第二十四話・大天使の慈愛

『……で? お前はオレに何を相談したいんだよ?』


「……わかりません」


 ぼんやりとしながら戻ってきた王宮の一室。

 シグルドは青いテーブルクロスの掛かっているその上に浮かんでいる丸鏡に向かい、組んだ両手の甲の陰で顔を俯けていた。大天使ラジエルに連絡を取ったものの……、何を相談したいのか、わからない。

 ただ、誰かに縋りたかったのかもしれない。神の次に、全ての天使達にとって親代わりでもある大天使の一人に、この心を受け止めてほしくて……。


「魔王陛下が……、俺をシャルロットのエスコート役にと、そう仰ってくれているのですが」


『ふぅん。魔王に気に入られたんなら良かったじゃねぇか。嬢ちゃんを他に奪われたくなけりゃ、一番効果的で、オイシイ役目だろ? 何をどんより辛気臭くなってんだよ』


「……シャルロットのパートナーを務めるという事は、周囲から婚約者のように思われる、と、そう言われました」


『だから? 何を迷ってんだよ。喜んでそのポジションに納まりゃいいだろ』


 ……だが、シグルドはあくまで、シャルロットの友人。

 目指しているのは、誰よりも信頼し合い、仲良くいられる、親友という立場。

 婚約者に、シャルロットの伴侶になりたいという思いは。

 頭の中でぐちゃぐちゃと悩みまくるシグルド。ついにはそんな自分に耐え切れなくなり、テーブルに勢いよく額をぶつけてしまった。それをラジエルが、残念そうな目で見ている。


「俺は、シャルロットの友人に……、なれました。でも、……婚約者になりたいわけ、じゃ」


『クリスウェルトに自覚させろと命じておいたはずだがな? それでも、まだ認めねぇのか』


「違い、ます……。俺は、……俺は、誰かを、……アイスル、コト、ナン、テ」


『シグルド?』


 ラジエルやクリスウェルトに、この感情が『恋』だと言われても、シグルドがそれを受け入れる事はなかった。

 シャルロットを好ましく思い、傍にいたいと、こんなにも執着しているのに……。


「俺に愛される……、人は、……フコウニ、ナル、カラ」


 昔、誰かに、そう言われた事が、ある。

 混血の半端者。二つの種族の血を継ぐ……、どちらでもあり、どちらでもない、定まる場所を知らぬ者。

 あれは確か……、そう、シグルドがまだ幼い頃の事。

 母親の故郷である狼族の里を訪れ、滞在していた時……、シグルドは勝手に里の外に出てしまい、――混血に対し差別感を抱いていた者達に拉致され、危うく殺されそうになった。

 その時に……、手を組んでいた天使と狼族の男に、捨て台詞として突き付けられた台詞。


『二種族の血を穢す罪深き者!! 貴様が生きていても、誰も幸せにはならない!! いずれ伴侶を得ても、相手を、生まれ来る者を不幸にし、災いをもたらすだけだ!!』


 差別種族の考えを持たぬ者達からすれば、実に滑稽で愚かな思想だ。

 天上に、神に一番近しいのは自分達だと優越感を覚え、傲慢に染まる一部の天使達。

 人とは違う、強靭な肉体と力を誇示し、自分達こそが最強だと、同じように傲慢さを覚える一部の狼族の者達。

 その誇り高い血筋を穢す混血は排除すべし。そんな低俗な価値観を抱く者達の身勝手な凶行に晒された幼き頃のシグルド。……あの時に味わった恐怖は凄まじく、今もまだ、彼の心に傷を残している。

 大人になっていくにつれて、克服したはずのトラウマだが……、今のシグルドは、あの時の者達が自分に突き刺していった悪意の欠片に苛まれているように見える。

 勿論、ラジエルもその異変を察しているようで、小さく溜息を零した後に口を開いた。


『そっちに行く』


「……ラジエル、様?」


 鏡の中から信頼している大天使の姿が光に包まれ消え去ったかと思うと、すぐ傍に気配を感じた。

 顔色の悪いシグルドの隣に音もなく現れた、美しき一人の男性。

 その背に抱くは、普通の天使達、いや、上級の天使でも叶わぬ程の神々しさを発する純白の大きな翼。

 片眼鏡を掛けた男性が、やれやれと言いたげな顔でシグルドを見下ろし……、ぽふりと獣耳の生えているその頭に手を乗せてきた。くしゃくしゃと、黒銀の髪が優しい手つきで掻き乱される。


「怖いか? ……誰かを愛する事が」


「…………」


 少年の姿から本来の在り方へと戻った大天使からの問いに、シグルドはその顔を見る事が出来ずに小声で呟く。

 家族や大切な者達を、自分なりに愛している、と。だが、勿論問いの意味は違うと……、気付いている。

 まわりくどい問答をする気はないと、ニッコリ笑って手のひらを握り込んで拳を作った大天使にビクリと怯え、お説教を受けている子供さながらに、シグルドは縮こまってしまう。


「伴侶は……、いりません。一生……」


「何でだ?」


「……その気に、なれないから、です」


「何故、その気になれないか、わかるか?」


「……いえ」


「じゃあ答えをやる。お前が臆病だからだ」


 そう、なのだろうか……。あぁ、だが、考えてみると、そうかもしれない。

 シャルロットに嫌われたと思ったあの時の、氷海に突き落とされるかのような恐怖感を思い出すと、息が苦しくなって、感情が荒波のように乱れてしまう。

 もう大丈夫なのに、シャルロットが、自分を受け入れてくれたのに……。

 まだ不安が付き纏っているように感じるのは……、何故だろう。

 

「シグルド、お前は以前言ったな? 自分とシャルロットの嬢ちゃんが一緒にいられなくなるのなら、嬢ちゃんの特別な相手を、伴侶となる者を消してしまえばいい、と」


「シャルロットに……、伴侶が出来るのは、嫌、です。俺が傍にいられなくなる、から」


「その時点で答えは出てる」


「俺は、俺は……、シャルロット、を、そういう目で、見ては……、ぐっ、……違う、違うっ、俺はっ!!」


 だが、エリィに対して抱いた自分の感情は何だった?

