りの人生何年あると思っているんです?時間というのは、たてばたつほど、減っていくものなんですよ!」

真理子「だったら、私はどうしたら。」

枝野「殺しなさい。あなたなら、何か思い付くでしょう。」

真理子「殺す、、、。」

枝野「そうするしか、助かるみちはないと思いますよ。」

真理子「でも私は、」

枝野「あなたのためでもあるのよ。充実した人生を送りたいと思わない?一日の大半を旦那の看病で、生き甲斐がなにもないなんて、嫌でしょ。」

真理子「確かに、そういう気持ちはありますけど。」

枝野「あなたまで、鬱になるのを見ていられないの。いい、あなたは親御さんに頼るなんて、もうできないでしょう?だから、邪魔をするものは殺しなさい。出ないと、あなたは一生、幸せにはなれない。」

真理子「鬱は、そんなに怖いんですか?」

枝野「そうよ。回りの家族だって、そのうち、施設にあずけて、楽をしたい、と考えるわ。どんなに、優しい親であっても、今の時代なら、介護なんてしたくないって、必ずそう思うものよ。他の人は、村八分という言葉の通り。他人なんて自分のことで精一杯。だから、殺しなさい。一度だけの人生よ。無駄にしないようにね。」


翌日。杉三が再び真理子の屋敷に。

再び、パンこね機の前で、ぼんやりとしている。

真理子「あら、お湯がなかったわ!急いで沸かさなきゃ。」

と、電気ポットの電源をいれると、パンこね機も電気ポットもとまってしまう。

真理子「ブレーカーがあがったのね、私、入れ直してくる。」

と、分電盤のある、隣の部屋にいく。

杉三「あっ!」

咲「どうしたの。」

杉三「いま後のほうで、誰かが咳をした。」

と、うしろを振り向く。前回はきがつかなかったが、裏口のドアがあった。

咲「だめですよ!裏口のドアをあけては!」

杉三「え、なんでですか?」

咲「わかるじゃないですか。人の家を訪問しているんですから、あちこち覗いてまわるのは、よくないんですよ。」

杉三「僕の友達は、ヨーロッパにに留学していましたが、トイレはここだとか、最初にはいったら、家中を案内して回るそうですよ。」

咲「ハウスツアーは、しませんよ。ここは、日本なんですから。」

しかし、今度はさらに強い咳の音。

杉三「やっぱり、誰かいるんですね!」

咲「裏にはお年寄りがすんでいますから、それが聞こえてくるだけですよ。気にしすぎですよ。杉三さんは。」

声「咲さん、ちょっと来てくれる?」

咲「私いってきます。」

と、分電盤のほうへいってしまう。杉三は、裏口をみて、

杉三「必ず助けてあげるから、もう少し待っててね!」

と、ささやく。

その直後、パンこね機が動き出し、真理子と、咲が戻ってくる。パンこね機の音が鳴り出すと、咳の音は消えた。パン教室は、何事もなく終了する。

杉三「今日も、ありがとうございました。また、次回もよろしくです。」

と、一礼し、屋敷を出ていく。

走る介護タクシーのなか、杉三は後ろを振り向く。あの、小さな明かりがみあたらない。


杉三の家。

華岡「どうだった?今日も収穫はあったか?」

杉三「きっと、蘭の言う通りだと思いました。」

蘭「つまり、右城くん、いや、磯野君は、監禁されていると?」

杉三「たぶんきっとそう。なぜなら、あの屋敷の一番小さい窓が、今日、ブレーカーがなおっても、明かりがついていなかったんです。いつもなら、明かりがついているんですが。それに、パンこね機がとまったとき、咳の音がしました。」

蘭「今時、労咳にかかるのが、よほどはずかしいのかな。」

華岡「いや、労咳だけが、喀血する病気ではないよ、蘭。」

蘭「え?」

華岡「うちの部下に、呼吸器内科へいってもらい、聞いてきてもらったんだ。もちろん、労咳が代表格なんだけど、肺だけではなく、気管支拡張症でも、喀血することが、あるらしい。」

