第4話

 フロントの女性───鍵宮さんが戻ったあと、俺は食堂に行く前にシャワーを浴びることにした。

 濡れてしまったスーツとワイシャツをひとまずハンガーにかけて、バスルームに向かう。家庭用と比べると少々狭いが洒落たユニットバスと、すりガラスで仕切られたシャワールームがあった。親切なことにトイレとは別になっており、石鹸の香りか、とても良い匂いがしていた。

 もったいない気分がしたが、バスタブは無視してシャワールームに直行する。今は一刻も早く、頭から湯を浴びたい。

 シャワーの栓を緩める。それとほぼ同時に、壁にかかったままのシャワーヘッドからはお湯が驟雨しゅううのように降り注いだ。足元のタイルを叩く水音ばかりがやけに大きく聞こえる。体が冷えていたせいか、少し熱く感じた。

 「―—……」

 冷たく凝り固まっていた何かがほぐれていくような心地よさを覚えながら貼りついた髪をかき上げる。ちょうど手が届く高さに設置されていたシャンプーのボトルに手を伸ばした。『floral』と書かれていて、男が花の香りというのもどうなんだろうと少しためらいはしたが、背に腹はかえられなかった。

 泡立て始めるとふわりと甘く爽やかな香りが鼻をくすぐった。甘ったるくない、いい香りだった。

 

 髪を乾かしてバスルームから出てきたあと、俺は生乾きのワイシャツに嫌々ながら袖を通した。せっかくさっぱりしたところにこれはテンションが下がるが、他にないのだからしかたがない。

 必要最低限の貴重品と鍵とを持って、やれやれと思いつつ部屋を出る。食堂は1階だと教えてくれたから、まずはエレベーターまでたどりつかなければならない。

 鈍い靴音を立てながら、改めて雰囲気のある廊下をひとり歩く。壁から伸びた鹿の首もさることながら、所々にアンティーク調のインテリアが置かれていている。いくつかの小さなテーブルには、部屋にあったのと同じような花が花瓶に入って生けてあった。こちらは白い花とピンク色のバラがメインのようだ。全体の色調が落ち着いた空間にとても映えていた。丁寧に管理されているのだろう、エレベーターホールに行き着くまでの間、花弁の落ちたものはひとつも見当たらなかった。

 ボタンを押して、ぼんやりとあの絵を見ながらエレベーターがつくのを待つ。見ればみるほど惹かれる。ザァ……という波の音が聞こえてきそうだ。

 本当に───本物みたいに波が動いて見える。夜の風が頬を撫でるような錯覚さえも起こしてしまいそうな、そんな─────

 「……あ、あの、お客さま……?」

 俺ははっと我に返った。振りかえれば、いつの間にか俺の後ろには女性がひとり、立っていた。フロントの鍵宮さんと同じ格好をしていたから、このホテルの従業員であることは想像がついた。

 「その………エレベーターが、到着いたしました……。」

 彼女の言葉にそちらを見れば、既に口を開けてエレベーターが待っていた。どうやら、女性がボタンを押していてくれたらしい。

 「あ……そうだった。ありがとうございます。」

 慌てて礼を言って中に駆け込む。ゆっくりとドアが閉まる。

 「……い、いえ……よい夜を。」

 その直前、小さな声で従業員の女性がそう言ってくれたのが聞こえた。

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