第5話

 その日の夕方のことだ。

 「はぁっ?」

 オレは思わずホールいっぱいに響く勢いで素っ頓狂な声をあげてしまった。持っていた銀食器シルバーを危うく取り落とすところだった。こいつは高いから、万一壊すと給料から差っ引かれる分が大変なことになる。……いや、それはともかく。

 オレはまじまじと目の前に仏頂面で立つ女を見下ろした。

 「お前が今日の助っ人だあ?」

 オレの言葉に、リリーは無表情に頷いた。

 「人手が足りないと厨房長から聞いた。だから来た。」

 オレはその瞬間厨房に駆け込んで、呑気に仕込みをしている厨房長に向かって怒鳴った。

 「おい、くそじじい!!なんっでこんなクソ忙しいときにど素人呼んでくるんだよ!!」

 じじいは中華料理用の平たい包丁を振り回しながら応えた。

 「リリーはのみ込みが早い。何度か組んだオマエならわかるじゃろ?マオ。」

 「いや、そりゃわかるけどよ……じゃなくて。」

 危うく納得しかけるところだったが、オレははっと我に返ってまた怒鳴った。

 「アンタ、今日の客がどういう奴らかは知らないわけねぇだろ!?そこまでボケてねぇよな!?」

 「知っておるわボケ!!」

 厨房長は渾身のツッコミと共にこちらへ向かって何かを投げた。吹っ飛んできたそれは狙ったようにオレの口の中に吸い込まれる。その暑さに、オレは思わず悶絶した。

 飛んできたのは揚げたてのコロッケだった。中にはマッシュされたカボチャがみっちりと詰まっているから美味しくないわけはないのだが、いかんせん熱い。

 オレが恨みのこもった涙目で睨むと、あのじじいはふん、と鼻を鳴らした。

 「支配人の指示じゃ!!つべこべ言わず、さっさと働けい!!」

 言うだけ言うと、じじいはオレの背中を蹴飛ばす勢いで厨房から追い出す。文句は受けつけないということだろう。

 「チッ……これが終わったら支配人に直に文句言いに言ってやらあ!!」

 言い捨てると、オレは少し距離をとって立つリリーを鬼の形相で振り返った。それからひとつ大きく息をついて、気持ちを切り替える。なっちまったもんは仕方ねぇ、あとはどれだけこいつのヘマを防ぐかに尽力すりゃいいだけの話だ。

 「おい、いつまでそこに突っ立ってやがる。素人とはいえこの時期のホールに立つなら容赦はしねぇ。気張らねぇヤツは即刻叩き出すからな。」

 リリーはただ黙って頷いた。



 そして、いよいよ前夜祭が始まった。

 今回のサバトを仕切るというしなびた婆さんが乾杯の挨拶と称して長々と口上を述べる。煌びやかなドレス姿の魔女たちは、初めそれに飽き飽きしている様子だったが、いざ乾杯の音頭が済むとむせ返るような魔力を振りまきながらそこここで談笑を始めた。毎度のことながら、男もいないというのになんで女ってのはきわどい衣装が好きなのか理解に苦しむ。あと、いろんな香水のにおいが入り乱れていてそろそろ鼻が曲がりそうだ。

 そんなことを思いながら、シャンパンの乗ったトレイ片手にホールを歩いていたときだった。

 「あーら、リリー。久しぶりね?」

 甲高い声が知った名前を呼んだのを耳で拾って、オレはそちらへ視線を向けた。そこには、深紅のマーメイドドレスをまとった華やかな顔立ちの魔女と若干青ざめた様子のリリーがいた。

 「……姉さん……。」

 ややもすれば掠れた声で呟いたリリーに、魔女は化粧の濃い顔を近づけた。それからその唇が刻んだのは、蔑むような、嘲るような、ともかく見ているだけでとても胸くそが悪くなる笑みだった。