蘭「それは、どんな時に起こるんだ?」

華岡「ああ、アレルギーとか、リウマチとか。原因はいろいろあるらしい。」

杉三「わかった!わかった!」

蘭「どうしたの、杉ちゃん。」

杉三「凶器だよ。」

蘭「な、なにめちゃくちゃなことをいうの!こんな時に凶器なんて。」

杉三「粉だ!正確にいえば、ライ麦粉だ!それを大量にいれて、わざとアレルギーにして、殺すつもりなんだよ!」

蘭「杉ちゃんしっかり!変な戯れ言は言わないの!」

華岡「いや、その説が、一番真実に近いぞ。アレルギーから気管支拡張症を引き起こし、喀血して死なせれば、病死とされるから、保険金はてにはいる!杉ちゃん、よくやってくれた!ありがとう!」

と、靴もはかずに家を飛び出してしまう。

蘭「杉ちゃん、君は偉いのかバカなのか、よくわからないよ。」


真理子の屋敷

真理子が、一番奥の小さい部屋に入る。

真理子「よくも邪魔してくれたわね。お陰で、あの男に知られてしまうところだったわ。」

水穂は、起き上がろうとするが、力がなかった。

真理子「さっさといっちゃえばいいのよ。あんたなんて、あたしを愛してはいないでしょ。」

水穂は首を横に振る。

水穂「そんなことないよ。」

真理子「気持ちはあっても、無理なときはあるのよ!二度とあんなことはしないでね。」

と、部屋を出ていく。

すると、インターフォンがなり、

真理子「はいはい、どなたですか?」

と、怒りに任せてドアをあけると、

華岡「警察です。」

真理子「なんですか?」

華岡「少しお話を伺いたいのですが。」

真理子「なんですか、警察の方に話すことなんかありませんよ。」

華岡「いや、あなたのご主人についてです。」

真理子「主人は東京にいっていると、いったはずですが?」

華岡「いや、それはありませんね、あなたは奥の間に、ご主人を監禁している。ちがいますか?」

真理子「勝手に推理しないでもらえますか。」

華岡「杉三さんからききましたよ。あなたが、奥の間に、ご主人をとじこめているとね。伊能蘭さんからの証言もとれています。ご主人が彼と同級生で、クラス会にいったと。」

真理子「クラス会!いつ?」

咲「私が、いかせてあげたのです。最期に、友人たちの顔を見てから逝きたいと、いっていたから。私はどうしても、彼がかわいそうで。」

真理子「なんで私だけがいつも悪人にならなきゃいけないのよ!」

と、ゆかに崩れ落ちる。

真理子「本人を支えてあげようと、偉い人はいうわ。でも、家族の苦しみについては、なにも言われないのね!家族だってくるしいのに、なんで目を向けてくれないのかしら。」

華岡「真理子さん。」

真理子「はい。」

華岡「署まで、ご同行願います。」

真理子は静かに立ち上がり、無言のまま、華岡と一緒に家を出る。奥の間からは、激しい咳の音。

その数時間後、蘭と杉三がテレビを見ていると、監禁容疑で、真理子が逮捕されたというニュースが流れる。

杉三「捕まったんだね、真理子さん。映像でわかるよ。」

蘭「右城くんは、どうしているのだろう、、、。」

と、スマートフォンをダイヤルする。

蘭「あ、華岡。磯野真理子は捕まえたけど、磯野水穂はどうしてる?ああ、そうか。咲さんのところに。でも、なんで大きな病院にいかないんだろう。え?あそうか。じゃあ、ちょっと咲さんとこへつれていってよ。もう一度、彼にあわせてくれ。」

