第4話 午前零時十五分から
午前零時十五分から幕を開けたアタッシュケース捜索は、十五分後の午前零時三十分にあっけなく幕が引かれた。
俺と中林が厨房から従業員控室にかけてアタッシュケースを探すふりをしながら、閉店作業に着手していると、ホールとキッチンをつなぐ観音開きの戸がノックされた。
間島である。
「ちょっと、来て」
「は?」
「だから、見つかったって」
詳しい説明をする気のないらしい間島は、それだけ言うと踵を返してしまった。
彼女の背を追っていくと、先ほど一同が会していたボックス席に、銀代をはじめとした全員がついていた。
「マスター、待っていました。さあ、どうぞ」
銀代に促され、俺と中林は腰かけた。
銀代がにんまりと口角を上げて、手を叩いた。
「さあ。全員揃いましたね。それでは報告しましょう。伊丹」
「おう」呼ばれた伊丹が威勢よく返事をした。「アタッシュケースはこの通り、見つかった」
伊丹は、そう言いながらテーブルの中央に銀色の光を反射するアタッシュケースを置いた。アタッシュケースは、アルミ合金を使用したジェラルミンタイプと思われ、店内照明の光を反射しながら、鈍色の輝きを放ち、そのボディに一片の傷さえついていなかった。開閉部分には、堅牢なダイアル錠が見られた。
よほど重要なものが入っているのかと思ったところで、宮部がアタッシュケースに飛びついておいおいと泣き出した。
「よかった、本当によかったよう」
小太りの宮部はもともと年のわりに老けて見え、おじさんと言って差し支えない風体をしていた。おじさんが泣きわめく様は見苦しいの一言に尽きるであろうことは議論を待たず、またも間島の「キモイ」が飛び出すかと思いきや、間島は何も言わなかった。
「見つけたのは俺だ。俺が見つけたんだ」
誰が見つけたのかよりもどこで見つかったのかの方が聞きたい。
銀代が伊丹の言葉を引き継いだ。
「はい、お手柄でしたね伊丹。ごらんのとおり、アタッシュケースは見つかりました。どこにあったのか、皆さん気にされているようですが、アタッシュケースは男子トイレの手洗い台の下にあったそうですよ」
「な、なんなの、それ。いい加減にして。それってつまり、そこのおじさんが、勝手に自分でトイレまで持ってって、勝手にトイレに置き忘れてきて、勝手に盗まれたって叫んでただけってことじゃない」
「そうなりますかね」
「そんな馬鹿な!」
宮部が叫んだ。
「わ、私は、確かに、確かにアタッシュケースを探したんだ。自分の席の周りも、トイレももちろん。それでもないから、そこの女に盗まれたと言ったんだ!」
「だがよ」と伊丹は冷静に言った。「ここにこうして、おっさんのアタッシュケースがあるんだ。け、ふざけたことだが、俺もそう言うことたまにあるしなあ。人間誰しも忘れものってのはするもんだろ。おっさんは、アタッシュケースをトイレに持って行ったけど、持って戻るのを忘れたって、そういうことなんだろうよ」
「そんな馬鹿な!」
宮部が絶句した。
つまり、今回の事件の結論としては、すべて宮部の早とちりだったということ。三十三歳独身男の失敗に振り回されただけの徒労の時間だった。ああさっさと閉店作業に戻ろう。兎も角も、今日の珍事はこれにてお開きだ、べんべん。
とそうできればよかったのだが。
「ちょっと、お待ちなさい」
それまで、ひとり静観を決め込んでいた銀代が言った。
「なんだよ、銀代。俺、おかしなこと言ったか?」
「まさか。私もあなたの言葉に賛成ですよ、伊丹。ですが、頭から宮部の言葉を否定するのもいかがなものかと思ったもので。ねえ、マスター」
ここで俺に同意を求めるのか。
とりあえず、あいまいに頷いておく。
「確かに、今回の事件は、宮部のおっちょこちょい、というのが最も可能性のありそうな話ですが、もしも本当にアタッシュケースが盗まれていたとしたらどうでしょう」
そう言って、またも銀代は俺を見た。
もしも、アタッシュケースが盗まれているとしたら?
どうだと言うんだ。たとえ、アタッシュケースが本当に誰かの手によって盗まれていたとして、こうして手元に戻ってきているのだから何も、問題は。
そこまで考えて、ついに思い至った。
「そうか、当たり前のことだけど、普通、バッグやらケースやら、そういうのを盗むのは入れ物に興味があるわけじゃない。盗んでいるのは、アタッシュケースであっても、犯人の本当の目的は、中身のはず」
銀代は手を挙げた。
「ブラボー、ブラボーですよマスター。おっしゃる通り。先ほども言いましたが、アタッシュケースがトイレから見つかったというのは、もちろん宮部の置忘れの可能性が最も高い。ですが、もしもそれ以外の可能性があるとしたら、それは犯人がアタッシュケースを盗んだのちに、不要になったから投棄した、という可能性です」
「つ、つまり。犯人は」そこまで言って、宮部の顔からさっと血の気が引いた。
「ええ、そうです。すでに中身を抜き取ってしまっている可能性があります」
「そんな、馬鹿な。現に鍵は確かにかかってるぞ」
伊丹がアタッシュケースを開こうとしたが、鍵に阻まれガチャガチャと音を鳴らすだけだった。間島が神妙な顔でうなずいた。
「しっかりついてるみたいだけど」
「そのようですね」
銀代が肩をすくめる。
「残念ながら、私の言ったことは推測に過ぎません。なぜなら、私にはこのアタッシュケースの鍵がどれほど堅牢か知らず、アタッシュケースの中身がどれほど高価か知らないのですから」
「う、うぅぅ」
宮部が大型犬に立ち向かった腹痛に苛まれる子犬が辛うじて喉奥から絞り出すような弱々しいうめき声をあげた。そして、突然、錯乱したように髪をかきむしると、アタッシュケースを持ち上げて激しく揺さぶった。
「聞こえ、聞こえない。何も聞こえないぃぃ!」
からからとすらも音のしないアタッシュケース。
充血した眼で常軌を逸した中年男。
最早成り行きを見守るしかない一同。
早く帰りたい俺。
ふいに、宮部が銀代に目を向けた。
銀代は、ゴクリとのどを鳴らすと慎重に頷いた。
宮部が、アタッシュケースを横倒しにして、ダイアル錠に手をかけた。
もはや、ここまで来ては中身の無事を確認するには、ダイヤル錠を開けるしかないということだろう。
宮部は、しばらく唸りながら震える手つきでダイアルを回していた。ようやくカチリと音を立てて錠が開いた。
宮部が、徐にアタッシュケースの蓋を開いた。
しかし、そこには何も入っていなかった。
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