第20話 『千鶴のモノローグ』

 幼いころから、音楽が大好きだった。

ママはピアノが上手でよく弾いて聞かせてくれた。

ピアノ教室にも通って、私は毎日ピアノを弾いた。

ときどき、パパの出るコンサートにも連れて行ってもらった。


 パパはエレキギターが物凄く得意でバンドも組んでいた。

ママの弾く静かな音楽とは違うけれど、爆発的で世界に没頭させてくれるような音楽が私は好きだった。 もちろん、ママのピアノも好き。

 だけど、パパの奏でる音たちの方が私は好きだった。 嫌なことを全部ぶっ飛ばしてくれるような強烈な音達。


 ママはパパがバンドを続けるって言ったとき、すごく反対した。

ママはピアノの道を諦めていたから、余計に苛立っていたのかもしれない。


「趣味にばかり時間を費やして千鶴に影響したらどうするの!?」


「それとこれとは関係ないだろ!」


「関係あるわよ、大体あなたは——」


 そして、ママとパパは離婚した。

私が八歳になったばかりの時だった。

私はママに引き取られることになって、パパが家を出て行った。


 それから、しばらく学校に行けなくなった。

家に引きこもって、ずっとピアノ以外のことをしていた。

パパがいなくなってから、私はピアノが弾けなくなっていた。

ピアノの鍵盤に触れるだけで気持ち悪くなる、今では考えられないほどにピアノが怖かった。


 ママもそれほど追求しようとはしてこなかった。

ただ、ママの冷たい視線と溜め息を吐く様子を見るたびに身体が緊張で強張った。


 私が学校に行かなくっても何も言わずに仕事をしていた。

ママの仕事は外国の本を日本語に直す翻訳の仕事だから、ほとんど家で作業することが多かった。


 だから、一人でいる時間はそれほど長くなくって。

ママの仕事をしている部屋で買ってもらったばかりの裁縫道具を広げて色んなことに挑戦した。


 夢中になれるピアノができない分、穴埋めになる何かを見つけないとっていう使命感があった。

外に出るのは裁縫の糸を買いにいくときぐらいだった。

その日の出来事は、偶然が重なりあって起きたことだったんだと思う。


 買い物を終えた帰り際、公園の傍を通りかかったときだった。

サッカーボールが足元に転がってきて反射的に拾ってしまう。

いつもなら拾うはずがないのに、ぼんやりとしていたから、ついつい手に取ってしまったのだと思う。


「あざーす、って君……」


「あ——」


 サッカーボールの持ち主であろう男の子と目が合った。

クラスの中では騒がしいタイプの子で、私が苦手とするタイプだった。


「あー、不登校の子だ!」


 その子は思い出したように私を指さして大声で言った。

不登校。 その言葉がグサリと心に突き刺さった。


 私は、私は、そんなつもりじゃ——。


 そんな理由で学校を休んでるわけじゃない、そう言い返そうとした時だった。


「どうしたんだよ、まさ


「いや、うちのクラスの不登校のやつがさ」


「へー、不登校なんだ、この子が?」


 一緒にサッカーをしていた男の子たちがぞろぞろと集まり始めた。

私は困惑して後ずさる。 そのまま、弾かれたように逃げ出した。


「あ! あいつ逃げた」


「追いかけてみようぜ、面白そうだし」


「いいなそれ。よーし、不登校児を捕まえろー!」


「ちょ、やめなよ」


「あぁ!? なんだよ、デブ。うっせぇな」


 背後から、たくさんの声が聞こえた。

聞きたくない、何も聞こえない、音なんで大っ嫌いだ。

足音が迫ってくる。 速い。 追いつかれてしまうかもしれない。


「ッ」


 路地の入り組んだ方へ。 人目につかないような場所に。

逃げ隠れることができる場所に。 私の居場所に。


「だれ、か」


——助けて。