声「ああ、わかったよ。すぐむかえにいく。杉ちゃんもいくだろ?」

蘭「きかなくても、いきたがるよ。」

声「じゃあ、しばらくまっててくれ。」


咲のアパート。

咲「私も、罪になるのでしょうか。」

華岡「いやいや、おかげで水穂さんを殺害に至らせるまではいかなかったんですから。」

咲「はい、水穂さんがあまりにもかわいそうで。真理子さんは、水穂さんに何も食べさせない日もありましたから、私はこっそりパンを渡したりしておりました。」

杉三「天からのパン、みたいなものかな。」

華岡「杉ちゃん、いいこと言うね。もう少し、咲さんの話を聞かせてね。」

杉三「あ、ごめん。」

咲「真理子さんは、水穂さんに愛されていないといっていましたが、彼女のほうが愛していなかったと思うんです。クリスチャンの私にはできることではありません。」

杉三「そうか、クリスチャンだったから、助けてあげようと思ったんだ。」

華岡「で、真理子さんが、御主人を殺害しようと思ったのは、いつあたりでしょうか。推測でいいので。」

咲「私が教室に通い始めたのは、二、三年前ですが、そのころから、真理子さんは、サワータイクでパンを作っていました。」


一方、真理子は警察署で、華岡の部下のものに取り調べを受けている。

真理子「あの人と結婚しようと思ったのは、あの人がコンクールに出場する一月前でした。」

部下「結婚を申し込んだ理由は?あなた、婿取りだったでしょ。」

真理子「それは、親がそういっていて、多分私を嫁に出したくはないと思っていたんでしょう。私は、あの家からは、どうしても逃げたかったんです。」

部下「逃げたかったとは?」

真理子「はい。私の家は、父も母もものすごく厳しい人たちだったから、私は二人に仕える人形のようなものだったんです。思春期になって、それが分かった時に、どうしてもこのうちから出ていこうと、心に誓いました。何回か縁談を持ち込まれてもすべて断りました。そうなったら、また、窒息してしまいますから。かならず、両親と暮らすことになる。」

部下「で、水穂さんと知り合ったのは、どんな時でしたか?」

真理子「水穂さんとは、インターネットで知り合いました。もちろん彼も演奏活動で忙しくて、時たまにしかメールのお返事はありませんでしたが、うちの父や母にはないところをたくさん持っていて、私は、一緒になりたいと思いました。」

部下「で、結婚したわけですね。でも、どうして、殺害しようと思ったんです?」

真理子「結婚してしばらくはうまくきました。でも、彼が、日本での演奏活動をやめて、海外に留学したいと言い出してから、それは始まりました。彼にとっても、留学するチャンスは一度しかなかったんです。だから、文字通り火を吹くような激しい練習をしていたんです。語学もあまり上手ではなかったので、ドイツ語の勉強も必死でやっていました。そして、念願のケルン音楽大学へ合格することはできたんですが、、、。」

部下「ああ、単身でドイツに行ったのですね。」

真理子「はい、、、。でも、問題はそれだけじゃなかった。」

部下「それだけじゃなかったとは?」

真理子「はい、、、ドイツの食べ物が一切のどを通らなかったんです。食物アレルギーというもので、、、。アレルギーなんて、子供のものかと思っていたんですけけど、こんな年になっても発症するんですね。彼は、一度大学でアナフィラキシーショックまでなって、大学で大問題になったこともありました。そして、酷い喘息に見舞われるようになって。とても、大学に出るどころではなく、退学して、家に帰ってきたんですが、、、。もう、無気力になって、働くこともできなくなりました。私も働こうとは思ったんですが、彼が自殺未遂をしないように、家にいなくてはならないとお医者さんに言われてしまって。そういうわけで、家でパン教室をはじめることにしたんです。でも、あの人がああやって生きる屍のような生活を送るようになって、私はやっぱり、親に言われた通りの自分にしかなれないのかな、と思うようになりました。虐待を受けて育つと、似たような人に関心を持ってしまうって、新聞に書いてあったんです。だから、それを確認するため、精神科にも通うようになりました。でも、薬だけもらうだけでは、何もならなかったので、カウンセリングに行き始めたんです。」


咲のアパート

咲「真理子さんが、カウンセリングに通うようになってから、水穂さんの病状は本当に悪くなりました。本当に岩から転げ落ちそうなくらいでした。」

杉三「カウンセリングも、ピンからキリまでありますしね。新宗教に直結するものもありますし。」

咲「ええ、それしか、考えられなったのだと思います。それに、相次いでお怪我をされて、自分に自信がなくなってもいましたから。」

杉三「では、やっぱり、圧迫骨折をされたんですか。」

咲「ええ。それは事実です。でも、それによって先生は、二度と仕事には復帰できなくなりました。あれほど、パン作りに情熱をかけていた先生の生きがいがみんななくなって。水穂さんが倒れたときは、きっと、それを受け入れられなかったのだと思います。そこから、保険金に走ってしまったのでしょう。」

