マオさんのお話

第1話

 元が訳ありであるため住み込んで働く従業員も割合多いこのホテル───セイリオスホテルの朝は、総じて早い。

 まず、宿泊客の朝食時間前に短い従業員の朝食時間がある。その準備をするために、食堂を任されている料理人たちの朝はもっと早い。夏はともかく、冬はまだ日も昇っていない時分に起きなければならない。

 いずれにせよ、基本が夜型のオレ────斑目麻緒まだらめまおにはこれが結構堪えるのだ。

 「ふぁーあ……くっそ眠ぃ……。」

 今日も今日とてデカい欠伸をかましながら厨房に向かう。雰囲気のある館内をパーカーにデニムでうろつくのはとてつもなく浮いているが、気にしていてもしかたがない。

 行きがけに、フロントの前を通る。今朝の担当は、セイリオスホテルいちの善人面と定評のある仙崎薫だった。

 「よォ、薫。こんな朝っぱらからご苦労なこった。」

 挨拶代わりにそう声をかけると、あいつは顔を上げて気の抜ける笑顔を浮かべた。どうもこの顔を見ると、喋るマシュマロみてぇだと思ってしまう。男のわりに生っ白い顔をしているせいだろうか。まあ、そんなことはどうでもいいが。

 「おはよう、マオ。そういう君も早起きだね。」

 笑顔に違わぬやわらかい口調で返した薫に、オレはケッと笑った。

 「ばーか、オレが早起きしなけりゃてめぇの朝メシも抜きってことになっちまうぜ。」

 「あぁ、それは嫌だなぁ。食堂のご飯が一番おいしいから、なくなるのは勘弁だよ。」

 「は、そりゃあオレらが厨房に立ってりゃどこより美味いのは当たり前だっての。」

 そんじゃな、と手をひらひらと振ってフロントを後にする。くすっと小さな笑みが後方で落ちた気がするが、あえて気にしないことにした。



 セイリオスホテルの食堂は、ぶっちゃけそこらのクラシックレストランと変わらない。元々大人数を主眼に置いたホテルではないし、これくらいの規模でも充分だという支配人の判断らしい。たしかにこれ以上増えるのも仕事がしんどくなるだけだし、オレ個人としては異論はないが、いささかこぢんまりした印象は否めない。

 まだ従業員の姿もほとんどないホールを横切り、スタッフルームに入る。

 「はよっす。」

 軽い挨拶をしながらドアをあけると、そこにはこちらに背を向けた妙にガタイの良い男がひとり、ぶつぶつと何事かを呟いていた。青地のスカーフと黒地のソムリエの服がよく似合っている。

 こいつの名前はセルマン。見た目は思いっきり肉食系だが、三度の飯には肉より野菜という菜食主義者ベジタリアンだ。ちょいと細かすぎるきらいはあるが、じじい……いや、厨房長のサポートをやれるだけの腕はある。

 オレは今朝も飽きずにやってるなと思いながらも、部屋の隅にある背負い籠を手に取った。いい加減傷んであちこちガタがきているそれは、何年前から使っているのか知らないが、土のにおいがこびりついて離れなくなっていた。

 「おい、セルマン。今日は何をとってくりゃいいんだ?」

 セルマンは突然の声かけにも別に驚いた様子もなくこちらを振りかえった。顔色が悪いのは通常運転だ。何せこいつは吸血鬼なんだから。トマトはもちろんニンニクだって好物という、何とも風変わりな吸血鬼ではあるが。

 「あぁ……マオか……おはよう……。そうだな……いつも通りのものを頼む……あぁそれから……そろそろ夏野菜が頃合いだろうから……ナスやピーマンあたりの様子も見てきてくれまいか……。」

 オレは、ぼそぼそと陰気くさい台詞にはいはいと相槌を打って籠を背負った。スタッフルームにきてもラフな格好から着替えなかったのは、オレにはこれから野菜を収穫してくるというこれまた面倒な日課があるからだった。

 必要な分をメモると、スタッフルームのロッカーの中でもひときわ古びたものの前に立った。その取っ手部分には黒電話のダイヤルが取りつけられており、オレはそれを迷いなく回した。

 「そんじゃま、いってくら。」

 セルマンが頷く気配を背中に、ロッカーの戸を開ける。がこん、と建て付けの悪い音を立てながらロッカーが口を開ける。

 鼻をくすぐるのはたまった埃ではなく、豊かな土の香り。一歩ロッカーの中に入れば、そこは狭っ苦しい空間などではなく、それは立派な菜園に繋がっていた。

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