第6話

 憶えている中で一番古い思い出は、雨の日に傘を差し向けてくれた人間の男の子だ。彼は道端で濡れ鼠ならぬ濡れ猫になっていたオレを拾って、家に連れ帰ってくれた。

 しばらく一緒に暮らしていたが、一家が遠いところへ引っ越しをするということでオレはまた一人になった。

 『また会いに来るからね。』

 そう言ってくれた彼が、俺に会いにきてくれたことは今まで一度もない。人間なんてそんなもんだ。

 それからどれくらい経った頃か、オレは事故に遭った。我ながらひどい怪我で、てっきりくたばるものと思っていたところに現れたのが、とある婆さんだった。

 そう、セイリオスホテルの支配人だ。あのお節介な婆さんは、何を考えたのか知らないがオレを拾って傷を治して、このホテルで働かないかと持ちかけてきた。

 何を言ってやがる。猫のオレにできることなんかありゃしねぇよ。……そう言ったのだが、支配人はそれなら心配要らないと言い切った。私があなたに人間になれる魔法をかけてあげるから、と。

 そうしてオレは、猫から人間になった。“斑目麻緒”という人間の名前と、セイリオスホテルのウェイターっていう仕事も一緒にもらって。

 オレは、マオから斑目麻緒にんげんになったんだ。



 懐かしい夢から、ふっと意識が浮上する。

 なんだか温かいものに包まれている感覚。それから、優しい手つきで頭を撫でられている感覚。それらにつられるようにうっすら目を開ければ、そこは客室のひとつのようだった。もう夜なのか、傍らのシェードランプが目覚めたばかりのオレには少し眩しい。

 「あら、目が覚めた?マオ。」

 不意にそんな言葉が降ってきて、オレはそちらに視線をあげる。すると、支配人がこちらを見下ろしていた。何故か知らないが、オレは支配人の膝の上に寝転んでいた。何だこれは、夢よりひどい。

 「…………あぁ?……んでアンタがいんだよ。つか、ここは──────」

 寝起き特有の掠れ声で悪態をつきながら急いで起き上がろうとしたオレは、そこで初めて自身の変化に気がついた。

 オレは、すっかり猫の姿になっていたのである。忘れもしない茶トラの毛並みは、オレがこのホテルに来る前の姿だ。横っ腹に鋭く走った一文字のデカい傷痕は、例の事故でついたもの。久しぶりに眺めるが、やはり気持ちのいいものではない。

 「………こいつはどういうことだ?」

 上から下までしばらく眺め回したあと、オレは呆然とそう呟いた。支配人はオレを自分の膝からベッドの上にそっと下ろすと、珍しく笑顔のない表情で言った。

 「カメリア───あなたが応対していた魔女の魔法にかかってしまったのよ。三日はそのままらしいわ。」

 脳裏をあのケバい魔女がよぎる。……あの女、やっぱりろくなことしやがらなかった。

 オレはしばらく状況を整理するのにベッドの上を右往左往していたが、やがてぴたっと足を止めて支配人を今一度見上げた。

 「……なあ、支配人……怒ってるか?」

 オレの問いが意外だったのか、支配人は目を丸くしてこちらを見下ろした。

 「あら、どうして?」

 オレはなんだかその目が見られなくて、視線を逸らした。それから、密かに心の中に引っかかっていたことを口にする。

 「……あんな横柄だったとはいえ、オレはこのホテルに来た客を怒らせちまったんだ。アンタはそういうのを一番嫌ってるだろ。」

 あのクソ魔女でも、客は客。どんな客でも笑顔で歓迎し、気分良く滞在してもらうのがこのホテルの流儀。オレはそれを破ったことになるのだ。咎められても文句は言えない。

 そう思っていたのだが、支配人はくすくすと笑ってこう言った。

 「ふふ……普通なら、ここで叱るべきなのでしょうけど。」

 支配人はそこでオレを抱え上げると、その笑みを深めた。シェードランプの光で、青い瞳も今は鈍く落ち着いた色合いをしていた。

 「あなたは立派だったわよ、マオ。ちゃんとセイリオスホテルのウェイターだったじゃない。私、とっても嬉しかったわ。」

 支配人の口からこぼれたのは、素朴だが何よりの賛辞だった。認められた────それはじわじわと胸を満たして、やがて大きな喜びとなって全身を駆けめぐっていく。

 オレは何と言ったらいいのかわからなくて、しばらくまじまじと支配人の顔を眺めていたのだが、しまいには泣きそうになっちまって、ふいっと顔を背けた。死んでもこの婆さんと厨房長のじじいにだけは泣き顔は見られたくない。

 「……るせぇよ。」

 どうにかこうにか返した強がりも、支配人には通用しなかった。婆さんはけらけらと笑いやがった。

 「笑うなっての!つか、見てたなら助けろよ!相っ変わらず薄情だな!」

 毛を逆立てて怒ると、支配人はオレをベッドに下ろしてズレたショールを肩に掛け直してしれっと言った。

 「あらあら、そんな暇なかったわ。私が来たときにはあなたは猫にされてしまっていたしね。詳しいことは、セルマンとリリーから聞いたの。」

 疑惑の眼差しを向けていたオレだったが、リリーの名前にふと真顔になる。そういや、リリーはあの女を姉さんと呼んでいた。

 「……支配人、リリーとあの女はどういう関係だ?アンタのことだ、どうせなんか知ってんだろ?」

 支配人はオレの問いにわざとらしく頬に手を当てて応えた。

 「うーん……私から言ってもいいんだけれど、こういうのは本人からきいたほうがいいと思うわ。たぶん、あなたならリリーも話してくれると思うしね。」

 「はあ?」

 答えになってねぇよ。オレがそう言う前に、支配人は立ち上がった。お喋りはここまで、ということらしい。やはりこの婆さんは食えなくて苦手だ。

 そんなオレの胸中を知ってから知らずか、当の本人は現代離れした服の裾を翻してこちらを振り返った。

 「それより、歩ける?そっちの身体は久しぶりだろうからしばらく慣れないでしょうけれど。」

 オレは少しの間苦い顔をしていたが、ため息と共にベッドから飛び降りる。猫の身体は久しぶりだが、動くのに問題はなさそうだ。それにどうせ動けなかったら婆さんに抱えられることになるのは目に見えている。そんなのは御免だ。

 「問題ねぇよ。どこ行くんだ?」

 「2階のサロンよ。」

 支配人は滑らかなドアノブに手をかけて、今はドアを開くこともできないオレのために開けてくれた。

 「あなたを心配してくれている他の子たちに、元気な顔を見せてあげてちょうだい。」

 オレはふん、と鼻を鳴らして、するりと隙間をくぐって外に出た。

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