杉三「そうですね、、、水穂さんに必要とされている、と、解釈できれば、こんな事件は起きなかったのではないでしょうか。」

咲「本当に、人間って、一番大事なものに、気が付かないんですね。」

二人が話している間、蘭は、こっそり居間を出る。短い廊下の突き当たりに、粗末なドア。ドアノブに手をかけて、開けようとすると、ドアノブは外れてしまう。そして、自動的にドアもあいてしまった。

蘭「磯野くん。」

聞こえて来るのは咳の音ばかり。布団はおびただしい血液で朱に染まっている。

蘭「どこを見てるんだ?」

小さな窓に、取り壊される予定の屋敷がみえる。

蘭「そうだよな。帰りたいよな。」

水穂は、小さな窓から外を眺めていたのであった。

水穂「そんなことないよ。」

蘭「どうして?」

水穂「このほうがいい。誰かを勇気つける演奏家になりたいとほざいていたけど、妻一人救えなかったんだから。」

蘭「それは、君のせいじゃないよ。あの人が勝手にやっただけだろ。」

水穂「ううん、しかたないの。だからもう、これでおしまい。」

蘭「君だってまだ、四十六じゃないか。まだまだ可能性はあるよ。体を治してさ、また、大学に戻るとか、できるんじゃないか?世間が君を放置するはずはないよ。」

水穂「そんなことないさ。学校で成功できなければ、日本の社会では終わりだよ。」

といい、咳をする。また少し血が、彼の手を汚した。

蘭「どうして、、、。どうしてそんなに自分の命を粗末にするんだよ。もう少し、誰かがいるってことを考えてくれ。僕は、君がいなくなってしまったら悲しい。どうか気が付いてほしい。そうすれば、君はたすかるし、新しいことだってできる。きっと、君の奥さんは、悪いことをして罰を受けるだろうから、そこでしっかり考え治せばいいんだよ。君は被害者だろ、本来なら、堂々としていい立場なんだ。それなのに、自ら逝こうとするなんて、どうしてそうなるんだか、僕にはわからない。」

と、誰かかやってくる音がする。

杉三「蘭。」

蘭「どうしたの?」

杉三「いま、真理子さんが自白したって。」

華岡「間もなく、カウンセラーの枝野という女性も殺人補助で逮捕する方針です。真理子は、枝野のもとに週に一度通っておりました。真理子に水穂さんを殺せと指示したのは、枝野だったそうです。」

水穂「そうですか。これで、こころおきなくあの世にいけます。」

蘭「そんなこと、言わないで。」

華岡「水穂さん、自殺はしてはならない。早くお体を何とかしなければ。」

水穂「いえ、もう、帰るところもありませんから。自分の両親も早くなくなりましたし。それに、あの家が取り壊されたら、どこにも行くところがありません。ここで、死ねたら本望です。」

華岡「警察の仕事は、自殺を助けるということは含まれていませんし、私たちが自殺を補助したら、警察など、つぶれてしまいます。どこか、アパートを紹介したりしますから、生きてください。」

