第5話 哀愁がにじみ出ている
女性は下を向いて死んだように固まっていた。その姿からは哀愁がにじみ出ている。他人であれ同情を誘う様相だった。しかし、別に俺は同情を抱いたから警察を呼ばないで解決しようと思ったわけではない。単に、自分の中に芽生えた疑問を解決しておきたかったのだ。
俺は、席に着いた。
「済みません。お待たせしました」
「いえ」
高崎は顔を上げずに言った。
「とても辛い思いをなさっていることはよく分かりました。その、差し出がましいとは思うんですが、よろしければ二つ教えていただきたいのです」
高崎は何も言わない。俺は続けた。
「一つは、その彼氏さんにはどうして別れようと言われたのでしょうか?」
高崎は、机をたたいて立ち上がった。俺は反射的に跳び上がって驚いた。
「そんなの知らないわよ! 知るわけがないじゃない」
俺を見る高崎の瞳が怒りに燃えていた。今にもとびかかってきそうだ。俺は目を合わせずに言った。
「じゃあ、質問を変えます。何と言って、別れを切り出されたんですか?」
「それは」
高崎はしばらく制止して動かなくなった。高崎のぼうっと虚ろな視線の先には山積みになったワイングラスがある。湾曲したガラスに反射するのは、自身の歪んだ顔であろう。
俺はしばらくしてから続けた。
「あと、もう一点だけ聞かせてください。振られたことというのは、婚期が遅れる、優良物件を逃したということ以外に、何か意味を持つのでしょうか?」
「どう言う意味?」
高崎が顔を上げた。目を細めて、俺を見ている。俺は視線を逸らし、窓の外を見た。
「振られたことによる影響とでも言いましょうか。振られたから、どうなるのかということです。そして、振られたことによる影響というものが、あなたが死ななければならないというところまで及ぶのかということです」
窓ガラスには、じっと俺を見つめる高崎が写っていた。その表情は、やはり恐ろしく俺には直視できない。今にも大変な事件を起こしそうだった。鬼気迫る表情をしていた。
「もっと端的に言って、あなたは元カレを愛していたのですか?」
そう言うと、高崎は両手で髪を掻きまわした。叫び声をあげ、地団太を踏んだ。
いつの間にか、パッヘルベルのカノンが鳴り止んでいた。
おそらく三宅さんが早々と停止してしまったのだろう。
高崎は、ようやく落ち着きを取り戻した。
「愛なんて、必要ないわよ。あんたには、分からない。結婚していない三十路杉の女がどんな目で見られるか! 愛なんて! 愛なんてえええ」
高崎は叫びながら、俺の胸ぐらをつかみ、無理やり立ち上がらせた。何という腕力であろうかと感心するのも束の間、高崎は、俺を自身の眼の前まで引き上げた。すぐ近くに高崎の顔がある。俺は酷い酒の匂いに思わず失神しかけた。そして、高崎の鬼の形相に心の底から震えた。
俺は言う。
「だったら、尚更死ぬ必要はないじゃないですか!」
たまりかねて、俺は鼻をつまんだ。
「好きな相手に振られた、もう生きてはいけないというのはなんとなく分かります。けど、大して好きでもない男に振られたから死のうというのは、訳が分かりませんよ! だいたい、結婚できないなら死ぬというのは、おかしな話です。結婚しないでも真っ当で楽しい人生を歩んでいる人は大勢います。大勢に流されて、結婚か死かなどという選択肢を自らに課すのは、間違っていますよ!」
高崎は、俺の胸ぐらをつかんでいた手をほどくと、はたと尻餅を付く様に椅子の上に落下した。目が泳いでいる。その表情からは、化け物を思わせる先ほどの恐ろしさは感じられない。
高崎の眼から、一筋の涙が伝った。
「生きてください。独身として生涯を立派に全うしてください! それが、あなたにとっての幸せです!」
俺自身すでに何を言っているのか、分からなくなってしまっていたが、まあいいのだ。
これでいいのだ。たぶん解決だ。
厨房の方を見ると、三宅さんがにやにやしながら腕組みしていた。そんな暇があるのならば、ここにきて最後の一押しをしてくれと言いたかったが、高らかに不干渉を宣言していたことからも、姿を現さないのは瞭然であった。
高崎は、小さく嗚咽を漏らして泣いていた。
きっと落ち着いたら出て行ってくれるだろうという雰囲気に俺は安堵した。
その時だった。
勢いよく、店の扉が開いた。すでにラストオーダーの時刻は過ぎているから、新規の客は入店できない。そのことを告げに、三宅さんが扉の方へ歩いて行ったが、その客は三宅さんを押しのけこちらにずんずん近づいてきた。
そして、叫ぶ。
「めええい」
お前は羊か、と言う前に高崎が顔を上げて、その男の方を見た。高崎の顔は見る間に驚きに染まっていった。顔見知りであるのか。
ここにきて新しい登場人物など求めていないのだから、高崎の兄であることを願う俺は、呆然と窓の外をみた。
するとそこには、先ほど道路を走っていたアウディが駐車してあった。
冷汗が流れ、いやな予感が心臓を鷲掴みにした。
「や、八木さん、どうして!」
高崎が叫ぶ。ヤギだったか。
「おお、芽衣。ごめんよ。ぼくが間違っていた。許しておくれ」
「八木さん、私は」
話しから察すると、この八木なる人物こそが件の元カレであるのだろう。その元カレが、颯爽と駆けつけたことからして、二人は円満に復縁して晴れてめでたく話は終わるのだろう。
これで店が閉められる。
胸をなでおろす俺に、高崎が叫んだ。
「私、気が付いたの! あなたのことは、全然愛していなかったって! 結婚がすべてじゃないって! だから、だから! もう消えて!」
その瞬間に、店内は凍り付いた。
俺は驚き目を見張り、八木は体を硬直させて高崎が口をつぐんだ。
そして、店内にドビュッシーのゴリウォーグのケークウォークが軽快に流れ始めた。
誰が悪趣味なことをしたのかと尋ねることはあるまい。俺は厨房の奥に視線を向けて、ため息をついた。そして、音楽に合わせて言い争いを始める二人の腕を引っ張って無理やり店の外に追い出し、店長にメールを打った。
時給、あげてください。
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