第5話 それからの宮部

 それからの宮部の取り乱しようと言ったら、例えようがない。それでもあえていうなれば、親の敵と思って刃を突き出した先にいたのが最愛の幼馴染であった時のような驚きと絶望入り混じる顔をしていた。ちょっと違うかもしれないが。


 宮部は一度「ない、ないぞ。時価一億円はする、奥様の宝石が!」というと、それきり顔を真っ赤に膨らませて倒れた。


 残された俺たちの目の前には、空っぽのアタッシュケースだけが残されていた。


 時刻は、午前一時を回っている。


 定時(午前二時)帰りは諦めるべきかと一瞬、頭をよぎったがここから奇跡のような大逆転が起こって瞬きしている間に事件が解決しているということもなくはない。


 俺が神頼みしているうちに、各々は自らの所持品をテーブルの上に並べたて、同性同士で身体検査まで行ったが、ついぞ、宮部の言う「時価一億円の宝石」とやらは見つからなかった。


「これはいよいよ迷宮入りの気配がしてきましたね」

 名探偵風を装っているくせに匙を投げるのか、銀代がこともなくそう言った。


「ま、出来ることはやったと思うぞ、銀代。そもそも俺たちにこの事件を解決する筋はねえしな。あとは、警察に引き継いで終わりじゃないか?」

 はじめてまともなことを言う伊丹に、全員が頷いた。


「ま、いいんじゃない。それで」

「あ、じゃあ。私、店長にも連絡してきます」

「そうですね。すでに外部犯によって時価一億円の宝石が持ち出されているのであれば、我々探偵の出る幕ではありません。我々探偵は泥くさく犯人を追うのではなく、優雅に推理するものですから。ねえ、マスター」


 ついぞマスター呼びを止めなかった銀代は、ついに無能をさらしていた。

 自称と言えども探偵を名乗ってさらに、好き勝手に事件に首を突っ込んだ挙句に、中途半端なタイミングで撤退するなんて。これでは、作り途中の料理をつまみ食いして歯型をつけているようなものだ。


 これまでは、銀代に促されるまま何となく従ってきたが、今回ばかりは、彼の発言は肯んじえなかった。


「ちょっと、待ってください」


 全員の視線が俺へ集まった。


「なんでしょうか。お手洗いなら、あとでにしていただけると」

「いや、そうじゃなくって、少し気になったことがあるんですけど、いいですか?」

 銀代が掌を上へ向けて首を傾げた。


「あのですね、マスター。我々の方針はすでに決したと思うのですが。何より、この銀代長次郎の出した結論にご納得いただけないというのですか?」

 ありていに言えばそうだが。

 とりあえず「そういうわけではないんですが」と言ってみる。


「では、各々なすべきことをしていただきたいものですがね。たとえば、そこのウェイトレスは、ご自身がおっしゃったとおりに店長に連絡なさるがよろしい。お嬢さんは、宮部の介抱を。お手数ですが、マスターには警察への連絡をお願いしたいです」

「はあ、もちろんそれはやりますけど、その前に二つほど気になったことがあります」

「やれやれ。あなたも勝手な人ですね」

 銀代はそう言って、チューリップハットを触った。

 お前にだけは言われたくないという言葉を抑え、俺は続けた。


「確かに、銀代さんの言う通り、今回の事件は外部犯によるものというのが一番しっくりくるような気がします。ここに居る誰もアタッシュケースは持ち出していないのだし、それに入っていた宝石を身に着けている人もいなかったのだから」

 間島が腕を組んでうなずいた。


「そうね。だって私たちはずっとここに全員いたわけだし。誰も宝石を持ってないし、誰も宝石を持ち出せなかったわよね」

「ああ、そうだな。なんだって手前は、銀代に突っかかってくるんだよ、コック」

「それは」

 言いながら、一同の顔をぐるりと見まわした。


 余裕しゃくしゃくの笑みを浮かべる銀代、苛々と眉間にしわを寄せる伊丹、唇を内側にしまい込んで不安そうに瞳を揺らす間島、ボケっとしてる中林、失神したまま動かない宮部。

 俺はもう一度、この日起きた不可解な事件のことを頭の中で反芻した。


 そして、やはりあの時の彼の言動は異常であったと思い、自分の打ち立てた仮説に円周率が3.14なのと同じくらいの蓋然性を見出した。

 よって、続きを口にする。


「それは、銀代さんが宮部にアタッシュケースのダイヤル錠を外すよう、促したように見えたからです」


 ばばばん!


