第3話

 とってきた野菜を厨房にいたセルマンに渡して、オレはスタッフルームのロッカーから自分の制服を引っ張り出した。

 白いシャツに深い藍色のベスト、黒いスラックスに黒いカフェエプロンという典型的なウェイター服だ。黒の蝶ネクタイには目立たないながらも金糸で縁取りがされており、胸元には同じように黒地に金の流麗な文字で名前が入ったプレートがきらりと光る。このネームプレートはどこの部署に配属されても共通のデザインらしい。

 無造作に束ねていた髪も結い直してハーフアップにする。前髪は間違っても料理に入らないようにワックスでがっちり固める。それから、腰にエプロンをつけて備え付けの小さな鏡で蝶ネクタイの位置をちょっと直せば、そこにはもうセイリオスホテルの食堂を任されるウェイターが立っていた。

 正直言って、オレはこんなふうに自分が変わるさまを見るのが嫌いではなかった。背筋がピンと伸びる。周りの音が、景色が、よく見える気がする。あの支配人はどうもいけ好かないが、この仕事はわりかし気に入っているのだ。

 「……なんて、な。」

 オレは自分自身の考えを鼻で笑うと、スタッフルームを出た。今日から繁忙期シーズンに突入する。とても面倒だが、いつもよりきりきり働かなくてはならない。

 なぜなら、今日からはホテルのハロウィン期間に入るからだ。今月末には、セイリオスホテル主催のハロウィンパーティーも控えている。ハロウィンは、こと西洋生まれの人ならざる客にとってはこの上なく重要なイベントだし、近年は妙なハロウィン人気も相まって人間の客の入りも右肩上がり。薫によれば、今年もはや部屋がほぼ満室御礼らしい。つまりオレたちも連日きりきり舞いが確定ということだ。

 「はぁぁ……ったく、人使いが荒いんだっての─────」

 ぼやきながら、厨房に入ったその瞬間。

 「遅い!!」

 怒号とともに豪速球さながらの勢いで飛んできたのは、切り落としたカボチャのヘタ部分だった。

 「おわっ!?」

 オレがかろうじてそれを避けると、カボチャのヘタは図ったように真後ろの生ゴミ入れに吸い込まれる。オレはその行方を最後まで見ることなく、キッと今しがたヘタを投げつけてきやがった張本人を睨みつけた。

 「ッぶねぇんだよくそじじい!!生ゴミ投げてくんじゃねぇよ!!」

 すると、張本人────このホテルの厨房を任されているくそじじいは、ふん、と鼻息を荒くした。ふっさりとした髭と派手な中華服が目印で、雷獣だからか知らないがあり得ないくらい短気でよくオレにだけ雷が落ちる。ちゃんとした名前はあるが、皆“厨房長”としか呼ばないので誰もが名前を忘れ去っているとは従業員の中ではあまりにも有名だ。

 「だぁれがくそじじいだたわけ者めが!!オマエが早く来ないとセルマンが働き過ぎてパンクするわい!!」

 「オレだって食材の準備終わらせてきたんだよ、ありがたく思えくそじじい!!」

 間髪入れずに言い返すと、厨房長はその場でだむだむと地団駄を踏んだ。その拍子に髭がぴょんぴょんと生き物みてぇに跳ねる。

 「くぁぁぁ!!この小生意気なジャリ風情が!!今すぐこのスープのダシにとってくれる!!」

 「やれるモンならやってみろってんだ!!」

 売り言葉に買い言葉でオレも負けじと言い返す。こうなったときの仲立ち役は、決まってセルマンだ。彼は今日もカボチャに包丁を突き立てたところでオレたちを見た。その態勢で斜め下から見られると、さすがに怖い。こいつはもっと自分の顔色と目つきの悪さを自覚したほうがいいと思う。

 「………二人とも、早くとりかからねば。スープが終わらなくなってしまう……。」

 「そ、そうだな!ほれ、マオ!そこの鍋のポタージュの具合を見てみろ。」

 「お、おう……。」

 オレは言われるがまま、自分が猫舌だと言うことも忘れて大鍋のポタージュを小皿にとって舐めてしまった。瞬間、オレはあまりの熱さに悶絶した。これでは味もなにもわかったものではない。

 「マオ……大丈夫か?」

 セルマンが気遣って出してくれた水を飲んでどうにか凌いだオレだったが、残念なことにその日半日ほどはまるで舌が馬鹿になってしまったのだった。

 こんな調子で大丈夫なのかと思うだろうが、オレたち厨房は、わりとこれが日常だった。

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