第8話 『彼女』

 時が停止したようにピタリと動かない。

カウンターの中にある席に腰かけてニコニコしている女の子。


真っ青で澄み渡った全てを見透かすような青い、青い瞳。

漫画で絶えずに何度も見た彼女・・がそこにいた。


 艶やかで手入れの行き届いた黒髪。

日本人離れした青い瞳と人形のような顔立ち。

雪原のような真っ白の肌。

血色の良い紅色の唇も、ナチュラルメイクも、一目で彼女だと分かった。


 『ラブデイズ』の主人公――青柳あおやなぎ りん


「誰かの妹さん?」


「は、はいっ。 えと、桃原連華の……」


「ああ、桃連くんの」


 納得したように頷く凛さん。

口元を押さえる仕草さえ可愛らしい。

一言一言、発する言葉も全く訛りがない。


 ん? 今、お兄ちゃんのことなんて言った?


「桃連くんの妹さんなんだ。そっかぁ」

にへらと表情を柔らかくした凛さんは変な呼び方を貫いた。


「えっと、桃連って」


「あ! 私、入学式の日に間違えて桃原くんのこと桃連くんって呼んじゃってね。 それ以来、そのままで呼んでるの」


「そ、そうなんですか」


「そうなんですよ」


 楽しそうに微笑む凛さん。

漫画の中からこっそり抜け出してきたかのような本物の主人公だった。


「それで、妹さんのお名前は?」


 天然なのか、わざとなのか、小首を傾げる姿はどこか危うい。

私が男だったら惚れてしまっていたかもしれない。

小動物のような守ってあげたいタイプの女の子だ。


「桃原 彩華です」


「彩華ちゃんか。 じゃあ桃彩ちゃんだね」


 悪戯げな言葉に裏表は全くない。

私を笑わせていのかもしれない、と思って微笑しておいた。


「桃彩ちゃんは何をしに学校へ来たの?」


「お兄ちゃんがお弁当を忘れちゃったので届けに」


「そうなんだ。 あの桃連くんでも忘れ物をすることなんてあるんだね!」


 嬉しそうに手を叩いて言う凛さん。

お兄ちゃんに何か恨みでもあったのかな?


「桃連くんって次期生徒会長って言われてるぐらいにしっかりしてるから、忘れ物なんて一度もしたことないと思ってた」


「え! そ、そうなんですか!?」


「うんうん。 テストも毎回十位以内には入ってるし」


 なんと、お兄ちゃんはただの脳筋馬鹿ではなかったのか。

私は半ば呆然として凛さんの言葉を聞いた。

テストで十位以内に? この学校一学年に何百人いると思ってるんだ!