 という、SEが響いたような気がした。

 それから少しの間、誰もが瞬きすることを忘れていた。ほとんど無音だったような気もするが、それは実際気のせいで、目の渇きを感じ始めると、店内に流れるのメロディーが徐に聞こえた。


 最初に口を開いたのは、間島だった。


「は? 何言ってんの、あんた?」

 目を皿のように開いた間島は、かなり間抜けな顔をしていた。窓ガラスに映る自分の顔を見たらすぐにも赤面するだろうが。そう、窓ガラスもそうだ。


「言った通りです」

「それでは、まるで私が宮部にアタッシュケースを開けさせた、というように聞こえるのですが」

「まあ、そう言っていると思っていただいていいです」

「ちょっと待ってくれ。本当に、お前は何を言ってるんだ? 銀代が、アタッシュケースを開けさせた? バカ言うなよ、そこのおっさんは中身が不安になって勝手に開けたんだろ。お前だって見てただろうが。だいたい、アタッシュケースを開けさせたって、何でそんなことをする必要がある」

 俺は、頭を掻いて明後日を向いた。


「それはもちろん、中に時価一億円はする宝石が入っているからだと思いますが」

「はあ? あんた、見てなかったわけ? このアタッシュケースには何も入ってなかったじゃない」

 まあ、そうだ。確かに、アタッシュケースの中には何も入っていなかった。しかし。

 銀代が手を叩いた。


「はあ全く。推理ごっこですか。正直あなたにはがっかりですし、付き合いきれませんね、マスター。ですが、いいでしょう。この銀代と対決したいというのでしたら、受けて立ちましょう。ぜひ、順を追ってあなたのよちよちな憶測を教えてもらえます?」

「まあ、じゃあ。手短に」そう言って、俺は今回の事件のあらましを語り始めた。


「まず、そもそも外部犯の可能性を肯定すべきでないのは、今回のアタッシュケース盗難事件が、ここに居る人間に実行可能だからです。もしも、ここに居る誰にも実行が不可能であったなら、銀代さんの言う通り外部犯が存在するということになります。世の中、出来ることしかできませんから。ですが、今回は違う。極めて外部犯の存在が濃厚であると臭わせつつ、実際には、内部犯の可能性が捨てきれない。つまり、外部犯に見せかけた内部犯による実行というのは、かなりありうる話です」


「ま、内部の人間に犯行が可能だったら、君の言う通りかもしれないね。だが、アタッシュケースが盗まれたときの状況を思い出してみたまえ。誰にもアタッシュケースを盗み出すことは出来なかった。全員にアリバイがあり、相互に補完しているというのが結論ではないのかね」


「残念ながら、少し違います。確かに、事件当時のアリバイは全員にあります。ですが、ひとりだけ誰にも怪しまれずアタッシュケースに近づくことのできた人間がいます」

「それは?」

「中林です」

「な、月島君。何を言うんですか!」

 顔を真っ赤にして挑みかかってくる中林は、むろん無視して続ける。


「この店のウェイトレスである中林なら、席の間を移動していてもさして不審に思われません。たとえばですが、このファミレスは、水のお代わりをホールの人間が次いで回るというカフェスタイルを採用しています。ですから、ピッチャーを片手に客席にいても何も不思議はないんです。たとえその時、客席が空であっても」


「つ、月島君。それじゃ、まるで私のことを犯人だって疑っているみたいじゃないですか!」

「みたいじゃなくて、実際疑ってるんだけど」


 中林に対する疑念は、ほとんど最初から持っていた。

 状況から察して、中林だけがアタッシュケースに近づくことが出来たことは分かり切っていたのだから、疑わない方がおかしい。犯行は、出来るものにしか出来ないのだ。逆に出来るものは須らく容疑者となる。


「待ってくれ。確かに、マスターの言う通り、ウェイトレスはもしかすると宮部の席に、そしてアタッシュケースに近づけたのかもしれません。だが、それでもなお、このアタッシュケースを運ぶのに、誰にも気づかれないなんてことあり得ますかねえ」