 シャルロットの友でありたい。彼女の隣に立ちたい。いつまでも、一緒に……。

 だから、彼女の友人になって……、親友に、なって、それから、それから……。

 受け入れてくれた。これからもっと仲良くなっていける。

 でも、……彼女に大切な人が、伴侶が出来れば、シグルドはいらなくなる。

 

「シャルロットの傍に……、いられなく、なる、のは、……嫌だ、嫌だ、嫌だっ!! だけど、俺には、俺には……っ、誰かを愛する事はっ」


「シグルド!!」


 冷静さを失い、頭を抱えて混乱し始めたシグルドの頭を、ラジエルがその胸に抱え込んでもう一度その名を呼ぶ。


「いいんだよ。誰かを愛しても、特別な誰かを求めても……。お前は誰も不幸にしない。誰かを愛する事で、相手と大きな幸せを紡いでいける。そんな未来を、自分から捨てようとするな」


「俺、は……っ」


 ラジエルの服にしがみつきながら震えるシグルドは、まるで幼き日に心を引き摺られたかのように頼りない姿を見せている。

 あの時の、賊になり果てた天使と狼族の声が、心に絡み付いている怨嗟の鎖が……、大天使の紡ぐ慈愛の気配に怯えを抱く。

 誰かを愛してもいい。誰かに愛されても、いい。誰かと幸せになる未来を望んでも、いい。

 本当に、本当に……?


「俺が誰かを愛したら……、その人と結ばれたら、また、混血が、俺のような存在が、生まれてしまう。あの時と……、同じ目に、遭わせて、しま、う」


 幼心に刻まれた傷は、消えてなどいなかったのだ。

 シグルドの心の奥深くに潜み、……無意識下で、彼の心に枷を嵌め込んでいたのかもしれない。

 異性に関心を示さず、たとえ迫られても反応しなかった心と身体。

 百年以上もの時を過ごしながら、初恋の情を覚える事もなかった。

 だが、今のシグルドは違う。心に想う相手と出会う事が出来たのだ。

 たとえ自覚せずとも、シグルドの心はシャルロットを一途に求め、想っている。

 憎悪の残滓など、いずれ跡形もなく光に消え去るべきもの。

 そう、シグルド自身が、過去に絡み付いた怨嗟の鎖を断ち切るしかないのだ。

 

「シグルド、お前のそれは、一種の自己暗示だ。現実には、誰も不幸にはならない。よく考えてみろ。お前は天界のエリート軍人だぞ。どんな強敵にも負けない、たとえ追い込まれ、死を感じたとしても、お前は全力で立ち向かう。大切に想う者達を、何があっても守り抜ける、そういう奴だ」


「ラジエル様……」


「そんなお前が、何を弱気になっている? 本来のお前は、怨嗟の声になど、忌まわしき憎悪になど、呑まれるような腑抜けじゃない。そうだろう?」


「俺は……」


「今お前の心の中にいるのは誰だ? その者の事を想う時、お前は何を感じる? 今一度、考えるのではなく、その心に問え。我らが愛し子よ」


 シグルドの胸の中にある本音。それこそが、怨嗟の呪縛を光へと帰す最大の武器。

 今、この心に在るのは、一人の少女の存在。彼女の事を想う度に、シグルドは決して得る事のなかった不思議な感情に包み込まれる。

 とても優しい……、けれど、時折どうしようもなく、切なく甘い疼きを覚える感情。

 ラジエルからの励ましを受けても、まだ……、シグルドは答えを得ない。まだ、……心の靄が完全には、晴れてくれない。

 ただ、迷いと苦しみに苛まれていた深淵に、一条の光が差し込んだような気は、する。

 

「ちゃんと……、考えて、みます。シャルロットの事を、本当はどう想っているのか」


「はぁ……。まぁ、少しは進歩出来そうならいい。それと、エスコートの件だが、うだうだ悩まず受けとけ。良いきっかけになるかもしれねぇしな」


「はい……。それと」


「ん?」


「ラジエル様……、俺に、何かしましたか? 言葉だけでなく、何か……、流れ込んできた気がするんですが」


「さぁなぁ? オレは何もしてねぇぞ~。さて、後はシャルロットの嬢ちゃんと向き合ってけば何とかなるだろ。あ、そうだ」


「はい?」


 身体を離したラジエルが何かを思いついたらしく、ニヤリと笑った。

 耳を貸せと指で招き、……ひそひそひそ。

 

「それで……、わかるんでしょうか」


「わかる。まぁ、相手にぶっ飛ばされる覚悟で頑張れ」


「はぁ……」


 一体何を吹き込んだのやら。シグルドの肩に励ましを送り、ラジエルはさっさと天界に戻ってしまったのだった。

 部屋に残されたシグルドは首を傾げ、もう一度疑問を口にする。

 

「本当に……、わかるん、だろうか?」


 シグルドの呟きに答える者は、勿論、いなかった。

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