第二章 初恋の華

第32話 『リスタート』

鏡の中の『私』は緊張の滲んだ顔をしていた。

何度目になるだろうか。

制服の襟を整え、リボンに触れ、ゆっくりと深呼吸して目を閉じる。


無心になるべく、心を収めようと荒立つ心臓を抑えるが、どうしようもないほどに鼓動が五月蝿い。

だめだ、これじゃ。


目を開け、自分の姿に向きなおる。

こうして真正面から自分を見つめ返すのはいつぶりのことだろうか。

ずっと、真っ直ぐに自分を見ることができなかった。

いや、見ようとしなかっただけだ。

ずっと『私』は自分自身から逃げ続けていた。


『私』


つまり、この世界における『桃原 彩華』という一人の少女から。

彼女は強かった。負けなかった。


負けてしまったのは『桃原 彩華』ではなく本当の『私』自身だ。

だから、私は歩かなければいけない。

彼女が歩むはずだった、いや。


吐息し、歯を噛みしめる。

違う。そうじゃない。

大きく息を吸い込み、ネガディブになろうとする自分の弱さを虚しさともに外界へと吐き出した。


『私』が歩む道を進むのだ。

これから。また、始めるんだ。


「あや。朝ごはんできたよ」


大好きな声に振り返ると、馴染みのある顔がドアからを見ていた。

相変わらず人を睨み殺せるんじゃないかってぐらいの三白眼と私を案じてくれているのが分かる優しげな笑顔。

笑えば、お兄ちゃんはお人好しな優しさの面がやや上に出る。


「緊張してるんだろ? 大丈夫か?」


その優しい問いかけに私は笑顔で答えた。


「全然へーき! だって、千鶴もいるし、他にも知ってる子だってたくさんいるから大丈夫!」


「なら、いいけど。無理のないようにな。何かあったら連絡しろよ?」


「うん! わかってる!」


お兄ちゃんは安堵したように肩を下げた。

ひょっとしたら、私よりもお兄ちゃんの方が緊張してるのかもしれない。

って、それはないか。


どう考えても、私の緊張の方が勝っている。

早朝に起きてどうしても寝付けなかったし、目覚めてから指先まで震えが止まらない。


お兄ちゃんが黙ってベットの端に腰掛けて私の手を引いた。

お兄ちゃんの表情がやけに真剣だ。

真面目な話でもあるのかと思って、私はごくりと息を呑む。


「彩華。ちょっと座れ」


「う、うん?」


お兄ちゃんに引っ張られて私はベットの上に座り込んだ。

お兄ちゃんが大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出し、なにか決断を下すような神妙な顔をする。


「実はな。俺......」


「う、うん」


「ホモなんだ」


「え......?」


頭の中が真っ白になった。

ショックどころじゃない。

いや、いやいやいやいやいや。

知ってたよ? お兄ちゃんが異性との恋愛感情に疎いってことは。


だけど、だけどだよ?

元のキャラからだんだんブレてきて最終的にこんなんあり!?