 宮部の席は、間島、伊丹の両人から監視できる位置にあった。仮に、二人に何らの違和感を持たせずに宮部の席ひいてはアタッシュケースに近づけたとしてもそのあとの問題は依然として残る。

 俺は、銀代に頷いた。


「はい、その通りです。ですが、『誰にも気づかれずにアタッシュケースを持ち運ぶことは不可能だった』という推論が正となるには一つの条件が要求されます。すなわち、単独犯である場合です」

「なんですと?」

 銀代は言った。


「確かに、別々の角度から監視出来る二人の人間を欺くのは、簡単ではありません。でも、もしも一人が味方だったらどうですか。宮部のコップに水をくむふりをして、中林の寸胴スタイルでアタッシュケースを隠しながら回収し、そのあと仲間のいる方へ歩いて行けば、アタッシュケースを持ち運ぶことも不可能ではないはずです」


「馬鹿な。だいたい、もしもコックの言うように出来たとしてもだ、あの時間このファミレスにはお前だっていたし、それに仲間じゃない方が急に動き出すかもしれない、いや急な来店だってあり得るじゃんか」

 俺はかぶりを振って応えた。


「その心配もほとんどないと言っていいでしょう。まず第一に、客を席に案内する役目を負っていたのは、中林本人ですから、自分に都合のいい人間を都合のいい位置につけさせることが出来たというのは念頭に置かなければなりません。第二に、協力者がいるというのは、単にそちら側に歩いて行けるという利点があるだけではなく、不測の事態に際して協力者がいるということです。たとえ急に協力者でない方が立ち上がったとしても、協力者が一瞬気を引くようなことをすれば、その間に中林はアタッシュケースを近くの席の下にでも置くことでしょう。第三に俺が週に一度の床掃除をやっているのは、中林も承知の上でしたし、そもそもキッチン担当がホールに出ることは店からして原則禁止です。床掃除中ならなおさら出ていこうとは思いません。中林は、案外安全にアタッシュケースを持ち運びすることが出来たんです」

 間島が口を挟む。


「ちょ、ちょっと待って。じゃあ何、このウェイトレスの人が、男子トイレに入ってアタッシュケースを手洗い台の下に置いたっていうの? それで、そのあとでアタッシュケースの鍵を開けて中身を盗んだって? そんなの無理でしょ。いくら何でもそんな時間はなかった。宮部はすぐにトイレから戻ってきたし、それにウェイトレスの人は、正面玄関の看板を回収したり、裏口から回ってごみ捨てに行った仕事してたでしょ」

 中林が一応仕事をしていたのはばっちり防犯カメラに写っており、この場に集った全員が目撃している共通の事実だった。


「もちろんその通りです。アタッシュケースを開ける時間はなかった。ですが、女子トイレに隠すくらいの時間はあります」

 伊丹が机をたたいて立ち上がった。


「ふざけんな。結局同じことだろ。宮部が騒いでからはずっと全員一緒にいたんだ。誰にも、アタッシュケースを開けて宝石を盗るなんてことは出来なかった」


「そもそも。それが大きな間違いなんです」


 俺は銀代を一瞥した。

 途中から黙り込んでいる銀代は、しかし余裕の笑みをたたえたまま話の成り行きに身を任せているようだった。一人黙々と、冷え切ったコーヒーカップに口をつける。


「そのアタッシュケースは初めから開いていたんです」

「はあ? 何言ってるの?」

「何を馬鹿なことを」

 間島と痛みが畳みかけるように言った。


「正確に言えば、アタッシュケースは二つあったんですよ。いいですか、一つ目のアタッシュケース、つまり宮部が持ってきた宝石の入っている本物のアタッシュケースは、先ほど述べたように中林によって女子トイレかどこかに隠されます。これは当然、先ほどおっしゃられたとおり、開けている時間もないですし、鍵もかかっていますから、誰にも開けることはできません」

 ここまではすでに説明済みの共通認識の部分だった。

 誰も口を挟む者はいないので、話を続ける。


「ですが、二つ目のアタッシュケースが存在したんです。二つ目のアタッシュケースは事前に男子トイレの中に運び込まれていて、中身は空でした。この偽物のアタッシュケースは、宮部の持ち込んだ本物のアタッシュケースと全く同じ種類でなおかつ空でした」