「初耳です」


「家族には言いづらいのかもね。男の子って思春期になるとあんまり家族と関わらなくなるじゃない」


 お兄ちゃんは普通に家族旅行にも参加してヘトヘトになるまで泳ぎまくってたんだけど……。


「と言っても私のお兄ちゃんがそうだっただけなんだけどね」


 唇が弧を描いて微笑する。 凛さん、すごい美人。

漫画でもフランス人のお爺ちゃんがいるとかでクォーターの設定だった。


「あっと、自己紹介をまだしてなかった。 私は青柳あおやなぎ りんって言います。 文化委員をやってるの。 これでも文化委員長なのよ」


 慌てて自己紹介を始めた凛さん。

ごめんなさい、もう知ってます。

いや、凛さんではなく凛先輩と呼ぶべきか。


「あの、私もここを受験する予定なので入学したらよろしくお願いします」


 そう言った瞬間に凛先輩の瞳が輝いた。

子供のように無邪気な笑顔。


「本当!?」


「と言っても受験に受かったらですけど」


 謙遜しておいて後悔した。

受かるようなこと言っておいて謙遜とか馬鹿なのか、私は。

はっきり宣言するか言わないでおくかした方が相手も反応に困らないじゃないか。

ここはお世辞が返ってくる場面だ、と私は想定した。


「うーん、そうよねぇ。 ここのテストすごく難しいもの」


 あれ? 違った。

凛先輩は私にお世辞を送るわけでもなく一人で悩み込んだ。


「私もすごーく勉強を頑張ってなんとか入れたから」


「凛さんは勉強苦手なんですか?」


「苦手! 国語だけは好きだけど数学とかは本当にさっぱりだよ!」


 両手をぶんぶん振りながら凛先輩はそう言った。

正直に言ってしまっているのが他の人と違うなって思えた。

他の人だったら茶化して笑いを取ったりとか工夫する。


 だけど、この人は素のままだ。

自分の好きな教科はしっかり言ってるし、きっとそれが得意だってことを隠しもせずに言っている。


「国語って意味不明じゃないですか? 他人の気持ちを読み取ったりするのってできるわけないじゃないですか」


「みんな、そう言うんだけどね。 小さい頃から本ばっかり読んでるせいかな。 むしろ、テストとか国語だけ楽しく思えてくるんだよね」


 楽しい? 私は耳を疑った。

本を手にして一ページ開いた瞬間に睡魔が襲ってくる私にとって聞き捨てならない台詞だ。 とてつもなく羨ましい体質と言ってもいい。


「信じられないです。本とかも読んだだけで眠くなってきちゃいますし、正直つまんないです」


「うん。みんなそう言うの。信じられないって。でも、私からしてみればそっちの方が不思議なのよね。 本は読んでるだけで心が弾んでくるし……私だってみんなの好きな漫画も読むし、面白いとも思うけど、本にも似たような面白さを感じるの。 それっておかしいかな?」


 小首を傾げて私の言葉に返す凛先輩の正直な感想はお兄ちゃんが次期生徒会長になるかもしれない、と言われたときの衝撃よりも、風華がカナヅチすぎてビビったときの衝撃よりも強かった。


「おかしくはないですけど、なんか変です」


「え、変かな!?」


 対抗するように言葉を捻じった。


 次に体中を駆け巡るようにして走ったのは羞恥心。

自分よりも経験を得ている相手を試そうとしていた自分への。


 後から振り返ってみれば私の言葉には棘がついていた。


 自分は『青柳凛』という存在に出会えたことを嬉しく思いながらもどこかで怯えていた。 そして、凛先輩という人間を値踏みしていた。


「確かに私がこんな偉そうなこと桃彩ちゃんに言えたことじゃないんだけどね」


 苦笑を交えながら凛先輩はそう言った。

じんわりと羞恥心で出来た傷に染みるようで痛かった。


「いえ、そんなことないです」


 発した言葉は少しだけ震えていた。

凛先輩という大きな存在を前にして私は緊張していたのかもしれない。

この世界で最も出会いたくなかった人物に出会ってしまったことに私はきっと心の中で気づいていた。


 だって、『桃原彩華』にとって『青柳凛』は敵だったから。


 凛先輩と出会ったことで私の運命が悪い方に変わっていくんじゃないかって怖かった。 ずっとずっと、心の隅ではそんなこと考えてた。

自分はこの世界で幸せに生きることができるのか、どうか。


 私がそんなすごい『桃原彩華』になってもいいのか。

私は間違った選択肢をしていないのか。

『ラブデイズ』の世界を崩壊させていないか。


「桃彩ちゃん?」


 『桃原彩華』はきっと『青柳凛』がいなければ、想い人であると結ばれて一途に想っていた相手のことを好きになって本当の願い続けてきた幸せを手に入れることができたのだ。


 だから、私は本物の『桃原彩華』の為にも彼女にとっての敵だった『青柳凛』と馴れ馴れしく触れることは許されない。 きっと。

そんな勝手なことを本物でない私がしていいはずがない・・・・・・・・・・


「私……もう帰ります」


「ふえ?」


「さようなら」


 投げ捨てるようにそう言って私は逃げた。


 光輝いている彼女から私はただ、逃げたのだ。

偽りの自分を被ったまま。

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