私は口をぽかんと開けて惚けた。

斜め前にあった鏡に見るからに馬鹿そうな顔が映ってたから間違いない。


それがおかしかったのか、お兄ちゃんがぶっと噴き出した。

私は混乱したまま爆笑するお兄ちゃんをおろおろと見つめる。


「今日なーんの日だ」


「え、えっと4月1日だよね? ......って、まさかお兄ちゃんエイプリルフール!? 嘘ついたの!?」


「大成功ってやつだな」


目を白黒させていた私はお兄ちゃんの計略にはまったことに気づき、非難の眼差しを向けるがお兄ちゃんは気にせずに笑い続け、涙目になっている。

それでも睨みをきかせていると、お兄ちゃんは、ニヤリとしてやったりみたいな顔をした。うざい。


「でも、これで緊張ほぐれたろ?」


ずるい。そんな風に笑われたら、私までつられてしまう。

二人で笑って、お母さんの声で朝食を食べに一階へと降りる。


「あら、制服よく似合ってるじゃない。パパも見たがってたから、帰りに寄って行ってあげれば?」


「うん! お母さん、今日も帰るの遅くなりそう?」


「もうすぐ参観会があるからね。準備でいろいろと忙しくって」


お母さんは教師の仕事を辞めて、保育園の先生になった。

理由は聞かなくても分かってしまう。

だけど、お母さんもお母さんなりに毎日を充実させているようだから私が心配する必要はない、と思っている。


お父さんとは今もよく分からない関係のままだけど、つい最近、風華からお父さんがお母さんをデートに誘うために準備しているという報告をもらった。着々と物事は良いように進んできている。大丈夫。


「9時ぐらいには迎えいけると思うけど、そのまま泊まってく?」


「ううん。明日も学校あるし、ちゃんと帰るよ」


今日まだ学校に行ってすらないのに何言ってんだ、と自分で自分に苦笑する。

お兄ちゃんと席につきながら、朝食を見下ろした。


温かいできたてのご飯がいつも通りずらりと並んでいた。

幸せな光景だ。懐かしい光景でもある。心が穏やかになる、優しい家族の温かい朝の日常。


「っ......」


視界が揺らぎかけて、慌てて取り払うように潤んだ目を擦る。

それでも、喉の奥からこみ上げてくる激情の渦は止まらない。


「どうしたの、彩華!?」


「あや!? まさかどこか痛いところでもあるのか!?」


お兄ちゃんの顔が歪んで見える。

まるで、度の合わない眼鏡をはめているみたいだ。

微妙な比喩の仕方に、自分でも思わず微笑してしまう。嗚咽と笑いが混じり合う。

それでも、否定だけは伝えようと必死で喉を震わせた。


「ち、ちがうの......っ、た、ただ嬉しくて、こんな風にまた、家族で朝ごはんを食べれてるのが幸せで、っ」


嗚咽まじりに言葉を吐き出す。

だって、もう絶対ないと思ってたから。

壊れて、もう元どおりにならないと思ってたのに、なのに。


「私、たち、もどれるよね? 前みたく、みんなで過ごしたときとか、風華も、みんなで一緒にご飯食べれるよね?」


また、みんなで。

希望が溢れて止まない。

ずっとずっと胸の奥で秘められていたものが唐突に破裂した。


「できるよ。また、みんなで一緒に」


お兄ちゃんの大きな手が優しくリズムを刻んで私の背中を叩く。

お母さんの掌がそっと伸びてきて、私の頭の上を撫でていった。

お母さんに撫でられるのなんて何年ぶりのことだろうか。


「うん......」


気恥ずかしくって思わず俯く。

幸せな日常がこうしてまた少し、今日という変哲もない日々に溶け込んで消えていった。


「だから、あやは真っ直ぐ前だけ向いてればいい。後ろには俺がついてる。母さんも、父さんも、風華も、雪華だって」


私は幸せ者だ。

大事な家族に恵まれて、幸せを味わって、みんなに助けられて。

お兄ちゃんが言葉を紡ぐ。


「今を見て、現実いまと戦え。それだけでいいんだよ」


お兄ちゃんがそっとテーブルの上になにかを置いた。

私は涙をぬぐってそれを見る。

お兄ちゃんが優しい声で言う。


「高等部のパンフレットだ。いろいろなとこから採取してきたからな? 今からいろいろと考えてしっかり勉強するんだぞ」


こんなオチだと思ったよ!

そうだよね、これコメディだもんね!?