 紡ごうとした言葉は口を塞がれたことによって遮られた。

強引に繋がれた手が体を持っていく。

もがきながら私の体を引き寄せた誰かを滲む視界の端に見る。

見覚えのある顔だった。


 整った人形のような顔立ちに、綺麗な茶髪の女の子。


「彩華ちゃん……?」


「しー、静かに」


 彩は、血色のいい唇に指をあててそう言った。

路地裏の隅、人なんて入れないんじゃないかって思えるぐらい狭い空間の室外機に隠れた場所で私の心臓は大きく弾けていた。


 少しして、雑音と足音が入り混じって聞こえてくる。


「ちっ、見失ったか」

「つまんねえの」

「帰ろーぜ、もう飽きたし」


 足音が遠ざかっていく。

先に路地裏に出た彩が「いいよ」と合図した。

私はそっと立ち上がって彩の元へむかう。


 その途中に、こけた。 

石だったのか、それともごみだったのか。 ともかく、躓いた。

躓いた私を見て彩は少しも笑わずに手だけを差し出した。

私はその手を掴んで薄暗い空間から抜け出した。




 桃原ももはら 彩華あやか

彼女は昔から有名人だった。

我儘で、自分主義で、幼稚園にいた頃から私は彼女を恐れていた。

幼稚園にいた頃はあまり関わったことがなかった気がする。


 彩は昔は近付きにくい存在だったから。

だけど、それが彩の五歳の誕生日のときに変わった。

親同士の付き合いもあって、その日の彩の誕生日には私も参加していた。


 午前中に遊んでいるときはいつも通り。

みんな怒鳴られて、私も彩の好きないおもちゃで遊んでいて怒られた。

お昼ご飯を食べ終えて、彩がもらったプレゼントの包みを開いた瞬間に急に頭が痛むと言い出した。


 本当に苦しそうな表情で、彩でもそういう顔するんだって思った。

家に帰って、彩華ちゃん明日幼稚園休まないかなぁ、なんて不謹慎なこと考えて次の日。 私のお願いは呆気なく砕け散って、彩は幼稚園に来た。


 でも、その日の彩はいつもとは違った。

意地悪もしないし、我儘も言わないし、、むしろ優しいぐらいだった。


 ――その日を境に彩は今のかのじょみたいなそんざいになった。


「あり、ありがとうっ」


「どういたしまして」


 彩は特に追求しようとはせず、私の顔をじっと見つめていた。

やがて、自分の瞳が潤んで視界がぼやけてくる。

安堵したからか、これまでの想いがこみ上げてきたからなのか。

そこでやっと彩は言った。


「……大丈夫、じゃないよね。私のオススメスポット紹介してあげようか」


 彩は悪戯げにニヤリと笑った。

戸惑う私を無視したまま、彩は私の手を引いてある場所にむかった。


「ここって、スケート場?」


「滑れば悩みごとなんて吹き飛ぶから」


「え、私お金ないし、滑ったこともないよ」


「今日は無料の日だから大丈夫」


 滑ったことない、っていう私の意思は無視して彩は無理やりスケート場に私を押し込んだ。

ドアを開いた瞬間、肌にじんわりと染みてくる冷気。

冬だからコートもちゃんと着てたけど、それでも寒いぐらいに。


 また昔みたいに意地悪されるんじゃないかって、一瞬だけ怖くなった。

でも、彩はそんなことしなかった。

だって、何も言わずに私を置き去りにして一人で滑り出したから、

あの時ほど驚いたことは今までの人生の中でない。


 彩の滑りは軽やかですごく綺麗だった。

ぼんやりとそれを眺めながら私は椅子に座っていた。

滑ろうっていう気はそんなに沸かなくって黙って見ていた。


 ずっと見てても飽きない光景。

スケート場には、平日だからかそんなに人がいなかった。

その中でも彩は光り輝いているように異質で。 羨ましい、と思った。


 あんなに気持ちよさそうに滑れていいな、と。

そこから少しだけ勇気が湧いてスケート場にそっと足を踏み入れた。