「アタッシュケースが二つあった?」

「はい、そしてアタッシュケースがまだ店の中にあるという話になった時に、それぞれが持ち場をもって探しに行きました。あの時、アタッシュケースを見つけたと言って偽物の空のアタッシュケースがこの場に運ばれたんです。二つのアタッシュケースは、見かけだけは全く同じですから、宮部はアタッシュケースのすり替えに気付かず、私たちも宮部が「これだ」と言うから、偽物のアタッシュケースを本物だと思い込んでしまった」


「なぜそんな回りくどいことをする必要がある」


 それは。


「まさしく、今回の事件はこのために起こされたんです。つまり、こういうことです。アタッシュケースが無事に戻ってきたが、中身が盗まれていると思い込んだ人間は、慌てて鍵を開けてしまう。そして、このアタッシュケースのカギはダイヤル式になっていた。つまり、鍵を開けるところを見て、番号を暗記すれば誰にでも開けられるようになるんです」

 俺は、ここで一拍おいて唇をなめた。


「偽物のアタッシュケースを使ってダイヤル錠の番号を盗み、警察が到着するまでのわずかな時間に本物のアタッシュケースのダイヤル錠を外して中身の「時価一億円の宝石」を奪い去る。これが、あなたたちの目論見だったんじゃないですか?」


「しかし」と長らく口を閉ざしていた銀代が言った。「しかし、マスター。あなたの言っていることはすべて推論に過ぎない。そう、推理に満たない、ただの推論だ。なぜって、それはもちろん、あなたは何らの証拠も示せてはいないのですからね」


「証拠、ですか。今すぐに証拠が必要だと言うのであれば、目の前にあるこの偽のアタッシュケースのダイアル錠を調べればわかると思います。このダイアル錠は、どんな番号でも開くように細工がされていたのですから。あなた方の目的は、ダイアル錠の番号を知ることでしたから、宮部が番号を合わせた時に鍵が開いているように仕組む必要があったのではないですか?」


 銀代の表情からいつの間にか薄ら笑いが消えていた。それでもなお口角がつり上がっていたが、それは笑みではなく引きつった顔だった。いつからそうしていたのだろう。


「なぜ、そんなバカげた推測を思いついたのか、教えていただけませんか」

「初めに言った通り、少し気になっただけです。ただ一つを不思議に思い始めると、そう言えばと思って事実という点を線で結びだすのが人間ですから」


 そもそも銀代長十郎と名乗る和風探偵は最初から不審だった。ただ、これだけでは単なる奇天烈な人間にしか過ぎない。しかし、その人間の言動を注意深く精査し、全く関係ないとも思えるそれらをつなぐことが出来るとすれば、奇天烈な人間は途端に容疑者となる。

 つまるところ、推理とは一つ一つの事実を線で結び付け真実という名の像を描くことだ。


「たとえば、そのいかにも探偵らしい格好、たびたび自分での推理を放棄して俺に答えさせていたこと、集ったキャスト、喫いだしたたばこ、中林のポーズ、ダイアル錠を開けた後すぐに警察に頼ろうとする転身。これらすべては点としてみれば何ら不思議はないかもしれません。ですが、小さな疑問を捨て置かずに結び付ければ一つの像を結ぶ」

 銀代の瞼がぴくぴくと痙攣した。震える声を絞り出す。


「お前は、誰なんだ」

「言った通り、月島というこの店のキッチンアルバイトですよ」

 銀代は悔しそうに歯噛みすると頭のチューリップハットを投げ捨ててぼさぼさの髪を晒した。びしっと指を立てて俺を指す。


「ま、まだだ。まだお前の推理には説明できていない点があります!」

 と、銀代がそう言った時だった。


「ぬは、ぬははは。もうよいわ、ウサギ。ヌシは下がっておれ」


 途中からだんまりを決め込んでいた中林が徐に立ち上がったかと思うと、そう言って歯を見せて笑った。


「ふん。マスターとか言ったな」

 言ってない。というか、お前は俺の名前を知っているはずだが。


「世に珍しき慧眼を持ったバリスタのようだが、今さら気が付いても遅いわ。我ら泣く子も黙る変装盗賊団「マッド☆ハッタ―」を止められるものか!」

 中林は、椅子に片足を乗せて息まいた。


 俺は、店の壁掛け時計の針が午前一時四十五分を指しているのを見ながら思った。

 ああもう、ついにめちゃくちゃになった。

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