 「ふぅん、こんなみすぼらしいとこで働いてたのね。しかもあなたがウェイトレスだなんて……世も末だわ。ご大層に人間の名前なんかもらっちゃって!」

 魔女はそこでつとシャンパンの入ったグラスを煽って、続けた。

 「────ほんと、一族の恥なんだから。」

 「………っ!」

 いつも無表情なリリーの顔が歪んだ。明らかに萎縮しているのが見てとれる。

 割って入るか入らないか逡巡していると、運が悪いことに、クレーマーな魔女とばちっと視線が合ってしまった。彼女は高らかにヒールを鳴らしてやってくると、こう言い放った。

 「ちょっとお、さっさと次のお酒もってきなさいよお!客のグラスが空いたのにも気を配れないなんてウェイター失格じゃない?」

 ぴしり、と自分の額に青筋が走るのがわかった。やりとりを直に聞いていたリリーも、料理を出しにちょうどこちらに向かってきたセルマンも、魔女の放った一言とオレの形相に凍りついている。さして顔に出さないようにしていたつもりだったが、表情筋も我慢の限界だったらしい。

 「……お客さま、シャンパンよりも食後のデザートはいかがですか?」

 しかし、思い切りなじってその傲慢な横面を引っぱたきたい衝動とは裏腹に、オレの口をついて出たのはそんな言葉だった。今まさにこの魔女に蹴飛ばされたプライドが、オレに再びウェイターとして笑顔をつくれと叱咤してくれているようだった。

 「いらないわよ、そんなの!!」

 魔女はうるさそうにあっちへいけとジェスチャーをする。なんて横柄な客だ。

 どんどん飲むペースが速くなっている。それに合わせて言動も覚束ないわりに荒っぽくなっているし、これは誰かが回収しないとマズい。そう思って周囲を見渡すも、魔女連中は見て見ぬ振りを決め込んだ。誰も彼もがこちらを遠巻きにしながらも、関わらないようにしているのがバレバレだった。

 ……これだから、自分本位の塊みてぇな輩は大っ嫌いなんだ。

 オレは心の中で悪態をつくと、意を決して目の前の飲んだくれに向き直った。

 「お客さま……そろそろお止めになったほうがよろしいかと。」

 「あにいってんろよお、まだまだろみたりないじゃらいの!!」

 呂律ろれつの回らない状態で魔女はわめいた。同時に隠せない酒臭さが漂い、オレはわずかに顔をしかめる。

 「アタシはれえ、大魔女グラン=カナリアが一番弟子、ひっく、カメリアらのよ!!」

 アンタの身分がどんなにすごかろうと、いまここでそれは関係ねぇんだよ。

 そう叫びそうになる衝動を抑え込むために、オレは笑った。オレが理想とするセイリオスホテルのウェイターは、どんな客であろうとも常に笑顔で応対するのだから。

 「他のお客さまのご迷惑になりますので、大声はお控えください。」

 きっぱりと言ったオレの態度が気に食わなかったのだろう。女はあからさまに機嫌を悪くして、せっかくセットしたはずの髪をかきむしった。

 「あーーーーもううざーーーい!!」

 その声はホール中によく響いた。傍観を決め込んでいた奴らも、オレたちの口論に気づいていなかった連中も、一斉にこちらを見た。

 魔女はそんなものは気にもとめず、びしっとオレに向かって指をさした。

 「口喧しくするやつは、こうしちゃうんらからねえ!!」

 視界の隅で険しい表情で婆さん魔女が立ち上がるのが見えた気がしたが、そのときには全てが遅かった。

 「っ、マオ、だめっ─────!」

 慌ててリリーがオレを突き飛ばそうと手をのばしてきたのが見えた。しかし、その指先が触れる寸前、オレの目の前で色のない火花が散った。

 あぁ、魔女の魔法にかかっちまったんだな、とどこか遠くでもう一人の自分が呟く声がして、オレは意識を失った。

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