私は心の中で理解不能な絶叫を繰り広げ、山積みにされたパンフレットを見て、頰を引きつらせた。

振り返ると、お兄ちゃんがにこやかな表情を浮かべ笑っていた。







「どう考えてもひどいと思うんだけど!」


パンフレットの山を部屋に放り込み、私は怒りながら学校への道を歩いていた。

桜が両脇にずらりと並ぶ通称『桜道』の歩道をひたすら真っ直ぐ歩けば私が通う公立の中学校が目の前に見えてくる。


桜が舞う道路はすごく神秘的だし、時間が早朝でまだ登校している生徒も少ないだから独り占めできてハッピーなんだけど。

なんなんだろうか。私の背後を歩いている黒髪の貞子てき少女は。


呪いでもかけたいのか? 私に。

いやいや、初対面でそれはない。

しかも私はただの通行人Aだ。そんな風評被害に会うわけがない。

ただの思いすぎだ、思いすぎ。


「桃原......彩華?」


はい、死んだ私。

なんでこの人、私の名前知ってるの!?

若干頰を引きつらせて振り返る。

貞子みたいな女の子が白い指先で無遠慮に私をびしっと指した。


「桃原彩華っ!」


「は、はいぃぃ!?」


鋭い声で呼ばれて私は飛び上がる。

なんなんだ、この人。

なんなんだ、この人はっ!


貞子な少女が私をじっと見つめてきた。

私に近寄り、いろいろな角度に首をもたげながら観察してくる。


「美しい茶髪、すらりとした体躯。愛らしく繊細な顔立ち。初雪のような肌。ああ、やはり間違いない。ボクの目に狂いはなかった」


ふっと前髪を掻き上げて、目を端から星が流れそうなほどかっこつけてウインクする貞子な少女。厨二病なのかな、この人。

頭のおかしい人だってことには間違いないと思うけど。


「ああ、申し遅れました。ボクは文芸部の部長を務めている木戸きどののかといいます。以後、お見知りおきを」


ボクって言ってるけどこの人、女の人だよね?

