ファイルスリー ちらちらと見えるもの
第1話 その日
その日。
深夜に差し掛かろうという二十三時過ぎのファミレスは、普段の喧騒が嘘であるかのように閑散としていた。
それも手伝って、手持無沙汰になった三宅さんが、冷蔵庫に寄りかかりながら、まるでクリスマスを心待ちにする乙女のような表情で、客の残りを指折り数えていた。
「今おじさんが帰ったから、あと三人。若い女の人と、カップルだけ」
客の捌け方がいいことは、このファミレスの閉店業務を行う俺としても望ましいことなので三宅さんには大いに同調したかったが、同時に少し気になった。
いつもは妙な客が舞い込んで簡単に閉店させてもらえないにもかかわらず、今日はまたどういう風の吹き回しなのだろう。このまま順調に客が帰っていけば、栄光の定時帰り(午前二時)も夢じゃない。
「でも、本当に珍しいですよね。定時に帰ったのなんていつぶりかなあ。この店、無駄に繁盛してるのに、今日はどうしたんですかね」
何の気なしに俺がそう言うと、三宅さんが顎先に人差し指を当てて応えた。
「うーん、それがさ。あと三人残っているって言ったでしょ。そのうちの一人に若い女の人がいるんだけど、その人がちょっと変わってるの」
三宅さん曰く、変わっているという若い女は、白磁のコーヒーカップ片手に文庫本を傾け、時折「ほう」と何とも言えない、人の心の奥底に澱のようによどんだ不安を掻き立てるような声を出すのだという。若い女の「ほう」を聞いた人間は、家のカギを閉め忘れてはいまいか、冷蔵庫が半開きになっているのではないか、トイレの電気を消し忘れてるような気がする、ああ網戸開きっぱなしだった、冷蔵庫の卵賞味期限を切らしていた、と言った類の不安を想起してしまい、長々ファミレスに滞在する贅沢も忘れて雲の子を散らすように退散していくのだという。
「え、なんですかそれは」
すごく変わった女だ。ちょっとどころではない。
嫌なにおいがしてくることこの上なく、何だか胸の苦しささえ感じると思ったら、グリルで自分のまかないようにと焼いていたチキンが焦げてしまっていた。
なんてことだ。
しかし、三宅さんは構わず続ける。
「そのお客さんのおかげでみんな帰っちゃってるから。ほら、前に厚底おじさんの話したでしょ? 常連なんだけど閉店時間過ぎても店にいるって。その人もさっき帰ったし。今日はほんとに、定時に上がれるかもね」
お客様を神様の化身とするサービス業であれば、ほかの神様の気分を害して追い払ってしまうような神様は邪神に違いなく、第一に退店をお願いすべきところだったが、俺にせよ三宅さんにせよ、その変わった若い女の人へは謝意しか感じない。
見え隠れし始めた定時帰りの誘惑は、いやがうえにも俺の気分を高揚させる。実際、見え隠れというのは重要で、たとえば、暗幕に隠れていて全く見えない裏方よりも、主人公の叔父の犬役みたいな愚にもつかない端役であったとしても時折舞台に出てくる者の方が「あれ、あいつどうしてるんだっけ」みたいな気になるものだ。
「つまり、見えそうで見えないスカート丈にドキドキするってことね」
「さ、さあ、どうでしょう」
女の先輩からの応対に困るパワハラじみたセクハラに頬を掻いてそっぽを向く。
話を変えるついでに、俺は言った。
「それで、その若い女の人っていうのはどんな人なんです」
「あ、なあに。可愛い顔して、月島君も男だっていうこと?」
「どういうことですか」
「そういうことでしょ」
三宅さんがにんまりと笑った。
「そんなに気になるなら、覗いてみたら。真ん中の方の席にいるから見えると思うよ」
こう言われて、本当に見に行ったらたとえその気がなかったとしても、俺が下心を抱いてお客さんの容姿を確認しに行ったという呈になってしまう。誰に文句を言われるわけでもないが、三宅さんは指をさして笑うに決まってる。
まあしかし、それはいつものことと言えばそれまでだ。
俺の頭の中の天秤が、好奇心の方にわずかに揺れ動いた。
キッチンからホールへの出入り口として使われている観音開きの戸に設えられた覗き窓からそっと、ホールを窺った。
三宅さんに言われた通り、ホール中央を探すと、そこには四人掛けの席に一人きりでいる黒髪ボブカットの女性がいた。
文庫本を傾ける女性の姿は、おお、と内心でガッツポーズを決めさせるに十分で、俺の背後で三宅さんが引き笑いをしているのも気にならないほどの美人だった。
だったのだが。
若い女が、まるで俺の視線に気づいたかのように文庫本から顔を上げた。女の鋭い視線が俺へ刺さる。彼女の瞳が、研がれたナイフが月光を反射するようにきらりと輝いた。
心臓がきゅんと跳ねた。
恋じゃない。
「あ、ああ」
自然とうめき声が漏れた。
「どうしたの?」
あの三白眼、見覚えがある。
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