杉三「そうだ、じゃあ、こうしたら?」


富士市大渕にある、たたら製鉄所。懍が一人で書類を書いている。と、突然電話がなる。

懍「はい、青柳です。ああ、杉三さん。どうしたんですか?」

杉三「僕の友達なんだけど、もう、家族は亡くなっていて、居場所がない人がいるんだ。引き取ってもらえませんか。」

懍「構いませんよ。一人住み込みの子が帰ったから。」

杉三「じゃあお願いできますか?」

懍「構いません。明日辺りでも、つれてきてください。」


再び咲のアパート

杉三「OKだよ。」

蘭「大丈夫かな。青柳教授のもとへ送るなんて。迷惑にならないだろうか。」

杉三「いいんじゃないの。DVの被害にあった人も引き取ってるんだから。」

蘭「でも、たたら製鉄なんか、出来ないじゃないか。」

杉三「たたら製鉄をするかしないかは別物だよ。それに、構いませんよといったよ。」

蘭「心配だな。」

蘭は、困った顔で、手を汚すことしか出来ない水穂を見つめた。

杉三「とりあえず、明日辺りに連れてきてって。」

咲「いいじゃないですか。私はその、青柳というかたは、存じ上げませんか、弱い人を引き取って、たたら製鉄をさせるなんて、とても素晴らしい方だと思います。それに、森の中なら、空気がいいし、美味しいものはあるし、 お体にもよいのではないかと。」

華岡「まあ、とりあえず、いってみましょう。明日。」


翌日、華岡は水穂を風呂にいれてやり、口の回りにある、赤い血をすべて拭き取った。杉三たちと一緒に、介護タクシーにのせてやり、大渕にむかった。咲は、それを見送った。

30分ほどのり、たたら製鉄所とかかれている看板のある建物についた。

杉三の案内で、全員、応接室についた。

ドアを叩くと、

声「どうぞお入りください。」

という声と同時にドアがあいて、懍がまっていた。

懍「はじめまして。このたたら製鉄所の代表である青柳です。どうぞおかけください。」

杉三「僕の友達の磯野水穂さんです。」

水穂「磯野水穂です。」

懍「お体がお悪いんですね。僕も、テレビのニュースをみて、事件の事は知っておりました。あなたが受けた心の傷は、計り知れないでしょう。」

水穂「なかなか、生きようとする気力もわいてきません。もう死ぬのが本望だと。」

懍「それはいけませんね。ここは、ついのすみかではありませんから。お入りする人には必ずいいます。ここをついのすみかには、してはいけないと。」

水穂「じゃあ、どうしたら、、、。どうやって、いきていけば。」

懍「まず、お体を治して、いまやりたいことを見つけて、新しい世界に入りましょう。病院も近くにありますし。この製鉄所に居住する人たちは、何かしら体や心が傷ついた人たちです。その人たちを、癒す場所というのが、いまの日本では、一番足りないのは、よく知っていますよ。一緒に癒していきましょう。全力で支えます。」

水穂「でも、僕は、、、。誰にも、必要とされたことはありません。最愛の妻でさえ、僕は支えられなかったのです。そんな罪な人を、癒すなんて。」

杉三「でも、あなたは生きなければだめです、奥さんが、刑期を終えて帰ってきたとき、迎えにいかなければ。」

水穂は、首を垂れて、顔をおおってなき、再び咳き込む。杉三は、ちり紙を渡そうとするが、懍はそれを止める。

水穂は、左手で口を押さえ、テーブルのうえにあるちり紙で口回りをふく。そして涙を流しながら、口回りの赤い血をすべて拭き取る。

水穂「お願いします。」

杉三「よかった、よかった!救えたんだから!自分で自分を救出することができたから!」

全員、安堵のため息をつく。

杉三「蘭に電話をかけてもらえませんか?」

懍「いいですよ。」

と、固定電話のダイヤルを回し、受話器を杉三に手渡す。

杉三「蘭、水穂さん大淵で暮らすんだって。本当に、本当によかったよ。」

蘭「そうか。じゃあ咲さんに伝えとくよ。きっと、楽になってくれると思うよ。」

杉三「ありがとうな。」

と、電話を切る。

咲は、水穂をかくまっていた、小さな部屋を掃除していた。彼の吐いた、血の汚れも丁寧にふき取った。遠くで鳥が鳴いていた。咲は、掃除の手を止め、静かに目を閉じてそれを聞いていたのだった。



それからしばらく、テレビは、夫を殺害しようとした妻の特集が、盛んに報じられたが、一月も流すと、皆忘れてしまった。


森のなかの寮で、水穂は療養していた。この生活は、時間に束縛もなく、静かに過ごすことができた。

ウグイスがなき交わすなか、彼はピアノ曲を盛んに書いていた。そのタイトルは

Don't look back

最後に磯野水穂と署名し、ペンを置いた。

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