第9話

 セイリオスホテルを後にする。少しずつその建物が遠ざかり、見えてくるのは昨日の嵐など何事もなかったかのように広がる通勤風景。こつこつと響いていた一人分の足音は、雑踏のひとつに紛れて呑み込まれていく。

 『世界にはね、美しい瞬間っていうのが必ずあるのよ。』

 ふと、支配人の言葉がよみがえる。それにつられて、俺はセイリオスホテルの看板を振りかえった。

 (………あ。)

 控え目に掲げられた、ブルーブラックの看板。そこに踊る、『Sirius Hotel』の金の文字。『セイリオス』というのは、誰しも一度は聞いたことがあるだろう、星の名前だったのだと初めて知った。

 「はは……本当に、シリウスみたいな場所だったな。」

 冬の夜、燦然と輝く青い星。静かに、でもたしかに、あの場所で過ごした一夜は、俺に道を示してくれた。

 また来よう。今度はいつがいいだろう。おすすめされたハロウィンか、クリスマスか。何でもない日にふらりと来ても、きっと楽しいだろう。

 俺はまた歩き出した。次の宿泊を考えるだけで足取りは軽く、世界は鮮やかに色づいて見えた。

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