身長は猫背のせいで低いものの、割りかし端正な顔立ちをしている。

いわゆる、ボクっ娘ってやつか。


特徴が肩までのびたボサボサの黒髪と、前髪で隠された両目のせいで、その可愛さもむちゃくちゃになってるけど。

素材としてはなかなか磨きがいがある素材のような気がする。


「桃原さんの噂はつねづねお聞きしていますよ。転校してきてくださるのを楽しみに待っておりました。分からないことがあったらなんでもボクに聞いてください」


にこり、と唇を三日月に歪めて優雅に一礼する木戸さん。

事前に私が転校してくることは知っていたらしい。

おい、千鶴。情報だだ漏れじゃないか。


「では、ボクは朝の仕事があるので失礼します」


ぽかーんとする私を置き去りにして木戸さんは学校の方へと猛ダッシュしていった。

ど早い。本当になんだったんだあの人。

嵐でも過ぎ去ったかのような感覚だ。


「呪い、かけられてないよね?」


一応、体を軽くはたいておく。

塩とか学校にないかな......。

お清めしてもらうか考えたほうがいいかもしれない。


関係のない方向へ心配を膨らませながら、私は学校へ到着した。

前の高校より施設は充実していないが、草花が綺麗で園芸部の活動が活発なことがうかがえる。


「そういえば、木戸さんは文芸部だとか言ってたような......」


文芸部ってことは本を書いたりするんだろうか。あとポエムとか、ポップとか。

本というと脳裏に浮かぶのは凛先輩なんだけど、あの物静かな人と木戸さんが同類だとはとてもじゃないが思えない。


「部活に入るなら、さすがに運動部は無理だろうし文化部だろうなあ」


ここの高校はたしか部活の多さで有名だった気がする。

千鶴から聞いたことだが、部員が2人しかいない部活もあるそうだ。


「文芸部は絶対ごめんだけど園芸部とかならいいかも」


充実してそうだし、受験勉強の心の拠り所になりそうだ。

花は勉強をするときに近くに置いておくと集中しやすくなる、とどこかで聞いたことがある気がする。

と、そんなことを考えながら私は春の日差しの眩しさに目を細めながら空を見上げる。


青い澄み切った綺麗な空だ。

雲ひとつない、青々とした空間。

そのまま視線が校舎の屋上を向き、私は驚いて目を見張った。


屋上の白い、細い柵に人が座っている。

どこか思いつめたような遠い表情をして。

虚ろな瞳がなにか決意したかのようにふっと軽くなり、その人が立ち上がった。


「ちょっ、嘘でしょ!?」


頭が真っ白になる。

とにかく、止めなきゃとだけ思った。

校舎に入り、訳も分からないまま自分でもどうしたいか分からないままひたすらに階段を駆け上り、屋上に出る。


「やめなさあああああいっ!」


行動するよりも先に口が出た。

屋上のフェンスに立っていた人影が驚いたようにこちらを向く。


気強そうな顔立ちに、黒眼鏡をかけたつり目がちで勝気な瞳。

真面目そうな雰囲気を抱きつつも、声を震わせながら必死に叫ぶ。


「い、命を粗末にするようなことは絶対にだめ! だから、やめて!」


「は? なに言って」


「自殺とか変なこと考えちゃだめなんだから! そ、そんなことしないでよ! 生きたくても生きられない人だっているんだよ!?」


なに言ってんだ、私は。

頭の中で混乱が収まりきらずぐるぐると渦巻き続けている。

暑い、と感じて全身が火照っていることに気づく。


「そういうつもりじゃ」


「は、早く降りて!」


「分かったよ。分かりましたよ。降りればいいんだろ」


男の子はため息をついてフェンスから屋上の白いタイルへ降り立った。

運動部なのかもしれない。

やけに日焼けしていて、健康的な小麦色の肌をしている。


「ほらこれで満足か? とっとと帰れ」


「ま、満足してないし!」


「は?」


違う。だって違うだろう。

そういうことじゃない。

違う、違う、絶対に違う。


「ま、また私がいなくなったら懲りずに同じことしようとするんでしょ!? 騙されないから! 自殺なんて許さないから!」


「だーかーら。違うっってんだろ。なんなんだよ、お前は」


男の子がまたため息を吐きながら首裏を掻いて面倒くさそうに言った。

自己紹介を求められてるんだろうか。


「桃原彩華。今日からこの学校に通うことになった転入生。どうぞよろしく」


「誰が自己紹介しろっったよ!? もーいーわ、面倒くさいやつだお前」


男の子が眼鏡をくいっと持ち上げた。

おお、秀才くんがよくしてるやつですね?

というか、自己紹介しろってことじゃなかったのか。なんなんだ分かりづらい。


「ね、君の言葉の理解がよくできないんだけど。自分から言っといて何様なの?」


「お前こそ何様なんだよ!? 面倒くせえ女だな!」


「え、だから桃原 彩」


「それは聞いたわ! 二度同じこと言われなくても分かる! 黙ってろ!」


渋々、私は男の子の言う通りに黙り込む。

男の子は私に背を向けて歩き、屋上のフェンスに寄りかかった。

そのまま空を見上げる。


「恋する男子が思いに耽って、空をみあげて悩んでいる件について」


「そんなんじゃねーよ! っーか悩んでたのは今日の昼飯を米にするかパンにするかだからな! 恋愛てきあれこれじゃねえ!」


「おお、否定するということはやはり?」


「うぜえええええええええ」


「あ、私はパンで大丈夫だよー」


「なに、奢られる立場に居座ろうとしてんの!? 奢らねぇよ!?」


「......」


「おい、なぜ急に黙る」


「え? だって黙ってろって言ったから」


「......」


私はいじりがいのある男の子をお手玉のごとくもてあそび楽しむ。

これぐらいいじられてくれると本当にいじる側は楽しいものだ。

最近、風華にいやがらせでスタ連しても無反応でドライに返されてツライ。


「というわけで君の名前を教えて!」


「なにがというわけで、だよ。誰が教えるかバーカ」


「キャアアアアア、助けて誰かー! このオオカミが私をもごっ」


「黙れ! 言うから黙れ!」


口を塞がれて私はもごもご言う。

男の子が大きく三度目のため息を吐いて小さな声で名乗った。


海橋かいばし そら


私は瞠目した。

それが聞いたことのある名前だったから。

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