いきなり足を取られそうになって慌てて壁に縋る。


 もっと簡単そうなのに、見ているだけで今まで座っていた自分が恨めしい。

最初から練習していればもう少しマシに滑れるようにはなっただろう。

壁に沿って、ゆっくりとゆっくりと進みだした。

一歩、一歩を噛みしめるようにして、じっくり、ゆっくり。


「千鶴ちゃん、ちょっと手貸して」


「うわあ!? びっくりしたぁ、手って、何する気で——」


「えい」


「え!?」


 恐る恐る手を差し出すと思いっきり滑らされた。

壁から遠い、氷の上に。

手摺がなくなって私は戸惑う。

しかし、転びはしない。 ちゃんと氷の上に立っていることはできた。


 嬉しくなって思わずガッツポーズ。

彩は路地裏から私を連れ出したときのようにニヤリと笑った。

ものすごーく、嫌な予感がした。


「行くよー!」


「え、彩華ちゃん!?」


 右手を掴まれて引っ張られる形になる。

ま、まだ滑れないよ!?

慌てて足を動かそうとして、氷の床がじっっと削られた。

バランスが取れなくなって思わず彩の手に縋る。


「無理に滑ろうとしなくっていいよ、私が支えてるから普通に立ってて」


 彩は私にそう言い聞かせて、ゆったりと滑り出した。

風が頬を切る。 彩の言った通り、すごく気持ちよかった。


「ほーら、どんどんスピードあげてくよ!」


「ええ!?」


 彩の宣言どおり、滑るスピードはどんどん上がっていく。

風は全身に広がってびゅうっと音をたてて全てを忘却してくれた。


「す、すごかったぁ」


「でしょ? ここまで滑れるようになるのに結構時間かかったもん。でも、滑るときの快感ってすごい気持ちいから全然苦じゃないけど」


「私も、彩華ちゃんぐらい滑れるようになるかな?」


「いっぱい滑れば上手になるんじゃないかな」


 今度は悪戯そうな顔じゃなかった。

純粋に笑顔を浮かべて彩は笑った。

同性なはずの私でさえもドキドキしてしまうほど綺麗で可愛い顔。

いつも、すごく美人で可愛いけど彩の笑った顔はもっと可愛かった。


「千鶴ちゃんはさ、なんか悩んでるみたいだったけど私はそれについて深く追求しようとも思わないし、わざわざ関わる気もないけど一つだけ言わせて。好きな物を好きっていうのはいけないことじゃないと思う」


「え?」


「噂で聞いたんだけど、千鶴ちゃんってピアノすごく上手なんだよね? そういう才能って珍しいし、誰にだってあるものじゃないと思うけどなにもその才能にだけ囚われなくてもいいんじゃないかな」


 彩は自販機の前に立って小銭を入れると点滅しはじめたボタンに指を滑らせた。 

何にするか決めかねているようで「うーん」と唸りながら視線を彷徨わせている。


「自分の好きなものは才能がなくってもやればいいんだよ。逆にピアノが嫌いならやめればいいんだし。人生、楽しく好きなことだけやって生きるって別に駄目なことじゃないと思うよ」


 独り言のようにも聞こえるし、語り掛けているようにも感じた。


「そんな、そんな風に生きてもいいの?」


 私は救いを求めるように彩を見つめた。

彩は、やっとどのジュースにするか決めたようで一つのボタンを叩いた。

がこんっ、という音がして彩がジュースを取るために屈む。

私は答えが怖くって俯いていた。


「いいんじゃない。だって、千鶴の人生じゃん」


 無意識だったんだと思う。

訂正はせずに彩は私を呼び捨てにした。

缶ジュースを買ったようで、プルタブを開ける音がした。


「好きなことは全部やらないと損だし」

 

 顔を上げて、彩の顔を見ると、やっぱり彼女の表情には悪戯げな笑みがくっきりと浮かんでいた。

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