第4話
その日は団体客が来るとあって朝からどこの部署もきりきり舞いだった。それはオレたち厨房も例外ではなく、普段は軽口ばかりの他のウェイター連中も、今日ばかりは朝から寡黙に働いていた。厨房長もセルマンも鬼のように料理をしていたし、オレはというと朝からホールと厨房、菜園とをひたすらに往き来する目まぐるしい一日を送っていた。
何故こんなにもホテル全体で気合いが入っているのか。理由は単純、今宵の団体客は一年の中でも指折りの上客だからだ。
一年に一度開かれる魔女の祭典、サバト。その前夜祭が、このセイリオスホテルで行われるのである。現世に住む魔女たちと、魔界からやってくる魔女たちが一堂に会する光景は早々見られるものではないが、彼らは皆気難しいことでも有名だった。ホテル全体が緊張しているのも、彼らの機嫌を損ねないように細心の注意を払っている証拠だった。
そして、ホテルの顔となるフロントの面々は厨房と並んで諸々に追われており、馴染みの二人がふらふらと現れたのは昼をだいぶ過ぎたあたりだった。
「マオくーん……何か賄いあるー…?」
「できれば丼ものがいいな……。」
薫と、薫の後輩の鍵宮理子は覚束ない足取りで手近なテーブルにつく。いつもはうるさいくらい元気な理子も、今日ばかりはしなびた青菜みたいになっていた。
「んな都合の良いモンなんざねぇよ。おら、食ってけ。」
オレがそんな二人の前に置いたのは、トマトたっぷりのミネストローネに朝の残りのバターロール。それから、スープの材料を少し失敬したオムレツ。普段はもう少し凝るところだが、さすがのじじいも余裕が無かったらしい。
だが、そんな手抜きの飯でも二人はぱっと笑顔になっていそいそと手をつけ始めた。
「んー……疲れた身体に厨房長のミネストローネはしみるわ……。」
「それ、じじいに直接言ってやれ。」
ずず、とスープを飲みながらしみじみと言った理子に、オレは近くの椅子を引っ張ってきて腰掛けつつそう返す。厨房長は理子がお気に入りだから、そんなこと言われてしまえばもう舞い上がって仕方ないだろう。
理子が満足そうにスープを飲み続ける対面では、薫が幸せそうにオムレツを頬張っていた。これ以上の幸せはないというような笑顔で、見てるこっちが腹一杯になりそうだ。
「オムレツも具だくさんで美味しいねぇ。セルマンさんから今度ふわふわにつくる秘訣でも教わろうかな。」
「それもセルマンに直接言ってやれ。」
オレはすかさず返した。あいつはあいつで、意外と他人の評価を気にするタイプなのだ。見た目も強面だし、他の従業員と親しくする機会もないと前にぼやいていたから、この人の良い薫が話し相手になってやればいくらか喜ぶだろう。
「その調子じゃ、やっぱりフロントも忙しいみてぇだな。」
椅子の背に体重をかけつつ呟くと、二人はそろって苦く笑った。
「まあ、仕方ないわよ。なんてったってサバトの前夜祭ですもの。」
あっという間に完食した理子が食後の紅茶を飲みながら言うと、まだもぐもぐとバターロールを食べている薫が少し心配そうな表情で続けた。
「……それに、俺たち以上にピリピリしているのは
「………水瀬?」
そんな名前の従業員がいただろうかと首をひねると、理子が手元のナプキンを投げつける勢いで声を上げた。
「もー!アンタいい加減同僚の名前くらい覚えなさいよ!リリーさんのこと!」
あぁ、そういえばあいつの人間の名前はそんな名前だった。理子の剣幕でようやく思い出した。
まあ、律儀にこの名前で呼んでいるのは目の前にいる薫くらいだろうが。厨房長と同じくらい、あいつも“リリー”で定着している節がある。
ぎゃあぎゃあと文句を投げつけてくる理子を適当に受け流すオレという構図はもはやお決まりなので、薫は傍観もいいところだ。ようやく賄いを食い終わると、こいつもまた紅茶に手をつけた。コーヒーは口臭が気になるということで、二人ともオーダーはいつも紅茶だった。
「水瀬さんは魔女だし、どうしても気になるんじゃないかな。……それに、今年はちょっと様子がおかしくて。」
「……?」
どういうことだと言外に問うと、薫は紅茶にひとさじの砂糖を入れてかき混ぜ、一口飲んでから答えた。
「さっき、フロントの予約表を見せて欲しいって言われちゃって……今まではそんなことなかったんだけど。」
すると、理子も両手でカップを包みながら難しい顔をした。
「誰か特別な人でも来るのって訊いても首を振るだけで教えてくれないし……リリーさん、大丈夫かしらね。」
オレは額に手のひらをあてた。清掃員は客と顔を合わせる機会こそ少ないものの、客が泊まる部屋を整えるという点では一番自分の仕事を客に見られる。下手な掃除はホテルの評価に直結する。
「おいおい……こんなかき入れ時に。」
気もそぞろでいられては困る。オレがそう続ける前に、薫はふわりと笑って口を開いていた。
「まあ……水瀬さんならきっと大丈夫だよ。俺たちの誰より、彼女は真面目で冷静だから。」
そうであればいいのだが。オレが胸の内に留めた不安は、コーヒーに垂らしたミルクのようにじわりと滲んで沈んでいった。
そして、奇しくもその不安はある意味最悪の形で現実のものとなる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます