第5話

 ごうん、ごうんとエレベーターが動く音がする。特有の浮遊感がしばし身体を包んでいる間も、俺はつい先ほどの感覚を思い出すように自分の手のひらに視線を落としていた。

 (…………。)

 狐につままれた、というのはこういうことを言うのだろうか。あの従業員の女性が声をかけてくれなければ、俺は延々あの絵を見ていただろうと思う。

 周りの状況すら見えなくなって、あの絵に魅了されて。

 それは少し、怖い気がした。

 物思いにふけっていたからだろう。チン、というベルの音とドアが開く音で、俺ははっとした。乗ったときと同じように慌てて外に出る。

 そして、そこで盛大に誰かとぶつかってしまった。

 「おうっふ……!!」

 どさりと床に尻餅をついたのは、見るからに仕立ての良いジャケットに袖を通した老齢の男性だった。傍にはついていたらしい杖が転がっていた。俺は蒼白になってその男性に駆け寄った。

 「す、すみません!お怪我はありませんか!?」

 彼は難なく起き上がると、俺の顔をまじまじと見上げて頷いた。

 「うむ……大事ない。この程度で怪我をするわしでもないからな。」

 杖を拾い上げて、よっこらせ、と立ち上がった男性だったが、その身長は俺の胸ほどまでしかなかった。小さい、と声を上げそうになったがぐっと堪える。幸か不幸か気がつかれないまま、彼は杖の持ち手を撫でながら満足げに笑んだ。その拍子に、口元の髭がさわりと動いた。

 「しかし、すぐに謝ることができるのは感心じゃな。近頃の若造は礼儀がなっとらんと思っておったが……捨てたもんでもなさそうじゃ。」

 「は、はぁ………ありがとうございます……?」

 いきなりのことにとりあえずお礼を言ってみる。かなり曖昧な相槌を打ってしまったが、男性はこれまた気にする様子もなくふんふんと鼻歌を歌って、それからふと真顔で俺に顔を近づけてきた。

 きりっとした瞳が、一瞬だけ鮮やかなルビーのような、瑪瑙メノウのような赤みを帯びた気がした。

 「え……えっと……?」

 「…………む。」

 俺が戸惑っていると、彼は不意に声を上げた。そして、眉毛と眦を下げてなぜか哀れむような表情でこう言われた。

 「お主、随分と湿気しけておるのぅ……。」

 「……………はい?」

 俺は思いっきり面食らった。何と返していいのか全力で考えていると、男性はけらけらと笑ってぽんぽんと俺の腕を叩いて胸を張った。人のことを湿気って不味いせんべいみたいに言ったのに、何がそんなに面白いのか。少しむっとして老人を見下ろすと、彼はとんとん、と杖で床を突いた。

 「湿気ていては気分が沈む!気分が沈めば運気も沈む!よく憶えておくと良いぞ、若造よ!」

 うむ、我ながらよい言葉じゃな!と同意を求められたが、俺はその言葉の意味を理解していない分気の抜けた返事しかできなかった。

 そんな俺の対応にも気を悪くした様子はなく、男性は呵々大笑した。

 「ほっほっほっ、ではの!」

 そうして、そのままやってきたエレベーターに乗って去っていった。

 再びしんと静まりかえったロビーで、俺はしばらく男性と会話をしていた態勢のまま固まっていた。まるで嵐の日の雷のように鮮烈だったが、どこか温かさを感じさせる人だった。

 「……不思議な人だったな……。」

 そう言いながら、何気なく首の後ろに手をやる。そこでようやく、俺は自分の服がいつの間にか乾いていることに気がついた。

 「あれ……?」

 どこを触ってみても、すっかり乾いている。心なしか、糊も利いているようだ。

 「あっ、榎本さま!」

 フロントの鍵宮さんがやってきたのは、俺がその場で首を傾げてあちこちを触っていたときだった。彼女は俺の姿を見ると、ぱたぱたと駆けてきた。

 「良かったー!もしかしたら迷われたんじゃないかと思っていたところだったんですよ!」

 俺はその言葉に腕時計を見る。知らず、随分と時間が経っていた。

 「あ……すみません、遅くて。」

 「いえいえ!」

 鍵宮さんは嫌味ひとつない笑顔を浮かべてくれた。

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