第8話
翌日。
近年稀に見るいい目覚めで起き上がった俺は、手早く支度をして部屋を出た。朝一で出社するには、この時間がぎりぎりだった。
さすがに朝が早いので誰にも会わないだろうと思っていたのだが、エレベーターホールで昨日の夜の従業員の女性に会った。彼女は花を生けていて、廊下に点々とあった花々は彼女が世話をしていたのだと思った。
「あ……おはようございます。」
目が合ったので、挨拶する。女性は小さく会釈を返してくれた。昨日は気がつかなかった髪を飾る百合の花をあしらった小さくて繊細なヘアピンが、その拍子に朝日を浴びてきらりと光った。
「……お気をつけて、いってらっしゃいませ。」
去り際、そう言ってくれたのがなんだか嬉しかった。
ロビーに向かうと、そこでは来たときと同じように鍵宮さんが立っていた。
「おはようございます。早いですね。」
そう声をかけると、彼女はぱっと顔を上げて笑顔を見せてくれた。
「おはようございます!榎本さまも、お早いですね。」
俺は苦笑いでそれに応じる。
「会社に直行しますし……ここからだと今の時間でないといけませんからね。」
「それは大変ですね……。」
「大変というなら、フロント業も大変では?こんな朝っぱらから帰る客の相手の対応しなきゃいけないんですから。」
「大変だなんてとんでもない!フロントはお客さまがいらっしゃってからお帰りになるまでお世話するのが役目ですから。」
鑑のような言葉だ。俺はチェックアウトの手続きを済ませると、改めて彼女に頭を下げた。
「本当に、重ね重ねありがとうございました。丁寧に対応していただいて……。」
鍵宮さんははじめこそびっくりしていたが、やがてじんわりとはにかんだような笑みを浮かべた。
「あはは、何だか改まってお客さまにお礼を言っていただくのってちょっとくすぐったいですけど……こんなに嬉しいんですね。」
そのときだった。
「ふふ、初々しいわね。」
不意に柔らかい声音がロビーに響いて、俺も鍵宮さんもどきっとした。声の主を探して頭をめぐらせると、ちょうど食堂のほうから昨日の老婦人がやってきたところだった。
「あ、昨日の……。」
「し、支配人!?」
俺の言葉と鍵宮さんの心底驚いた声が重なった。俺はぎょっとして鍵宮さんの顔を見て、それからおそるおそるといった体で続く言葉がないまま、呆然と老婦人を見やる。当の本人はというと、茶目っ気のある表情でくすくすと笑っていた。
「あら、バレちゃったわ。」
彼女はひとしきり上品に笑ったあと、スッと背筋を伸ばして一礼した。
「じゃあ、改めて自己紹介するしかないわね。───セイリオスホテルの支配人をしています、
俺は口をぱくぱくと開けては閉めてを繰り返し、がくっと肩を落とした。
「き、昨日は何も仰ってなかったじゃないですか……。」
「うふふ、特に言う必要もないと思っていたから。」
からからと笑った老婦人──もとい、星原支配人は、昨日と同じ不思議な雰囲気そのままに続けた。朝の光の中で見るその瞳は、昨日よりも青味を増して見えた。
「また、いつでもいらっしゃいな。歓迎させていただくわ。ね、理子ちゃん?」
「はい、もちろんです!」
支配人の言葉に、鍵宮さんも満面の笑みで頷いてくれる。
「あ────」
俺は何と言ったらいいのかわからず、しばし目を丸くして突っ立っていたのだが、胸の奥に温かい気持ちが灯った気がして、気づけば自然と声を上げて笑っていた。
「ははは、じゃあ、ぜひまた。今度は、嵐のついでじゃなくてゆっくりと泊まりに来ます!」
「ぜひぜひ!あ、もしご予定が合えばですけど、ハロウィンかクリスマスの季節がおすすめですよ!館内、とても華やかになるんです!」
「おお、それはぜひ来なければなりませんね。」
俺たちのやりとりを聞いていた支配人は、おかしそうに笑った。
「ふふ、理子ちゃんったら。商売っ気旺盛ね。」
「フロントですからね!」
力強いガッツポーズで言い切った鍵宮さんに、俺も支配人も笑う。そして、俺は二人に向き直って、別れの言葉を口にした。
「それじゃあ、また。本当に、お世話になりました。」
鍵宮さんと支配人は頷いて、同時に綺麗にそろった礼をした。
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