第7話

 「相席、いいかしら?」

 老婦人から今一度言われて、俺ははっと我に返った。それから、慌てて頷く。

 「あ……はい。どうぞ。」

 「ありがとう。」

 そう言ってするりと向かいの椅子に座った婦人は、品のある仕草で手にしていた茶器をテーブルに置いた。ジャズのストリングスに紛れて、かちゃ、と小さな音でカップとソーサーが触れる音がした。

 彼女は俺の顔を見てふふっと笑うと、窓の外に目を向けながら口を開いた。

 「こんな嵐の夜は、誰かとお話がしたくなるの。……あなたみたいな若い子に、こんなおばあちゃんの相手をさせてしまうのは申し訳ないのだけれど。」

 「いえ……構いませんよ。」

 俺が首を振ると、老婦人は優しいわね、と笑みを深め、それから何かに気がついたように少し目を見開いた。

 「あら……あなた、いい匂いがするわね。ホテルのシャンプー、使ってくれたのね。」

 「えっ?」

 不意に振られた予想外の話題に驚くと、彼女はくすくすと笑って続けた。それからカップを手に取って唇をつける。中身はどうやら紅茶のようで、ふわりとフレーバーのいい香りが漂った。

 「ふふ、私もよく使うからわかるのよ。」

 よく使う、ということは、このホテルの常連なのだろうか。そんなことを思いながら、俺は苦笑を滲ませて首筋をかいた。

 「あ……えっと、……やっぱり変ですよね。あれしかなかったとはいえ、いい年した大人の男が花の匂いがするシャンプー使うなんて。」

 てっきり、そうね、と言われるかと思ったのだが、意外にもこの老婦人はきょとんとした表情を浮かべてこう返してきた。

 「あら、どうして変だなんて思うの?私は素敵だと思うわ。」

 俺がどう応えたらいいのか戸惑っているうちに、彼女は器用に片目を閉じてウィンクし、手品の種明かしをするように声を潜めて続けた。

 「それに、このホテルのシャンプーにはね、ちょっとした仕掛けがあるの。」

 「仕掛け……?」

 「知りたい?」

 心底話の上手な人だと思った。すっかり引き込まれてしまう、不思議な引力がある。

俺はふっと笑ってその引力に乗っかってみることにした。

 「……そこまで言われて気にならないわけないですよ。」

 「ふふ、それもそうね。」

 軽やかに笑った老婦人は、また一口紅茶を飲むと口を開いた。

 「このホテルのシャンプーは、その人が本当に欲しているものを香りで顕すの。眠くてたまらない人にはラベンダーの香りになったり……おなかが減っていたら焼きたてのベーコンの匂いになったりね。」

 頭からベーコンの匂いがする場面を想像して、俺はなんとも言えない表情を浮かべた。

 「べ、ベーコン……。」

 「ふふ、いまだに会ったことはないけれどね。」

 悪戯めいた表情で言った老婦人は、柔らかな表情のままこう続けた。

 「……あなたの香りは、癒しを求めている香りよ。日々に疲れた人に特有の。」

 俺は本当に驚いて、ホットミルクのマグを傾けていた手を止めてしまっていた。不思議な雰囲気の老婦人は、宵の空のような瞳をひたと俺に向けた。

 「図星かしら?」

 俺は、苦笑せざるをえなかった。いや、苦笑になっていたかどうかすら、わからない。

 「……はは、その自覚はあまりなかったんですけど。でも、言われてみればそうかも知れません。」

 手にしていたマグを一度テーブルの上に置き、両手で包み込むようにして持ち替える。人肌よりほんの少し温くなっていた。

 「……俺、会社勤めしているんですけど。最近、上手くいかないことが多くて……頑張ろうって思ってた矢先に、この嵐ですし……何だかなぁって。」

 老婦人は、黙って話を聞いてくれた。それがありがたくて、全然知らない他人というのもあったのか、俺は普段よりも幾分か饒舌じょうぜつになっていた。

 「綺麗なものも、純粋に綺麗だと思えなくなって。味さえもわからなくなってて。そんな生き方に何の意味があるんだろうって思っちゃって……。」

 ぼんやりとエレベーターホールで見たあの絵画を思い出す。いつの間に、綺麗だと思うことよりお金のことを考えるようになってしまったのだろうか。目の前にある、この食事だって。味覚を忘れてしまったような生き方に、何の意味があるのだろう。生きるとは、どういうことなのだろう。

 昔、描いていた未来とは違う現在に、俺はずっと違和感を覚えていたのかもしれない。

 そこまで考えて、俺ははっと我に返った。

 「って、すみません、こんな話……。」

 老婦人は、静かに首を横に振ってくれた。

 「いいのよ。こんなおばあちゃんで気が晴れるなら、いくらでも吐き出してちょうだい。」

 「……ありがとう、ございます。」

 その言葉ひとつで、救われた気がした。ずいぶん久しぶりに、鼻の奥がつんとした。

 彼女は、何か眩しいものを見るような目でそんな俺の様子を見ていた。

 「ふふ……でも、そうやって悩めるのもまた、若い子の特権なのかも知れないわね。」

そう呟いた老婦人だったが、不意に何かを思いだしたようにぴっと人差し指を立てた。

 「あぁそうだ……ひとつ、いいことを教えてあげるわ。」

 ふわりと笑った老婦人の瞳は自信に満ちていて、どこか力強い輝きを放っていた。

 「世界にはね、美しい瞬間っていうのが必ずあるのよ。そうした瞬間を探してご覧なさいな。」

 「……美しい、瞬間………。」

 オウム返しに呟いた俺に、彼女は頷いた。

 「そう。例えば、雲の切れ間から覗く青空。何でもない日の夕焼け。道端の野花。木漏れ日が描く影。雨上がりに吹く、少し湿っぽいけれど、爽やかな風だって綺麗でしょう?」

 老婦人は、そこで立ち上がった。茶器を持って、窓のほうを見やり笑みを深める。何か愛しいものを見るような、柔らかくて優しい視線だった。それから、もう一度俺に視線を戻して言った。

 「見ようとすればいくらだって見つかるわ。そうしたら、あなた、きっともっと好きになれるはずよ。この時代も、あなた自身もね。」

 おやすみなさい、よい夜を。楽しかったわ。

 最後にそう挨拶をして、不思議な雰囲気の老婦人はテーブルから離れていった。

 俺はその背中を見送ったあと、彼女が見ていた窓の外に頭をめぐらせた。生憎、俺には彼女が何を見ていたのかわからなかったけれど、先ほどよりも雨音をうるさく感じなくなっていた。



 その夜見た夢は、もう憶えていない。

 けれども、とても温かくて懐かしくて、優しい感覚だけは、憶えている。

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